ストーリー

遠藤守哉のご挨拶

遠藤守哉のご挨拶

あけましておめでとうございます。

中央人民政府の発表によると
2025年の春節、つまり正月は1月29日だそうです。
28日から正月休みが始まり大型連休になる模様です。

タイでは正月が3回。
新暦の正月と中国と同じ旧暦の正月、
そしてタイ独自の正月は4月にやってきます。
ちなみにタイでは4月がいちばん暑い時期だそうです。わお。

ちょっと複雑なのはエチオピアです。
エチオピアの暦では1年が13ヶ月。
この暦に従うとエチオピアの新年は9月11日になります。
エチオピアでは日付が変わるのも午前0時ではなく午前6時です。

さて、インドへ行くとヒンドゥー暦という独自の暦が新年を決めます。
それによると、
10月下旬から11月中旬の新月の日が新しい年のはじめです。
そして、新年の最初の行事は大掃除。

新年って、一緒じゃないんですね。
でも、それがいいのかもしれない。
世界の皆さん、今年も来年も100年後も
バラバラな正月を仲良く迎えましょう。

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磯島拓矢 2024年12月29日「約束」

「約束」

ストーリー 磯島拓矢
   出演 阿部祥子

今の彼とつき合い始めて気がついた。
前に同棲していた人が、約束好きだったこと。
「今日夕飯おねがい。明日、私やるから」そんな私の一言に、
その人は必ずこう言った。
「約束だぞ」
「明日まとめて洗濯するよ~」という私の言い訳にも、こう返してきた。
「約束だぞ」
それが嫌いで別れたわけではないけれど、こうして思い出すということは、
それなりにストレスだったようだ。
確かに、別れ話は私からした。
「寂しくなったら、連絡するかも」別れ際の挨拶にも、彼はこう言った。
「約束だぞ」
もちろん、その約束は守っていない。

「明日まとめて洗濯するよ~」私の言葉に、今の彼はこう返してくる。
「わかった」。以上。
約束というのは、つまりは言質を取る、ということなんだなあと改めて思う。
前の人は、言質を取ることで、ちいさな安心を積み重ねていたのだろう。
今の彼は、言質を取ることで、互いに縛られてゆくのが嫌なのだろう。
どちらが正しいということではない。
今の私には、今の彼が合っているということだ。

彼は本当に約束をしない。
「約束を破らない唯一の方法は、安易に約束をしないこと」
これは今私がつくった教訓だが、彼のスタイルを言い当てているかもしれない。
「約束をするのはたやすい。約束を覚えておくのが難しい」
これも今私がつくった教訓だが、ん~ひょっとしたら、こっちかもしれない。
約束というのは、確信犯で破られることは少ない。
約束を忘れてしまうことから、多くのトラブルは生まれている。
どうせ忘れちゃうから、約束はしない。
彼がそう思っているとしたら、なんと不誠実な態度だろう。

そんな不誠実な男と、私は来週結婚する。
当然のように「君をしあわせにします」みたいな約束はなかった。
家族に紹介した時も「娘さんを大切にします」みたいな約束はなかった。
両親は気にしてなかったけれど。
彼が「しあわせにします」と言わないのは、
「安易な約束はしない」からなのか、
「そんな約束きっと忘れちゃう」からなのか…。
こんなことをあれこれ考えてしまうのが、マリッジブルーというものなのか。
でも私は、前の人に電話しようとは思わない。

来週私たちは式を挙げる。
例の「病める時も健やかなる時も、愛し敬うことを誓いますか?」の儀式をやる。
そう、人生最大級の約束だ。
彼は一体どうするのだろう。
さすがにここは誓うのか、それとも、ここでもいつもの無表情で流すのか。
ちょっと、ドキドキしてきた。

ひとつ、決めていることがある。
「愛し敬うことを誓いますか?」牧師が私に聞いた時、
すぐには答えないことにする。一拍おいてやろうと思う。
そして、彼の顔をのぞくのだ。
私だって安易な約束はしないよ。
忘れちゃうような約束はしないよ。
それを、彼に伝えてやろうと思っている。

.
出演者情報:阿部祥子  連絡先ヘリンボーン https://www.herringbone.co.jp/

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坂本和加 2024年12月22日「なまえのやくそく」

なまえのやくそく

   ストーリー 坂本和加
      出演 平間美貴

ちょっと前に良い話を聞いた
とある役者さんの名前の話だ。

来年控えている大きな仕事と
自分の名前がよく似ているのは理由があった。

それは同じ役者だった父の願いが込められた名前。

初めて知った自分の名前の由来と父の思いに、
大いに驚くといった感動ストーリーだった。

そうだ

名前は名付けた親の願いそのものだと
あらためて思った

私の名前は父がつけた
画数にこだわって
どうしても使いたい漢字にもこだわって
悩んでつけてくれた名前だった
おかげで姉も兄もみんな同じ画数になった

和加という名前は
音も漢字も当時はちょっと珍しくて
名前をネタにからかわれた。とても嫌だった。
いい名前だねとほめられるの嫌だった。恥ずかしいから

わたしは自分の名前が好きではなかった。
それについて深く考えることもなかった。

中学の時、古文の授業で「いろはうた」の
元になった漢字に自分の名前を見つけて
「そうだったのか〜!」と、感銘して帰宅したら
父の返事は「そんなの知らない」。

がっかりして、母に後から聞いた名前の由来は、
「和を加える、じゃないの」という
そのまますぎる内容だったけれど、
「和」には「なかよくする」という意味もあれば
「やわらぐ」や「おだやか」「なごむ」、
ひいては「日本のこと」だったりもする。

「ワ」という音は、輪になるの「ワ」だなとも思った。

父は私が学生のうちに他界してしまったので
私にどんな「和」を加える人になってほしいのか
もう聞くこともできない。

けれど人付き合いの苦手だった父を思うと、調和、の和かなと思う。

え・・・・・・。そっちの和はあまりにも立派すぎる。

どこへいっても、なんとなくはみ出してきた私に
そんな素敵なことができた試しがあるはずもなく。
あの役者さんのような感動ストーリー!にもまったくなってない。

コピーライターは、
日本語を使う、和っぽい仕事と
浅はかに喜んでいただけでした。

・・・・・・じゃあ、いまからでも。

もう死んじゃったんだから、
父との名前の約束に、遅いも早いもないよ。

そうと決めて、鏡の前で、笑顔をつくる。引きつっている。

がんばろー、私。



出演者情報:平間美貴 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

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佐藤充 2024年12月15日「100ドル」

100ドル

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

1ドルが80円くらいの頃。

「You are crazy」

「No! You are crazy」

エジプトのどこかわからない砂漠で、
僕はエジプト人と言い争っていた。

なぜこんなことになったのか。

2日前、
パスポートを含む全ての荷物をタクシードライバーに盗まれた。
エジプトではアラブの春と呼ばれる革命が起きていた。

どこの航空会社も渡航中止を呼びかけていることも知らずに、
ヨルダンからフェリーで入国してカイロへやってきた。
観光客もほぼいないカイロのゲストハウスで日本でも読める
AKIRAや寄生獣などの漫画を何度も読んで過ごしていた。

そこで帰国するために空港へ向かうタクシーで
着ている服以外をすべて盗まれたのだった。

翌日ゲストハウスのスタッフに日本大使館の場所を聞き、
大使館でパスポートの代わりとなる渡航書の発行方法を聞き、
100ドルを借りた。

渡航書発行にはいろいろな書類と、
帰国日のわかる航空券が必要だということがわかった。

やることが多くて気が遠くなるが、
そのまま警察署で盗難されたことを証明する書類を書いてもらい、
次はカイロ市内の区役所的な場所で書類をもらおうとしているときだった。

日本のように番号の書いた整理券をもらい順番を待つスタイルではなく、
窓口に向かって人の群れをかき分けて身体をぶつけあい、
順番を勝ち取るのがエジプトスタイルだった。

何度かチャレンジして諦めそうになっている時だった。
エジプト人の男が話しかけてきた。
この男がいうには友人に警察がいるので、
頼めばすぐに書類が手に入ると言う。

昨夜から一睡もできていなかったので藁にもすがる思いで
この男の言葉を信じてついていくことにした。

なぜか区役所的な施設を出て、
電車を乗り継いでたどり着いたのは、
この男の家だった。

友人の警察が来るまでゆっくりしてくれと言うので、
出されたコーヒーを飲んでくつろいでいると、
ドライブに行かないか?と男が言う。

もうここまで来てしまったら、
とことん付き合おうと思い、
ドライブへ行くことにした。

車は街を抜けて砂漠のなかへ入っていく。
街がどんどん遠ざかり小さくなっていく。
するとピラミッドが見えてきた。

それは教科書でよく見るスフィンクスがいる
ギザのピラミッドとも違う見たことのないピラミッドだった。

男はピラミッドの前で車を停める。
見渡す限り観光客などもいなく
ここにいるのは男と僕の2人だけだった。

ピラミッドのなかへ入ろうと男が言うので、
入ってみることにした。

なかは狭くて暗くて洞窟のような感じだった。
男が日本の有名な曲を歌ってくれないかと言うので、
坂本九の『上を向いて歩こう』を歌った。

男は手拍子をして答える。
知らない男と知らないピラミッドのなかで
『上を向いて歩こう』を歌う日が来るとは。

そんなことをしてピラミッドを出たあとだった。
男が僕に言う。

100ドルだ、と。

何を言っているのかわからないという態度をしていると
畳み掛けるように男は言う。

ドライブして
ピラミッドの中に入ったのだから100ドルだ、と。

そんなの払わないと伝える。

「You are crazy」と男が言う。

「No! You are crazy」と言い返す。

誰もいない砂漠のうえで言い争う男2人。
遠くに見えるカイロの街に夕陽が輝き砂漠を照らしている。

今朝大使館で借りた100ドルは消えた。
そして、友人の警察に頼んで書類を手にいれてくれる約束も嘘だった。

この100ドルなくなると無一文になるんだけど、と伝えると
男はポケットから小銭を出して渡してきた。
これでバスに乗れるから帰りな、と。

知らない街で
知らない男に渡された小銭を握りしめ、
どこで降りればいいかもわからず、
知らないバスに揺られる。

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日 ひとりぼっちの夜

.
出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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「寝かすだけでもダメなこと」 久世星佳

 「寝かすだけでもダメなこと」

      久世星佳     

先日、ちょっとした失敗をした。
いや、失敗というのとはちょっと違うか。

その時なりに・・
または、その年齢なりに・・
とでも言うのか。

ある時口にしたワインを飲み込んだ途端
食道から胃にかけて
ピリピリする感覚になった。

う~む・・・これは・・・

アルコールを口にしていて
こういう言葉が出てくるのも何だが
体に悪そう・・

グラスを前にして心の中で呟く。
赤色もちょっと良い赤みではない気が・・
その時の私の舌が
数日前に飲んだ
とても良い感じのワインに 育てられていたせいもあるかもしれない。

これは・・残して帰ったほうが我が身のためかも・・
心の中で誰に対しての言い訳なのか わからない言葉を繰り出し
その店を出た。

熟成・・。
ああ、よくよく熟成された美味しいのが飲みたいな。
グラスに注いだ時の何とも言えないこっくりとした色合い。
口に含んだ途端、パーっと広がる芳醇さ。
飲み込んだ時の食道を伝って行く滑らかな優雅さよ。
ああ、そういうのがやっぱりいいよねぇ。
などなど、
頭の中でたいしてお酒に強くも無いのに
蘊蓄を垂れてみる。

上手に空気と触れ合わせながら樽で長時間寝かせたワインは
極上の味わいとなるそうな。
はてさて、それじゃぁ私の人間的熟成度たるや
今現在、どの程度のものなのか・・
日々眠ってはいるが
惰眠を貪れば良いということではあるまいに。
そんなことを思いながら 街中を歩く。

そして今年も、終わってゆくのだ。

作・出演:久世星佳  ARTScompany https://earts.jp/artist/seika-kuze/

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遠藤守哉の「檸檬」

檸檬

 作 梶井基次郎
朗読 遠藤守哉

 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
焦燥と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、
酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。
それが来たのだ。これはちょっといけなかった。
結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。
また背を焼くような借金などがいけないのではない。
いけないのはその不吉な塊だ。
以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、ど
んな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。
蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、
最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を
居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
 
何故だかその頃
私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。
風景にしても壊れかかった街だとか、
その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、
汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったり
むさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。
雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような
趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――
勢いのいいのは植物だけで、時とすると
びっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。

 時どき私はそんな路を歩きながら、
ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか
長崎とか――
そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。
私は、できることなら京都から逃げ出して
誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。
第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。
匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。
そこで一月ほど何も思わず横になりたい。
希くはここがいつの間にかその市になっているのだったら。
――錯覚がようやく成功しはじめると
私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。
なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。
そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
 私はまたあの花火というやつが好きになった。
花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、
さまざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。
それから鼠花火というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。
そんなものが変に私の心を唆った。

 それからまた、びいどろという色硝子で
鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。
またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。
あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。
私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、
その幼時のあまい記憶が大きくなって落魄れた私に蘇えってくる故だろうか、
まったくあの味には幽かなかな爽やかな
なんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。

 察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。
とは言えそんなものを見て
少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには
贅沢ということが必要であった。
二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。
美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ媚びて来るもの。
――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。
 生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、
たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。
洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や
翡翠色の香水壜。煙管、小刀、、石鹸、煙草。
私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。
そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。
しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。
書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように
私には見えるのだった。

 ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに
友達の下宿を転々として暮らしていたのだが
――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかに
ぽつねんと一人取り残された。
私はまたそこから彷徨い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。
そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、
駄菓子屋の前で立ち留まったり、乾物屋の乾蝦や棒鱈や湯葉を眺めたり、
とうとう私は二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を留めた。
ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、
その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。
そこは決して立派な店ではなかったのだが、
果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。
果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、
その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。
何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、
見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、
あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。
青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている。
――実際あそこの人参葉の美しさなどは素晴らしかった。
それから水に漬けてある豆だとか慈姑だとか。
 またそこの家の美しいのは夜だった。
寺町通はいったいに賑やかな通りで
――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが
――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。
それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。
もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、
暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず
暗かったのが暸然しない。しかしその家が暗くなかったら、
あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。
もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、
その廂が目深に冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、
「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、
廂の上はこれも真暗なのだ。
そう周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの電燈が
驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、
ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。
裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、
また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、
その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。
 その日私はいつになくその店で買物をした。
というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。
檸檬などごくありふれている。
がその店というのも見すぼらしくはないまでも
ただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、
それまであまり見かけたことはなかった。
いったい私はあの檸檬が好きだ。
レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、
それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。
――結局私はそれを一つだけ買うことにした。
それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。
始終私の心を圧えつけていた不吉な塊が
それを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、
私は街の上で非常に幸福であった。
あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる
――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。
それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。
その頃私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た。
事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかすために
手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。
その熱い故だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくような
その冷たさは快いものだった。
 私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。
それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。
漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が
断れぎれに浮かんで来る。
そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、
ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には
温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。
……
 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、
ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど
私にしっくりしたなんて
私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。

 私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、
美的装束をして街をした詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。
汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして
色の反映を量ったり、またこんなことを思ったり、
 ――つまりはこの重さなんだな。――
 その重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので、
疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを
重量に換算して来た重さであるとか、
思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり
――なにがさて私は幸福だったのだ。

 どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。
平常あんなに避けていた丸善が
その時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日は一つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
 しかしどうしたことだろう、
私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。
香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかってはゆかなかった。
憂鬱が立て罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。
私は画本の棚の前へ行ってみた。
画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。
しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、
克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。
しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。
それも同じことだ。
それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。
それ以上は堪らなくなってそこへ置いてしまう。
以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。
とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの
橙色の重い本までなおいっそうの堪えがたさのために置いてしまった。
――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。
私は憂鬱になってしまって、
自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。
 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。
一枚一枚に眼を晒し終わって後、
さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、
私は以前には好んで味わっていたものであった。……
「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。
本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。
「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。
私は手当たり次第に積みあげ、また慌ただしく潰し、また慌しく築きあげた。
新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。
奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、
その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調を
ひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。
私は埃っぽい丸善の中の空気が、
その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。
私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起こった。
その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰(く)わぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」
そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、
もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったら
どんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。
「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を
下って行った。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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