宗形英作 2018年9月15日「初雪が降ったら(2018」

初雪が降ったら

         ストーリー 宗形英作
            出演 大川泰樹

初雪が降ったら、と少年は空を見上げた。
初雪が降ったら、初雪が降ったら、告白をしよう。
少年は空を見上げたまま、憧れの人を想った。

なぜ告白という言葉を使ったのだろう。
なぜ初雪の日を思い浮かべたのだろう。
なぜ初雪という一年に一度の時に、告白を、と思ったのだろう。
少年は、とても初々しい気持ちになっていた。
少年は、初雪と告白、この二つの言葉に相性のよさを感じていた。

水分が結晶となって、そして雪になる。
もとあるものが、形を変える。別のものになる。
液体が固体になる。透明が白色となる。
掴みどころのないものが、
手の中にしっかりと握りしめることができるものになる。
その変化、変容、変幻を望んだのかもしれない、と少年は思う。
告白することによって、明日が変わるかもしれない。
今の自分とは違った自分に会えるかもしれない。
少年は、その思いに満足しながら、再び空を見上げた。

果たして、少年が決意してから一か月、雪が降ることはなかった。
少年は、告白の文面を考え、手直しをし、そのために長くなってしまった文面を削り、
削ったことで言葉足らずになった文面に言葉を足した。
少年は、何度も何度も言葉探しの旅に出かけて行った。
そして、初雪が降った。
しかし、手直しに手直しを重ねるばかりで、告白文は未完成のままだった。
少年は、告白の、最初の機会を失った。

そして、2年目の冬が来た。
明日の朝方には、今年初めての雪が降るでしょう。
少年は、その夜長いこと星のない空を見上げていた。
闇に包まれながらも、空は凛として透明な気配を漂わせていた。
息は白く、頬は張りつめ、手は凍てついて、しかし心は熱かった。
そして翌日、少年は高熱を出し、医者から外出を禁止された。
予報通り、その年の初雪は降り、少年は暖房の効いた部屋の窓から、
ひらひらと舞い落ちる雪を眺めていた。
少年は、またも告白の機会を失った。

そして、3年目の冬が来た。
町から色を奪うように、雪がしんしんと降り注いでいる。
その年の初雪だった。
少年は、憧れの人へ電話をかけた。
すっかり暗記している数字を震える手で押した。
憧れの人をコールする、その音が波打つように揺れていた。
留守録に切り替わることを覚悟したとき、彼女の声が揺れながら届いた。
ごめんなさい、気づかなくて。少年の喉が渇いた。
今日会いたいのだけれど。少年は渇きを鎮めるように喉を鳴らした。
ごめんなさい、今ね。と一度区切ってから、南の島の名が聞こえてきた。
その年の初雪が降った日、憧れの人は日本にはいなかった。
少年は、降り注いでくる雪を見上げながら、電話を切った。
少年は、またしても告白の機会を失い、
その翌年、憧れの人が遠い地へと引越していくのを遠くから見送った。

そしてまた、その季節がやってきた。
少年はもう諦めかけていた。自分には運がないのだと。
冬が来ても、天気予報が寒さを告げても、少年はこころを動かさなかった。
初雪という言葉も告白という言葉も遠くなっていくことを感じた。
そしてその日がやってきた。
目覚めると、そこは一面の雪だった。
一晩で積もるほどの雪が、その年の初雪だった。
少年は、その初雪にこころの奥に仕舞ったはずの言葉が
浮き上がってくるのを感じた。
告白しなければ。
憧れの人を想い、会いたいと思い、伝えたいと思った。
伝えたい、その逸る気持ちを抱えながら、
しかし少年は、数日の間じっとこころの中と向き合っていた。

初雪。
年に一度の機会に賭ける、その愚かさに少年は気付いた。
初雪と告白。
そのふたつを関連づけることで、わざと可能性を小さなものにしてしまった。
少年は、そのことに気が付いた。
勇気のない、臆病な自分を正当化するために、
初雪が降ったら、と自分への言い訳を用意していたのではないか。
告白できない自分のふがいなさを隠そうとしていたのではないか。

少年は、思った。
初雪が降ったら、告白しよう、ではなく、
ただ一言、告白しよう、その一言で十分だと。

少年は、遠い地に暮らす憧れの人を目指して、列車に乗った。
いくつもの駅を過ぎ、いくつかのターミナルで乗り換え、
山を、谷を、川を、町を、村を越えて、そして憧れの人の住む駅に着く。
ゆっくりと列車の扉が開く。風がひんやりと頬を過ぎた。
ホームで待っているから。憧れの人は、遠目にもその人だと分かった。
少年は一度立ち止まってから、
一歩一歩確かめるように憧れの人へと向かった。
こんにちは。こんにちは。
憧れの人がほほ笑んだ。少年の固い口元にも微笑みが浮かんだ。
あ、雪よ。憧れの人が言った。あ、雪だ。少年がつぶやいた。
憧れの人だけを見つめて、少年は雪の気配に気づかなかった。
初雪よ。憧れの人がささやいた。初雪か。少年は心の中でささやいた。



出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

 

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直川隆久 2018年8月19日

涼しい話

          ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

ええ、あたくし、こうみえてマゾでございやしてね。
さいきん、夏の辛さが大変ありがたい。
SMバーなんぞ行かずとも自宅で自分を虐めることができやすから。
温暖化万々歳でやすな。

朝目覚めますと8時にはもう熱が部屋にこもってやしてね。
うちの部屋は2階で、真上がトタン屋根ですんで。
部屋の内から天井むけて手をかざせば、焚火かと思う暑さ。
こりゃもう朝から、のたうちまわり日和じゃわいと思って、
わくわく、いそいそ。

で、さっそく取り出しますのがヒートテック。
ヒートテックはね、あぁた、冬に着るもんじゃございませんよ。
夏こそ、ヒートテックです。
これを、ま、2枚。上、下、それぞれ2枚重ねて着ますな。
着終わるともう、その時点でじんわりと汗がでますな。
首筋とか背中の毛穴に塩辛い汗が滲んで、ちくちく痒くなりますわな。
う~ん、不快!

大事なのは首筋でやすな。
敏感なところですからな。たっぷりと、不快な感触を用意いたしやす。
毛のマフラーを巻く。分厚いの。
毛足がちくちくと首の肌を刺します。
ああ!
そしてですな。このマフラーに、はちみつを塗る。
はい?
そう、はちみつでやす。
お、眉をしかめましたね。
これは、まあ、理由は後からわかります。
とりあえずはネトネトのはちみつでマフラーの毛が首筋に貼りついて
もう、鳥肌が立ちますな。

エアコンを32度の暖房に設定しやすな。
ごわーと、吹き出るものすごい熱風を浴びながら
ダウンジャケットとウールのニッカポッカと
スキー手袋と冬山登山用靴下を着こみまして、
ええい、ここは奮発して電気ストーブもスイッチオンにしちまいやしょう。

が、まだこれで終わりではありやせん。
これが肝心。
手錠。
これをですな、手を後ろにまわして、はめるんでやすな。
はめちゃうともう、自分でははずせやせん。
前にも手がまわせやせん。
その状態で、ごろんと寝転がるんですな。
簀巻き状態でやす。

しばらく、も、たたないうちに、頭がぼんやりしてまいりやすな。
苦しい。
うひひひひ。
汗、とまりません。
もう、ダウンジャケットの中はぐじゅぐじゅですな。
動悸が激しくなる。
うひひひ。
あや、すみませんな。思い出すとつい。

さあ、ここからがハイライトでございまして。
こそっ、と押し入れの方から音がする。
こそ。
こそっ。
…ネズミですな。
この、首筋のはちみつの匂いにつられるんですな。
見てると、2匹、3匹とこっちへちょろちょろと寄って来る。
爪が畳をひっかいてカリカリいう音が聞こえやすな。
あたしの首筋に取りついて、ふんふん匂いを嗅ぎまわる。
ちっこい爪があたしの首筋に食い込んで、むっひひひ、痛いのなんの。
そのうち、舐めだす。
で、だんだん激しくなってくる。
ときどき
むぢっ!
…とあたしの肉ごと噛みちぎったり。
むっひひひ。
あ~、もう!
思い出すだけで…もう、もう、もう!
あ~…

という具合にまあ、さんざんネズミちゃんにいたぶっていただいた頃合いで、
友人に来てもらことにしてやして。
ええ、もう長年の相棒でやして。
ドアと手錠の鍵を、預けてあるんですな。
脱水症状で意識不明になるぎりぎりのタイミング、
だいたいこれくらいかな、というのをあらかじめ伝えておくんでやすな。

死んじゃあ元も子もござんせんから。
明日も元気に自分を虐めるためには、ね。いいとこでとどまる。
それがこの道のコツというやつで。
まあ、ここまで来るにはだいぶトライアンドエラーがございやしたけどね。
救急病院に運ばれたのも一度や二度じゃござんぜんし、
あるときなんぞ頸動脈を食いちぎられかけて…
ま、その話はまた今度にいたしやしょう。

まあ、こういった具合でございますから、
あたくしぁ、まったく夏が好きでやすな。
たまらんでやす。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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安藤隆 2018年7月8日

お気に入りの家
    
   ストーリー 安藤隆
      出演 大川泰樹

朝、その遊歩道を通って出勤する。
遠回りになるが遊歩道は家々の裏手にあたる
ので人通りがすくなく気分がいい。
途中一軒の白い板壁の平屋が建っていて、わ
たしはきまって歩をゆるめる。
遊歩道との境目の白い木の柵にバラがからま
っている。
とくに手入れが行き届いているようでもない
裏庭にはバラのアーチもつくられている。
どういう品種か知らないが花のちいさなバラ
である。
その家のバラが妙にすきだった。
バラなのに控えめなたたずまいがすきなのだ。

三日前のことだ。
いつものように横目で鑑賞して通りすぎよう
とすると、バラの間から誰かがわたしをみた。
この家の老人夫婦かと振りむくと顔ではなか
った。ヒマワリだった。
まだ夏でないのにと思ったがおきまりの異常
気象かもしれない。
問題はそれが嫌な感じだったことだ。
ヒマワリのどぎつさはどうみてもちいさなバ
ラたちのたたずまいと調和しない。
この庭が嫌いになっちゃうじゃないかと思っ
た。

夜中、遊歩道を歩いている。
街灯のまわりだけ雨が照らされている。
わたしは黒い傘をさしゴム靴をはいて黒いウ
インドブレーカーを着ている。
雨を待っていたのだ。

夜目にも白い家の電気はひっそり消えていた。
わたしは断固たる決意でひくい柵を乗り越え
た。雨が音を消してくれる。そのうえ雨が土
を掘り起こしやすくしてくれる。
わたしはバラの茂みにしゃがみこみ、用意
してきたちっちゃなスコップでヒマワリの根の
まわりを掘り起こした。
土はやわらかく三十センチかそこら掘るのに
二十分とかからなかった。
根が張っていた。このときだけ傘を閉じ両手
で慎重に根っこを抱えた。
それからヒマワリを遊歩道とは逆向きに植え
直した。要はヒマワリの顔がみえなきゃいいのだ。

翌朝、快晴である。
できるだけなに食わぬ顔して遊歩道を会社へ
むかっている。
白い家にさしかかる。
ドキドキを悟られないよう横目で通りすぎる。
その刹那また視線を感じた。
思わず振りむくとソイツがわたしをみていた。
お日様にむかって半回転し、前とおなじ向き
になってわたしをみていた。



出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

 

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直川隆久 2018年6月17日

雨の来た方向

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

ぷつ、ぷつ、と窓をたたく音がするので
外光透過モードに切り替えると、
雨が見えた。窓辺に寄り空を見上げる。
風に軌道を曲げられながら遥かの高みから
きりもなく落ち続ける水滴の運動。
そういえば。地位、価値、評判。
そういったものがより望ましい状態であることを示すために、
地位が「高い」、価値が「高い」という表現をしていた時代があった。
考えてみれば不思議だ。
地面から垂直方向へより離れた状態をさす言葉がなぜ「よい」という意味を?
太古の時代には、雨や太陽の光といった農作物を育てる恵みが
「上」のほうから降ってきたからだろうか。
そこから「上」すなわち「よきもの」という感覚がうまれた、
というのはありそうな話だ。

人間にとって上空というものがとりたてて憧れを呼ぶものでなくなって久しい。
おそらくは、月や火星といった遥か我々の頭上にある場所が、
資源採掘の対象となり、
劣悪な労働環境の象徴とされるようになってからだろう。
現在地球上の人間は一般に「善い」「正しい」という意味をもつ言葉として
「screeny」という言葉を使うが、
その語源は「スクリーンでしばしば見られる、
スクリーン映えする」ということだったようだ。
それも、ある特定の価値観を反映した言葉である以上、
また変わっていくのかもしれない。

雨は、降り続く。おそらく、あと3週間はやまないだろう。
空気の中に湿りが充満していき、
肌との摩擦が少なくなる。自分と外との境界が少しだけ曖昧になる気がする。
これは、好きな気分だ。
とても、screenyだ。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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直川隆久 2018年4月15日

王国

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

――潮目が変わったな。
と、はまだこうすけは思った。

担任を「ママ」と呼んでしまったことは、
たけだやまとにとって、悔やんでも悔やみきれぬ痛恨事であった。
どっと沸くチューリップ組の中で、たけだやまとは顔を真っ赤にして
うつむくよりなかった。

はまだこうすけには、わかっていた。
これは、穴だ。
そして、それはけっして塞がれることのない穴なのだ。
砂場のダムに木の枝であけられた穿ちが、
その口径を決壊の瞬間まで広げ続けるように。

ドッジボールをしても競走をしても
誰にも負けたことのないたけだやまとは、
チューリップ組のリーダーとして君臨していた。
園庭で鬼ごっこをするのか、泥団子づくりをするか、
決定権は常にたけだやまとにあった。
ともすれば、傲岸な態度をチューリップ組、
はては隣のひまわり組の人間たちにまで向けがちであった。

――やまと、センセのことママていうた。
休み時間に、チューリップ組の中を、
黒い笑いのさざなみが満たした。
笑いながら、彼らもそう考えていたのだ。
――潮目がかわった。
と。

大衆の心理というものはおそろしい。
弁当の時間、たけだやまとがおかずを略奪しても
曖昧な笑いを浮かべるだけでされるがままになっていた人間たちが、
公然とたけだやまとに反抗的態度をとりはじめた。

はまだこうすけは、虎視眈々とチャンスをうかがっていた。
焦ってはならない。
潮目はかわった。だがまだ十分ではない。
まだ、動くタイミングではない。
たけだやまとのポジションを奪いに行った、
という印象を与えてはならない。
あくまで、チューリップ組の自由意思によって
「リーダー」として承認されねばならない。
たけだやまとの威信の「決壊」の瞬間を、彼は辛抱強く待った。

ある日、たけだやまとが、癇癪をおこした。
たけだやまとがつくった砂場のトンネルを、
はせがわれおが蹴り潰したのである。
たけだやまとは逃げるはせがわれおを追い、園庭内を走りまわった。
そして足を滑らせ、ブランコの支柱に顔面を強打した。
鼻から血を迸らせながら、たけだやまとは、号泣した。
園庭にいるすべての人間の動きがとまる。
だが、そのけたたましい声と鮮血に気圧されたのか、
誰もが遠巻きに見るだけで、たけだやまとに近づこうとしない。

今だ。と、はまだこうすけは思った。
そして、泣きじゃくるたけだやまとの傍へ歩み寄り、
アンパンマン柄のハンカチを取り出すと、
たけだやまとの顔を濡らす涙と鼻血を拭ってやった。
周りを見渡す。
そこには、はまだこうすけを新しいリーダーとして迎える目が並んでいた。

権力の座は、頂に据えられる。
下から見上げているときの方が、その様子は寧ろ仔細に見てとれるものだ。
一度そこに座ってしまえば、
もはや自らの姿を顧みることはできない。

いったんは温和なリーダーとして現れたはまだこうすけだったが、
日を追うに従い、その専横ぶりが目につくようになった。
仲間が園に持ってきたカントリーマアムを取り上げる。
ブランコを長時間独り占めする。
泥団子を、別の人間に磨かせ、出来上がりを簒奪する。

はまだこうすけはときおり、
自分が自分でなくなっていくような感覚をすらおぼえた。
権力というものがそれ自体の意思をもって、
はまだこうすけの体を乗っ取っていくような不安。
そしてその不安を忘れるためであるかのように、
はまだこうすけは専横の快感を貪り続けた。
はまだこうすけは強奪したハッピーターンを齧りながら砂場に目をやる。
日々、山や城が築かれては茫漠たる砂に戻る、
その往復運動を飽きもせず繰り返す場所がそこにあった。
以前たけだやまとが築いたダムは、無論、跡形もない。

ある日、はまだこうすけは、急に腹部に差し込む感覚を覚えた。
まずい。
と、はまだこうすけは思った。そして、トイレに駆け込んだ。
だが、折悪しく2つしかない個室の扉は閉ざされていた。
大人用のトイレを借りよう。
造作もないことだ。自分ならやり遂げられる。
はまだこうすけは自分に言いきかせた。
廊下に出た瞬間、ばたばたと走る年少の男が、はまだこうすけに激突した。
次の瞬間、はまだこうすけの下腹部が決壊した。
半ズボンに、黒いしみが広がっていった。

しまった。
これは、なんとか皆に知られぬようにしなければ。
そう思いながら歩き始めたとき――
「なんや、くっさ」「くっさあ」
という声があがった。
はまだこうすけは、思わずズボンの後ろを手でおさえた。
だが、下腹部の決壊は止まらなかった。
はまだこうすけの半ズボンの下部から、奔流があふれだした。
廊下を歩いていた人間は悲鳴をあげ、立ち止まり、あとずさった。
はまだこうすけの周囲の空間が広がっていった。

はまだこうすけには、わかっていた。
およそこの幼稚園にいるかぎり、
自分の威信は二度と回復することはないことを。

だが一方で彼は、何か奇妙な…
安堵にも似た感情を抱いている自分に気づいた。
この世は、砂場の砂と同じ。
常なるもの無し、という理(ことわり)以外に確かなものはない
――その巨大な真理の一隅を占め得たという、
安堵感でもあったろうか。

はまだこうすけは目を閉じ、
腿の裏を伝う温かな流れの感触をもう一度味わった。

出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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直川隆久 2018年3月18日

ナグー

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

南回帰線のあたりにぽつりと浮かぶ、小さな島での話である。

族長一家の召使が高らかに声を上げながら、村々をまわった。
—われらが偉大なる長(おさ)パパンギロ、
その愛娘、イ・ギギが、婿をとる齢(よわい)となった。
髪あくまで黒く、螺鈿のようなその瞳。どんな男も虜にしよう。
我こそはと思う者は、次の嵐の夜、東の砂浜に集うべし。
沖の鎌首岩まで泳ぎを競い、見事一番手をとった若者に、
イ・ギギは与えられるであろう。

鎌首岩とは、島の遥か沖、波間から蛇のように
にょきりと突き出した岩礁である。
イ・ギギに求婚を望む者は、
荒ぶる高波に揉まれながら岩礁までの数百メートルを泳ぎ切り、
自らの肉体の壮健ぶりを証明せねばならない。
そこで波に飲みくだされるようなら、
神からの寵愛がその程度だということ。
ならばそもそも高貴な血族に求愛する資格などない。
それが族長の意思であり、この島のならわしであった。

3日後、はげしい南風とたたきつける雨が島を襲う。
その夜、浜辺に、島中の美丈夫どもが集った。
たくましく、しなやかな筋肉の群れが砂浜を埋め、
月もない暗闇の中、すべらかな肌が雨をはじきながら、号令を待つ。
沖の波は、もはや椰子の木を遥かに上回る高さだったが、
生きて帰れるだろうか、などと不安がる者はその中にいなかった。
それほどまでに、イ・ギギ—
そして、彼女との結婚が約束する支配者一族としての暮らし—は
男たちにとって魅力的だったのである。

若者のうちの一人がある異変に気付き声をあげた。
—女だ。女がいる。
戸惑いのさざ波が、浜辺に広がる。
—なぜ、こんなところにいる。
ここにいるのはイ・ギギの婿になりたい男たちだ。
と言いながら、憐れなものでも見るかのような目つきをむけた若者に、
まだ年端もない娘は答えた。
—勝てば、わたしのものになる。
—なにが?
そう言いながら若者が、笑いながら娘の頬を撫で回した。
娘は、その手を娘は振り払い、じっと荒れ狂う海を見つめた。

その娘は、名をナグーといった。
母親どうしが幼馴染みだったことから、
イ・ギギとナグーは小さい頃から多くの時間を過ごした。
無二の親友といってよかった。初めて泳ぎを覚えたときも、
初めて鶏の喉を裂いたときも、二人は一緒だった。
イ・ギギの寝床でとりとめもないことを話しながら、
よく抱き合って眠りについた。
ナグーもイ・ギギも、その関係がいつまでも続くように思っていた。
だが、二人は成長し、イ・ギギの婿取りの時期となる。
イ・ギギは穢れを払うために、一族以外の者との接触を禁じられた。
ナグーはむしろイ・ギギが結婚によって穢されるように思えた。
あのつややかな肌を、男の無骨な手がまさぐるのは、
考えるだにおぞましかった。
ナグーは、イ・ギギのことが不憫でならなかった。

ナグーをつまみだそうとする若者達を制したのは、族長であった。
たしかに、この競い合いに女の参加は許されぬという断りは
なされていなかった。その娘の望むようにさせよ。
族長が火のついた薪を振るのを合図に、
若者たちは、黒い海の中へ我先にとなだれ込んでいった。

ナグーは、泳ぎの名手だった。
平時の海なら男に負けない自信は十分にあったものの、
嵐の、しかも夜の海は初めてだった。
どう、と波が砕ける衝撃が体を揺さぶった次の瞬間、
ナグーたちを取り囲む水の全てが一気に走り始め、
ナグーの体を猛烈な力で押し流した。
風に舞う木の葉のように、
おびただしい数の若者の体が水中を飛ばされてゆき、
海底から突き出した岩の群れに、叩きつけられていった。
何人かの頭が、地面に落ちた椰子の実のように、ぱかりと割れた。

砂浜では、イ・ギギが海を見つめていた。
自分の身を求めて群れ集まり、
波の中へと突進してった者達の誰ひとりの名も、イ・ギギは知らなかった。
ただ一人、ナグーのその名を除いては。

辛くも岩への衝突を避けたナグーは、遠回りをする策をとった。
鎌首岩の南側を大きく回り込めば、まだしも潮の流れは遅く感じられた。
進んでいるのかいないのかも判然としない中を、
果てもなく水をかく。ところへ、雲が切れ、月の光がさした。
ナグーの目に、月を背にした真っ黒な鎌首岩の輪郭が飛び込んできた。

岩礁の上にやっとのことで体を引きずり上げたナグーは、周りを見渡した。
一番乗りだ。
心臓が口から飛び出しそうだった。力が抜け、膝がくずれる。
放心状態の中で、ナグーは思った—イ・ギギはわたしのものだ。
たたきつける雨も、むしろ天の施す温かい愛撫のように感ぜられ、
ナグーは手足を伸ばした。
どれくらいの間そうしていたか…
ぜいぜいという荒い息づかいを聞いてナグーは我に返った。
見下ろすと、今しも、鎌首岩をこちらへ上ってくる男がいる。
さきほど、ナグーの頬を撫でまわした男だ。
男は、ナグーの姿を認めると、びくりと一瞬体を震わせ、
そのまま動かなかった。
—わたしが一番乗りだ。
ナグーがそう言って、男の顔をまっすぐに見つめ返した。
—腰抜け。
言葉を重ねて、ナグーが、不敵な笑みを漏らした。
そのとき、月がふたたび雲で翳った。
男は身をおどらせ、ナグーに覆いかぶさった。
ナグーの首に回された手に満身の力が込められ、
その力は、ナグーの抵抗と痙攣が止まるまで緩むことはなかった。

ナグーを殺した若者は、晴れてイ・ギギの婿となった。
婚礼の宴は七日七晩続き、
島の内外から祝いの使いと贈り物がひきもきらず押し寄せた。
花婿は、次々とやってくる使いに覚えたての慇懃な返答をしながら、
しごく上機嫌であった。
だが、イ・ギギの顔を覆う曇りが晴れることは、なかった。

初めて床をともにした夜、
婿は、族長の血族となりえた心の昂まりゆえか、
イ・ギギの体を組み敷きながら、あの嵐の夜のことを話し始めた。
—鎌首岩の上に、狂った女がいた。イ・ギギに執着していた。
あれは、おそかれはやかれ災いをもたらす。
だから、俺が始末した。イ・ギギのためだ。
—一番乗りはナグーだったのか?
男は身を離し、起き上がった。
そして、そうだ、と言うかわりにただ卑猥な笑いを浮かべた。
—ナグーは最後に、なんと言った?
—ナグーといったのか、あの娘は。名乗る暇も与えなかった。
あんな娘に言葉を吐く資格もない。こうした。

そう言って、男は、自らの喉を手の平で絞る仕草をした。
イ・ギギは身をおこし、寝台から出た。
そして、寝室の床に積み上げられた贈り物の山の中から、
隣島の族長がよこした青銅の剣を手にとった。
イ・ギギは飛ぶように男に近づき、
次の瞬間には、男の口に剣が突き込まれていた。
剣の切っ先は男の後頭部から肘の長さほども飛び出、そのまま壁を貫いた。
男は「あ」と声をあげたときそのままの顔で、絶命した。
切り落とされた舌が、勃起したままの陰茎でぴしゃりと跳ね、
床に落ちた。

その後、イ・ギギは、自らの住居にこもり、
島の者たちの前に姿を現わすことはなかった。
身の回りの世話をする使用人が漏らした話によれば、
額、手、足、背中、腹それぞれに、ナグーの名を…
婿選びの夜に命を落とした憐れな娘の名を、
刺青で刻んだということであった。
そしてイ・ギギは、新たな婿を迎えることはもとより、
一生言葉を発することなくその後の人生をおくった。

南回帰線のあたりにぽつりと浮かぶ、小さな島での話である。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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