2018 年 2 月 4 日 のアーカイブ

大友美有紀 18年2月4日放送

180204-01

「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド 私がやりました

ファッションデザイナー、パンクの女王、
ヴィヴィアン ウエストウッド。
学生時代、食事の時間、
先生がお喋りしていた生徒は立つように命じた。
ヴィヴィアンは、しゃべってもいないのに
「わたしです」と立ち上がった。

 名乗り出たことをほめられるんじゃないかと
 思ったの。案の定、先生はほめてくれたわ。

 
ヴィヴィアンは他の子も立ち上がると思ってた。
でも名乗り出たのは彼女だけ。
その時、自分が変わり者だと自覚した。
自ら危険にとびこもうとするところがある。
二度とこんなことはしない。
でも、そうはいかなかった。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-02
CucombreLibre
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド キリスト像

ファッションデザイナー、パンクの女王、
ヴィヴィアン ウエストウッド。1941年生まれ。
今年77歳。最近は環境保護活動にも力を入れている。
5歳のとき、生まれて初めてキリストの磔の像を見た。
キリスト誕生のことは知っていた。
釘で十字架に磔にされたことは知らなかった。

 世の中にあんなひどいことをできる人間が
 いるなんて信じられなかった。
 自分なら絶対人にやらせないし、
 自分にやれと言われたら命を絶つだろう。

 
ヴィヴィアンは自分の反応が特別だったことはわかっていた。
でも、世の中には悪意に満ちた人がいることを知り、
そうなりたくないと思っている自分に気づいた。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-03
Sulgenau
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド 美術学校

ファッションデザイナー、ヴィヴィアン ウエストウッドは、
第2次世界大戦後のイギリスで10代を過ごした。
当時、ヴィヴィアンが通っていた学校で
女の子が思いつく職業は4つしかなかった。
教師か美容師か看護師か秘書。
そんな時代、美術のベル先生との出会いがヴィヴィアンの人生を変える

 ベル先生と出会うまでわたしは美術館というものがあるなんて
 知らなかった。絵画の図録だって一度も見たことがなかった。
 先生がマンチェスターに美術館があることを教えてくれたの。
 もちろん画家のことは知っていたわよ。
 ミケランジェロとか。でもそういうものは個人が所蔵しているか
 教会にあるものだと思ってた。

先生は、ヴィヴィアンにスケッチをさせ、印象派の画法を教え、
スーラの点描画を見せた。無難な絵を描こうとしちゃダメとも教えた。
ヴィヴィアンはのびのびと自由に絵を描いた。
彼女が洋服のスケッチを描いていたとき、ベル先生は
才能があると言い、美術学校に進むべきだとアドバイスした。

そしてヴィヴィアンは、ハロー美術学校の試験を受け、合格した。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-04
themostinept
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド 弟の友だち

ヴィヴィアン ウエストウッドはハロー美術学校でたくさんのことを学んだ。
けれどすぐに学校を辞めてしまう。
芸術家として食べていけるはずがないと思い込んでしまった。
お金を稼げる仕事につくために学校に入りなおし、教師となった。
そして結婚し、子どもを授かり、離婚する。
ヴィヴィアンは実家に戻り、子育てをしながら働いていた。
弟の部屋には友だちがよく遊びにきていた。
それがマルコム マクラーレンだった。

 マルコムに会って、わたしは恋に落ちた。
 素敵な人だと思った。
 ハチャメチャなところがあったけれど、
 それでも彼のことをもっと知りたいと思っていた。

 
この出会いが、この二人が、パンクを誕生させることになる。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-05
brizzle born and bred
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド パンク

 わたしとマルコムがいなければパンクは決して生まれなかった。
 そして、もうひとつ知っておいてほしいのは、
 パンクとは完全なる爆発であること。

始まりはキングス・ロード430番地の知り合いの店だった。
マルコムは50年代のロックンロールのレコードを売っていた。
ヴィヴィアン ウエストウッドは50年代のスーツのレプリカを作って売った。
やがてアレンジを加えたTシャツを売りはじめる。
マルコムは音楽とアートが共存する場がファッションだと言った。
古いものを壊して新しいものをつくる。思想としてのファッション。
ヴィヴィアンは、Tシャツにチェーンやジッパーをつけ、
タバコで焦げ目をつけ、過激な図案や扇動的な文章をデザインした。
Tシャツは、カンバスだった。性と政治と芸術が出会う場所だった。

 当時のわたしの仕事は、そしてわたしが常にやってきたのは、
 体制と対峙して、自由はどこにあり、
 自分にはなにができるかを模索することだった。
 その取り組みを一番わかりやすく実践できたのが、
 Tシャツづくりだった。

閉塞的なムードに包まれていた当時のイギリスにとって、
憤怒と非道と怠惰が融合した表現は、若者たちの心に何かを訴えかけ、
やがてパンクとなっていった。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-06

「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド セックス・ピストルズ

マルコムとヴィヴィアンが生み出す
体制に対抗するアナーキー思想のファッションは
若者をとりこにした。
さらにマルコムは、音楽をセックス・ピストルズを
通じて体制をぶっ壊そうとしていた。
ヴィヴィアンは創作活動を通じてメッセージを伝えることに夢中になった。

 当時わたしがアナーキーの活動を支持したのは、
 若者たちに物事に立ち向かう勇気を与えられると
 思ったからよ。

反社会的なメッセージを込めた扇動的なファッションと音楽は
パンクという現象を生み出した。
その時、確かにカルチャーの潮目が変わった。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-07
UK in France
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド ファッションデザイナーとして

パンクは、イギリス、アメリカだけでなく、遠く日本にまで影響を及ぼした。
今でも、あらゆるカルチャーにパンクの名残を見つけ出すことができる。
その中心にいたセックス・ピストルズは、たった2年で燃え尽きてしまった。
そしてヴィヴィアンは、マルコム マクラーレンと訣別。
自覚を持ってファッションデザイナーへの道を歩みだした。
ネイティブアメリカン、アフリカ、18世紀フランスなどの要素を
取り入れたデザインを発表する。

 わたしの作る服には物語がある。
 アイデンティティがあるの。
 個性もあるし、目的もある。
 だから定番として長く愛されるのよ。
 わたしの服は時を超えて自分の物語を伝え続ける。

ヴィヴィアン ウエストウッドはパンクの女王から
クチュリエとしての地位を確立した。

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大友美有紀 18年2月4日放送

180204-08
Mattia Passeri
「カオス トゥ クチュール」ヴィヴィアン ウエストウッド カオス トゥ クチュール

2013年、ニューヨークのメトロポリタン美術館は
パンクの歴史をテーマにした「カオス トゥ クチュール」展を開催した。
ヴィヴィアン ウエストウッドのデザイン作品や
キングス・ロード430番地の店で売られていた商品のレプリカも展示された。

 ファッションが廃れることはないわ。
 なぜなら、制約の中で創造されるから。
 制約とはつまり、人間の身体のことよ。
 身体にあわせるという制約があるからこそ、
 ファッションは今も厳然と存在しているの。
 そこが他のジャンルの芸術と違うところね。

 
パンクの女王だったヴィヴィアン ウエストウッドは、
エリザベス女王から2度の叙勲を受けている。

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