2012 年 10 月 のアーカイブ

村山覚 12年10月27日放送



起業家という生き方 菊池武範

菊池武範は明治28年に愛媛県で生まれた。
家は裕福で、父は実業家だった。

しかし武範が12歳の時、父が事業に失敗。
病気で寝たきりになった。
武範は大阪に奉公に出て、朝から晩まで働いた。
食事はいつも一番最後。冷えた麦めしを食べながら、思った。

「熱いお茶が飲みたい」

その体験を元に彼は魔法瓶をつくる会社を起こし、
美しさと強さを追求した「虎印魔法瓶」を発売した。

後に「タイガー魔法瓶」となるその製品は
関東大震災でも壊れなかったほどで、たちまち人気商品となった。

はじまりは、一人の少年のちいさな願い。
彼の「魔法」で日本中の食卓が変わった。

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村山覚 12年10月27日放送



起業家という生き方 カーネル・サンダース

ハーランド・サンダースが
ガソリンスタンド兼レストランを開業したのは、
40歳になった頃だった。

持ち前のサービス精神とこだわりの味で
店は大繁盛したが、その後、火災で焼失。

彼は自動車にスパイスと圧力鍋を積み込んで、
レストランの看板メニューだった
「フライドチキン」のレシピを売り歩いた。

行く先々で断られ、
やっと契約にこぎつけたのは、なんと1010軒目。
チキンが1本売れると、4セントの報酬。
それは世界初のフランチャイズ契約だった。

やっとの思いで再建した自分のお店は、
近くにハイウェイができたせいで売却。
ほぼ無一文になった65歳の老人は
フランチャイズビジネスに本腰を入れた。

彼が90歳で亡くなった時、
店舗数は世界各国で、6000店に達していた。
カーネル・サンダースはこう言った。

「いくつになったって、自分の人生を
 より価値あるものにするための努力をするべきだ」

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藤本宗将 12年10月27日放送



起業家という生き方 田辺茂一(もいち)

田辺茂一は、備長炭を商う「紀伊國屋」の跡取りとして生まれた。

家業を継ぐのが当たり前の時代だったが、
本に魅せられた田辺は
炭を売る傍らで「紀伊國屋書店」を創業する。

長い戦争の時代に大きな被害を受けたが、
田辺は事業を諦めなかった。

戦後豊かな時代がやってくると、
劇場をつくり文化を発信した。

こうして日本一の書店をつくりあげた彼に、
あるインタビュアーが言った。

「炭屋の片隅で始めた本屋が日本一の本屋になるなんて、
 そんな時代というのはもう来ないんでしょうねえ」

田辺はこう応えた。

「何でも時代のせいにしてりゃあ、そりゃあ楽だわな」

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藤本宗将 12年10月27日放送


kevin dooley
起業家という生き方 カール・ツァイス

19世紀初頭、
ドイツに生まれたひとりの少年が
ガラス職人の弟子として
レンズの製造を手伝いはじめた。

高熱でガラスを溶かし、
固まったら根気よく手で磨きあげる。
寝る間も惜しむ師匠の姿に、彼は学ばなかった。

勘と経験に頼る限界を悟り、
大学の聴講生として
数学や物理学、鉱物学などを学んだのだ。

そして30歳のときに起業。
社名は、彼自身の名をとって、カール・ツァイスといった。

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藤本宗将 12年10月27日放送


uskidz
起業家という生き方 ニコラス・G・ハイエック

ニコラス・G・ハイエックが時計の製造に乗り出したのは、
スイスの時計産業が死にかけていたときだった。

コンサルタントであった彼は、
日本製の時計の台頭で危機に瀕したスイス企業を
引き継ぐかたちで新会社を起こしたのだ。

そして1983年。彼は新製品を送り出す。
それはスイス伝統の高級機械式時計とはまるで違ったものだった。
プラスチックのボディーに、部品は従来の半分しかない。

「スウォッチ」と名付けられたその時計は、
斬新なデザインで半年ごとに新作を発表。
1つのモデルは1シーズンかぎりの販売とされた。
ハイエックは時計を、ファッションに変えたのだ。

ビジネスに勝つ秘訣を、彼はこう述べている。

「時間を無駄にせずに、予定を立てて行動すること。
 ただし、予定表をすべて埋めてはいけない。
 それでは独創力が死んでしまう」

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澁江組 2013年から参戦

2013年、渋江組参戦いたします。

組長:澁江俊一
組員:松岡康
組員:磯部建多
組員:奥村広乃

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三島邦彦 12年10月21日放送


Jonas Hansel
おいしいはなし / 荒木水都弘(あらき みつひろ)

日本一予約のとれない鮨屋、「銀座 あら輝」。
店主・荒木水都弘は、
孤高な芸術家のように鮨と向き合う。
そして語る。

 何かを成し遂げたいと思うならば、
 完璧に孤独にならなければいけないんじゃないでしょうか。
 やはり、ひとりで崖っぷちに立たなくては
 見えてこない世界ってあるんだと思います。

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三國菜恵 12年10月21日放送



おいしいはなし / 狐野扶実子(この ふみこ)

その料理は「社交界のステータス」と呼ばれる
出張料理人、狐野扶実子。
彼女の最初の料理の先生は、
「じじ」と呼んでいた、祖父の弟にあたる人だった。

「じじ」はお酒のおつまみをよくつくった。
その過程が、幼い扶実子の目にはまるで魔法のように映っていたという。

たとえば、いかのおなかに手をつっこむと、
足と一緒にするすると内臓まで抜けて来る。
その足をざくざくと切り、塩をふりかけ、内臓とまぜ合わせると、
不思議な味わいの塩辛ができあがる。

彼女は語る。
そこには、どんな絵本にも描かれていない
一大スペクタクルがあったのだ、と。

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三國菜恵 12年10月21日放送



おいしいはなし / 向田邦子

子どものころは外食がごちそうだった。
けれど、大人になってみると、
実家の母の味が恋しくなるもの。

作家・向田邦子もそうだった。
コマ切れ肉の入った、うどん粉で固めたような母のカレー。
「いままでで一番美味しかったもの」を思いだすときは
いつも、このカレーが浮かぶと言っていた。

けれど、向田は
大人になってから「あのときのカレー、つくって」と
母にねだるようなことはしなかった。
そこには、こんな思いがあった。

 思い出はあまりムキになって確かめないほうがいい。
 何十年もかかって、懐かしさと期待で大きくふくらませた風船を、
 自分の手でパチンと割ってしまうのは勿体ないのではないか。

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三島邦彦 12年10月21日放送


Cult Gigolo
おいしいはなし / ループレヒト・シュミット

人生最後の食事には、何を食べたいですか。

ドイツのハンブルグにある「ロイヒトフォイヤー」というホスピス。
入居者たちが人生の最後の時を過ごすこの場所で、
料理長ループレヒト・シュミットは毎日、
その人にとって最後になるかもしれない料理を作っている。

入居者たちからは、記憶の中にあるおいしかったものを頼まれる事が多い。
若い入居者からハンバーガーとフライドポテトを頼まれることもあれば、
「思い出のスープを。」というリクエストも。
本人や家族からその味について詳しく話を聞き、
「この味じゃない」と言われては、何度も試行錯誤を繰り返す。

 その料理が複雑でも簡単でも、何度文句を言われようと、
 うまく作れるまでとにかくやるんですよ。
 後悔するのは全力を尽くせなかったときだけです。

「料理よりも人間としての修業になるといいかな。」そう言って、
ループレヒトは今日も厨房へと向かう。

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