Posts Tagged ‘細田高広’

ライブ4 短編集

月曜日, 7月 19th, 2010

病室会話集
              日下慶太

明日から入院しても大丈夫。
病室のルームメイトとすぐにうちとけられる病院会話集。

今日から入院するクサカといいます。 よろしくお願いします。
今日から入院するクサカといいます。 よろしくお願いします。

どこが悪いのですか?
どこが悪いのですか?

わたしは腎臓が悪いです
わたしは腎臓が悪いです。

どれぐらい入院しているのですか?
どれぐらい入院しているのですか?

私はあと1ヶ月、入院しそうです。
私はあと1ヶ月、入院しそうです。

ごはんが来ましたね。
ごはんが来ましたね。

薄味ですね。
薄味ですね。

とんこつラーメンが食べたいですね。
とんこつラーメンが食べたいですね。

タバコが吸いたいですね
タバコが吸いたいですね

いびきがうるさかったらごめんなさい。
いびきがうるさかったらごめんなさい。

それでは、おやすみなさい。
それでは、おやすみなさい。

(読んだ人:大川泰樹・高田聖子)

変な奴。
            細田高広

変わった友人がいる。
愛読書は時刻表。いわゆる「鉄オタ」だ。

その彼と旅をした。列車に揺られて3時間。
辿りついたのは、聞いたこともない小さな駅。
電車を降りると、友人は早速シャッターを押し始めた。
こんな何もない駅の、何もない風景の、何が面白いのか。
つくづく変な奴だ。
退屈の予感がして、僕は旅を後悔した。

ところが、だ。1時間もして見えてきたのだ。
ぼろぼろの駅舎。駅長室の古い電話。
古びたレール。キラキラ光る水田。遠くには、霞む山々。

なぜ僕には見えてなかったのだろう。
旅行ガイドにある風景だけが、見る価値のあるもの。
そう思ってなかったか。

友人は飽きずにシャッターを押している。
変な奴・・・。それは、
この風景を「何もない」と言った、僕の方かもしれない。

(読んだ人:坂東工)

「定義」
                 富田安則

6月になると、梅雨がやってくる。
梅雨とは、雨が多く降る季節。
ろくに雨が降らなくても、梅雨を梅雨と呼ぶ。
気象学上の定義は、きっとある。
それでも、月に何日以上、雨が降れば、梅雨といえるのだろうか。
そんな「普通」を、いったい誰が決めたのだろう。
人間の生活には、あらゆる「普通」が付きまとっている。
その「普通」を、気付けば誰も疑うことをしなくなっていく。
でも「普通」って、なに?
「普通」の幸せって、どんなカタチ?
結婚して、子供を育て、おだやかに年老いていく。
父や母の時代に、みんなが「普通」だと思っていた幸せが、
いまや「普通」に手に入れることはできない夢となっている。
やがて梅雨は明け、夏が「普通」にやってくる。
それは、とても「普通」のことだけど、
その夏は本当に「普通」の夏だと定義できるだろうか。

(読んだ人:坂東工)

「鏡」
           蛭田瑞穂

鏡は不思議だ。

鏡はどうして左右を逆に映すのに、
上下を逆に映さないのだろう。

アルファベットの「J 」を鏡に映すと、
ひらがなの「し」になる。
カタカナの「ヨ」は
アルファベットの「E 」になる。

どうして左右だけが逆になるのだろう。
鏡は不思議だ。

鏡が逆に映しているのは
左右ではなく前後である。
というのが鏡の不思議の正体なのだが、
その答えがすでに不思議だ。

みなさんの中で、
鏡の不思議を説明できる人はいますか?

(読んだ人:高田聖子)

ひねもすの暮らす国
           坂本和加

ええ、わたしはたしかに
ひねもすを見たことがあります。
と言いますか、
ある時期いっしょに暮らしていました。

ひねもすは、不思議な生きものです。
ペットと呼べるほどなつきませんし、
かといって、何かの役に立つことなどもありません。
ときどき何か良いことを言いそうですが、
ひねもすは言葉を持ちません。

それにひねもすは、
しまっておくものなのです。
ひとに自慢したりするような
ものではないのです。だけど、
たまにはかまってやらないと、ひねくれます。

ひねもすは、いつから
まぼろしになってしまったんでしょう。
写真、とっておけばよかったですね。

(読んだ人:大川泰樹)

「中国からの転校生」
中村直史

小学2年のころ
クラスに中国からの転校生がやってきました。
みんなの前で自分の名前をいったとき
「タン・タータン」と聞こえたのだけれど、
担任の先生が僕らにもわかるよう黒板にカタカナで書いた字は
「タン・タタン」でした。

タンくんは
日本語がしゃべれないせいもあってか
とてもおとなしかったのですが
朝、先生が出欠をとるとき
「タン・タタン」というと
まわりの何人かがつられるように
「タン・タタン」とつぶやきました。

タン・タタン、タン・タタン。
大人になったいまでも
朝、会社へと歩いているときに
タン・タタン、タン・タタンとつぶやくことがあります。
少し気分が良くなります。

タンくんはお父さんの仕事の都合だとかで
数か月で中国に帰りました。
僕が今でも彼の名前をつぶやいていることを
彼はもちろん知らないと思います。

(読んだ人:大川泰樹)

『月とコピーライター』

               古田彰一

月が明るい。

と書けば、何が伝わるのだろう。
月が明るいことはもちろん、
そこに書かれてないことまでも人は読み取る。

たとえば時間は夜であること。
雲が月を覆い隠してない天気であること。
明るいというからには、
もしかしたら満月かそれに近いカタチであること。
そして今日は月が明るいと感じている「人」がそこにいること。

月を見上げているのが、山間(やまあい)の村の人であれば、
夜は墨を流したように暗く、それで煌々と眩しく感じるのかもしれない。
反対に、ビルの谷間であれば、都会の明かりに負けそうになりながらも、
けなげに輝いて見えるのかもしれない。

遠く離れた人のことを想う、その心をおぼろに照らす月明かりもある。
仕事帰りのささやかな開放感を、ほっと照らす月明かりもある。

月が明るい。
という一行はただの情報だけど、読んだ人がいる場所や、気持ちによっては
それ以上の意味が与えられる。

そう。何かを書くということは、書かなかった部分を読む人と共有することなのだ。
書き手が「行」を書き、読み手が「行間」を読むことなのだ。

「アイ・ラブ・ユー」と言わずに愛を伝える、
その奥ゆかしさと美しさを忘れたくない。
1行の言葉ですべてを語り尽くそうとする、
コピーライターという職業が、いまふたたび、尊い。

(読んだ人:坂東工)

6月の花婿
              福里真一

いよいよ、私の番だ。

私は、新郎の少年時代のことを知る、ごく少ない友人のひとりとして、
この豪華な披露宴で、スピーチをすることになっていた。

私は、まだ決めかねていた。
新郎の人生を変えた、あの事件のことを、しゃべるべきかどうかを。

彼は、小学校のある時点から、突然、何かをふりはらうかのように猛勉強をはじめ、
その後、ストレートで東大に入り、
今は、とある中央官庁で、順調なキャリアを積んでいる。

そこに、あの事件が、少なからず影響を与えていることは、
間違いがないのだ。

今、会議か何かで遅れていた、主賓の副大臣が、にこやかに着席した。

上場会社の社長であるらしい、新婦の父親が、すかさず、副大臣のテーブルにあいさつに
向かう。

私は、マイクに向かいながら、確信する。

私はやはり、しゃべってしまうだろう。

小学校3年生の、火曜日の4時間目、理科の授業中に、
新郎が、おもらしをしてしまったことを。

そのとき、6月のしめった教室にただよった、
こうばしい匂いのことを。

それがなければ、今の彼は、存在しなかったのだから。

(読んだ人:大川泰樹)

妻のお通じ。
                 岩田純平

妻はお通じがよい。
特に良かった日は、その形を教えてくれる。
「今日はね、じぇい、っていうのが出たよ。じぇい」
アルファベットのジェイは長い間、
我が家のチャンピオンだった。

しかし、それを超えるモノを、
あろうことか僕が出してしまった。
「はてな、が出た。はてな。クエスチョンマーク」
曲がりが大きい上に、点まで付いている。
明らかにジェイを超えた。

これに妻は奮起した。
「出ました。&でーす」
アンド! それはもはや、
ジェイやはてなとは
次元の違う最終形のように思われた。

しかし、妻は、&をさらに更新する。
「ぬ、ぬ、ぬが出た。ひらがなの“ぬ”」
その日の、妻の満足そうな顔を、
忘れることはないだろう。

妻はいま、ト音記号に挑戦している。

(読んだ人:大川泰樹)

4の回。
           上田浩和

数字の4は、鏡の前に立つのが好きではない。
数字の32にだんだん似ていく自分を見たくないのだ。
鏡のなかの4は一見数字の4なのだが、かたむける顔の角度によっては、
32の面影がうっすらとではあるがさす瞬間があり、
その加減が日に日に強まっているような気がするのである。
32÷8。
この計算の結果産まれたのが、この、4である。
だから、32に似ていたとしてもなんの不思議はない。
むしろ当然のことだし、4も32と8には心から感謝している。
ふたりがきっちり割り切れたおかげで、
余りもない小数点もない身軽な生き方をこれまでしてこれたのだから。
それでも、それとは別の割り切れない思いを、
4は4なりにずっと持ち続けてきたのも事実だ。
どうして、あの場面で、32と8は、
割り算ではなく掛け算をしてくれなかったのだろうか。
そうすれば、4ではなく、256というジゴロな生き方もできたはずなのに、
と思わずにはいられないのだ。

(読んだ人:高田聖子)