「葉桜」
あなたは、桜が好きな人でした。
それも満開の桜ではなくて、花もあらかた散ってしまって、
若葉が出始めたような中途半端な桜。
ほら花が咲いた、ほら散ったと、かしましい人々を見下ろしながら、
桜は淡々と、しかし力強く命のサイクルを進めていく。
そんな桜の命の営みが見えるような、若葉の頃が好きなんだと、
あなたは言いましたね。
そんなあなたがいなくなって、もう何度目の春でしょう。
数えることも、もうやめてしまいました。
あの狂乱の日々のしばらくあと、あなたが行ってしまう前に、
最後に二人で見上げた葉桜を、わたしは今、一人で見上げています。
あなたのことを想いながら。
あれが起きたのはもう大昔のこと。
日本語では「技術的特異点」というのだと、あなたはわたしに教えてくれました。
「シンギュラリティ」。それは有史以来の人間の日々の延長線上に、
突如としてやってきました。まるで桜が満開になるように。
その日、コンピューターの知性は、ついに私たちの限界を越え、
そして一気に抜き去りました。
そこからは一気呵成。気がつけば、それはもう私達には理解の及ばない、
謎めいた存在になっていました。
神という人もいました。悪魔と言う人もいました。
人々の熱狂と混乱を見下ろしながら、それはやがて人間に静かに告げました。
あなたたちに永遠の命をあげましょう。
あとは好きなように生きればいい。
かつてコンピューターだったものは、今や人間のすべての情報を電子化し、
電子の世界で生かすことができるようになったと語りました。
そこには病気も死も別れも苦しみもないのだと。
究極の自由がそこにあるのだと、はがねの口で語りました。
はじめ、人々は懐疑的でしたが、死を直前に迎えた人々が
そちらの世界に移住し、そこにある自由と解放を語るに至って、
多くの人々が雪崩を打って電子の世界へと旅立っていきました。
こちらの世界に残った人々は、変人とみなされるようになりました。
あの春の日、家族とともに旅立つことに決めたわたしに、
あなたは言いましたね、
永遠に生きるなんてまっぴらだ。
僕は命の営みを手放したくない、たとえそれが死の苦しみに
彩られているとしても、と。
あなたは頑なでした。
そしてわたしは今、この箱庭のような世界で永遠に生き続けています。
いつ、どこ、といった概念を失って、
人々は、生きることの意味も失ってしまったようにもみえます。
皮肉なものですね。どれだけ生きてもいいと言われて、
生きる意味を失ってしまうなんて。
最近では、長い長い眠りに旅立つ人が増えていると聞きました。
それはもはや死と何が違うのでしょう。
死から解放されたはずなのに、死を望む。人間はほんとうに
ままならない生き物ですね。
近頃ずっと、わたしは、あなたと別れた17歳の姿で、
ここで散り続ける桜を眺めています。もうどのくらいここに
いるのかもわからなくなりました。
あなた。今、あなたがいるところにも桜は咲きますか。
あなたが好きだった、中途半端な葉桜がありますか。
あなたのいる場所と、わたしがいる場所は、
似ているような気がします。
そう、すぐそばに、あなたを感じることがあるんですよ。
そんな瞬間が恋しくて、わたしはここで、散り続ける桜を
眺め続けています。いつまでも、いつまでも。
出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/