
妻たち〜 山口(安田)静江
詩人・山之口獏の生活は貧しかった。
戦後、貧乏を語る専門家のようにマスコミにひっぱりだされたことも
手伝って、生活の苦労は一躍有名になってしまう。
妻である静江は、新聞記者やアナウンサーから
不躾な質問を浴びせられた。
「逃げ出したいと思われたことは何度かあったでしょうね?」
それに対して、
静江は詩人の妻としての矜持に溢れた返答をしている。
「貧乏はしましたけれど、
わたくしたちの生活にすさんだものはありませんでした。
ともかく詩がありましたから…」

妻たち 〜中川暢子
似た者夫婦という言葉があるが、
正反対の夫婦もある。
中川一政は、
女房となった暢子を画家らしい視点から観察した。
「どうも自分の女房は人が好きらしい。
私の家へ客が来る。客がくれば食事をする。
面倒くさいだろうと思うのだが、長年の間、
そういうことで嫌な顔をしたことが一度もなかった」
麦や胡瓜は食べるが、その生態には興味がない。
鳥や樹木を愛でるが、その名前にも興味がない。
黙々と知識を得るより、人とのかかわりによって生き生きとする妻。
「私は考えた。私の女房は人生派である。
私は自然派であると。
その極端が夫婦になったのだと」
「さみしい家庭」に育ち、人を怖れていたと語る一政。
暢子への視線には、自分にないものを持つ妻への
信頼と憧れとを感じることができる。

妻たち〜節子・クロソフスカ・ド・ローラ
「夫婦の愛というのは、それぞれの夫婦によって
築いていくものが違います」
この一文からはじまる「愛について」という随筆の書き手、
節子・クロソフスカ・ド・ローラ。
2001年にこの世を去った画家・バルテュスと
彼女の場合、それは<仕事>だった。
「私はバルテュスという人間と、彼が作る作品を愛しました。
美しい作品を生むためには何でも受け入れることができる、という
気持ちがあったことが、長く続く基盤になったのです」
最期の別れのとき、
節子は昏睡状態にある夫・バルテュスの耳元にそっとささやいた。
「今まで何から何まで本当にありがとうございました」
「再婚はいたしませんよ」
そう付け加えると、バルテュスの口元が、微笑んだという。

妻たち〜 西武子
西武子は、夫を、硫黄島の戦いで亡くした。
夫の名は、バロン西こと、西竹一。
男爵家に生まれ、莫大な財力と華やかな容姿、
人を魅了してやまない独特の魅力に恵まれた男。
その竹一に嫁いだのが、名家に生まれ、美貌の人だった武子。
のちに竹一はロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを獲得し
さらに輝かしい栄華に包まれるも、太平洋戦争、勃発。
二人もまた、時代の渦にのみこまれていく。
生前の栄光と、過酷な戦場であった硫黄島での戦死という
壮絶なコントラストによって、死後も注目を集める竹一。
周囲が特別な視線を遺族に浴びせ続ける中で、
女手ひとつ、のこされた一男二女を育てあげた武子は、
後年、次のような文章を残している。
「戦後、花やをやり、デパートでもんぺをはいて、
売り場に立ったこともあります。もとの知人が私を見て、
『気の毒で声をかけられなかった』と、あとで聞きましたが、
残念でした。私にとっては当たり前のことでしたのに」
西武子は、昭和53年に亡くなった。73歳だった。
年を重ねたときの彼女は落ち着いた気品があり、
若いときよりさらに美しかったという。

妻たち〜 吉野きみ子
戦「おまえなんか、酒田へ帰れ!」
と、押し入れからトランクを引っぱり出す夫・弘(ひろし)。
「ええ、帰ります!」と、トランクに物を詰め始める妻・きみ子。
「まあ、まあ」と、そこに同居の父が割って入って事なきを得る。
吉野家で繰り返された、夫婦喧嘩の一場面。
互いに気持ちをわかっていながら、時に烈しくぶつかり合う。
ぶつかりながら、長い年月をかけて信頼を築く。
そんな、妻・きみ子との夫婦生活の中から、詩は生まれた。
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい…
結婚式で、新しい門出を迎えたふたりに贈られることの多い『祝婚歌』。
夫である、詩人の吉野弘の作による。

妻たち 〜グラフ
「あなたの直感を信じればいいのよ」
「僕の直感は、僕のことを信じていないんだ」
夫婦そろって、世界no.1プロ・テニスプレーヤーで
あったことで知られる、アンドレ・アガシとグラフの会話。
ふたりの考え方は、まったく違う。
「そこが、結婚生活がうまくいっている秘訣なんだ」とアガシは言う。
彼が長年に渡ってテニス界のトップに君臨し続けることが
できたのは、同業者であり、考え方の違う、この妻の存在が
大きかったといわれている。

妻たち 〜檀ヨソ子
「あるとき、檀のことをどのくらいわかっていたと思うかと質問された。
それに対して、私は傲慢にも、檀の気持ちのかなりの部分は
わかっていたと思うと答えてしまった。たぶん10のうち7か8は、と。
だが、本当は何もわかっていなかった」
檀ヨソ子が、夫である作家・檀一雄の代表作『火宅の人』を通読したのは、
檀の17回忌を過ぎた後だった。
愛人との暮らしを綴った私小説ともいえるその内容は、
妻であるヨソ子にとっては堪え難いものだった。
ヨソ子はその苦悩を、インタビューを受けるかたちで、
『檀』という一冊の本に記す。
過ぎ去った日々の記憶に傷つき、
夫の死後に知る、夫婦の距離に茫然とするヨソ子の心情が
率直に書かれた本の中には、
だが時に、夫と妻の間だけで交わされた、甘い思い出が滲む。
一年に渡るインタビューによって書かれたというその本は、
ヨソ子のこんな言葉によって締めくくられている。
「あなたにとって私とは何だったのか。
私にとってあなたはすべてであったけれど。
だが、それも、答えは必要としない」
小宮由美子
小宮由美子 10年08月28日放送
小宮由美子 10年07月31日放送

海に生きる人 1
世界初のサーフィン専門雑誌『SURFER』を創刊した人物、
ジョン・セバーソン(John Severson)。
情報の少なかった時代に、雑誌は話題を呼び、
世界中のサーファーたちに支持された。
1971年に雑誌の版権を売却したあと、
ジョンは、サーフィンをしながら
家族と落ち着いて暮らせる地を探し、
世界各地を15年近くも旅し続けた。
ジョンは言う。
「どこへ旅してもサーフィンが言葉の代わりをしてくれた。
言葉が通じなくても、サーファー同士はハートが通じ合えるから
世界中に生涯の友達ができたよ」
ハワイのマウイ島。
彼はいま、やっと見つけた定住の地で波とともに生きている。

海に生きる人 2
レル・サン(Rell Sun)。
女性プロサーファーのさきがけであり、
そのエレガントなサーフスタイルと美しい生き方から、
「クイーン・オブ・マカハ」と讃えられる伝説の人。
彼女は癌と診断され、余命一年に満たないと告げられても
サーフィンを辞めなかった。
初心者にはにこやかに波をゆずり、自由に、優雅に波に乗る。
立ち上がる体力がなくなってからもボディボードにつかまった。
海に入れば、いつだって笑顔を見せた。
彼女がよく口にしていたという言葉がある。
「ハワイのアロハ・スピリット。
それは、本当にシンプルなこと。
与えて、与えて、そして与える。
心から与え続けること。
何も、与えるものがなくなるまでね」

海に生きる人 3
1967年のその日
ハワイ・ノースショアには荒波が押し寄せていた。
誰がこの巨大な波に乗るのか?
海の烈しさに、ただ立ち尽くすサーファーたち。
固唾を飲んで見守るギャラリー。そのビーチに降り立ったのが
エドワード・ライアン・マクア・ハナイ・アイカウ。
通称、エディ。
彼は、いつもと変わらぬ様子で沖へと向かい、
落ちれば命は助からない荒波の頂点から、一気にボードを滑らせた。
その姿は、踊るように優雅だったと伝えられる。
見事に波を乗り切ったエディの名は島中をかけめぐり、
やがて世界中のサーファーの耳に届いた。
その後、船の遭難事故によって33年の短い生涯を閉じた
エディだが、彼は今も「勇者の代名詞」。
大波にチャレンジするハワイアンサーファーたちの間で
語られる合言葉にも登場する。
“Eddie would go.”
エディなら行くぜ。

海に生きる人 4
5階建てのビルほどの巨大な波を乗りこなす
ビッグウェイブ・サーファー、
レイアード・ハミルトン(Laird Hamilton)。
落ちれば命の危険すらある波の表面を、
彼はマッハ40のスピードで降りていく。
その超人的なパフォーマンスを見て
「あなたは恐れを知らない」と言った人に、
彼はこう返したという。
「僕にとって、恐怖は敵じゃない」
恐怖心があったからこそ僕は進歩してきた。」
人間が生まれながらに持つ恐怖心。
それをなくそうとするのではなく、むしろ
他人以上に持っていたい、というレイアード。
彼の「恐怖」には、海に対する畏敬の念も含まれる。
「ビッグウェイブに乗ったとき、
自分の内に広がるのは謙虚な気持ちだけ。
とても対抗できない力を目の当たりにして、
自分のちっぽけさを知る。
海はいつだって僕らにサインを送ってくるんだ。
常に、謙虚な気持ちを抱き続けるように、とね」

海に生きる人 5
13年間にわたってワールドツアーをまわり
常に上位にランクインしてきたトップ・サーファー、
ロブ・マチャド(Rob Machado)。
ツアーを引退してから彼が夢中になったのは、
すべてのサーフボードの原型といわれる『アライア』に乗ることだった。
板きれにしか見えないこのシンプルなサーフボードは、
経験豊富なサーファーでも乗りこなすことが難しい。
そのことが、彼のチャレンジ精神をかきたてた。
「アライアに乗ることは、僕にとって素晴らしい経験になった。
自分をビギナーの気持ちに戻してくれたからね」
自分にできないことこそが、新しい世界の入り口になる。
できないからこそ、楽しみがある。
マチャドは、それを知っている。
「よく考えてみると、波に乗るなんて魔法みたいだ」
誰もが憧れる輝かしい経歴の持ち主でありながら、
彼は今も、そんなことを口にする。
挑戦する。そして、楽しむ。
サーフィンは、終わらない。

海に生きる人 6
「決して水を怖がらず、
出来るだけ遠くへ行ってごらんなさい」
母は、幼い息子にそう言い聞かせていたという。
そして少年は、たぶん、そのとおりに従った。
のちのオリンピック水泳競技の金メダリスト。
サーフィンの魅力を世界に広め、
近代サーフィンの父と讃えられることにもなった
デューク・カハナモク(Duke Kahanamoku)。
彼の生涯は運命づけられたものだったのかもしれない。
海と出会う季節に。

海に生きる人 7
パドルアウト。
サーフボードの上に腹這いになり、手で漕ぎながら
沖に向かっていくこと。
サーファーたちは、波に乗るために
このパドルアウトを繰り返す。
サーフィンの神様とまで言われるサーファー、
ジェリー・ロペス(Jerry Lopez)が、はじめての挑戦のときに
友人から贈られ、今も大切にしている言葉がある。
『悩むぐらいならとりあえずパドルアウトしてみろよ』
ジェリーは、自伝に記している。
サーフィンから学んだ多くのことは、サーフィンだけでなく、
人生についての教訓だ、と。
彼はその言葉を、今度は私たちに向けて贈ってくれる。
「次の一歩を踏み出すときや、
新しい世界や道を自分の前に開いていきたいけれど、
いまだに踏みとどまっているようなとき、
私が友からもらった言葉をぜひ思い出してほしい」
「悩むくらいならとりあえずパドルアウトしてみろよ」
小宮由美子 10年06月19日放送

アルゼンチンの人々
観客も、ピッチに立っている。
78年のワールドカップ。
地元アルゼンチンは、オランダとの決勝戦に勝ち進み、
スタジアムの熱気は最高潮に達していた。
しかし、試合終了間際に同点ゴールをゆるし、
手中にしかけていた優勝は、一気に遠ざかる。
沈む選手たちを鼓舞したのは弱冠34歳の監督、メノッティの言葉だった。
「回りを見渡してみろ。
われわれは8万人、相手はたったの11人じゃないか!」
選手たちの顔に、輝きが戻り、
ベンチのあちこちから、自然に声があがった。
延長戦、アルゼンチンは2つのゴールを叩き出し、
オランダを圧倒。
国中の人々と、勝利の美酒に酔いしれた。

バッジョ
イタリアが生んだサッカーの至宝、
ロベルト・バッジョ。
彼がスーパープレイヤーだからこそ、
94年のワールドカップ決勝戦でのPKの失敗は、衝撃的だった。
98年、ワールドカップ準々決勝。
ふたたびPK戦にもつれこんだイタリア。
最初のキッカーとなったバッジオは、
4年前の悪夢を振り払うかのように、ゴールを決める。
だが、歴史は繰り返す。
最終キッカー、ディビアッジョが、PK失敗。イタリアは敗北した。
そのとき、誰よりも先にディビアッジョに駆け寄ったのが、バッジョだった。
「PKを外すことができるのは、
PKを蹴る勇気を持った者だけだ」
成功も、失敗も知っているバッジョの言葉は
いまも重く響く。

スコットランドの人々
ワールドカップ。
数々のドラマが生まれる夢の舞台で、
人々に感動を与えるのは、勝者だけではない。
スコットランド・グラスゴーにあるパブ
『アイアンホース』の壁に掲げられたサッカーユニフォームには、
次のような言葉が書かれているという。
スコットランド、
我々のもっとも大きな誇り、
それは決して倒れないことではない
倒れるたびに起ち上がる、
それが誇りだ
数々の激闘を繰り広げ、負けてもなお、挑み続ける。
その選手たちの姿こそが、
祖国の人々の魂をふるわせ、明日への力を与えている。

ワールドカップ。
ごく一握りの、選ばれた者だけにゆるされた最高の舞台。
そのピッチに立つ選手たちの矜持を、
かつてイングランド代表のストライカーだった、
アラン・シアラーの言葉があらわしている。
「イングランド代表の白いシャツは、お金では買えない」
祖国への誇りを胸に戦いに挑む、
すべての選手に、幸あれ。

ペレ
「泣かないで、お父さん」
1950年、地元ブラジルが
まさかの逆転劇で優勝を逃した、ワールドカップ最終戦。
いわゆる、「マラカナンの悲劇」。
打ちひしがれ、涙を流す父親に、9歳の息子は、こう言ったという。
「泣かないで、お父さん。
僕が大きくなったら、ワールドカップをとってあげる」
8年後。
17歳になった少年は、本当にワールドカップの舞台に立ち、
5本のシュートを決めて活躍。
ブラジルをワールドカップ初優勝へと導き、
父親との、あの日の約束を現実にした。
少年の名は、ペレ。
その後、ブラジルを3度の優勝へ導いた、
サッカーの歴史に名を刻む英雄。
ワールドカップは、たくさんの夢物語を生む。
未来の英雄は、今年も
世界中の街のどこかで誕生しているかもしれない。
小宮由美子 10年05月09日放送
ある選手
「ナンバーワンのプレッシャーは
経験した者でなければわからない」
かつて、世界ランキング1位の
テニス・プレーヤーだった
ジョン・マッケンローは、こう語っている。
「いつも何かに脅かされているんだ。その間、
楽しさを覚えたことなんて一度もなかった。
例えて言うなら、断崖絶壁に立ち、
強風を受けているようなもの。
力いっぱい踏ん張っていなければ
すぐに下に落っこちてしまう」と。
それだけのプレッシャーに身を晒しながら
世界のトッププレーヤーが
頂点をめざして戦うグランドスラム
今年も、目が離せない。
ある園芸家
手のかかることがうれしい。
待ちどおしくて、たまらない。
カレル・チャペックの本『園芸家12ヵ月』は
植物を育てる人だけが知るよろこびに溢れている。
たとえば、庭をつくりだすと
「ものの考え方がすっかり変わってしまう」と、彼は書く。
「雨が降ると、庭に雨が降っているのだ、と思う。
日が射すときも、ただ射しているのではない、
庭に、日が射しているのだ、と思う。
日がかくれると、庭が眠って、
今日一日の疲れを休めるのだ、そう思って、ほっとする」
5月。
世界中の園芸家たちにとって素晴らしい季節が
また、巡ってきた。
ある芸術家
古い書物、
ガラスの小瓶、白い球体や、
バレリーナのチュチュの切れ端…
素材のコラージュによって、
小さな空間の中に詩的な世界をつくりだした
<箱の芸術家>、ジョゼフ・コーネル。
彼は、国内外で名声が高まったのちも
周囲の人々と一定の距離を保ち続け、
生涯、ニューヨークのベイサイドにある
木造家屋の地下室で、静かに作品をつくり続けた。
しかし1972年、心臓発作でこの世を去るその日の朝、
コーネルが電話で妹に打ち明けたという言葉は、
孤高の芸術家の胸の内を、そっと教えてくれる。
「今まで内気にふるまいすぎた」
ある作家
「20代の私は、時計の奴隷でした」
作家・向田邦子は、そう告白する。
待ち合わせの時間に相手が遅れると、きつい言葉でなじる。
自分自身を追い立てては、
「また一日を無駄にしてしまった」という口惜しさに焦れる。
実際、数々の素晴らしい作品を残しながら、生きることを謳歌し、
51年の人生を駆け抜けていったようにみえる彼女。
だが、死の数年前に書いた『時計なんか恐くない』という
エッセイの中に、若き日の自分の姿をふりかえりながら、
こんな言葉を残している。
「時計は、絶対ではありません。
人間のつくったかりそめの約束です。
もっと大きな、『人生』『一生』という目に見えない大時計で、
自分だけの時を計ってもいいのではないでしょうか。
若い時の、『ああ、今日一日、無駄にしてしまった』という絶望は、
人生の大時計で計れば、ほんの一秒ほどの、素敵な時間です」
あるダンサー
「長いあいだ作品を作り続けてきましたが、
身体の奥底から取り出して表現したいことが
まだまだ沢山あります。
それは言葉にできないけれど、私の身体から
決して、消えてなくならないものです」
2004年の来日公演の際に、
ピナ・バウシュが語った言葉。
ヴッパタール舞踊団を率いる振付家であり、
稀有なダンサーでもあった彼女。
数々の独創的な作品を生み出し、
世界に衝撃を与え続けたその繊細な身体は、
2009年、病に倒れた。
けれども
ピナ・バウシュの意思は
多くのダンサーのなかに残された。
彼女は、いま、失われた身体によって、
生きることの価値を私たちに投げかける。
ある王妃
バラの名前になった女性たちがいる。
Joséphine de Beauharnais(ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ)
も、そのひとり。
250種類ものバラを城の庭に植え、
歯並びの悪さを隠すために、いつもバラを
手離さなかったといわれる、ナポレオンの最初の妻。
皇后としてより、<ジョセフィーヌ>という
バラの一種として人々の口にのぼることは、
バラを愛してやまなかった彼女にとって
幸福なこと、かもしれない。
ある音楽家
ある日、青年は、バルセロナの港近くにあった
古い楽譜店に、何気なく足を踏み入れた。
しばらく物色していると、角が擦り切れ、色褪せた
1冊の楽譜が目に飛びこんだ。
表紙に書かれた文字をみて、彼は自分の目を疑う。
高鳴る胸の動悸をおさえ、譜面を追った。
「その音符は、王冠を飾るいくつもの宝石のように思えた」と
後に彼は語っている。
楽譜をしっかりと抱きかかえて家路についた彼は、
それから一日も休むことなく、曲と向き合う。
12年の歳月を経て、その時がやって来た。
遂に彼は、聴衆の前での演奏を決意する。
そして、単なる「練習曲」とみなされていた曲の
真の価値を示し、絶賛を浴びた――
唯一無二のチェロの名手、パブロ・カザルスと、
彼に揺るぎない名声をもたらすことになる
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲<無伴奏チェロ組曲>との
数奇なほどに運命的な、出会いの話。





















