小野田隆雄 2007年10月12日



父のみずうみ

               
ストーリー 小野田隆雄       
出演 久世星佳

一九六二年九月上旬のある日。
大学一年生の父は、
友人とふたり、昼さがりの時刻に
奥日光の金精峠に立っていた。
この峠は、海抜二〇二四メートル。
栃木県と群馬県を分ける峠である。
その日は、秋晴れの上天気で、
峠からは、上越と信州の山々、
そして遠く富士山まで、
濃い藍色のシルエットになって
見えていた。
群馬県側にくだっていく道も、
木々の間に、誘うように
見え隠れしている。

最初の予定では、ふたりは、
このまま栃木県側に引き返し、
奥日光の湯元からバスで、
帰京する予定だった。
けれど、どちらが言いだすともなく、
ふたりは、弾むように、
群馬県側への道をくだり始めた。
二時間ほど歩けば、
上越線の沼田行きバスの、
始発駅がある。そのことをふたりは知っていた。

ハミングするように、
一時間ほど歩いたとき、
急に風が強くなるのを感じた。
イタヤカエデ、ホウノキ、ミズナラなど、
山肌の木々が激しくゆれ、
ギシギシと枝を鳴らし始めた。
いつのまにか、青空は消え、
黒い雲がすさまじい早さで
飛んできた、とみるまに、
たたきつけるような、
大粒の雨になった。
舗装されていない道は、
泥水が流れる川に変わった。
雨やどりする場所もない。
たちすくんだり、ころびそうになったり、
それでも、ふたりは、歩き続けた。
時刻が五時を回った。
夕闇が増していく。
そのとき、バス停が見えた。
けれど、シーズンオフになった九月。
すでに終バスは出たあとだった。
でも、どこかに、売店の建物でも
ないだろうか。ふたりは、
祈るような気分で、夕闇の中の道を、
のろのろと歩き続けた。

街道沿いに、丸沼という看板の出ている、
小さな湖に続く小道に気づいたとき、
ようやく雨は止み、
ドキドキするような、星空になっていた。

ふたりは、あまりお金もなかったので、
丸沼のほとりの、
小さなロッジに頼み込んで、
素泊まりで、とめてもらった。
せまいロッジの部屋で、
濡れた衣服を着替えて、ほっとする。
すると、ふたりを、
もうれつな空腹がおそってきた。
友人のリュックに板チョコ半分。
父のリュックにキャラメルが二個。・・・・・・
そのとき、ロッジの外に足音がした。
中学生くらいの少女が戸口に立っていた。
お盆の上に、おおきなおにぎりが四個。
「父が、これはサービスです。って」
そういうと少女は、キラリとふたりを見て、
小走りに去っていった。

次の日の早朝、バス停に向うふたりを、
少女が、手を振って送ってくれた。
丸沼は静かに、青空と山の影を映していた。
父は、それから、毎年の夏、
丸沼のロッジに行くようになった。
少女は成長し、父は少女が好きになった。
そして、大学を卒業して三年後、
父は少女と結婚した。
それから、二年後に、私が生まれた。

いままでの話は、数年前、
父の還暦のお祝いの夜に、
父と母から、聞いた話である。
私も、結婚して、二児の母になっている。
金精峠も、今日では、トンネルになったそうだ。
あっというまに、通過できるのだろう。
けれど、きっと、いまも、
昔の道を歩いて、金精峠を越え、
湖を見るひとも、いると思う。

*出演者情報:久世星佳 03-5423-5905 シスカンパニー


ページトップへ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA