「コアラによろしく」
「来週の火曜が最終出社日なんだ」とメールが来たのは、
4日前の金曜だった。
入社して15年も勤めた新橋には、思い出の味もあっただろうに、
会社近くのどこにでもあるハンバーガーショップで、
僕らはランチをすることにした。
「来月には、シドニーなんだね」と確認すると、
ポテトをつまむ手を止めて「あんまり実感ないけどね」と彼は答えた。
「そっか」と、その後につづく言葉もないまま
僕はぬるいコーヒーをすすった。
「こどもは元気?」とか。「自転車で転んで手首を捻った」とか。
1時間くらい、たわいもない話をして、
これからのことは話さなかった。
「そろそろ行かなきゃ」と彼が言って、
テーブル脇のレシートをとりながら僕は、
何か言い残したことがないか考えて
「来月には、シドニーなんだね」と、さっきの言葉を繰り返していた。
「そうだよ」と彼は笑って、僕は「いいな」と言った気がする。
店を出ると、冷たいビル風が吹いていた。
「これから会社?」と聞かれて「いや、クライアント直行」と答えた。
咄嗟に出た嘘だった。
「じゃあ、またねだね」と彼が差し出した手を握り返すと
僕の口からは「1月のシドニーは暑いのかな?」と、
最後の最後までどうでもいい言葉が出た。「コアラによろしく」
僕らは40歳間近で、100歳生きる時代とはいえ、
それはもう若くはない。
若くはないけれど、それぞれのスピードで、まずまず必死に、
相変わらず行き先を探している。
クライアントに向かう予定などなく乗り込んでしまった電車の中でも、
それなりに考えちゃったりなんかして。
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出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html
録音:字引康太