ロッティ・ドッド
1887年のウィンブルドン選手権。
女子シングルスで優勝したロッティ・ドッドは
その時弱冠15歳と9ヶ月。
これは現在も破られていない、
ウィンブルドン女子シングルスの最年少優勝記録である。
この年を皮切りに、ウィンブルドンで5度の優勝を成し遂げた
ロッティ・ドッドはその後ゴルファーへ転向する。
そこでも才能を発揮し、
1904年には「全英女子ゴルフ選手権」も制覇した。
その圧倒的な万能ぶりに、
人々はロッティ・ドッドを“The Little Wonder”、
「小さな奇跡」と呼んだ。
フレデリック・ジョン・ペリー
1929年の世界卓球選手権ブダペスト大会。
男子シングルスで優勝した
イギリスのフレデリック・ジョン・ペリーは、
ほどなくテニスプレイヤーに転向した。
テニスでも彼の才能は遺憾なく発揮された。
1934年に全豪オープン、ウィンブルドン選手権、
全米オープンに優勝すると、
35年には全仏オープンも制覇。
「キャリア・グランドスラム」を達成した
史上初の選手となった。
その後ウィンブルドンの3連覇も成し遂げ、
「テニスの神様」と讃えられた
フレデリック・ジョン・ペリー。
引退後、彼は自らの名前を冠した
スポーツウェアブランドを設立する。
それが月桂樹のマークで知られる
「フレッド・ペリー」である。
ボー・ジャクソン
大学時代、野球とアメリカンフットボールの
花形選手だったボー・ジャクソンは
1986年、メジャーリーグのカンザスシティ・ロイヤルズに
入団した。
翌年、アメリカンフットボールのドラフトで、
ロサンゼルス・レイダーズがボー・ジャクソンを指名する。
ロイヤルズではレギュラーに定着していたが、
彼はレイダーズからのオファーを受け入れた。
こうしてジャクソンは野球とアメリカンフットボールの、
ニ足のわらじを履くことになった。
4月から9月までは野球選手としてプレーし、
9月から1月まではアメフト選手としてプレーした。
シーズンが重なる9月は野球を優先した。
1989年には打者として32本のホームランを打ち、
ランニングバックとして950ヤードを獲得した。
史上初めて、メジャーとNFLの両方で
オールスターにも選ばれたボー・ジャクソン。
人気と実力を兼ね備えた、偉大なプレイヤーだった。
ベーブ・ディドリクソン
1932年のロサンゼルスオリンピックに出場した
アメリカの女子陸上選手、ベーブ・ディドリクソン。
やり投げと80メートルハードルで金メダルを獲得し、
走り高跳びでも銀メダルを獲得した。
オリンピックの後、彼女はゴルファーへ転向。
そこでも才能を発揮し、「全米女子オープン」を3度制覇。
生涯で4度の賞金王に輝いた。
陸上競技とゴルフというまったく異なるスポーツで
頂点を極めたベーブ・ディドリクソン。
“天は二物を与えず”という言葉は、彼女には当てはまらない。
ボブ・ヘイズ
弾丸と呼ばれた男、ボブ・ヘイズ。
1964年の東京オリンピックに出場し、
100メートルと4×100メートルリレーで金メダルを獲得した。
オリンピックが終わると、
ヘイズはアメリカンフットボールに転向し、
NFLのダラス・カウボーイズに入団した。
俊足のワイドレシーバーとして活躍し、
1971年にはスーパーボウルの優勝も経験。
オリンピックの金メダルとスーパーボウルの両方を手に入れた
史上初の選手となった。
彼の足はまた、NFLの戦術を変えた。
どんなディフェンダーも世界最速のヘイズに追いつけない。
対戦するチームはマンツーマンディフェンスから
ゾーンディフェンスに変えて彼を止めにかかった。
そのためNFLのゾーンディフェンスの技術は、
ヘイズの活躍した1960年後半に大きく向上したといわれる。
ダニー・エインジ
1981年のNCAA男子バスケットボールトーナメント。
ブリガム・ヤング大学のダニー・エインジは、
試合終了の7秒前、自陣でリバウンドを奪うと、
相手ゴールまでドリブルで持ち込み、
劇的な逆転シュートを決めた。
「NCAA史上最高のシュート」とも謳われる
このシュートを決めたダニー・エインジ。
彼は大学バスケットボールのスターとして活躍する一方で、
トロント・ブルージェイズにも所属し、
メジャーリーガーとしてプレーした。
大学卒業後はボストン・セルティックスに入団し、
バスケットボールに専念することになったが、
ダニー・エインジはメジャーリーグとNBAを経験した
史上稀な選手となった。
ディオン・サンダース
プレーもファッションも言動も、
すべてが派手だったことから「ネオン・ディオン」の
愛称で呼ばれたディオン・サンダース。
1989年から97年まで、
アメリカンフットボールとメジャーリーグのチームを掛け持ちし、
ワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場する
快挙を成し遂げた、史上唯一の男。
同じ週にホームランとタッチダウンの両方を記録するという
離れ業をやってのけたこともある。
ディオン・サンダース。
さすがは「ネオン」と呼ばれるだけの派手な活躍ぶりである。
ジム・ソープ
陸上競技のアメリカ代表としてオリンピックに出場し、
五種競技と十種競技で金メダルを獲得した。
メジャーリーガーとして289試合に出場し、
通算2割5分2厘の打撃成績を残した。
プロフットボール黎明期のスタープレイヤーとして活躍し、
のちに全米プロフットボール殿堂に選ばれた最初のひとりとなった。
すべてひとりの選手が成し遂げたことである。
彼の名はジム・ソープ。
20世紀初頭に陸上競技、野球、アメリカンフットボールで
活躍した伝説の選手。
その功績は今に語り継がれ、
1999年にAP通信が発表した
「20世紀の最も偉大なスポーツ選手」では
第3位に選ばれた。
蛭田瑞穂
蛭田瑞穂 11年6月6日放送
蛭田瑞穂 11年5月15日放送
檀一雄の食卓
小説『家宅の人』で知られる作家、檀一雄。
世間には無頼派作家として通っていたが、
食生活に関しては規則正しく、ほとんどの食事は
自分の手でつくっていた。
その腕は文壇随一とも言われ、
『檀流クッキング』というエッセイも書いている。
買い物カゴを提げて商店街を歩くのが
日課だったという檀一雄はこんな言葉を残している。
この地上で、私は買い出しほど、好きな仕事はない。
寺山修司の食卓
寺山修司の食卓はいつも賑やかだった。
劇団「天井桟敷」を主宰していた彼のもとには、
陽が沈む頃になると、その日の夕飯にありつけなかった
劇団員たちが集まってきた。
家出してきた者が土産を持ってくることもあれば、
飲食店を営む劇団OBから、
不意に付届けが来ることもあった。
日ごとに違う人物が登場し、
日ごとに違う風景が繰り広げられた寺山修司の食卓。
彼は言う。
人生同様、食卓もまた劇場である。
澁澤龍彦の食卓
作家、澁澤龍彦。
ジャン・コクトーやマルキ・ド・サドの作品を日本に紹介し、
『高岳親王航海記』などの小説も執筆した。
百科事典的な博学の持ち主として知られ、
その著作は思想から美術、ヨーロッパ文化まで
幅広い範囲に渡った。
彼はまた美食家でもあった。
朝起きると「今日何を食おうか」というのが常で、
その日に捕れる相模湾の魚を心待ちにしていたという。
食に関して澁澤龍彦はこんな文章を記している。
アストロノミーは天文学のことだが、
この言葉の前にGをつけると、
ガストロノミーすなわち美食学となる。
アストロは星の意であるが、ガストロは胃の意である。
私はガストロノミーという言葉を聞くと、
自分の胃のなかで、無数の星が
軌道を描いて回転しているような気がしてくる。
まことに澁澤龍彦らしい表現である。
向田邦子の食卓
向田邦子の少女時代、向田家ではふたつの鍋で
カレーをつくっていた。
大きい鍋は家族用。小さい鍋は父親用。
父親のカレーは辛口で、肉も多かった。
早く大人になって、そのカレーが食べたい。
彼女はいつもそう思っていた。
カレーといえばもうひとつ、
向田邦子にはこんなエピソードがある。
人気ドラマ「寺内貫太郎」の脚本を執筆していた時、
彼女は寺内家の朝食として台本にこう書き加えた。
「ゆうべの残りのカレー」。
下町の家族の暮らしをわずか一行で表現した邦子の感性に
出演者もスタッフも感心したという。
井上ひさしの食卓
井上ひさしは歯医者が大の苦手だった。
虫歯ができても放置し続けたため、
やがて前歯を除くほとんどの歯が虫歯になった。
その痛みに耐えきれず、ある時彼は入院し、
重症の虫歯を一気に13本抜いた。
それ以来、井上ひさしは
やわらかいものしか食べられなくなった。
そんな彼のために、妻は歯に負担の少ない料理をつくった。
ハンバーグと揚げたチーズと
ニンジンを絞ったジュースを井上ひさしは特に好んだ。
彼は妻のつくる料理にこんな感想を述べている。
ただひとつのしあわせは、
家人が世にもまれな料理下手だったということだ。
彼女がもし料理上手だったら、
心をこめて作った料理に渋面を作る夫を、
やがて憎むようになっただろうから。
井上ひさしらしい感謝の仕方である。
遠藤周作の食卓
遠藤周作の家では
夕飯は漬物とあと一品と決まっていた。
毎日の献立を決めるのは妻の仕事で、
彼女には食事は質素をもって旨とすべし
という考えがあった。
周作はたまには贅沢をしたいと思うが仕方ない。
自分の仕事に口を出させないかわりに、
妻の仕事にも口を出さないというのが、
遠藤家のルールだったから。
そう思いながら、遠藤周作は明るく言う。
何はなくても家族みんなでたべる食卓はたのしい。
それはどこの家庭でも同じでしょう。
時々、夢で血のしたたるビフテキを食べている
自分の姿を見ますがね。
齋藤茂吉の食卓
歌人、齋藤茂吉は鰻に目がなかった。
その生涯で1000匹以上の鰻を食べたともいわれる。
太平洋戦争の最中、疎開先の山形で友人から鰻を送られた。
久しぶりに食べる極上の鰻に、茂吉はこんな句を詠んだ。
肉厚き
鰻もて来し
友の顔
しげしげと見む
いとまもあらず
田村隆一の食卓
詩人、田村隆一の晩年、朝食は決まって
妻のつくる弁当だった。
幼い頃から病弱で心臓の手術もした妻は朝が弱かった。
そのため、前の晩に弁当をつくり、
隆一の朝食として用意した。
目ざめると、隆一は弁当を持って2階に上がり、
窓の外を眺めながらそれを食べた。
朝早く、妻のつくった弁当をひとりで食べる。
その時間が隆一は好きだった。
窓の外には美しい鎌倉の海が見えた。
彼は妻の料理の味付けを気に入っていた。
家内の味つけは、
今風の料理屋より数段上です。
田村隆一はことあるごとに友人にそう吹聴していたという。
蛭田瑞穂 11年4月3日放送

The Godfather 1
俳優マーロン・ブランド。
1953年、29歳で出演した映画『乱暴者』で
暴走族のリーダーを演じ、
一躍若者たちのカリスマ的存在となる。
その不良的な演技はジェームズ・ディーンにも
大きな影響を与えたという。
その後、『波止場』『ゴッドファーザー』で
2度のアカデミー主演男優賞を受賞し、
戦後のハリウッドを代表する俳優となった
マーロン・ブランド。
彼は1924年の今日、
ネブラスカ州オハマに生まれた。

The Godfather 2
フランシス・コッポラの代表作『ゴッドファーザー』。
1972年にアメリカで公開されると、
当時の興行収入記録を塗り替える大ヒットになった。
人気を受けて、74年に続編『ゴッドファーザー・パートII』が公開。
この映画も大ヒットし、前作に引き続き
アカデミー作品賞を受賞した。
アカデミー賞の長い歴史の中で、
1作目と2作目が続けて作品賞を受賞した例は
『ゴッドファーザー』をおいて他にはない。
『ゴッドファーザー』。
それはフランシス・コッポラが
映画史に立てた不滅の金字塔である。

The Godfather 3
映画『ゴッドファーザー』の原作者マリオ・プーゾは
主人公のドン・コルレオーネを
ぜひマーロン・ブランドに演じてほしいと思っていた。
プーゾは意を決し、その思いを手紙にする。
「あつかましいことは承知しておりますが、
あなたはこの役を演じられる唯一の俳優だと思います」
プーゾの手紙に心を動かされたブランドは
自分がイメージするドン・コルレオーネをビデオで撮影し、
監督のフランシス・コッポラに送った。
そのビデオの中で彼は口に綿を詰めて頬を膨らませ、
貫禄のあるマフィアのドンという役づくりをした。
当初、別の俳優を主役に考えていたコッポラだったが、
このビデオを見てマーロン・ブランドの起用を決めた。
男たちの思いがつながって生まれた『ゴッドファーザー』。
映画はアカデミー作品賞に輝き、
マーロン・ブランドは主演男優賞に選ばれた。

The Godfather 4
1972年、マーロン・ブランドは
『ゴッドファーザー』で演じた
ビトー・コルレオーネ役で、
アカデミー主演男優賞を受賞する。
1974年、ロバート・デ・ニーロは
『ゴッドファーザー・パートII』で演じた
ビトー・コルレオーネ役で、
アカデミー助演男優賞を受賞する。
これは、ふたりの俳優が同じ人物を演じ、
それぞれがアカデミー賞を受賞した唯一の例。
マフィアのドンと、ドンにのしあがる青年。
マーロン・ブランドとロバート・デ・ニーロは、
それぞれの役を見事に演じきった。

The Godfather 5
セリフを覚えてこない。
すぐに女優に手を出す。
撮影スタッフに怒鳴り散らす。
そんな撮影現場での態度から
トラブルメーカーの悪評もあるマーロン・ブランド。
だが一方で彼には、生涯に渡って人種差別と闘う
人道主義者としての側面もある。
マーティン・ルーサー・キングが導いた歴史的なデモ
「ワシントン行進」に参加し、
人種差別撤廃を訴えたこともある。
『ゴッドファーザー』でアカデミー主演男優賞に選ばれた際には、
ハリウッド映画におけるネイティブアメリカンの
差別的な描かれ方に異議を唱え、受賞を拒否した。
あらゆる面で型破りな俳優、マーロン・ブランド。
こんな男はもう2度とあらわれない。

The Godfather 6
フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』。
ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』。
フランコ・ゼフィレッリの『ロミオとジュリエット』。
数々の映画音楽を手がけ、
その哀愁に満ちた旋律で映画ファンを魅了した
イタリア人作曲家ニーノ・ロータ。
フランシス・コッポラに請われ、
『ゴッドファーザー』全3作の音楽も担当した。
主題曲『愛のテーマ』は、
映画音楽の代名詞ともいえる名曲。
ニーノ・ロータ。
その名は永遠に映画史に刻まれる。

The Godfather 7
2005年、ニューヨークの
クリスティーズで行われたオークションで、
マーロン・ブランドが所有していた
『ゴッドファーザー』の台本が31万2千800ドルで落札された。
日本円にして約3000万円。
それは映画の台本につけられた史上最高の額。
俳優マーロン・ブランドと映画『ゴッドファーザー』。
その人気は不滅である。

The Godfather 8
映画『ゴッドファーザー』3部作の主人公、
マイケル・コルレオーネ。
マフィアのドン、ビトー・コルレオーネの
三男として生まれた彼は、
無口でインテリ風の青年であったが、
ファミリーを守るために激しい抗争をくぐり抜け、
やがてドンにのしあがる。
映画でこの役を演じたのはアル・パチーノ。
当時、彼はまだ無名の役者だった。
映画会社は起用に反対したが、
監督フランシス・コッポラは譲らず彼を抜擢する。
アル・パチーノのその後の活躍は誰もが知るところ。
『ゴッドファーザー』の成功により、
俳優アル・パチーノもまた、
映画界の頂点にのしあがったのである。
蛭田瑞穂 11年03月06日放送

バルガス・リョサ
2010年のノーベル文学賞を受賞した
ペルー出身の作家バルガス・リョサ。
『都会と犬ども』、『緑の家』、『世界終末戦争』などの
著書で知られるリョサは、作品を通じて
社会の偽善や腐敗を告発し、南米の多様な文化を描いてきた。
バルガス・リョサをノーベル文学賞に選考した理由として、
スウェーデン・アカデミーは次のように発表した。
権力の構造を明確に描き、
個人の抵抗、反抗や敗北を鋭く表現した。

サミュエル・ベケット
舞台の上に男がふたり立っている。
ふたりはゴドーという人物を待っている。
劇作家サミュエル・ベケットが発表した戯曲
『ゴドーを待ちながら』。
ふたりの男はしかし、ゴドーという人物を知らない。
会ったこともない。来るかどうかもわからない。
なぜふたりはゴドーを待ち続けるのか。
この戯曲によって、ベケットは
「不条理劇」というスタイルを完成させ、
のちの演劇界に多大な影響を与えた。
文学や戯曲の分野で新しい表現方法を切り拓いた。
その理由により、サミュエル・ベケットは
1969年のノーベル文学賞を受賞した。

ガルシア・マルケス
コロンビアの作家ガルシア・マルケスが
1967年に発表した小説『百年の孤独』。
南米の架空の町マコンドを舞台に、
町を開拓したブエンディア一族の繁栄と滅亡を描いた100年の物語。
チョコレートを飲んで空中浮遊する神父。
遠く離れた場所からテレパシーで手術をする医者。
4年と11カ月も降り続く雨。
ブエンディア一族の歴史が、
次々と繰り出される奇想天外なエピソードによって
神話的に語られる。
日常と非日常が混ざり合う「マジック・リアリズム」
という手法を巧みに使った小説は各国でベストセラーになり、
世界中でラテンアメリカ文学ブームを巻き起こした。
『百年の孤独』の発表から15年後、
スウェーデン・アカデミーはガルシア・マルケスに
ノーベル文学賞を授与する。その選考の理由は、
幻想と現実を結びつけ、ひとつの大陸に生きる葛藤を
豊かな想像の世界で表現した。
というものだった。

パブロ・ネルーダ
1971年のノーベル文学賞を受賞した
チリの詩人、パブロ・ネルーダ。
彼にとってはこの世界に存在するもの
すべてが詩作の対象だった。
チリの美しい自然。女性のからだ。妻への愛。政治。戦争。
パンを讃える詩をつくったこともある。
同じく南米出身の小説家ガルシア・マルケスは、
ネルーダを「詩のミダース王」と表現した。
ミダース王とは触るものすべてを黄金に変える力を持つ
ギリシャ神話の登場人物。
目に触れるものすべてを詩に変えた。
ガルシア・マルケスはネルーダをそう讃えたのである。

トーマス・マン
20世紀の文学界の巨匠トーマス・マンが
1901年に発表した小説『ブッデンブローク家の人々』。
商人の一族、ブッデンブローク家の4代に渡る繁栄と没落を描き、
生まれたばかりの近代市民社会と、
そこに生きる人々の姿をユーモアとアイロニーを交えて表現した。
のちにトーマス・マンはノーベル文学賞を受賞するが、
その理由は、
現代の古典として広く知られる偉大な小説、
『ブッデンブローク家の人々』に対して。
というものだった。
作家本人の功績を讃えて授与されることの多いノーベル文学賞が、
特定の作品を評価することは珍しい。
しかも『ブッデンブローク家の人々』は、
トーマス・マンが執筆した事実上初めての長編小説。
弱冠25歳の時の作品であった。

ロマン・ロラン
ノーベル賞作家ロマン・ロランの代表作『ジャン・クリストフ』。
貧しい音楽一家に生まれた主人公ジャン・クリストフが、
人間や芸術家としての真実を追求しつづける物語。
傷つきやすくも、闘うことを決してやめない
ジャン・クリストフの不屈の生涯を描き、
人間のあるべき姿を示したロマン・ロラン。
彼は一生を通じて、理想主義的ヒューマニズムを表現した。
『ジャン・クリストフ』を書き上げたあとで、
ロランはこう記している。
今日の人々よ、若い人々よ、今度はきみたちの番だ!
われわれのからだを踏み台として、前進したまえ。
われわれよりも、さらに偉大に、さらに幸福になるのだ。

ウィリアム・フォークナー
『響きと怒り』、『八月の光』などの作品で知られる、
アメリカ人作家ウィリアム・フォークナー。
自らの出生地であるアメリカ南部を
小説の題材として繰り返し取り上げ、
土地の因習や人間の深い業を描き続けた。
アメリカ現代小説に対する、強力かつ独創的な貢献が評価され、
1949年にフォークナーはノーベル文学賞を受賞する。
その文学は後世の作家たちにも大きな影響を与えた。
同じくノーベル文学賞したガルシア・マルケスも、
「フォークナーを父として殺すことが自分の文学観だった」
という表現でフォークナーの偉業を讃えている。

ヘルマン・ヘッセ
作家ヘルマン・ヘッセの代表作『車輪の下』。
エリートの集まる神学校に入学した主人公ハンスが、
詰め込み教育と寄宿舎生活に疲れ、学校から脱走するという、
少年の苦悩と挫折を描いた物語。
主人公の少年時代は、作者自身の少年時代とほぼ重なる。
宣教師の父親の仕事を継ぐため、
14才で神学校に入学したヘッセはわずか半年で学校から逃げ出す。
その後、職を転々とし、自殺未遂も起こした。
作家としてデビューするまで長い苦難の時期を過ごしたが、
彼には「詩人になるか、さもなくば何者にもならない」という
強い決意があった。
のちにノーベル文学賞を受賞したヘルマン・ヘッセ。
彼はこんな言葉を残している。
過ちも失敗も多かった。だが、後悔する余地はない。
蛭田瑞穂 11年2月27日放送

デジタル時代の天才たち①
「マーク・ザッカーバーグ1」
世界最大の
ソーシャルネットワーキングサービス「Facebook」。
2004年にハーバード大学の学生
マーク・ザッカーバーグが「Facebook」を設立すると、
さまざまな投資家が彼に近づき、買収の話を持ちかけた。
しかし、どんな金額を提示されても、
ザッカ―バーグに会社を売る気はなかった。
彼は言う。
別にお金が欲しいわけじゃない。
僕にとってFacebookはニ度と思いつくことのない
素晴らしいアイデアなんだ。

デジタル時代の天才たち②
「ジェフ・ベゾス」
伝説はガレージからはじまる。
「Hewlett-Packard」は1938年、
ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードが
カルフォルニア州パロアルトの小さなガレージではじめた。
「Apple Computer」は76年、
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが
ジョブズの実家のガレージではじめた。
「Google」は98年、
セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジが
カリフォルニア州メンローパークのガレージからはじめた。
インターネットショッピングの「Amazon」も
1994年にシアトルのガレージからはじまった。
だがそれにはこんな裏話がある。
創業者のジェフ・ベゾスが、事業が成功したあとで
「うちの会社もガレージからはじまった」と言うために
わざとガレージを選んだのだという。

デジタル時代の天才たち③
「マーク・ザッカーバーグ2」
ウェブ上でユーザー同士が自由に交流を楽しむ
ソーシャル・ネットワーキングサービス。
中でも世界最大のユーザー数を誇るのが、「Facebook」。
2004年、当時ハーバード大学の学生だった
マーク・ザッカーバーグと数人の仲間が
大学内の学生交流のためにはじめた。
すると、そのサイトが学生の間で評判になり、
他の大学にも次々と公開されるようになった。
そして2006年、一般の人々にも公開が及ぶと人気は爆発し、
世界中の人々が「Facebook」に自分のページを開きはじめた。
現在の会員数は5億人を超える。
設立からわずか6年でアメリカ合衆国の総人口をも上回る
ユーザーを集めたモンスターサイト「Facebook」。
マーク・ザッカーバーグはこう語る。
ぼくたちはFacebookを
単なるウェブ上のコミュニティとは考えていない。
Facebookはリアルライフの映し鏡。
リアルライフそのものなんだ。

デジタル時代の天才たち④
「サーゲイ・ブリンとラリー・ペイジ」
2004年のある日、シリコンバレーの中心を走る
ハイウェイ沿いに奇妙なビルボードが設置された。
書いてあるのは難解な数学の問題と、
ウェブサイトのアドレスを思わせる「.com」の文字だけ。
企業名は何も書いていない。
じつはそのビルボードは「Google」の求人広告。
数式の解答をアドレスバーに打ち込むと、
「我々が探しているのは世界最高のエンジニア。
あなたこそその人です」と書かれたページにたどり着く。
セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ。
ふたりの天才がつくった革新的な検索エンジン
「Google」は求人の方法もまた革新的である。

デジタル時代の天才たち⑤
「ラリー・ペイジ」
1996年、スタンフォード大学の大学院生、
ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンは
どんな検索サイトよりも正確に情報を探し出せる
検索システムの研究に没頭していた。
あるとき、ラリー・ペイジは
サイトとサイトを結びつける「リンク」が
重要な鍵を握ることに気づいた。
そこで、彼はリンクの解析をするために、
インターネットに存在するすべてのサイトを
自分のコンピュータにダウンロードすることを試みた。
「そんな馬鹿な」。指導教官も驚くほどの
大それた考えだったが、ラリーは実行する。
そしてついに、すべてのウェブサイトの
リンク構造を解析し、「ページランク」と呼ばれる
独自の検索アルゴリズムの開発に成功した。
この「ページランク」がのちに世界最大の検索エンジン
「Google」の誕生につながるのである。
ラリー・ペイジは語る。
できるはずがないと思われることに挑戦すべきなんだ。
こうしようと決めた目標に向かうときは、
ちょっとまぬけでなくちゃいけないのさ。

デジタル時代の天才たち⑥
「スコット・ファールマン」
パソコンや携帯電話のメールで使われる「絵文字」。
世界で最初の絵文字は1982年、当時IBMの技術者だった
スコット・ファールマンによってつくられた。
コロンとハイフン、カッコを組み合わせ、
横向きにすると人の笑顔に見えることから
「スマイリー」と名づけられた。
それ以来、さまざまな人の手によって
多くの絵文字がつくられ、
文字が整然と並ぶコンピュータのテキストは、
人間の豊かな感情に彩られるようになった。
スコット・ファールマンは言う。
良かったのか悪かったのかわかりませんが、
これは私が世界に上げた贈り物です。

デジタル時代の天才たち⑦
「ビズ・ストーン」
今起きていることを140字以内の短い文章で投稿する
コミュニケーションサービス「twitter」。
投稿することを“tweet”というが、
それは鳥のさえずりという意味。
2006年の創業からわずか3年でユーザーは1億人を超え、
1日に5000万もの投稿が世界中を飛び交う。
「Twitter」の共同創業者、ビズ・ストーンは語る。
世界中の人々がつながれば、思いを分かち合えます。
鳥の群れが、隣同士つつきあいながら、
全体で美しいうねりをつくるようにね。
僕たちはその流れを支えたいのです。

デジタル時代の天才たち⑧
「スティーブ&スティーブ」
「Apple Computer」はふたりのスティーブによってつくられた。
ひとりはスティーブ・ジョブズ。
もうひとりはスティーブ・ウォズニアック。
ジョブズとウォズニアックが出会ったのは1971年。
ウォズニアックの自作したコンピュータを
ジョブズが見に訪れたことから交遊がはじまる。
ウォズニアックは振り返る。
いやー、似てるなあって思ったよ。
コンピュータの設計について話さなくてもわかってくれたし。
すぐに仲良くなってエレクトロニクスや音楽について、
いろいろと話し合ったんだ。
パーソナルコンピュータの革命は、
ビジネスではなく少年同士の友情からはじまった。
蛭田瑞穂 11年01月02日放送

新年の歌④「お正月」
明治の作曲家、滝廉太郎。
15歳で現在の東京芸術大学に入学すると、
4年後に首席で卒業。
「荒城の月」「箱根八里」など
23歳で亡くなるまでに
数々の名曲をつくった夭逝の天才作曲家。
お正月が待ち遠しい子どもの心を表現した
童謡の「お正月」も彼の手によるもの。

新年の歌⑤「美しく青きドナウ」
1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国の間で起こった
「普墺戦争」はプロイセン王国の勝利で終結した。
敗戦したオーストリアの国民は悲しみに沈んだ。
そんな国民を励まそうと、
ウィーン男声合唱協会の指揮者ヨハン・ヘルベックは
ヨハン・シュトラウス2世に合唱曲を依頼する。
それまで合唱曲を書いたことがなかったシュトラウスは
一度はその依頼を断るが、ヘルベックの熱意に押され曲を書き上げる。
そして生まれたのがワルツ『美しく青きドナウ』。
最初は男声合唱曲だったが、
のちにシュトラウスが管弦楽曲に書きなおすと人気を博し、
「シュトラウスの最高傑作」とまで賞讃されるようになった。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が新年に開催する
ニューイヤーコンサートではこの『美しく青きドナウ』が
アンコール曲として演奏される。
アンコールでは、曲の序奏部を演奏したあと、
拍手によって曲をいったん打ち切り、
指揮者や団員の新年の挨拶が行われることが恒例となっている。

新年の音楽⑥「クレメンス・クラウス」
ウィーンのお正月の風物詩といえば、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が開催する
ニューイヤーコンサート。
1939年に始まったこのコンサートの初代指揮者が
クレメンス・クラウス。
1893年、ウィーンに生まれたクラウスは
その貴族的な容姿と優雅な演奏スタイルで人気を博し、
世界的な指揮者へと登り詰めた。
1954年に亡くなるまで、
ニューイヤーコンサートの指揮者を7度も務めた
クレメンス・クラウス。
その生涯に渡る業績が讃えられ、
現在では「最後のウィーンの巨匠」と呼ばれている。

新年の歌⑦「オールド・ラング・サイン」
『蛍の光』はスコットランドに古くから伝わる民謡。
原題は『オールド・ラング・サイン』という。
作者は不明だが、歌詞を現代に伝わる形に変えたのが、
18世紀のスコットランドの詩人ロバート・バーンズ。
旧友と再会し、思い出話を語りながら酒を酌み交わす。
その歓びが歌詞に綴られている。
その詞の内容もあり、スコットランドで
『オールド・ラング・サイン』は新年を祝う歌としてうたわれる。

新年の歌⑧「春の海」
琴演奏家、宮城道雄が作曲した『春の海』。
1930年の歌会始の勅題「海辺の巌」にちなんで作曲された。
8歳で失明した宮城道雄はこの曲を
幼い頃祖父母と暮らしていた瀬戸内の風景を
思い浮かべてつくったという。
この曲を有名にしたのが、
フランス人のヴァイオリニスト、ルネ・シュメー。
この曲の旋律に魅せられた彼は
尺八のパートをヴァイオリンに変え、
宮城道雄とアンサンブルした。
その演奏を収録したレコードは日本だけでなく、
アメリカ、フランスでも発売された。
宮城道雄の脳裏に焼きついた瀬戸内の美しい春は、
海を越えて、人々の耳に届けられることになった。
蛭田瑞穂 10年12月12日放送
ブシコーとボン・マルシェ①
世界で最初に生まれたデパート「ボン・マルシェ」。
1874年に完成した新しい建物の中には
1階から天井までが吹き抜けになった巨大なホールがあった。
昼間はガラスの天井から陽の光が降り注ぎ、
夜になると巨大なシャンデリアが、
豪華絢爛たる灯りでホールを照らした。
「ボン・マルシェ 」の創業者アリスティッド・ブシコーは、
パリ万博のパビリオンをヒントにこのホールをつくった。
日常と切り離された特別な空間で買い物を楽しんでもらいたい。
それが彼の狙いだった。
クリスマスが近づくこの時期、
世界中のデパートが華やかに彩られる。
ブシコーの思い描いた祝祭の空間がそこにはある。
ブシコーとボン・マルシェ②
世界で最初のデパート「ボン・マルシェ」の創業者
アリスティッド・ブシコー。
彼には、消費者を豊かにするには、
まずデパートの従業員が豊かでなくてはならない
という考えがあった。
そのため利益はできるだけ従業員に還元し、
無料の社員食堂や独身寮、退職金制度など、
福利厚生を充実させた。
現在もパリに存在する「ボン・マルシェ」の入り口には
「アリスティッド・ブシコーの店」と書かれた
昔ながらの看板がかかっている。
それはブシコーがいかに
従業員に愛されていたかを示す証でもある。
ブシコーとボン・マルシェ③
19世紀のパリ市民にとって、日々の買い物は苦痛であった。
当時はまだ値札というものがなく、
価格はすべて店員との値段交渉によって決められた。
その上、商品を買うまで店を出てはいけないという
暗黙のルールさえ存在した。
やがて「マガザン・ド・ヌヴォテ」と呼ばれる
新しい形態の小売店が生まれ、その状況を劇的に変える。
しかし真の変化はアリスティッド・ブシコーと
その妻マルグリットがつくった世界初のデパート
「ボン・マルシェ」によって起こされた。
オペラ座のように美しい建物。
宮殿のように華やかな館内。
そして、百花繚乱の品ぞろえ。
「ボン・マルシェ」の誕生によって買い物は快楽へと変貌し、
店はモノを売る場から、夢を売る場へと昇華した。
「ボン・マルシェ」、
それはブシコー夫妻が起こした商業の革命だった。
ブシコーとボン・マルシェ④
19世紀の半ば、世界で最初のデパートをつくった
アリスティッド・ブシコーは、
商業の天才であると同時に宣伝の天才でもあった。
当時生まれたばかりの新聞広告に目をつけ、
大量の折り込みチラシをパリ中にばら撒いた。
そのチラシを制作するために、
彼はデパート内に専用の印刷所まで設けたという。
やがて大衆による爆発的な消費社会が来ることを
見抜いていたアリスティッド・ブシコー。
その慧眼には驚くしかない。
ブシコーとボン・マルシェ⑤
19世紀に創業された世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは冬のある日、
ひとり物思いに耽っていた。
バーゲン期間が終わった後も、
売り上げを落とさないようにするには
どうすればいいのだろう?
その時、窓の外に降る雪を見たブシコーの頭に、
突然「白」という言葉が浮かんだ。
ワイシャツやシーツなど白い生地を使った商品を
集中的に売り出すというのはどうだろうか。
そう思いついた彼は、売り上げの落ちる2月に
「白の展覧会」と銘打ったセールを大々的におこなった。
店内は白い生地を使ったありとあらゆる商品に包まれ、
さながら白銀の世界と化した。
この「白の展覧会」が、現在も続く
デパートの大売り出しのはじまりである。
もしあの日、窓の外に雪が降っていなかったら、
デパートの大売り出しはなかったかもしれない。
ブシコーとボン・マルシェ⑥
今もパリに存在する世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは、
デパートの売り上げの鍵を握るのは女性客だと考えていた。
そのため「ボン・マルシェ」の1階には
女性向けの目玉商品を山積みにし、
女性客の人だかりが自然とできるようにした。
さらに、婦人服や生地などをあえて別々のフロアに配置し、
デパート全体を女性客の活気で溢れるように工夫をした。
現在、多くのデパートの1階には化粧品などの
女性向けの商品が並べられている。
19世紀に生まれたブシコーのアイデアは
こうして今も脈々と受け継がれているのである。
ブシコーとボン・マルシェ⑦
19世紀の半ばに創業された世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは12月になると、
おもちゃと本を売り場に並べ、
店中をプレゼント一色に塗りつぶした。
これが現在のデパートでおこなわれる
大規模なクリスマスセールの先駆けといわれる。
さて、もうすぐクリスマス。
あなたのプレゼントはもう決まりましたか?
ブシコーとボン・マルシェ⑧
世界で最初のデパート「ボン・マルシェ」は
もとは小さな商店だった。
1835年にアリスティッド・ブシコーとその妻マルグリットが
「ボン・マルシェ」の共同経営権を買うと、
さまざまな改革を行ない、店を大きく成長させた。
大量に仕入れ安い価格で売る薄利多売方式。
季節のバーゲンセール。
カタログによる通信販売。
これらはブシコー夫妻がつくりだし、
現在でも多くのデパートで行なわれている事業である。
ブシコー夫妻の功績、
それは単に「ボン・マルシェ」というデパートを
つくっただけではない。
デパートという仕組みそのものを発明し、
消費の文化を創造したのである。






















