忍びの者/出浦対馬守盛清(いでうらつしまのかみもりきよ)
戦国時代、多くの忍者を召し抱えた武将といえば
武田信玄と毛利元就が双璧をなす。
甲斐の忍び集団は「三ツ者」と呼ばれ、
出浦対馬守盛清という男が頭領を務めた。
盛清の場合、怪しげな妖術を使うわけではない。
敵の動静を窺う斥候を得意とし、
軍勢や将兵の配置、城の弱点などを調べ上げた。
そのおかげで武田軍は、勝ち戦を重ねていく。
戦国時代も、マーケティングが重要だったのである。
忍びの者/中西某(なかにしなにがし)
戦国時代、上杉謙信は
優れた忍者部隊を擁していた。
甲斐の忍び集団「三ツ者」に対し、
こちらは「軒猿(のきざる)」と呼ばれた。
その忍者の一人が、中西某。
名前こそわかっていないが
変装術の名人だったという。
とある豪族が寝返ったという嘘の書状を携え、
百姓に化け、武田方の陣屋に届けた。
その身なりや話しぶりに、誰も疑うものはいなかったそうだ。
役者になるのも、忍者の仕事。
忍びの者/加藤段蔵(かとうだんぞう)
「飛び加藤」の異名を持つ
戦国時代の忍者、加藤段蔵。
塀や堀を軽々と飛び越える飛翔術のほかに、
幻で牛を呑み込んでみせるという呑牛(どんぎゅう)の術を得意とした。
最初は上杉謙信に重用されようと試みたが、
あまりにも腕がたちすぎると恐れられた。
今度は武田側に接近したが、
その魂胆を怪しまれ殺されてしまう。
実力がありすぎると干されるのではなく、
消されてしまう業界なのである。
忍びの者/風魔小太郎(ふうまこたろう)
その昔、相模の国に風間(かざま)という山間の小さな村があった。
村に暮らす一族は、
大陸から移住した騎馬集団という説もあるが、
その由来は謎に包まれている。
普段は狩猟や杣(そま)仕事をして細々と暮らし、
戦になると散り散りに消えていく。
小田原の北条氏が召し抱えた忍者部隊、風魔一族。
頭目は代々、風魔小太郎と名乗った。
彼らが得意としたのは、奇襲攻撃。
手当たり次第に将兵を生け捕りにし
火を放ち、武器や食料を略奪する。
二百人を超える大所帯であったが、
紛れ込んだ忍者を見分ける術も持っていた。
それは「立ちすぐり居すぐり」と呼ばれ、
不意に出される号令に合わせて
立ったり座ったりする符牒のようなものだった。
動きに合わせられない者は敵方の忍者と見なされ、
ことごとく斬り捨てられてしまったという。
一流の忍者は、リスクヘッジも万全なのである。
忍びの者/下柘植木猿・小猿(しもつげのきざる・こざる)
伊賀の国に、二人の忍者がいた。
兄弟なのか親子なのか定かではないが、
名前を下柘植木猿・小猿という。
その名の通り、猿のように身軽だった。
木の葉を揺らすことなく
枝から枝へ飛び移る秘伝の技、
忍法「浮足」を得意にした。
刀の鍔に足をかけて飛び上がり、
枝に取り付いたら刀をするすると引き上げる。
その姿はまるで漫画のようだが、
なるほど、木猿は猿飛佐助のモデルにもなっている。
忍びの者/松之草小八兵衛(まつのくさこはちべえ)
ドラマ水戸黄門に登場する忍者と言えば
風車弥七だが、そのモデルは実在する。
名前は、松之草小八兵衛。
元々盗賊の頭であったが、
捕縛され打ち首になる寸前、
光圀公に見いだされ無罪放免となる。
その後は密偵として働き、
光圀公に他国の情報を知らせたという。
諸国漫遊をしたのは、小八兵衛なのかもしれない。
忍びの者/割田重勝(わりたしげかつ)
真田の忍者、割田重勝は、
武芸兵法に優れた忍びだったという。
いくつかの逸話も残っている。
上杉謙信の館に忍びこみ
秘蔵の刀を盗み出し手柄を立て、
また、大豆売りに扮すると
小芝居をうち敵方の駿馬を騙し取った。
しかし時代は変わる。
大坂夏の陣が終わり、徳川の世になった途端、
忍者の需要は極端に減った。
大名家に雇われる忍者は、ほんの一握り。
その役目と言っても隣国の諜報活動が主流となり、
忍び本来の持ち味を出す機会はなくなった。
職にありつけない忍者は、
割田重勝のように盗賊に身を落とす。
そして名も無き武士に討ち取られてしまう。
泰平の世では生きられない、
哀しい忍者の末路である。
佐藤延夫(事務局)
佐藤延夫 11年7月2日放送
佐藤延夫 11年6月4日放送
エラ・フィッツジェラルド1
恵まれない幼少期。
この特殊な環境が、ときに大きな才能を開花させる。
アメリカのジャズシンガー、
エラ・フィッツジェラルド。
七歳のときから
売春宿の見張りをし、
違法カジノではノミ屋となり、
ほんのわずかなお金を稼いだ。
ときどきレコードを買い、
同じ曲ばかりを繰り返し歌った。
裕福ではないから、音楽だけが生きる全てになった。
1929年代のニューヨーク。
どこにでもいそうな内気な少女は、
歌が抜群に上手かった。
エラ・フィッツジェラルド2
どんなに才能があっても、歌が上手くても、
肌の色が違えば、ステージでは成功できない。
そんな時代にも関わらず、
エラ・フィッツジェラルドの周りでは、
多くのミュージシャンがこんな噂をしていた。
まるで管楽器のような声を出す女の子がいる。
ハーレムをぶらぶらしていたら、背筋がぞくぞくするような声が聴こえてきた。
そこにいるのは十五か十六の、驚異的な才能を持った女の子だった。
やがて彼女は、ひとつのバンドに誘われる。
才能がある人の元には、
必ずそれを磨く人が現れる。
差別や偏見に邪魔されることなく。
エラ・フィッツジェラルド3
管楽器のような輝きを持つ、二オクターブ半の声域。
それは、どんなに教えても生み出すことのない響きだった。
エラ・フィッツジェラルドの才能をどう育てていくべきか。
幼い彼女の保護者まで引き受けた
バンドリーダーのチック・ウェッブは言った。
早く昇りたがってはいけない。
同じように早く落ちてしまうから。
きみが昇るとき、先に昇った人たちが落ちてくるのに出会うだろう。
それは、一流の歌手にだけ与えられる、
超一流のアドバイス。
エラ・フィッツジェラルド4
歌よりもダンスが好きだったある少女は、
十代のとき、友達とアマチュアコンテストに参加する。
ステージの上に立ったのはいいが、
緊張のあまり体は氷のように固まり、
客席がにじんで見えた。
ダンスも踊れないみすぼらしい少女に、
観客は苛立ち始める。
そのとき彼女は、ひらめいた。
「動けなくても、歌うことができる。」
彼女の澄みきった声に、
客席は、ぴたりと静かになった。
歌い終わると、喝采に包まれていた。
少女の名前は、エラ・フィッツジェラルド。
彼女は、のちに語っている。
その舞台で、自分は生涯、人々の前で歌いたいんだとわかったんです。
私はあがり症だから、歌手なんかできない。
そう思ったことのある人は、
エラ・フィッツジェラルドを参考にすればいい。
エラ・フィッツジェラルド5
1941年。
ついに始まってしまった戦争は、
エラ・フィッツジェラルドの環境を大きく変えていく。
バンドメンバーの何人かが徴兵され、
ヨーロッパ巡業のチャンスは消えた。
レコードの吹き込みも禁止となり、エラは孤立する。
でも、逃げなかった。
米軍ラジオで歌い、
軍隊のキャンプをまわり、
兵隊の心を慰めた。
戦争になると、バラードが流行るという。
エラの歌声は、人々が求めるものと見事に重なった。
わたしはバラードが大好きなんです。
人がなんと言おうと、それは決して変わりません。
エラ・フィッツジェラルド6
1950年代の半ば、
エラ・フィッツジェラルドは困惑した。
彼女だけでなく、
フランク・シナトラや
ナット・キング・コールも
口々に、この音楽を批判した。
あるムーブメントは社会現象となり、
もうすでに誰も抑えることのできない存在に変わっていた。
若者は熱狂し、踊り狂った。
ロックンロールは、
世界を相手に中指を立てて挑発する。
予想よりも遥かに深く、激しく。
エラ・フィッツジェラルド7
100枚を超えるアルバムを出し、
グラミー賞を13回も手に入れ、
3つの大学から名誉博士号を授与された。
それでもエラ・フィッツジェラルドは、
いつも不安そうな少女であり、
バンドのメンバーにさえ
自分の心をさらすことはなかったという。
巨匠。
大御所。
伝説。
ある年齢を過ぎると、
メディアの多くは、エラを究極の存在に導く。
でも、彼女はそれを拒んだ。
過去の遺物になったように思えたから。
ステージで歌えればいい。
お客さんの喜ぶ顔が見られたらいい。
愛する家族と過ごす時間があればいい。
78歳で亡くなるまで、
エラの心の中は少女のままだったのかもしれない。
変わることがもてはやされる世の中だけど、
人はそう簡単に変われない。
変わらないほうがいいことも、多い。
佐藤延夫 11年5月29日放送
幕末の人々/ヘボン
明治時代に、ヘボン式ローマ字を作った
アメリカ人宣教師、
ジェームス・カーティス・ヘボン。
医者でもあった彼は、
一切の報酬を受け取ることなく
私財を投じて患者の治療にあたった。
多いときでは一日で百人の診察をしたそうだ。
もともとヘボンの専門は、眼科。
それにもかかわらず、
直腸炎、脳水腫の手術まで
やってのけたというから恐れ入る。
のちに和英辞書の編纂も手掛けるヘボンだが、
彼が日本にやってきてすぐに覚えた言葉は、
アブナイ
コラ
シカタガナイ
という3つの言葉だったという。
最後の一言は、いかにも日本人らしい。
幕末の人々/若尾逸平(わかおいっぺい)
財をなすには機を逃さぬこと。
そう教えてくれるのは、
幕末の商人、若尾逸平だ。
40里も離れた甲州と江戸を何度も往復し
桃、葉煙草、真綿を運んでいたが、
黒船来航の噂を聞くと、外国人との商売に目をつける。
生糸や真綿が売れるとわかれば真っ先に買い占め、
地元の鉱山で捨てられていた水晶の屑石も売り捌いた。
そして稼いだ1500両。
いつの間にか、水晶大尽と呼ばれるようになる。
ビジネスチャンスは、道端に転がっていた。
幕末の人々/岸田吟香(きしだぎんきょう)
幕末の横浜。
そこはまだ発展途上の街であり、
道は舗装などされていなかった。
風が吹くと土埃や馬糞が舞い上がり、
人々は目の病に苦しんだという。
幕末の事業家、岸田吟香もそのひとり。
横浜で名医と評判の宣教師、ヘボンの治療を受ける。
ところがヘボンは、吟香をひと目見るなり、
助手にならないかと持ちかけた。
のちにヘボンから与えられたのは、目薬の処方箋だった。
硫酸亜鉛を主成分とするこの薬を
「精錡水(せいきすい)」と名付け売り出したところ、
日本初の点眼薬として一躍評判になった。
岸田吟香は新聞の創始者として名を馳せたが、
商品を宣伝する方法にも創意工夫を見せた。
錦絵を用いたポスター広告、
新聞では初めてとなる連載広告、
架空の読者の質問に答える手法など、
広告プランナーとしても一流だったようだ。
幕末の人々/堤磯右衛門(つつみいそえもん)
人生の分岐点は、
どこで待ちかまえているかわからない。
江戸時代末期のこと。
堤磯右衛門という男の場合、
運命の瞬間は、油で汚れた手を洗っているときに訪れた。
フランス人の知り合いが渡してくれた四角い物体。
これを使うと、しつこい汚れが魔法のようによく落ちた。
さっそく作り方を聞き出し
磯右衛門は、石鹸の製造を決意する。
大いに感慨する所あり、輸入を防ぎ国益を興すの一端
新たなビジネスを生む原動力は、感動にあり。
幕末の人々/中川嘉兵衛(なかがわかへえ)
商売の才能とは、
目先の金勘定だけではない。
時代の先を読むこと。
いつだってこの結論に達する。
幕末の商人、中川嘉兵衛は
廃品回収の仕事を足がかりに、
アメリカ人医師の助手、
牛乳販売、イギリス軍の食料調達などに精を出す。
そのうちに、外国人が大量の牛肉や牛乳を消費することに注目した。
そして始めた牛鍋屋は繁盛するのだが、
嘉兵衛はすぐに次の商売に切り替える。
それは、食品の保存用、医療用として必要不可欠な氷の調達だった。
函館、五稜郭の外堀に張られた天然の氷を買い付け、船で横浜に運ぶ。
もちろん港には貯蔵庫を用意し、
道行く人にもコップ一杯八文の値段で売り出した。
横浜の馬車道では、この水欲しさに2時間待ちの行列ができたという。
水の名前は、五稜郭の氷。
その味に感動した九代目市川団十郎は、こんな句を残している。
身に染むや夏の氷のありがたき
ミネラルウォーターは、明治時代にもあった。
幕末の人々/田中平八
相場師というのは、
生まれたときから相場師のようだ。
信濃生まれの商人、田中平八は
わずか14歳で大坂の堂島に乗り込んで
米相場に手を出したという。
彼がのちに巨万の富を築いたのは、生糸相場。
市場で生糸の値が上昇する気配を見極め、
直ちに産地で買い占めを行った。
度胸があり、
駆け引きもうまく、
押し出しもきく。
田中平八が「天下の糸平」と呼ばれるのも
生まれたときから決まっていたみたいだ。
幕末の人々/大谷嘉兵衛(おおたにかへえ)
幕末から明治時代にかけて
多く輸出されたのが、緑茶だった。
横浜には多くの産地から茶葉が集まったが
なにしろ人馬や船で運ぶため、
種類も鮮度も入り乱れる。
うまく調合しないと売り物にはならなかった。
その点、大谷嘉兵衛という商人は、
製茶の技術に秀でていた。
のちに嘉兵衛はアメリカの商社に雇われ、
大坂で茶葉の大量仕入れを命じられる。
わずか3ヶ月で26万8千両。
今でいう百数十億円の買い付けに成功した。
芸は身を助く。そして財を生む。
幕末の人々/快楽亭ブラック
スコットランド生まれの実業家、
ジョン・レディー・ブラックは数々の事業に失敗し、
幕末の日本に流れ着く。
日本では新聞事業に乗り出すが、
商売としては上手くいかなかった。
彼の後を追って来日した息子は、
なぜか芸の世界に身を置いた。
名前は、快楽亭ブラック。
流暢な日本語で話題を集めたものの、
人気は長続きしなかった。
生まれてくる時代が、少し早かったのだろうか。
佐藤延夫 11年4月2日放送

その出会い1
1901年、ひとりの少年が手にしたのは、
浅草の露店で見つけた
おもちゃのボックスカメラだった。
当然のように少年はその魅力に取り憑かれ、
写真を撮ることが生業となる。
カメラはコンパクトで粋なものがいい。
その理由でライカを選んだのは
写真家、木村伊兵衛(きむらいへい)。
粋なもんです。
オツなもんですよ。
写真という魔法を手に入れた少年は、
こんな口癖を携え、
洒脱な写真家になっていた。

その出会い2
画家を目指していたひとりの少年は、
あるとき才能の限界を見た。
また、これからも続くであろう貧しさへの不安を感じた。
そして選んだ写真家という職業は、
土門拳という男の場合、万策尽きたあとの道でもあった。
だからこんな言葉が残されている。
写真というものを全然知らないし、
なんの興味もなかった。
人生なんて思い通りに行くものではない。
だけど思い通りに行かないほうが
案外うまくいったりするものだ。

その技法1
この世には、生き方の器用な人がいる。
本当は苦労をしているんだろうけど
そんな素振りは微塵も見せない。
人懐っこい笑顔で
酒を飲み、冗談を言い、
純粋に人生を楽しんでいる。
それが写真家、木村伊兵衛という人物。
実際に、木村の写真は軽やかだ。
ひょいと行って、パチリと撮ってくるだけなのに、
今にも動き出しそうな写真が浮かび上がった。
その人が歩いてた街の様子とかなんとかいうことが
一緒に溶けこんで来なきゃいけないと思うんですよ
そんな難しいことを簡単にやってのけるには、
いったい何年修業すればいいんだろう。

その技法2
昭和初期に使われていたアンゴーというカメラは、
重いうえに面倒な代物だ。
それに照明係と呼吸を合わせて撮影しなければならない。
目測を計るのが難しく、
ピントを合わせるのも一苦労で、
一流の新聞カメラマンしか扱えない、と言われていた。
当時、素人だった土門拳は、
このカメラを使ってスナップ写真の練習をした。
重いカメラで腕を鍛え、
構図がブレないように
撮影の一連の動作を毎日千回続けたという。
アマチュアカメラマンのように、
楽しみながら巧くなっていくのではない。
それは生きる術として残された一本道だった。
土門拳はこんな言葉を残している。
ぼくの場合は、いわば最初からプロだったのである。
そのころ、彼の部屋には
「打倒木村伊兵衛」と書かれた紙が貼ってあった。
ストイックという言葉は土門のためにある、と思う。

その闘い1
昭和を代表する写真家、
木村伊兵衛と、土門拳。
ふたりは、その生き方も、
写真に対する考え方でさえも、対称的だった。
軽々と写真を撮ってくる木村と、
丹念に下調べをする土門。
写真の中に真実を求めた木村と
社会的なリアリズムを求めた土門。
情緒か、思想か、ヒューマニティか。
独自の価値観を突き詰める土門に対し、
「銀座は月夜ばかりじゃねえぞ」と木村は吠えた。
ふたりの写真をじっと眺めると、
その息遣いまで聞こえてきそうだ。

その闘い2
1941年のある日、
写真家、土門拳は
画家の梅原龍三郎を撮影することになった。
念入りにピントを合わせていると、
梅原はしびれを切らし、苛立ち始めた。
そして立ち上がるやいなや、
座っていた籐の椅子を持ち上げ
アトリエに叩きつけたという。
それでも土門は、写真を撮り続けた。
背筋が寒くなるような無言の闘いは、どちらが勝ったのか。

その晩年
写真家、木村伊兵衛が晩年に撮った一枚の写真。
自宅の部屋でフォーカスを合わせたのは、
11時23分を示す時計だった。
なぜ時計を撮ったのか。
それは彼の人生を表しているのか、
ただの自由人らしい遊び心なのか、
その瞬間が意味するものは、誰にもわからない。
一方、土門拳は
もう撮るに足る人間はいない、花を撮りたい
と語っていたそうだ。
周りからは、鬼の土門が仏に変わった、と噂された。
ふたりの人生は唯一の共通点、カメラを軸にして
正反対の方向に広がっていった。
遺品となったカメラが、それぞれの生き様を伝えている。
木村のライカは、まるで新品のように新しく
土門のニコンは、幾多の修羅場をくぐったあとのように
傷だらけだったという。
カメラを体の一部のように使いこなした木村。
カメラは道具にすぎない、と豪語した土門。
どちらが正しいか、なんてナンセンス。
ふたりの写真には、ふたりの心が宿っている。
佐藤延夫 11年03月05日放送

エディット・ピアフ1
彼女は、生まれたときから街角に立っていた。
大道芸人の父と、クスリに溺れる母。
街から街を流れ歩く毎日。
母は彼女を産んで2ヶ月後に蒸発し、
同棲相手の家で、あっけなく死んだ。
フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフは、
自分の生い立ちについて、こう語っている。
もし、あんなふうにして生きてこなかったら
私は、ピアフになれなかったもの
運命を受け入れるほどの優しさを、
彼女はどこで手に入れたんだろう。

エディット・ピアフ2
十代の恋というのは
パッと燃え上がりやすいけど
その多くは独りよがりで
先のことなど考えず、
小さなことですぐひび割れてしまう。
エディット・ピアフは、
17歳の少年、ルイ・デュポンに恋をした。
小さな部屋でともに暮らし、
小さな命を授かった。
それでも物足りなさを感じ、
外人部隊の兵隊に恋をする。
その兵隊は戦地で命を失い、
一人娘も病気で亡くなった。
それでも十代のような恋を重ねながら、
ピアフは、うたをうたう。

エディット・ピアフ3
どんなに才能に恵まれていても
誰かが発掘してくれなければ、
土の中に埋もれてしまう。
その点、エディット・ピアフは幸運だった。
道路標識のように待ち構える、正しい大人たちがいた。
道で歌っていたピアフをパリのキャバレーに雇い入れた、ルイ・ルプレ。
三年もかけてピアフを磨きあげた、レーモン・アッソ。
そして、偶然キャバレーに来ていた客は、
フランスのスター歌手、モーリス・シュヴァリエだった。
ブラボー。あの娘は身体で歌っている。
その一言で、ピアフの人生が動き出す。
運を味方につけるもの、才能のひとつ。

エディット・ピアフ4
あのひとが私を腕に抱いてくれるとき
そっと、話しかけてくれるとき
私の目にうつるのはバラ色の人生・・・
エディット・ピアフの大ヒット曲、
la vie en rose「バラ色の人生」。
現実の彼女の人生は、
決してバラ色とは言い難い。
売春、殺人容疑、麻薬、
アルコール中毒、自殺未遂、
いくつもの自動車事故、
そして、愛する人の死。
恋人のマルセル・セルダンを
飛行機事故で亡くした夜、
ピアフはステージに立ち、客席に向かって言った。
今夜、私はマルセル・セルダンのために歌います。
誰のためでもありません。彼のために歌います。
せっかく開きかけた薔薇の花が、
また静かに枯れていった。

エディット・ピアフ5
恋をすれば破れ、
愛されると逃げたくなる。
こちらが本気になった相手は、
ことごとく不幸な目に遭う。
そんな人生を送っていたら、
エディット・ピアフじゃなくても
なにかに溺れてしまいそうだ。
でも彼女は、必ず立ち直った。
新曲を手に、ステージに上がった。
ピアフの曲、
「Non, Je ne regrette rien」(水に流して)には、こんな言葉がある。
いいえ、私は何も後悔してない
私のいろいろな過去を束にして
火をつけて焼いてしまった
この世の愛を余さず歌うために、彼女は生まれたのだろう。

エディット・ピアフ6
有名になればなるほど、
外野の声がうるさく響く。
エディット・ピアフもまた然り。
シャンソンに批判的な作家、ボリス・ヴィアンは言った。
曲は恐るべき通俗に思える。
だがマダム・ピアフ、脱帽だ。
電話帳を読み上げても、ピアフは人を泣かせるだろう。
彼にそう言わしめた曲、Bravo pour le clown「道化師万歳」。
ピアフの叫びは、涙腺を刺激する。

エディット・ピアフ7
フランスの映画監督、サシャ・ギトリは
エディット・ピアフについて、こう語っている。
彼女の人生はあまりに悲しかったので
真実であるためには美しすぎるほどだ。
ピアフは、生涯でいくつもの愛を紡いだ。
配達夫の少年、キャバレーに出入りする男、
水夫、トルコの奇兵隊、炭坑夫。
それらは全て成就せずに、泡のように消えた。
47歳で亡くなるまで、
いつも彼女は誰かのぬくもりを探していた。
大ヒット曲「愛の賛歌」は、
最愛の人を飛行機事故で失ったあとに録音されている。
青空だって、私たちの上に落ちてくるかもしれない
地球だって、ひっくり返るかもしれない
でも大した事じゃない あなたが愛してくれれば・・・
hymne à l’amour・・・
一生のうち一度でも、これほど誰かを愛せたら。
佐藤延夫 11年02月05日放送

遠い春/石田波郷(いしだはきょう)
大正生まれの俳人、石田波郷は、
病室の窓から外を眺めていた。
昭和42年のことだ。
戦争で体を悪くしたあとは、
病気と付き合いながら数々の句を詠んだ。
春雪三日 祭の如く 過ぎにけり
(しゅんせつみっか まつりのごとく すぎにけり)
関東地方では、真冬よりも春先に雪が降る。
水分を多く含んだ牡丹雪で、
地面に触れた途端、はかなく消えてしまう。
残るのは、祭りのあとのような寂しさだけで。
立春を過ぎても、春はまだ遠い。

遠い春/宇佐美魚目(ぎょもく)
岐阜の郡上八幡(ぐじょうはちまん)は、
長良川と吉田川、小駄良川(こだらがわ)の
3つの川に挟まれた小さな城下町だ。
ここには宗祇水(そうぎすい)という湧水の名所があり、
全国名水百選の第一番に選ばれている。
大正生まれの俳人、宇佐美魚目は
父を亡くしたあと郡上八幡を訪れ、六つの句を詠んだ。
なお寒く 水菜浮きをり 宗祇(そうぎ)の井
奥美濃の早春。
水と風、心の中も、まだ寒々としている。

遠い春/加藤楸邨(しゅうそん)
長生殿(ちょうせいでん)、福徳、いがら饅頭というのは
金沢の代表的な和菓子であり、
明治時代の俳人、加藤楸邨もこの菓子を愛した。
母の故郷、金沢に住み始めたのは16歳のとき。
雪の降りしきる中、母が食べさせてくれた
いがら饅頭の味は、生涯忘れなかったそうだ。
いがら饅頭 黄なり雪ふる 母の国
(いがらまんじゅう きなりゆきふる ははのくに)
楸邨が詠む金沢の冬は、包まれるように深く優しい。

遠い春/松本たかし
愛知県の蒲郡は、文人たちに愛された土地だ。
高浜虚子も志賀直哉も、
穏やかな三河の海が好きだった。
明治生まれの俳人、松本たかしは
立春を過ぎたばかりのある日、
宿泊したホテルの庭で小さな発見をした。
暖房の 外の日向の 梅早し
ぽかぽかした陽射しの中、
もう梅の花が咲いている。
三河湾にぽつんと浮かぶ竹島と
遠くにかすむ知多半島、渥美半島を眺めたら、
また言葉が生まれてきた。
夕霞む 桃色の海 紺の島
色とりどりの風景に染まる蒲郡には、
ひと足早い春がやってくるのかもしれない。

遠い春/臼田亜浪(うすだあろう)
漂泊の旅人と呼ばれる俳人、臼田亜浪。
自然とのやりとりの中で
独自の世界をつくりあげた。
信州小諸に生まれた亜浪は
折に触れ故郷に戻り、句を詠んだ。
雪散るや 千曲の川音(かわと) 立ち来たり
目を閉じると、木々に積もった雪が崩れ、
千曲川の流れが耳に飛び込んでくる。
それが幼き日の思い出の音だった。
あなたの故郷の音は、何ですか?

遠い春/飯田龍太
俳人、飯田蛇笏の四男として生まれた飯田龍太は、
父親のように俳句の世界に入った。
父親のように山梨を愛し、
ふるさとの情景を言葉にした。
雪の日暮れは いくたびも読む 文(ふみ)のごとし
いとおしい時間は、
しんしんと降る雪のように
ゆっくりと流れていく。

遠い春/秋元不死男(ふじお)
伊豆の風景。
山葵田(わさびだ)の清らかな水。
青く光る滝壷。
つづら折りの峠道。
そしてシダ植物のひとつ、ハイコモチシダは
別名ジョウレンシダとも呼ばれ、
本州では伊豆、浄蓮の滝付近で自生が確認されている。
明治生まれの俳人、秋元不死男は
この場所がたいそう気に入ったようで
何度も訪れ、多くの句を残している。
これは昭和49年2月11日の作。
葛折の 東風の峠に 影日向
(つづらおりの こちのとうげに かげひなた)
秋元不死男は語る。
俳句とは、ものに執着し、もので終わる、沈黙の文芸である。
そのとおり、早春の伊豆天城には、ものたちの優しい光が溢れている。
佐藤延夫 11年01月01日放送

ある正月/芥川龍之介
酒が嫌いで、風呂も嫌い。
生ものは一切食べず、
ハマグリなどの貝類も受け付けない。
芥川龍之介は、作家であると同時に、偏食家でもあった。
唯一、好んで食べたのは、
鰤の照り焼きだったそうだ。
そんな芥川家のお正月。
小松菜、大根、里芋、くわい、タケノコ、鳥肉を並べ、
お雑煮は、切り餅を焼かずに、お湯で煮る。
驚くほど質素だが、
大晦日の晩には、昆布と小梅を入れたお茶を、福茶と呼んでたしなんだ。
新しい年に、福が来るように。
誰もが思う小さな願いは、この偏屈そうな男の心にも、ちゃんとある。

ある正月/高浜虚子
俳人、高浜虚子は長生きだった。
三十歳まで命があればいい、と思っていたそうだが、
実際は八十五歳で生きたし、そのあいだも俳句を詠み続けた。
晩年になっても正月を迎えるたびに、自分の気持ちを言葉にした。
揺らげる歯 そのまま大事 雑煮食ふ
酒もすき 餅もすきなり 今朝の春
斯くの如く 只ありて食ふ 雑煮かな
最後の句は、八十三歳の作。
高浜虚子先生、どうやらお雑煮がお好きだったようで。

ある正月/折口信夫
源氏物語の一節。
「いとかたかるべき世にこそあらめ」
この言葉を、
「なるほど世間はむずかしい」
そう訳したのは、民族学者の折口信夫だ。
古典の口語訳を喜んで引き受けたのは、
同居する弟子たちの食事代を捻出するためだったという。
正月になるとさらに多くの弟子が集まるので
築地市場や百貨店をまわり
おでんの具に高級ハム、合鴨などを買い漁った。
弟子のひとりは、のちにこう語っている。
食べ物にかけては掏摸のように敏捷で貪欲な先生だった。
なるほど、世間は難しい。

ある正月/南方熊楠
生物学者、南方熊楠。
この人は、学者というよりも
野生児と呼んだほうが、しっくりくる。
普段は服など着ずに裸で暮らし、酒は浴びるように飲む。
ビールなら1ダース。
日本酒は茶碗でがぶがぶと飲んだ。
武勇伝も多い。
アメリカでは、得意の柔道で不良たちを投げ飛ばし、
イギリスの大英博物館に勤めていたころには
侮辱した白人を殴り倒し、入館禁止になった。
その反面、驚くべき記憶力を持つ。
読み漁った本の内容を鮮明に覚えており、
家に帰ってから完璧に写し書いた。
語学力も堪能で、十数カ国語を話したという。
そんな熊楠のお正月。
おせち料理とお雑煮を好んで食べたが、
「おめでとう」という言葉は禁じていた。
命が縮まるのに、なにがめでたいか。
なにからなにまで破天荒なこの男。
のちに民族学者の柳田國男が、
熊楠を「日本人の可能性の極限」と喩えたのも、よくわかる。

ある正月/柳田國男
食事を味わうよりも、
この人は、食事を調べるほうが好きなのではないか。
民族学者、柳田國男の本をめくると、
ついそう思えてくる。
彼自身も美食を嫌い、質素な食事を好んだ。
正月にまつわる食べ物の記述は多いが、
美味しそうな話はなかなか見つからない。
たとえば鏡餅については、このように記している。
鏡餅の“カガミ”とは、各人に平等に向けられる鏡で、
ここに食物分配の本来の意義があるとする。
なるほど。
お正月から、背筋がぴんと伸びました。

ある正月/小泉八雲
日本人は立派な文明を持っていながら、
好んで野蛮人の真似をしたがる。
明治時代、欧米の文化に心酔する日本国民を
そう言って批判したのは、小泉八雲だ。
日本人よりも日本人らしいこの男は、
お正月のしめ飾りを気に入り、
一月の末までそのまま飾り続けていたそうだ。

ある正月/幸徳秋水
明治時代の思想家、幸徳秋水。
日露戦争に異を唱え、鋭い論調で政府を批判したが
彼そのものは呑気な性格であり、
私生活では酒と女。放蕩に身を任せていた。
昼酒をあおり大切な帽子をなくす。
給料を前借りして飲みまわる。
そんなことを繰り返すと、
年の暮れには一銭も残らない。
家計にまわす金はなく、
母や妻に対し、不孝の子にして不仁の夫なりき、と自らを戒めている。
幸徳秋水の、ある元旦。
大逆事件の首謀者として疑われ、
獄中で最後の正月を迎えた。
友人への手紙には、こうつづられている。
弁当箱を取り上げると、急に胸が迫ってきて数滴の涙が粥の上に落ちた。
僕は始終、粥ばかり食ってる。
この数日後、死刑を宣告された。
今年は、それからちょうど100年。
のどかな正月を送れるのは、本当に幸せなことだと思う。
心配事は、いろいろあるけれど。






















