オフィス街の理髪店
オフィス街の理髪店。
映像はモノクロ、
下記モノローグの通りに進行する。
語り手の男は中年から初老にかけた年頃。
バーバーチェアに座っている。
男 モノローグ:
「四月、
この街には新人が増える。
私が髪を切ってもらっていると
スーツ姿の若い男が駆け込んできて
隣の椅子に座った。
『坊主にしてください』
ずっと走ってきたのか、荒い息をしている。
鏡の中をにらんでいる。
『いいんですか?』
理容師はためらった。
『いいんです』
この男の身にいったい何があったのだろうか。
何か大失敗をやらかしたのか。
それとも得意先とケンカでもしたのか。
私はあれこれと想像してみた。
理容師は余計なことは聞かず
『わかりました』
とだけうなずくとはさみを手に取った。
それからはさみを元に戻し、
引き出しを開けて、奥からバリカンを取り出した。
男の目がそれを見てこわばった。
静かな店の中にバリカンのモーターの音が響く。
男は目をつむった。
理容師は黙って自分の仕事にとりかかった。
これ以上見ているわけにもいかず、私も目を閉じた。
男の登場で中断された考えごとの続きに戻ろうとしたが、
何を考えていたか忘れてしまった。
しかたがないから窓の外を眺める。
ガラスの向こうに見えるのはいつもの灰色の街である。
ビルを抜ける風が埃を巻き上げていた。
人々は急ぎ足で通り過ぎていく。
30年近く見慣れた風景である。
この街で私は長い時間を生きてきた。
そう、隣の男のような新人の頃からだ。
知らない人だらけの街で
何もわからず、ただ右往左往していた。
失敗ばかりして、何度もやめようと思った。
それでもやめなかったのは、この街の魔力だろうか。
30年、あっという間だった。
いつからだろう、
この街の景色から色がなくなったのは。
春も夏も秋も冬も、今では同じ色に見える。
愚かな若者め、と私は思った。
何があったのか知らないが、
やけになって馬鹿なことをするもんだ。
私の髪が仕上がるよりもはやく、隣の男の頭が完成した。
男は呆然として鏡を見つめている。
右に左に角度を変えて確かめている。
驚いたことに、それは坊主頭ではなかった。
何の変哲もないけれど、
短くカットされた頭は、男の顔によく似合った。
彼は思ったよりも若かった。
どこか幼さが残っている。
人生はまだ始まったばかりであった。
これから何でもできる、
ただの若者の顔があった。
うらやましいなと私は思った。
『できました』
理容師はそう言うと、
仕上げの魔法のように男の頭をさっとひとなでした。
若者は照れくさそうに笑い、自分もさっと頭をなでた。
そしてぺこんと頭を下げて店を飛びだして行った。
風が吹く街へ。
彼の人生へ。
理容師は何事もなかったように床を掃除し、椅子をきれいに整え、次の客を待った。
鏡の中で私と目があった。
その目がやさしく笑った。
窓の向こうに春風が舞っていた。
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