2011 年 12 月 のアーカイブ

宮田知明 11年12月17日放送



幸せを運ぶ男/浅尾拓也

打率リーグ最下位。
今年、そんなチームをリーグ優勝まで導いた原動力は
まぎれもなくその層の厚い投手陣。

中でも、特に輝いていたのは、
セ・リーグMVP、
中日ドラゴンズのセットアッパー、浅尾拓也。

2011年は球団新記録の79試合に登板し、
防御率は0.41。

絶対的な安定感でドラゴンズに
リーグ優勝をもたらした彼のMVP受賞式。
そんな彼へのインタビューは、なぜか謝罪会見に。
そこには、浅尾らしい、
謙虚さがにじみ出ていた。

 吉見が取るもんだと思っていました。
 ボクが吉見の勝ちを2つ消してしまったので、
 本当は20勝してるはず。
 ごめんなさいって言いたいです。



幸せを運ぶ男/小林武史

Mr.Childrenをはじめ、
日本を代表する数々のアーティストを
スターダムに押し上げてきた音楽プロデューサー、小林武史。

NHKの番組で
アーティストとの接し方について、
意外にも「友達として」と答えた。

プロデュースする若いバンドのやりたい
路線ではない方向性を示した後、
彼はこんな言葉を使った。

・・・これは友人として言うんだけどね。

今のそのバンドは、殻を破った方がいいが、
でも、殻を破ったからと言って絶対成功するとは限らない。
だから、友人として、そのことを言う、ということ。

相手が若いアーティストだからと言って、
上から押しつけるわけではない、
そのフラットな「友人」としての一言が、
アーティストの心に届くのだろう。

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インターホンでしゃべる猫

インターホンに向かってしゃべっているように見えた。
ピンポーン
ご主人はまだお帰りにならないでしょうか…

またしても自転車を止めて観察した。
またしてもしばらくすると
道の向こうから男の人があらわれ
猫はその人に向かってうれしそうに尻尾を立て
「おかえりなさ〜い♪」と走っていった。

なるほど…(さ)

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東京タワーラジオCMコピー募集

2008年にスタートしたTOKYO TOWER×J-WAVEのコラボ企画
「TOKYO TOWER STORY」
第4弾となる今年は、東京タワーのラジオCMコピーを募集します。

東京とその近郊の都市生活者に
半世紀に渡って東京のシンボルとして確立してきた「東京タワー」を
再発見してもらえるようなコピーを考えてください。

審査員には放送作家、脚本家、
ラジオパーソナリティとして活躍中の小山薫堂氏を迎え、
ご応募いただいたラジオCMコピーを元に実際にCM制作し、
オンエアします。

CMの秒数は40秒、締め切りは2011年12月18日です。

詳細及び応募はこちらから
https://www.j-wave.co.jp/special/1112_tokyotower/

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蛭田瑞穂 11年12月11日放送

旅する作家村上春樹①

1986年の秋、村上春樹は突然日本を離れ、ヨーロッパへ旅立った。
半ば衝動的に旅に出た時の心境を、
村上春樹は太鼓の音という比喩的表現を用いて、こう綴っている。

 ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、
 その太鼓の音は響いてきた。とても微かに。
 そしてその音を聞いているうちに、
 僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。

遠い太鼓に誘われて、村上春樹は旅に出た。
それから丸3年、彼は妻とふたりでヨーロッパを流離い続けた。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹②

1986年秋から1989年秋まで、村上春樹は長い旅に明け暮れた。
ローマを拠点としながら、ヨーロッパの各地を転々とした。
こうした異国の生活を村上春樹は「常駐的滞在者」と自ら呼んだ。

その間、村上春樹は集中して小説を書いた。
『ノルウェイの森』はギリシャで書きはじめ、
シシリー島に移り、ロンドンで完成させた。

『ダンス・ダンス・ダンス』は大半をローマで書いて、
最終的にロンドンで仕上げた。

のちに村上春樹はこれらの作品に関して、こう述べている。

 このふたつの小説には
 宿命的に異国の影がしみついているように
 僕には感じられる。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹③

村上春樹が1990年に出版した『遠い太鼓』は、
1986年から1989年までヨーロッパを旅していた間の
生活を綴った長編エッセイである。

外国でいう本格的な「トラベル・ライティング」で、
彼の好きな作家ポール・セローが書いた旅行記に近い。

3年の間に、村上春樹は妻とふたりで、ヨーロッパを転々とした。
イタリア、ギリシャ、イギリス、フィンランド、オーストリア。

慣れない異国の生活は予想外の出来事の連続だった。
ミコノス島では吹き荒れる冬の風に悩まされ、
シシリー島では車の騒音に辟易し、
ローマでは路上駐車と郵便事情に振り回され、
ロンドンではイギリス英語に手を焼いた。

それでも、村上春樹は『遠い太鼓』のあとがきでこう綴っている。

 旅行というのはだいたいにおいて疲れるものです。
 でも疲れることによって初めて身につく知識もあるのです。
 くたびれることによって初めて得ることのできる喜びもあるのです。
 これが僕が旅行を続けることによって得た事実です。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹④

旅とはいったい何か。

かつて村上春樹は3年もの間日本を離れ、
ヨーロッパの各地を旅してまわった。
その旅を一冊にまとめた『遠い太鼓』という本の最後で
村上春樹はこう書いている。

 僕はふとこういう風にも思う。
 今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、
 僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか、と。
 そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。

村上春樹によれば、旅とは人生そのもの。
その意味においては、人は誰もが旅人なのである。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹⑤

村上春樹はかつてウイスキーをめぐる旅をした。

スコットランドのアイラ島を訪ね、
世界的に名高いシングルモルトウイスキーの蒸留所を見学した。
それからアイルランドに渡り、町なかのバーにふらっと入り、
アイリッシュウイスキーを心ゆくまで堪能した。

旅のあと、東京に帰った村上春樹は、
いきつけのバーでウイスキーを飲む度に、
そこで見た風景を懐かしく思い出したという。

緑の草をなでつけながら、丘を駆け上がって行くアイラ島の海風。
あるいは、アイルランドの小さな町のパブに流れる親密な空気。

そして村上春樹はこう綴る。

 旅行というのはいいものだなと、そういうときにあらためて思う。
 人の心の中にしか残らないもの、
 だからこそ何よりも貴重なものを旅は僕らに与えてくれる。
 そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるものを。
 もしそうでなかったら、いったい誰が旅行なんかするだろう?

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹⑥

村上春樹が初めてトルコを訪れたとき、
彼を引きつけたのはそこにある空気だった。
他のどことも違う不思議な空気がトルコにはあった。
そのことを村上春樹はこう綴っている。

 旅行というのは本質的には、
 空気を吸い込むことなんだと僕はそのとき思った。
 おそらく記憶は消えるだろう。
 絵はがきは色褪せるだろう。
 でも空気は残る。少なくとも、ある種の空気は残る。

7年後、そのとき感じた空気を確かめるように、
村上春樹はトルコを再び訪れる。
そのために車の免許を取り、初歩的なトルコ語もならった。
そして頑丈な車を一台借りて、21日間でトルコ全土を一周した。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹⑦

旅先で多くの人は写真を撮る。
そこで見た風景を、ずっと記憶に残すために。

しかし、できあがった写真を見て、
旅先で実際に感じた印象と大きな隔たりがあることも多い。
「こんな感じじゃなかったはずだ」というふうに。

村上春樹はいう。

 残念ながら、僕らの写した写真が、僕らの目にした風景の
 特別な力を写し取っていることは、極めて稀である。

でも、それも悪くないことだと村上春樹は続ける。

 僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、
 過ぎ去って、もうニ度と戻ってくることのないものなのだから。

村上春樹、作家は旅をする。

旅する作家村上春樹⑧

村上春樹はいう。

 僕は旅行というものがあまり好きではない。
 旅行というのはそもそも疲れるものだ。
 疲れるように出来ているのだ。

そしてこう問いかける。

 それでもあなたは旅に出る。それでも僕も旅行に出る。
 何のために?

村上春樹によれば、それはこういうことである。

 たぶん僕らはそこに自分のための風景を見つけようとしているのだ。
 そしてそれはそこでしか見ることのできない風景なのだ。
 どれほど使いみちがなかったとしても、
 それらの風景を僕らは必要としているのだし、
 それらの風景は僕らを根本的にひきつけることになるのだ。

かくして人は旅に出る。
自分だけの特別な風景を探しに、旅に出る。

(ex)旅する作家村上春樹⑨

1995年の阪神淡路大震災の2年後、
村上春樹は西宮から神戸までをひとり歩いた。

そこは村上春樹が幼少期から10代の大半を過ごした場所である。
しかし、被災した実家はすでにその土地を離れ、京都に移っていた。

家という具体的な絆を失った「故郷」が自分の目にどう映るのか、
そして、自分の育った町に震災がどのような影響を及ぼしたのか、
それを自分の目で確かめるために村上春樹は歩いた。

観光名所に行くことだけが旅ではない。
僻地に行くことだけが旅ではない。
旅とは極めて個人的な体験。
だからこそ人はどんな場所にでも旅することができるのだと、
村上春樹は教えてくれる。

村上春樹、作家は旅をする。

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佐藤理人 11年12月10日放送



ランス・アームストロングの『母』

 病気で死ぬこととレースで負けることは、
 私にとっては同じことだ。

そう言って癌を克服した後、
世界最大の自転車レース『ツール・ド・フランス』で
前人未到の7連覇を成し遂げた男がいる。

ランス・アームストロング。

その不屈の精神を養ったのは、
幼い頃母に言われたこんな一言だった。

  あらゆるマイナスをプラスに変えなさい。
  昔の傷や屈辱は張り合うエネルギーの元になる。

この世で一番大切な人の名を聞かれると、
彼は真っ先に母の名を挙げるという。



ランス・アームストロングの『癌』

癌を乗り越え、『ツール・ド・フランス』で
史上初の7連覇を成し遂げた男、ランス・アームストロング。

病魔が彼を襲ったのは弱冠25歳の時。
当時彼は世界ランクで1位を獲得し将来を大いに期待されていた。

しかし医師が下した診断は残酷だった。
病名は精巣腫瘍。既に肺と脳にも転移しており、生存確率は50%。

ベッドの上でランスは毎日自分に問い続けた。

  もし生き残れるとしたら、
自分は一体どんな人間になりたいのか。

そして彼は過酷な化学療法と脳の手術を受け、
プロの自転車選手として生き続ける道を選んだ。

復帰後、彼は

癌は僕の人生に起こった最良のことだ。

と語った。

主治医が後に語ったところによると、
彼の生存確率は実はたったの3%だったという。



ランス・アームストロングの『山道』

癌から生還し、世界で最も過酷な自転車レース
『ツール・ド・フランス』で史上最多の7冠に輝く男、
ランス・アームストロング。

彼が特に強さを発揮したのは山道のコースだった。
従来の重いギアをゆっくり踏む走り方とは正反対の、
軽いギアでペダルの回転数を上げる走法で、
ランスは2位とのタイム差を積極的に広げた。

後にこの走り方は、
エネルギー効率や筋肉への負担軽減の点で優れていることが証明されたが、
彼の強さの秘密は、何と言っても癌との闘病で得た強靭な精神力だった。

闘病生活を振り返って、彼は言う。

僕には自分の人生全体が見えた。それは単純なことだった。
僕の人生は長くつらい上り坂を上るためにある。



タッカーの『アメリカンドリーム』

1945年、春。
第二次世界大戦の勝利を目前に控え、
アメリカのルーズベルト大統領はある決断をした。

増えすぎた国内の軍需工場を、
既存の大メーカーではなく中小企業に貸し出すというのだ。

どんな大企業も最初は無名の人物によって始まった。
  自由競争こそアメリカンドリームである。

ルーズベルトはそう考えた。

ミシガン州出身のカーデザイナー、
プレストン・トマス・タッカーもその恩恵に預かった一人だ。
かつては爆撃機のエンジンを製造していた
シカゴにある世界最大の工場を借りた彼には、

  理想のクルマを人々に提供したい。

という夢があった。

数年後、彼の夢は、当時の常識では考えられないほど画期的で、
時代を遥かに先取りしたクルマとして実を結ぶことになる。



タッカーの『トーピード』

1948年、ミシガン州出身のカーデザイナー、
プレストン・トマス・タッカーが作ったクルマは世間の度肝を抜いた。

未来的なデザイン、3つのヘッドライトによる安全性の確保、
アメリカ初の後輪駆動がもたらす運転性の向上など、
全てが当時の水準では考えられないほど先進的であった。
彼はそのクルマを「トーピード‐魚雷‐」と名付けた。

トーピードは発表されるや否や大反響を呼び、多くの問い合わせが殺到した。

しかしその出現を脅威に感じた、
フォード、GM、クライスラーのビッグ3は露骨な妨害工作を開始。
タッカーはありもしないクルマを売りつけたとして、
詐欺罪をでっち上げられ告訴されてしまう。

被告人となったタッカーは、裁判の最終弁論で訴えた。

  もし大企業が斬新な発想を持った個人を潰したなら、
  進歩の道を閉ざしたばかりか自由という理念を破壊することになる。
  こういう理不尽を許せば、いつか我々は世界のナンバーワンから落ち、
  敗戦国から工業製品を買うことになるだろう。

翌年、タッカーは無罪を勝ち取ったが、会社は倒産。
トーピードはわずか51台しか生産されず、幻の名車となってしまった。

しかしそのうちの47台が今も現役で走り続けていることは、
タッカーの先見性がいかに高かったかを証明している。

最終弁論でタッカーがした予言は、
やがて日本車とドイツ車の台頭により現実のものとなった。



ミッキー・ロークの『レスラー』

80年代、セックスシンボルの名を欲しいままにした俳優ミッキー・ローク。
しかしその後は薬物中毒や整形手術の失敗などゴシップばかり。
キャリアも私生活も、ルックスまで失った彼のもとに、
ある日一本の脚本が届いた。

50を過ぎても現役を続けるかつての人気レスラー、ランディ。
家族には見放され、長年の無理とドラッグで体はぼろぼろ。
心臓発作を起こし、医者から廃業を勧告される。命の危険がある、と。
引退して私生活を立て直そうと試みるランディ。しかしうまくいかない。

やがて彼は自分にはプロレスしかないことを悟り、
命と引き換えにかつての輝きを取り戻そうとする。

まるで自分の人生のような話に、ロークの心は昂ぶった。
もしこの仕事をしくじったら、
オレは俳優としても、人間としても終わってしまう。
10数年ぶりのチャンスに、ロークは死に物狂いでくらいついた。
夜遊びもきっぱりやめ、数か月に及ぶ厳しいトレーニングにも耐え抜いた。

結果、この映画「レスラー」はベネチア映画祭で最高賞を獲得、
ローク自身もアカデミー主演男優賞にノミネートされる快挙となった。

映画のラストでランディは

  あそこが俺の居場所だ。

と呟き心臓をおさえながらコーナーポストから跳ぶ。
果たして彼は死んだのか。それは誰にもわからない。

しかしロークは再びリングに舞い戻り、見事甦った。



AC/DCの『ベストアルバム』

全世界のアルバム総売上は2億枚を超え、
1980年に発表した「Back in Black」が、
マイケル・ジャクソンの「スリラー」に次いで
歴代2位の売上記録を持つ
オーストラリア出身の世界的ロックバンド、AC/DC。

40年近く第一線で活躍し続けてきた彼らだが、
意外にもまだやったことのないことがある。

ベストアルバムを出したことがないのだ。

その理由をフロントマンのギタリスト、
アンガス・ヤングに尋ねると、

  ファンが持っている曲を
もう一度買わせるようなことはしたくないし、
  アルバムそれぞれに個性があるから
それを壊すような売り方はしたくないんだ。

と、何とも律義な答が帰ってくる。

世界一のロックバンドは、世界一ファン想いでもある。

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寝笑いするハエタロー

寝笑いだ、これは完璧に寝笑いだ、と思った。

猫だって寝言を言う。
うわ〜ん、むにゃむにゃ…な〜〜お
何を言ってるかよくわからないが
ともかく何かしゃべっているのでそっちを向くと寝ている。

人間は寝言のほかに寝笑い、寝怒りもある。
寝笑う人は寝ながら
「誰か笑ってやがるぜ、うるせ〜な」
と思って目が覚めると、自分の笑い声だったりするそうだ。

写真の猫はハエタローだが
この顔を見るに、
どうも声を出さずに笑っているような気がしてならない。
命取りの病である歯肉炎で
私にさんざん厄介をかけているくせに
まことにノーテンキな猫ではある(玉子)

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5匹の猫の腹時計

ある日、ご近所の玄関に5匹の猫が陣取り
玄関をじっと見つめていた。
なかにはドアをひっかく猫もいた。

たいへんたいへん、みんな閉め出されているのね…と思った。
散歩する猫は帰ってくるとドアの前に座って待つのだが
鈍い飼い主にはなかなか気づいてもらえない。

ピンポーン
チャイムを鳴らした。
その家の住人が窓から顔を出した。
「猫が待ってます」と教えた。
やがてドアが開き、餌皿を持ったおばさんが出てきた。

この猫はみんな外猫で
一日に一度、午後3時に餌をあげているそうだった。
閉め出されたのではなく、ご飯の催促をしていたのだ。
携帯で時間を見ると午後3時をちょっとまわったところだった。

猫の腹時計は正確だ。
しかも、全員が餌に気を取られていたので
カメラを向けても誰も気にしなかった(玉子)

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五島の魚屋さんに対抗して

青森の陸奥湊の朝市の光景です。

こちら八戸のみろく横丁という屋台の飲み屋街。

http://www.01-radio.com/tcs/columnindex/tohoku

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三島邦彦 11年12月04日放送



男たちは旅をする/ 安藤忠雄

大阪から四国に渡り、九州、広島を巡って北上、東北へ。

建築家、安藤忠雄は20代のはじめ、旅に出た。
目的は、建築を見ること。

民家から県庁まで大小様々な建築の、
写真ではわからない細部を見て、
建築という仕事の面白さを味わった。

安藤は言う。

 自分の思いを投げかけるのにこれほどすばらしい仕事はないなと思いました。



男たちは旅をする/ パウル・クレー

画家は時に、光を求めて旅をする。

スイス生まれの芸術家パウル・クレー。
30代半ばにして画家としての限界を感じていた彼は、
仲間とともに旅に出た。

行き先は、北アフリカのチュニジア。
彼が求めたものは、パリにはない光だった。
地中海の光が照らす小さな町で、
ついに、クレーは自分にとっての理想的な色彩を見つけた。
それはクレーにとって、画家としての希望の光であった。
当時のクレーの日記に、こんな一節がある。

 色彩が私と一体になった。私は画家なのだ。



男たちは旅をする/ 伊丹十三

1965年、一冊の本が日本の若者に大きな衝撃を与えた。
その本の名は、『ヨーロッパ退屈日記』。
作者の名前は、伊丹十三。
当時俳優だった彼が、外国映画に出演しながら
パリやロンドンで暮らした日々の見聞をまとめた、
一冊のエッセイである。

まだ海外旅行が一般的でない時代。
スパゲッティの正しいゆで方、
アーティチョークという名前の野菜など、
伊丹が描くヨーロッパの姿は、一つ一つが新鮮だった。

そんな伊丹にとっても、
長い旅先の生活で、ホームシックと無縁ではなかった。
伊丹は、それが外国生活を仮の生活だと考えていることが原因だと考えた。
これは、そんな彼の言葉。

  なるほど言葉が不自由であるかも知れぬ。孤独であるかも知れぬ。
  しかし、それを仮の生活だといい逃れてしまってはいけない。
  それが、現実であると受けとめた時に、
  外国生活は、初めて意味を持って来る、と思われるのです。

『ヨーロッパ退屈日記』。
この本には、伊丹がヨーロッパと格闘しながら得た知恵が詰まっている。

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中村直史 11年12月04日放送



男たちは旅をする/咸臨丸の水夫たち

咸臨丸と聞いて、何を思い浮かべるだろう。
咸臨丸。江戸幕府の威信をかけて、太平洋を横断した船。

真っ先に浮かぶ名前は、艦長勝海舟。
同乗者に福沢諭吉、ジョン万次郎。
いずれも、帰国後日本の礎を築いた人々だ。

けれど、日本に帰れなかった者たちもいた。

苗字も持たぬ咸臨丸の水夫たち。
長崎出身の峯吉(みねきち)、香川出身の富蔵(とみぞう)、
そして源之助(げんのすけ)。

夜明け前の日本の夢を乗せて運び、
旅先で静かに息を引き取った3人の水夫。
歴史の試験に出てくることはないけれど、
文明開化の立役者である。



男たちは旅をする/司馬遼太郎

「アメリカに行きませんか」
新聞社の企画として、アメリカの紀行文の依頼を受けたとき、
司馬遼太郎は「とんでもない」と思った。
自分にとってのアメリカは映画や小説の中で十分。
安易に知らない国に出かけるのはどうも気が進まない。
けれど、友人のつぎの一言で、なぜか気持ちが変わる。

 アメリカという国がなければ、この世界はひどく窮屈なんでしょうね。

司馬遼太郎は思った。
日本をふくめ、世界の人々はその国独自の「文化」に
いつの間にか、がんじがらめになっている。

そんな「文化」の対極にあるのが、アメリカが生み出している「文明」なのではないか。
ジーンズしかり、ハンバーガーしかり、ポップミュージックしかり、
どんな文化にも受け入れられるフォーマットが「文明」。
アメリカは歴史上久々に現れた巨大な文明発生装置だ。

興味がわいた。
少しだけ安易な気持ちになれた。
行ってみるか。

その心変わりがあったおかげで、私たちは、
名著「アメリカ素描」を読むことができる。

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