大曲康之 2012年5月3日

昭和24年のある夜

         ストーリー 大曲康之
            出演 原金太郎

昭和24年のある夜、

国鉄鹿児島本線を走る普通列車のデッキの所に、
若い夫婦が立っていました。

若い母親は、赤ちゃんを抱いていました。
二人に初めて出来た赤ちゃんです。

夫は、つらい戦争から帰って来て、
なんとか日本国有鉄道に仮採用されたという立場でした。

炭水掛りといって、
蒸気機関車に石炭や水を補給する仕事です。

妻は、戦時中もずっと銀行の窓口に座っていました。

実は、母親にしっかり抱かれている赤ちゃんには、
すでに命はなかったのです。

「恵子」と名付けられたその赤ちゃんには、
生まれて一ヶ月で重い心臓病が見つかり、

「生きても3ヶ月くらいでしょう。」と、
お医者さんに言われました。

母親は、病院にいくつも行きましたが、
どの病院でも診断は同じでした。

もはや、神仏にすがるほかありません。
祈祷師さんに、お祓いもしてもらいました。

もはや母親は、精神錯乱みたいな状態です。

でも、残念ながら、お医者さんの診断は、
間違っていませんでした。

二人は、雑餉隈(ざっしょのくま)という街の
国鉄のアパートに住んでいました。

でも、そこでお葬式をする気には、
どうしてもなれませんでした。

夫の故郷は、
佐賀県の三養基(みやき)郡というところにあります。
二人は、どうしても、そこでお葬式をしたかった。

今と違って、クルマとか誰も持っていません。
列車で故郷に帰るしか、方法はなかったのです。

でも、国鉄では法律で死体を運ぶことを禁じています。
国鉄に採用されたばかりの人間が、
国鉄法を犯さなきゃいけない。

二人は、だから、周りに悟られないように、
デッキにずっと立っていたのです。

母親は、すべてを自分のせいにして、
ずっと自分を責め続けました。

その夜以来、
自分が好きなものを二つ断ちました。

お茶と、牛肉です。

そののち、2人の男の子が生まれました。
下の子が、僕ですが。

僕は、家で母親がお茶を飲むのを見たことがありません。
ご飯を食べた後も、自分だけは白湯を飲んでいました。

茶ソバも茶煎餅も、とにかくお茶の味のするものは、
すべて拒否していました。
お茶が隠し味になってたお菓子を、
口から吐き出したこともあります。

まあ、貧しかったので、
牛肉の方は、家で出て来なくても
何の疑問も感じませんでしたが。

「下の子たちだけは、せめて無事に生きて行きますように。」
という願掛けは、母親が86才になった今も続いてます。

彼女は、「美しく蒼きドナウ」という曲が大好きで、

「ヨーロッパに一回行ってみたい。」

とつぶやいていたので、
70才くらいの時に夫婦で連れていったのですが。

「パッケージツアーやから、
牛肉食べんとか言えんやろ。
もう、子供がどうなろうとお母さんの責任じゃないから、
解禁しなさい。」

と言って、なんとか食べさせました。

でも、旅行から帰って来たら、
お茶断ちと牛肉断ちを再開して、
いまだにやってます。

出演者情報:原金太郎 03-3460-5858 ダックスープ所属


 

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