2012 年 5 月 のアーカイブ

五島のはなし(176)

春の海は一気に潮が引くから、うかうかしてられない!
ぼーっとしてるとほら・・・

海に帰れなくなってしまったり。

そして、そのすきに人間たちは掘る!掘る!掘る!休んでは、また掘る!
一度掘りだすと掘るという行為の魔力にとりつかれてしまう、
潮干狩りシンドロームにあなたはかかったことがありませんか?

食べる分だけ、行けばとれる。
ずーっとそんな海だったらいいんだけどなあ。

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五島のはなし(175)


ピィピィピィとさえずるひばり
さえずりながらどこまであがる
高い高い 雲の上か
声は聞こえて見えないひばり
(文部省唱歌)

ゴールデンウィーク、五島の鬼岳は、ひばりの声がすごかったです。
超サラウンド効果。
東京に戻ってきてからも、耳から離れません。

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五島のはなし(174)

フェリーのつく大波止ターミナルから北西へ20分くらい歩くと
こんもりした山があります。通称「こんぴらさん」。

山道を歩くと、岩肌に彫りこまれた仏像を見ることができます。
磨崖仏(まがいぶつ)というらしいですね。

だれが彫ったんでしょう。
彫るという行為は、気持ちを込めることと直結してる感じがします。

五島の人が日ごろ祈りをささげる場所なんですかね。
子どもの頃は遊びまわってるだけで、あんまりそんなこと考えたことなかった。

やっぱ腹八分が大事らしいっすよ。

山頂近くには祠があって、その前に何体かの狛犬(こまいぬ)がいたのだけど、
月日がたち過ぎたんでしょう、狛犬がにらんでいるのか、笑っているのか、はたまた嘆いているのか、
よくわからない顔になってた。人間も歳とるとそうなるのかな。
なんか、いろいろ許してくれそうな顔です。
そもそもこれ・・・狛犬?

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五島のはなし(173)

五島では5月5日こどもの日に、おふろに「菖蒲(しょうぶ)」の葉をいれて、
それを頭に巻く(頭が良くなるように)、
おなかに巻く(おなかがいたくならないように)、
そのほか、健康が気になる部位に巻く、という慣例がある。
これ、全国的なこと?
五島だけ?・・・ってことはないですよね。

こどものためにやるものなんですが、
切なる願いをこめて、ぼくは、自分の頭に何度も巻きつけてきました。

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佐藤理人 12年5月12日放送



ミニ① 特命

1956年、スエズ動乱が勃発すると、
ヨーロッパに深刻な石油危機が広まった。
特にイギリスではガソリンの価格が高騰、
配給制度が敷かれた。

そんなある日。
当時イギリス最大の自動車メーカー
BMCの設計者アレック・イシゴニスは、
会長直々に特命を受けた。

燃費が良く経済的な
4人乗りの小型車を早急に開発せよ。

車体はできるだけ小さく、でも室内は広く。
この無理難題を解決するためにイシゴニスがまずしたこと。
それは常識を捨てることだった。

彼は部品の一つ一つまで全く新しい視点で考え直し、
革命的な車を作り上げた。

イギリスの国民的名車「ミニ」は、
石油不足という大きな制約が生んだ
小さなヒーローだった。



ミニ② 数学

数学が苦手でも、
カーエンジニアの夢をあきらめる必要はない。

イギリスが生んだ世界的名車「ミニ」。

その設計者アレック・イシゴニスは数学が大の苦手だった。
大学のテストで3度も落第しているほどだ。
彼は数学を

すべての創造的な天才たちの敵

と呼んで毛嫌いした。

ミニのあの愛くるしいデザインは、
実はカーデザイナーの手によるものではない。

イシゴニス自身が、
リゾート地のホテルでジンを飲みながら
ナプキンに手描きしたものだ。

車のコンセプトと構造を熟知した
設計者自身の手によるデザインは、
機能に直結した合理性に富むもので、
そのまま生産できるほどの完成度の高さだった。


hashmil
ミニ③ 文化

誰にでも手が届く経済的なファミリーカー。
そんなコンセプトで生まれたイギリスの名車「ミニ」。

その斬新で機能的なスタイルに真っ先に飛びついたのは、
庶民ではなく、新しモノ好きなセレブだった。

例えばビートルズ。
元々はアビイロードスタジオの駐車場が狭いために選んだ車だったが、
その愛くるしい個性にメンバーはみな一目ぼれしてしまった。
ジョン・レノンは免許を取る前にミニを購入し、
リンゴ・スターはミニ・クーパーを愛用し、
ジョージ・ハリスンは車体にオリジナルで
サイケデリック模様のペイントまで施した。

ミュージシャンでは他にデビット・ボウイ、エリック・クラプトン。
ファッションデザイナーのポール・スミス。
俳優のスティーブ・マックイーン。
そして女王エリザベス二世。
当時世界で最もクールなセレブ達が、
自分の個性を表現する手段としてミニを選んだ。

もはやミニは単なる大衆車ではなかった。
大きくて強いことこそ正義とされた当時の価値観に対抗する
カウンターカルチャーの象徴だった。

それは奇しくも
ミニが生まれた1962年に、
イギリスのファッションデザイナー
マリー・クワントが発明した

「ミニ」スカート

と同じことだった。



ミニ④ 勝負

フェラーリのレーシングカーなどを製作し、
現在のF1カーの基礎を築いた男、ジョン・クーパー。

1960年代はじめ、彼は市販車レースに夢中になった。
しかしレーシングカーと市販車のレースでは、
求められる性能も走るコースも何もかも勝手が違う。
レーシングカー製作者に贈られる最高の賞を
2年連続で受賞した彼もなかなか勝利をつかめずにいた。

ある日のこと。
クーパーは友人の設計者アレック・イシゴニスに
ミニの試作車を見せられた。
その驚異的な性能をすぐさま見抜いたクーパーは、
イシゴニスと共同で機敏で燃費がよく、
しかも安価な車を製作した。
そうしてできたのが、今やミニの代名詞ともなった車、

ミニ・クーパー

である。

そして1964年。
クーパーは早速、世界最古の自動車レースであり、
世界三大レースの一つでもあるモンテカルロ・ラリーに参戦。
険しい山道、凍結した路面、そして雪という
最悪のコンディションにもかかわらずいきなり優勝を飾った。

続く1965年、67年にも優勝。
ポルシェやアルファロメオなど大パワーのライバルたちを打ち破り、
世界で最も権威のあるレースで3回も勝ち星をあげたミニ。

この勝利は「速さにはパワーが必要」という
それまでのモータースポーツの常識も打ち破った。



ミニ⑤ 映画

イギリスが生んだ歴史的名車「ミニ」。
その活躍は日常やレースの世界に留まらなかった。

1969年に公開された

The Italian Job

邦題「ミニミニ大作戦」という映画で、
ミニはついに映画初「主演」を果たす。

強盗団がマフィアから金塊を奪って逃げる
という何ともB級な話だが、カーアクションはA級だ。

狭く入り組んだトリノの街を
縦横無尽に駆け回る三台のミニ。

階段、下水道、屋根など
走れるところはどこでも走り、
ビルからビルへジャンプする。
ジャガーなど超のつく高級車たちを、
軽々と手玉にとるその姿は実に痛快だ。

それは小さくて軽くて、しかも速い、
ミニならではの名演技だった。


J Mark Dodds a shadow of my future self
ミニ⑥ 時代

うまくいっているなら、何も変えるな。
うまくいかなくなるまで続けろ。

設計者アレック・イシゴニスの言葉通り、
1959年の発売当時とほぼ同じ姿のまま、
今も世界中で愛され続ける車「ミニ」。

その生産が終了したのは2000年10月のこと。
世界中で高まる衝突安全性と排出ガスの基準を
もはや満たすことができなくなったのだ。

40年の間に、
ミニより先に世界が変わってしまった。


Okko Pyykkö
ミニ⑦ 長寿

20世紀最高の名車を決める
「カー・オブ・ザ・センチュリー」で
2位に輝いたイギリスの世界的名車「ミニ」。

ある日、
イタリアが生んだ世界最高のカーデザイナー、
ピニンファリーナが、
ミニの設計者アレック・イシゴニスに尋ねた。

いつになったら
あなたの車をデザインさせてもらえますか?

イシゴニスは答えた。

デザインなど2年もすれば流行遅れになるものだ。
でも私の車は、私が死んだ後も流行っているだろう。

事実、ミニは2000年10月の生産終了まで、
40年もの長い間世界中で愛され続けた。
その数、実に530万台。

1988年に亡くなったイシゴニスより
12年も長生きだった。

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5月10日は五島の日ですよぉ〜〜

5月10日は五島の日です。
理由は言わなくてもおわかりですね。

この日は有志の参加で島の清掃活動が行われたようです。
五島出身の中村直史くんのような沈着な島民性がうかがえます。
「今日は五島の日だ〜〜」と浮かれて飲んだりしないのです。
いや、飲むかもしれませんが、その前に清掃をするのです。
えらいです(玉子)

福江島:http://www.across-goto.com/index.html

五島市:http://www3.city.goto.nagasaki.jp/

五島市観光協会:http://www.gotokanko.jp/index.htm

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大友美有紀 12年5月6日放送


Ian Britton
「旅する言葉・チェコ」カレル チャペック

「園芸家12ヶ月」「ダーシェンカ」で知られる
チェコの国民的作家カレル チャペック。
彼はジャーナリストとしても活躍していた。
そして数多くの旅行記を出版している。
1925年にふるさとチェコについても書いていた。

 塔はチェコの特産だ、と私は言いたい。
 わが国のあのような不思議なキューポラ、
 まるっこい玉ねぎ型、けしの頭型、
 灯台、付属塔とギャラリーと尖塔は、
 ほかの場所にはないからである。
 チェコの古い町はどこでも、
 その町に特有の塔を持っている。

プラハは、百塔の町とも呼ばれている。
90年近く経った今でも、チェコの特産は健在だ。


Jean-Pol GRANDMONT
「旅する言葉・ふるさと」カレル チャペック

チェコの国民的作家カレル チャペックは、
幼少の頃、父の仕事の関係で幾つかの地に移り住んだ。
彼がふるさとについて書くとき、
それは特定の場所ではない。

 生まれ故郷、またはより正確に言えば、
 私たちが子どもの頃の何年かを過ごした地方は、
 決して地理的な地域ではなく、
 私たちが小さかったときに関係した
 数多くの場所や、秘密の隠れ家なのだ。

こおろぎやとかげをつかまえた畦道。
水浴びをした場所。
よじ登って腰掛けた、とねりこの木。
実を盗みにいった桃の木。
それは自分だけの特別な秘密。

大人になってその地方を訪れた彼は、
思い出の場所は、どこかに行ってしまったことを知る。

 それは生まれ故郷だった。
 わたしは感動しながらも、がっくりしていた。
 もはやそこは、世界のすべてではなくなっていたのだ。


bjoern.f
「旅する言葉・モルダウ川」カレル チャペック

ヴルタヴァ川。
チェコの国民的作家カレル チャペックが、
青春時代を過ごしたプラハをゆったりと流れている。
ドイツ名、モルダウ川。

チャペックはその「ヴルタヴァ川」の美しさを
音楽や絵画や散文、詩で描写した人はいない、と嘆いている。

 春の陽光の中で清らかに輝き、
 明るく音高く、おごそかに、まろやかで楚々とした、
 あの青春時代の乙女のような姿を。
 または、たそがれどきのプラハへ注ぎ込む、
 限りなく青く明るく誇らしげな
 プラハのあかりの列を映して、
 繻子のような、ブロケード織りのような、
 燃えるような輝きを見せるその姿を。

 
川の描写はまだ続く。

 すべての景観をしのぐ景観、美の中の美、
 プラハの空や宮殿、庭園、
 この地の美しい景観のすべてをともなった、
 プラハ全体のなかでも最高の魅力を。

チャペックは「ヴルタヴァ川」の美しさを描ききった
最初の一人になったのだ。


Zaqarbal
「旅する言葉・スペイン」カレル チャペック

21年間のジャーナリスト生活を通じて、
カレル チャペックは、ヨーロッパ各国を旅した。
1929年にスペインを訪れたとき、
チェコとはまるで違う彼の地の魅力を
「別の大陸のようだ」と表している。

 マドリードは宮廷のパレードと革命のスコールの町だ。
 空気は軽く、いささか興奮をかきたて、スリルに満ちている。
 それに反し、セビリアは祝福に満ちてけだるく、
 バルセロナは、なかば秘められた状態でわき返っている。


José-María Moreno García
「旅する言葉・トレド」カレル チャペック

古都トレド。
世界遺産にも指定されているこの街は、
城壁に囲まれ、狭い石畳の路地が迷路のように入り組んでいる。
カレル チャペックも、この街を訪れたとき、
その歴史的建造物と狭い路地に魅せられた。

 ジグザグに曲がったアラブ風の小道をさまよい歩いていく。
 あなたは七歩ごとに立ち止まることになるだろう。
 西ゴート族の柱があると思えば、モサベラ人の壁がある。
 奇蹟の聖母マリア様もいらっしゃる。
 ムハデル人の塔、ルネッサンス風の宮殿があり、
 左右に耳をひろげたロバも通り抜ける。

 
そして、大聖堂については、たしかにそこへは行ったのだけれど、
さだかではないと言う。極めて多くの品、
多様な宗教美術を目にしたあまり、夢を見ていたかのようだったと綴る。
あまりにも多くのトレドの名物を目のあたりにしたチャペックは、
こう結論づける。

 この世で最良の博物館は、生きた人々の街路だ。
 ここはまるで、別の時代に迷いこんだような感じがする、
 と誰もが言いたくなるだろう。
 だが、それは適切ではない。実際はもっと不思議なものだ。
 別の時代ではなく、過去にあったものが現存していることなのである。

民族の独自性と多様性をそのまま受け入れることの大切さを
彼は伝えようとしているのだ。


wildphotons
「旅する言葉・オランダ」カレル チャペック

チェコの国民的作家でありジャーナリストであり、
園芸家でもあるカレル チャペック。
1931年、彼は国際ペンクラブの会合でオランダを訪れる。
そして世界で最も綺麗な庭、
オランダのかわいらしい家々の庭を見て、
自分の庭に、この土壌と湿度があれば死にものぐるいで
世話をするだろうと書いている。

 しかし、オランダで一番気に入ったのは、人の住居だ。
 驚いたのは、人々がいかに家と街路を結びつけているか、
 ということだった。
 窓の前には何も囲う物のない庭があり、
 その広い、磨かれた窓は覆う物もなく、
 通行人たちは誰でも、その家の灯の下にある、
 家族の豊かさと模範的な生活を見ることができる。

その暮らしの清潔さと自然さに嫉妬を抱きながら、
チェコ人に数百年与えてくれれば、
その暮らしに近づけるのにと、渇望する。


Jesper Hauge
「旅する言葉・ノルウェー」カレル チャペック

カレル チャペックの最後の旅行記は「北への旅」。
デンマーク、スウェーデン、ノルウエーへの旅だった。
ノルウェーからは船で北極圏をとおりフィヨルドを見学している。
その船旅の途中、漁師たちの島にそばを通り過ぎる。

 ドゥーノヴィの漁師たちの島だ。
 むき出しの丸っこい岩ばかりで、
 ただ少しばかり緑がふりかけられている。
 こころは恐ろしくさびしい所だ。
 家は一軒しかない。
 ただ小型の船と海、それ以上は何もない。
 この地で人間は、英雄となるために戦う必要はない。
 生きていくだけで十分なのだ。


タカ
「旅する言葉・帰途につく」カレル チャペック

カレル チャペックは、数々の旅行記を出版したが、
旅に出かけたくないと言う。
外国にいると、自分がお払い箱にになった気がすると言うのだ。
旅に出ることを断る言い訳が思いつけなかっただけだ、と。
そのくせ、旅の帰りに、もっといろいろなものを
見なかったことを悔やんでいる。

 旅行者が持つ最初の印象は
 世界のどの地域に行こうともすべて同じだ。
 しかしその後、旅行者が持つ最終的印象は、
 世界は限りなく多様でどの地域もそれぞれ美しい、
 ということになる。
 だが、そんな印象に達するのは、
 ふつうはもはや手おくれになった時で、
 帰りの列車で、何を見たのか、
 もはやゆっくりと忘れかける時なのだ。

旅に出ることは、世界を知ることなのだ。
小国チェコの国民的作家は、そのことを知りつくし、
さまざまな民族と出会うことを楽しんでいた。

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佐藤延夫 12年5月5日放送


sarsia
こどもの話/福沢諭吉

今ではあまりお目にかからないが、
その昔、子どもが家の手伝いをするのは
当たり前の話だった。

明治時代の小説家、福沢諭吉の場合。
庭の掃除や草取りなど、外回りの仕事は「第一類」、
廊下や雪隠など家の内部に関するものを「第二類」に分けた。
そして子どもたちに、このようなルールを定めた。

  雑巾も雑巾桶も自分にて始末し、何等の事故あるも他人の助けを借るべからず。
  雑巾掛けの水も自分にて汲むべし。湯も自分にて取るべし。

今日はこどもの日。
それは親子の役割を考える日、なのかもしれない。


Podknox
こどもの話/アインシュタイン

子どもに何かを習わせたいと考える親は多い。

物理学者のアインシュタインとて例外ではない。
6歳のとき、両親の発案でヴァイオリンを始めた。

高校時代には、バッハやモーツァルト、
タルティーニなどを弾きこなし、
物理学者になったあとも、演奏することが息抜きになった。
そしてこんな言葉を残した。

  テーブル、椅子、器いっぱいのフルーツ、そしてヴァイオリン。
  人が幸せになるのに、ほかに何が必要か。

今日は、こどもの日。
50年後の趣味を子どものうちに見つけられたら、幸せに違いない。



こどもの話/キュリー夫人

物理学者、キュリー夫人の父親は、教育熱心だったという。
でも、塾に通わせたり、成績表とにらめっこしたりするわけではない。

手紙を書くならば、文章は論理的に。
子どもたちを遠足に連れて行くときは、
名所旧跡を前もって研究し、
道すがら雄弁に説明する。
そして土曜日の晩にはいつも、
自作の詩を朗読して聞かせたという。
そしてキュリー婦人は生涯、この言葉を大切にした。

  人生の最大の報酬は、知的活動によって得られる。

今日は、こどもの日。
我が家の教育方針について、もう一度考えてみませんか。


Brigitte Djajasasmita
こどもの話/本田宗一郎

祖母は、「女甚五郎」と呼ばれるほど
手先の器用な女だった。
家庭の雑貨はもちろん、
機織り機や農機具まで作ってしまったという。

父親は、評判の鍛冶屋だった。
ノコギリや鍬だけではなく
見よう見まねで入れ歯を作り、
剃刀や猟銃の修理まで引き受けた。

そして息子は、彼らの魂を受け継いだ。
遺伝ではなく、伝承として。
本田技研の創業者、本田宗一郎は語る。

  人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。
  他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。
  そして、そういう人間を育てようとする精神なのではないだろうか。

今日は、こどもの日。
襟を正して、また明日から頑張りましょうか。
大人も、子どもも。



こどもの話/パブロ・ピカソ

子どもは、親の真似をする。
スペインの画家、パブロ・ピカソも然り。
父親はいつも絵を描いていて、
その姿を見るのが好きだった。
ピカソ少年は、父親の真似をしない方がおかしい、という環境にいた。

だが、才能は平等ではない。
わずか13歳だった息子の絵を見たとき
その見事な鳩の描写に驚き、
父親は、二度と絵筆をとることはなかったという。
のちにピカソは語る。

  男性を描くたびに父親を思い出す。

今日は、こどもの日。
子どもが勉強しなくて悩んでいるお父さん、お母さん。
まずは、お手本を見せてみませんか。



こどもの話/J・F・ケネディ

アメリカ合衆国第35代大統領、
J・F・ケネディの母親、ローズは教育熱心だった。

九人もいる子どもひとりひとりのために
ファイルカードをつくり、
成長の様子をつぶさに記録したという。

  子どもたちを優れた人間に成長させるためには、
  小さいときから始めなければならない。

今日は、こどもの日。
子どもの姿を見守ることが、教育なのかもしれません。



こどもの話/エジソン

多くの子どもは、親に尋ねる。

どうして船は浮かんでいるのか。
どうしてモグラは、いつも土の中にいるのか。
どうしてガチョウは卵の上に座っているのか。

発明王、トーマス・エジソンの母親は、
無邪気で途方もない質問に、ひとつひとつ答えたという。
そして、八歳で小学校を退学したエジソン少年を自ら教育し、
野菜を保存しておいた地下室を、実験室として与えた。
その恩を、彼は生涯忘れなかった。

  今日の私があるのは母のおかげです。
  母はとても誠実で、私を信頼してくれていましたから、
  私はこの人のために生きようと思いました。
  この人だけはがっかりさせるわけにはいかないと思ったのです。

今日は、こどもの日。
それは母を想う日でもある。

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