2010 年 5 月 16 日 のアーカイブ

薄景子 10年05月16日放送



走る人 小出義男監督

走ることが、好きで好きでたまらなかった。
高校卒業後、農業の道を歩んだものの、
マラソンへの思いは断ちきれず。
苦学の末、走りつづけるために大学に入った。

小出義男。
その名は、陸上選手としてよりも
高橋尚子や有森裕子をメダリストに育て上げた
名監督として知られる。

選手をのばす言葉を知り尽くした小出監督には、
こんな名言がある。


 牛乳を飲む人より牛乳を配る人のほうがよっぽど丈夫だ。

薬やサプリメントに頼るより、
移りかわる空の下を走ることで
健康を手にいれる人をふやしたい。

小出監督が夢みた「銀座マラソン」は
のちに都知事によって「東京マラソン」として実現した。



走る人 間寛平

マラソンとヨットで
地球を一周する、アースマラソン。
この、人類初のとてつもない試みに、
ひとりのコメディアンがチャレンジしている。

寛平ちゃんこと、間寛平、60歳。

心臓疾患を克服するために走りはじめ、
陸上選手並みの強靭な心臓を手にいれた。
世界中のマラソン大会に出場すること70回以上。
いまや3万6千kmの地球一周をめざす男だ。

しかしスタートから約1年、トルコで癌が判明する。
治療しながらマラソンは継続できる、と医師に告げられ、
「めっちゃ嬉しい」と語った寛平ちゃん。

その後、このアースマラソンを必ず完走するために
2か月間治療に専念することを決意。
現在アメリカで療養にはげんでいる。

そんな寛平ちゃんの言葉は、
いつも前を向いている。


 走らんでも、毎日、歩けばいい。

きのうより、気持ちが1㎜でも前進していれば
いつかゴールにたどり着く。

天性のボケでお茶の間を笑わせた一芸人は
いま、自分と地球と向き合うことで
日本に勇気を送りつづけている。

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熊埜御堂由香 10年05月16日放送



走る人 谷口浩美


 「こけちゃいましたぁ。」

彼の笑顔に、
日本中のお茶の間が、ほんわかした。
1991年の世界陸上、金メダリスト谷口浩美。
翌年のバルセロナ五輪で、転倒する。
20人抜きを見せるが結果は8位。

くやしさも、あったはず。でも笑った。
谷口は現在も、マラソン界で、
日本人男子として、唯一の金メダリスト。

彼は言った。


 踏まれても踏まれても、雑草のごとく。

ずっこけた笑顔は、谷口の強さの証にちがいない。



走る人 鬼塚喜八郎

昭和26年、夏。ひらめきは、
キュウリとタコの酢の物からもたらされた。

鬼塚喜八郎。
シューズブランド
オニツカタイガーの創始者だ。

タコの足の吸盤にヒントを得た靴底の
鬼塚式バスケットシューズを考案。
全国を営業して走り回り、ブランドを育てていった。

やがて、東京オリンピックのときには
オニヅカタイガーのスポーツシューズを履いた選手が
計46個のメダルを獲得し
オニヅカの名前はさらに高まった。

彼は言った


 「持てる力を一点に集中させれば、必ず穴があく。」

突破していくひとは、迷わずに走り続けられるひと。

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石橋涼子 10年05月16日放送



走る人 ジョイス・キャロル・オーツ

小説家とは、
酒とたばこを好み、不摂生で、破滅的。

なんてイメージは古臭いけど、
毎日ジョギングを欠かさない小説家、
というのも、ちょっと意外だ。

書くことと、走ることをこよなく愛する女流作家、
ジョイス・キャロル・オーツは、こう語る。


 静かにきちんと仕事をしている人のことは
 あまりニュースにはならない

確かにそうでした。



走る人 今井譲二

年間36試合に出場、打席数はゼロ。
というふしぎな記録を持つ野球選手をご存知だろうか。

今井譲二。

彼のポジションは、代走。
仕事は、ピッチャーから盗塁を奪うこと。
打たず、守らず、ただ、走ることを極めた野球選手。

投手のビデオを集めて研究し、
あらゆる投球の瞬間のクセを覚えた。
ピッチャーは、今井が走る、と分かっていても
彼を止められなかったという。

試合の終盤、彼の名前が呼ばれると、
大人も子どもも、バッターボックスよりも
片足を塁に乗せた今井の方が気になった。

ある人は、彼をこう評した。


 箸にも棒にも引っかからない打撃と、
 ひたすらに速い足を持っている。

それは今井にとって、最高のホメ言葉。



走る人 あるトラック運転手

早朝の高速道路。
前を走る長距離トラックを見ると、
荷台にこう書かれていた。


 最大積載量、女房子どもが食えるだけ

あなたの仕事や、恋愛や、生活は、
重量オーバーになっていませんか?

何のために走り続けるのかを思い出すために
ときどき立ち止まるのも悪くない。

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厚焼玉子 10年05月16日放送



世界一遅いマラソン記録  金栗四三

日本のマラソンの父と呼ばれた金栗四三(かなぐりしそう)は
日本人初のオリンピック選手として
1912年のストックホルム大会に出場した。

試合当日のコンディションは最悪だった。
船と列車の長い旅、白夜での寝不足。
マラソンの当日は迎えが来ず、
試合の前に競技場まで走る羽目になった。

さらにその日は摂氏40度を超える記録的な暑さで
参加選手は次々にリタイア。
金栗もレース半ばに日射病で倒れてしまうが
このとき、なぜか彼の棄権は連絡されず
「日本の金栗選手はレース中に失踪」と記録されてしまった。

それから55年
75歳になった金栗四三のところに一通の招待状が届いた。


 「スウェーデンのオリンピック記念式典で
 あのときのマラソンをゴールしませんか」

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3という
世界一遅いマラソン記録はこうして生まれた。
1967年3月21日のことだった。
「長い道のりでした」と本人もスピーチしている。

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