ストーリー

安藤隆 2019年11月10日「おかずパン」

おかずパン

   ストーリー 安藤隆
      出演 遠藤守哉

 太った中年男のヒグマさんは、その日、前
夜の飲みすぎで勤めを休み、多摩川べりの
「鯨いるか球場」で軟式野球を見ていた。

 昼ちかくに起きると、二日酔いの「吐き
気からくる悪い食欲」にとり憑かれてヤキソ
バパンが頭に浮かび、自転車でパン屋へ行っ
た。店内にならぶパンをみて「吐き気からく
る悪い食欲」を加速されたヒグマさんは、吐
く予感に駆られながらヤキソバパンに加えて
コロッケパン、カツパン、缶コーヒーにコー
ラ、最後にはカレーパンまで買ってダメな日
をダメ押しするようだった。その時、パン屋
近くの野球場から秋風にのって、アナウンス
の声がパン屋までとどいたのだ。

 そんなわけでネット裏の中段あたりに、
海老色のジャージーを着た太った中年男・ヒ
グマさんが座っている姿が見える。コッペパ
ンに挟んだヤキソバをこぼさぬよう下からア
グウとかぶりつく。食べるときはいつも大い
そぎのヒグマさんはアグ、アグ、アグとだい
たい三回咀嚼しただけで飲みこみながら、脂
肪で濁った目でグラウンドを眺める。きれい
なひろい空き地。いつもヒグマさんをドキド
キさせる。昔々からだ。野球場はヒグマさん
をまるごと過去へ連れてってくれる。いまだ
って目の前の野球を見ているのに、過去ので
きごとを見ているようだし、きっとほんとに
過去を見ているのだ。ほかの誰もとおなじよ
うにヒグマさんは思い出でできている。

 そろって腹のでた丸顔の中年男たちと、
おむつの小便の臭う恐い目をした老人たち全
部で十五人ほどの観客が、沈痛な面持ちで午
前の終りの光のそそぐグラウンドを眺めてい
る。新聞社の小さい旗が野球場をまばらに一
周している。ゲームは大学の軟式野球の秋季
大会のようで穏やかに進行する。片方の投手
は杉浦投手で美しい下手投げで投げる。ヒグ
マさんはヤキソバパンとカツパンを食べたあ
と、つぎカレーパンかコロッケパンか迷う。
あきらかにやってきそうな吐き気を待ってい
るのでもある。

 さっきミニスカートの娘が入りこんで野
球場に緊張が生じている。しかも娘はヒグマ
さんのすぐ斜め後の段に坐ったのだった。ネ
ット裏の下段に群がって陣どる中年男と老人
が代わる代わる振り向いて娘の足を覗きあげ
る。光がしだいに高く強くなっている。「鯨
いるか公園」のケヤキの色づいた葉が陽を受
けて金色に輝く。ヒグマさんは苦しげに汗ば
む。スタンドのまわりの柳が屈したように垂
れている。閉じこめられた箱庭のような軟式
野球。あかるくて完全無欠な秋の正午。午後
からはきっと冬に入るのだ。

 ヒグマさんはカレーパンにするかコロッ
ケパンにするか、永遠に出ない答に吸いつけ
られたままだ。視界が狭くかつ遠くなる感じ
に襲われて、あやうく顔をあげ世界を見まわ
す。その太った顔を見たミニスカートの娘が
アッと小さな悲鳴をあげる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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川野康之 2019年11月4日「東口商店街の思い出」

東口商店街の思い出              

       ストーリー 川野康之
          出演 地曳豪

東口を出て踏切を渡ると商店街である。
駅の反対口にスーパーがあるが、家へ帰るのに遠回りになるので、
ちょっとした買い物はここですますことが多い。
食パンとか靴ひもとかオロナインとか、まあちょっとしたものである。
商店街と言っても、50メートルも歩けば店舗はまばらになり、
ありふれた住宅街の景色に紛れていく。
昔は銭湯や煙草屋、洋服屋とか、
もっといろんな店があったような気がするが、
いつの間にか店の数は減ってしまった。
そう言えば本屋もレコード屋もなくなってしまった。
また1軒、店が姿を消したようだ。
歯が抜けたように新しい更地ができていた。
左隣は金物屋、右隣にはクリーニング屋。
間口の広さは両隣と変わらないけれど、
ぽっかりと空いた空間が妙に広く見える。

貴子は足をとめた。
「ここ、何の店だったっけ」
しばらく立ち止まって考えたが、思い出せない。
すぐに思い出しそうなのに、どうしても出てこない。
歩いている人がみなよそよそしい顔をして通り過ぎていく。
何だっけ、何だっけと、貴子は自問しながら歩いた。
結局家に着くまで思い出せなかった。

この町に来てから30年になる。
東口商店街は毎日歩いたものである。
駅向こうにスーパーができるまでは何でもここで買っていた。
夫の浩一と駅で待ち合わせて一緒に夕飯の買い物をしながら帰った。
給料日には酒屋に寄ってワインを一本買った。
安売りのチラシを手に、
幼い和也の手を引いてあの店この店と見て回った。
和也の初めての自転車を買ったのもここだ。
思い出のつまった商店街。
わたしが生きていた場所。
知らない店などあるものか。
それなのに思い出せないのである。
金物屋とクリーニング屋の間にあったはずの店。

薄暗くなった台所で、貴子は明かりもつけずに座っていた。
テーブルの上には買い物かごが置いたままだ。
もうすぐ和也が予備校から帰ってくるはずだ。
そしたら和也に聞いてみよう。
しかし今日に限ってなかなか和也は帰ってこなかった。
夫の浩一の方が先かもしれない。
浩一はいつものように冷蔵庫を開けながら、
当たり前のように教えてくれるだろう。

12時を回っても浩一は帰ってこなかった。
貴子は不安になった。
目を閉じると昼間見た更地の風景が浮かんでくる。
胸の中にぽっかりと穴が空いて、だんだん広がってくるようだ。
その穴に貴子も東口商店街もこの町もみんな飲み込まれていくようだ。
浩一と和也はこのまま帰ってこないかもしれない。
テーブルの上には空っぽの買い物かごが置いてあった。
冷蔵庫の中にビールは1本も入っていない。
貴子は思った。
もしかしたら、
浩一も和也もはじめからいなかったんじゃないだろうか。
わたしはこの町で生きてなんかいなかったんじゃないだろうか。
そんな気がしてきたのである。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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中山佐知子 2019年10月27日「麦畑」

麦畑

    ストーリー 中山佐知子
       出演 大川泰樹

あたり一面の麦畑だったな。
ところどころに背の低い柳の木があった。

その細い一本道を
馬と一緒に行軍しているときだったな。
耳元でバリバリと音がしたかと思ったら
馬とおまえが血を流して倒れていたんだよ。

麦畑なんて
隠れるところもないもんだから
何十頭の馬はみんな撃たれて死んで
兵隊もずいぶん死んで
威張ってた連隊長も死んだけど、おまえも死んだ。

それから
知らない間に戦争が終わって
知らない国に置き去りにされて
それでもなんとか船に乗って帰って来たら
村の麦畑は石ころだらけで土もボロボロになっていた。

これはきっと
知らない国の麦畑で鉄砲を撃ち合って
死んだ馬とおまえを置き去りにした報いだと思ったんだ。

それから
石をどけ、麦をつくり、麦わらを鋤きこんで土を肥やして
三年たったら、麦の穂は重く実り
麦わらはお日さまにつやつやと輝くいい色になった。

その麦わらを水につけると柔らかくなる。
やわらかくなったら帽子が編める。

かぶるとだぶだぶの麦わら帽子。
大きくて、風が吹くとすぐに飛ばされて
狭いところでは邪魔になって
帽子のなかでいちばん戦争に向いていない麦わら帽子。

どこにもいかず
ずっと麦わら帽子をかぶって働いていればよかったな。
戦争になんか行かなきゃよかったな。

麦わら帽子を編んでいると
おまえが死んだ麦畑を思い出す。
踏み荒らされた麦畑、
機関銃の弾や人や馬の死体でいっぱいだった
あの麦畑はいまも麦畑なんだろうか。
誰かが世話をして、いい麦がとれて
残った麦わらで麦わら帽子を編んでいるだろうか。

そうだといいなあ。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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細川美和子 2019年10月20日「花火の火花(リバイバル)」

    ストーリー 細川美和子
      出演 地曵豪

江戸時代になり、戦争がなくなり、
使い道がなくなったとき
武器に使われていた火薬は花火に姿を変えた。
不浄なものを払い、
暗闇を照らす火を打ち上げることで、
厄を祓い、死者を悼む、鎮魂の意味をこめて。
そうやって、日本最古の花火大会である
隅田川花火大会が始まった。

やっと平和になったと思ったら
大飢饉と疫病で多数の死者が出て
人々に絶望が広がっていた時代。
倹約を唱えていた徳川吉宗が
両国川で水神祭を開き、慰霊と悪霊退散を祈り、
二十発の花火を贅沢に打ち上げた。

お盆の送り火や迎え火のように
その火は今まで生きてきた人たちと、
これから生きていく人たちの心を
照らしたんだろう。

今でも日本の各地で、
空襲や災害で亡くなってしまった人たちの
霊を悼むために開催されている花火大会がある。

長岡の大空襲で亡くなった人たちの
霊を弔う花火大会を、ビール片手に
打ち上げの真下から見たときには、
音と火花が同時に降りかかってきて、
煙にまみれ、美しいのか恐ろしいのか、
自分がいまどの場所にいるのか、
一瞬わからなくなった。
世界はなんて紙一重なんだろう。

家族や友達と連れ立って、
屋台でりんご飴を買ってもらい、
ワクワクして見上げるはずの花火大会を
子供の頃からどこかいたたまれないような、
物哀しいような気持ちで過ごしていたのは、
そんな由来を感じ取っていたのかもしれない。
花火大会が終わると、町中が緩んだような
ほっとしたような気配に包まれる。

それでも、今年の夏もまた
花火を観にいくんだろう。
終わってくれたことにどこか、
安心するんだろう。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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2019年10月13日「羅生門」

芥川龍之介
    朗読 遠藤守哉

ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥はげた、
大きな円柱、蟋蟀が一匹とまっている。
羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や
揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。
それが、この男のほかには誰もいない。
 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う
災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。
旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹にがついたり、
金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、
薪の料に売っていたと云う事である。
洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、
元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、
狐狸が棲すむ。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、
この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。
そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、
この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
 その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、
その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。
ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、
それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、
啄ついばみに来るのである。―もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。
ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、
鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。
下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、
右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。
しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。
ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。
所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、
当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、
永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、
実はこの衰微の小さな余波にほかならない。
だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも
「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、
適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の
Sentimentalisme に影響した。
申の刻下さがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。
そこで、下人は、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして
――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、
とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、
聞くともなく聞いていたのである。
 雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。
夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、
重たくうす暗い雲を支えている。
 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑いとまはない。
選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、
この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。
選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句あげくに、
やっとこの局所へ逢着した。
しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。
下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、
この「すれば」のかたをつけるために、
当然、その後に来る可き「盗人ぬすびとになるよりほかに仕方がない」と云う事を、
積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
 下人は、大きな嚔をして、それから、大儀たいぎそうに立上った。
夕冷えのする京都は、もう火桶ひおけが欲しいほどの寒さである。
風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。
丹塗の柱にとまっていた蟋蟀きりぎりすも、もうどこかへ行ってしまった。
 下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高くして
門のまわりを見まわした。雨風の患のない、人目にかかる惧のない、
一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、
夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、
これも丹を塗った梯子はしごが眼についた。
上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、
腰にさげた聖柄の太刀たちが鞘走らないように気をつけながら、
藁草履わらぞうりをはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
 それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、
一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。
楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。
短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。
下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括くくっていた。
それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、
しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、
黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、
すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、
火をともしているからは、どうせただの者ではない。
 下人は、守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、
一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平にしながら、
頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗のぞいて見た。
 見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、
火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。
ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とが
あるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。
そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ
疑われるほど、土を捏こねて造った人形のように、
口を開あいたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。
しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、
ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、
永久に唖おしの如く黙っていた。
 下人は、それらの死骸の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩おおった。
しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。
ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
 下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲まっている人間を見た。
檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆である。
その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、
その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、
多分女の死骸であろう。
 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、
暫時は呼吸いきをするのさえ忘れていた。
旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。
すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、
それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、
丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。
髪は手に従って抜けるらしい。
 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、
恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、
この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。
――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。
むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。
この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、
饑死をするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、
何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。
それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、
勢いよく燃え上り出していたのである。
 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。
従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。
しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、
死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。
勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、
とうに忘れていたのである。
 そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。
そうして聖柄の太刀に手をかけながら、
大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。
 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾はじかれたように、飛び上った。
「おのれ、どこへ行く。」
 下人は、老婆が死骸につまずきながら、
慌てふためいて逃げようとする行手を塞ふさいで、こう罵しった。
老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、
それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、
しばらく、無言のまま、つかみ合った。
しかし勝敗は、はじめからわかっている。
下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへ扭ねじ倒した。
丁度、鶏にわとりの脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」
 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、
白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。
けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、
眼を、眼球が眶の外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。
これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、
全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。
そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、
いつの間にか冷ましてしまった。
後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、
安らかな得意と満足とがあるばかりである。
そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。
だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。
ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、
それを己に話しさえすればいいのだ。」
 すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、
じっとその下人の顔を見守った。眶の赤くなった、肉食鳥のような、
鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、
何か物でも噛んでいるように動かした。
細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。
その時、その喉から、鴉の啼くような声が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。
そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、
心の中へはいって来た。すると、その気色けしきが、先方へも通じたのであろう。
老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、
蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。
じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、
されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、
蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、
太刀帯の陣へ売りに往いんだわ。
疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。
それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、
太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。
わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。
せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。
されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。
これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。
じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、
大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
 老婆は、大体こんな意味の事を云った。
 下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、
冷然として、この話を聞いていた。
勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、
聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、
ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、
この男には欠けていた勇気である。
そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、
全然、反対な方向に動こうとする勇気である。
下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。
その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、
ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」
 老婆の話が完おわると、下人は嘲けるような声で念を押した。
そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、
老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、己が引剥はぎをしようと恨むまいな。
己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。
それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。
梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。
下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を
夜の底へかけ下りた。
 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、
その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。
老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、
まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。
そうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。
外には、ただ、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばかりである。
 下人の行方ゆくえは、誰も知らない。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久2019年10月6日「猫の恩返し(リバイバル)」

猫の恩返し

            ストーリー 直川隆久
               出演 清水理沙

「卒業制作、すすんでますか」
中央食堂前のベンチでコーヒーを飲みながらぼんやりしていると、
見知らぬおやじが話しかけてきた。
いまどきベレー帽にマフラー。油絵科の教授か?にしては、服がぼろい。
いいかげんな返事をしていると、わたしの隣に腰掛けてきた。
「見覚えありませんか」
おやじが帽子をぬぐと、頭に大きなやけどのあと。
そこだけ髪の毛が生えていない。
「…ない。です。見覚え」
「若い頃、あなたに助けていただいたものです。
 ここの学生にいじめられているところを――」
そう言われて、あ、と思った。
3年ほど前、野良猫のひたいをタバコで焼いている映画学科の学生がいて、 
そいつらとものすごく喧嘩したおぼえがある。 
「現代版世界残酷物語を撮るんだ」とかわけのわからないことを言うバカ達だった。
「はい。その猫です」
ええー。なんだ、ずいぶんふけているな。
「すみませんね、猫は歳とるのがはやくて」
「いえ」
「長年このキャンパス内でうろうろさせてもらいましたが、
 残飯の味が悪くなったんで、河岸を変えようかと思いましてね。
 でもその前に一言あなたにお礼が言いたくて」
 
おどろきはしたが、感激はしなかった。
近頃、恋愛も卒業制作も行き詰っているせいで、
心の余裕がなくなってきたんだろうか。
「最後の機会ですから、何かお願いとか、ないですか」
「お願い?」
「ええ、お礼として…ひとつぐらいならなんとかなるかもしれません」
「今月の家賃とか、なんとかなりますか」
「…う~ん…」
猫おやじはかなり長いあいだ考えていたけれど
「…猫なもんで…」と言った。
「いや、まあ、そりゃそうですよね」
「すみません――ヌードモデルとかは不要ですか。デッサンの」
「特に…」
ああ、とおやじは肩を落とした。
「お役にたてること、なさそうですね」
「いいですよ。気つかわなくて」
「あ、そうだ。せめてちょっとした卒業制作のアドバイスをさしあげましょう」
「なんです」
「――あなたの指導担当の岡崎先生はね、4回生の清本さんとできていますからね。
 彼女とテーマがかぶらないほうがいいですよ。
 このあいだ、3号棟の実習室で二人が乳くりあってるのを窓から見てしまいました」
「へえ」
「かぶると、どうしても自分の女のほうをひいきしますから…なんて、
 すみませんね。こんなことしかもうしあげられなくて。さようなら」
「さよなら」
おやじは礼をして、歩き去った。
たしかに、猫背だった。
さて、わたしも恩返しをしなければならない――岡崎先生にだ。
清本と二股かけてくれてて、ありがとう。
これから、彫刻刀を研いで、岡崎の研究室に向かうことにする。



出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

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