2018 年 3 月 17 日 のアーカイブ

佐藤理人 18年3月17日放送

180317-01

豊臣秀吉「兵糧攻め」

豊臣秀吉は城攻めの達人だった。

1577年、播磨の別所長治を討ち取ったときのこと。
秀吉は食糧を買い占め、城を何重にも包囲した。

兵糧攻めは2年続いた。
城の兵はあまりの飢えに草や木をかじり、
壁の中の藁をむさぼり、人肉さえ食べた。

餓死者が1000人を超えたところで、
秀吉は城主の切腹を条件に降伏を許した。

合戦だけが戦じゃない。
味方の損害を出さず、敵の自滅を待つ。
それは農民出身の秀吉だからこそ選べた、
自由な戦い方改革だった。

今日は豊臣秀吉の誕生日。

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佐藤理人 18年3月17日放送

180317-02
金城典子
豊臣秀吉「王と玉」

将棋の「王将」という駒を作ったのは豊臣秀吉だった。

一般的に対局では格上が「王将」を、
もう一人が「玉将」を使用するのがルール。

しかし元はどちらも「玉将」だった。

将棋は本来、財宝を取り合うゲーム。
玉は金や銀と並んで「最高の宝石」を意味した。

しかし秀吉は部下に命じた。

 玉では宝という意味になってしまう!
 王にしろ!

どちらも同じでは混乱するという理由だったが、
そこには、

 王は二人いらない

という本音があった。

お金より名誉を選ぶ。
今日は豊臣秀吉の誕生日。

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佐藤理人 18年3月17日放送

180317-03

豊臣秀吉「禿げ鼠」

信長が秀吉につけたあだ名は猿ではなかった。

秀吉は妻の寧々を深く愛していたが、
無類の女好きでもあった。

側室13人は戦国武将中トップクラス。
見かねた寧々は夫の浮気癖を信長に直訴した。

後日、信長から寧々に手紙が届いた。

 そなたのように美しく立派な妻は
 あの禿げ鼠にはもったいない。
 だからつまらないよその女に
 嫉妬などするものではない。

さらに最後に、

 この手紙は秀吉にも見せること

と書いてあった。

文春砲ならぬ信長砲に、
秀吉はさぞ肝を冷やしたことだろう。

今日は豊臣秀吉の誕生日。

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佐藤理人 18年3月17日放送

180317-04
Komatta
豊臣秀吉「能」

豊臣秀吉の最後の趣味は能楽だった。

戦国時代、能は茶道に並ぶ武将の社交場。
秀吉は千利休に切腹を命じたのち、
その記憶を振り払うように能に没頭した。

武将自らが舞う能のことを

 大名能

という。その間は無礼講で身分の上下は問われない。

秀吉は徳川家康や前田利家に声をかけ、
3日間に及ぶ演能の舞台を開催。
自分でも16回も舞う熱の入れようで、
現代の「フェス」の先駆けとなった。

さらに彼は自分の一生を題材に、
その業績を褒め称える作品をいくつも作らせては、
自ら演じた。

足利義満や徳川綱吉など能を愛した権力者は数多い。
だが秀吉ほどエゴに踊らされた者は他にいない。

今日は豊臣秀吉の誕生日。

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佐藤理人 18年3月17日放送

180317-05
Rama
豊臣秀吉「槍」

1568年、新年会で織田信長が尋ねた。

 長い槍と短い槍、どっちが強い?

槍名人の上島主水は短い槍、豊臣秀吉は長い槍を選んだ。
二人は50人の足軽を率いて試合をすることになった。

主水の隊は3日間猛特訓を重ねた。
秀吉の隊は飲んで遊び呆けた。

当日、秀吉の隊は三方向から一気に襲いかかった。 
長い槍で突き伏せ、なぎ倒し、叩く。

個人戦ではなく団体戦に持ち込んだとき、
すでに勝負はついていた。

その後、秀吉と主水はよき友人になったという。

今日は豊臣秀吉の誕生日。

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