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川野康之 2025年4月27日「オフィス街の理髪店」

オフィス街の理髪店

    ストーリー 川野康之
       出演 大川泰樹

オフィス街の理髪店。
映像はモノクロ、
下記モノローグの通りに進行する。
語り手の男は中年から初老にかけた年頃。
バーバーチェアに座っている。

男 モノローグ:
「四月、
この街には新人が増える。
私が髪を切ってもらっていると
スーツ姿の若い男が駆け込んできて
隣の椅子に座った。
『坊主にしてください』
ずっと走ってきたのか、荒い息をしている。
鏡の中をにらんでいる。
『いいんですか?』
理容師はためらった。
『いいんです』
この男の身にいったい何があったのだろうか。
何か大失敗をやらかしたのか。
それとも得意先とケンカでもしたのか。
私はあれこれと想像してみた。
理容師は余計なことは聞かず
『わかりました』
とだけうなずくとはさみを手に取った。
それからはさみを元に戻し、
引き出しを開けて、奥からバリカンを取り出した。
男の目がそれを見てこわばった。
静かな店の中にバリカンのモーターの音が響く。
男は目をつむった。
理容師は黙って自分の仕事にとりかかった。
これ以上見ているわけにもいかず、私も目を閉じた。
男の登場で中断された考えごとの続きに戻ろうとしたが、
何を考えていたか忘れてしまった。
しかたがないから窓の外を眺める。
ガラスの向こうに見えるのはいつもの灰色の街である。
ビルを抜ける風が埃を巻き上げていた。
人々は急ぎ足で通り過ぎていく。
30年近く見慣れた風景である。
この街で私は長い時間を生きてきた。
そう、隣の男のような新人の頃からだ。
知らない人だらけの街で
何もわからず、ただ右往左往していた。
失敗ばかりして、何度もやめようと思った。
それでもやめなかったのは、この街の魔力だろうか。
30年、あっという間だった。
いつからだろう、
この街の景色から色がなくなったのは。
春も夏も秋も冬も、今では同じ色に見える。
愚かな若者め、と私は思った。
何があったのか知らないが、
やけになって馬鹿なことをするもんだ。

私の髪が仕上がるよりもはやく、隣の男の頭が完成した。
男は呆然として鏡を見つめている。
右に左に角度を変えて確かめている。
驚いたことに、それは坊主頭ではなかった。
何の変哲もないけれど、
短くカットされた頭は、男の顔によく似合った。
彼は思ったよりも若かった。
どこか幼さが残っている。
人生はまだ始まったばかりであった。
これから何でもできる、
ただの若者の顔があった。
うらやましいなと私は思った。
『できました』
理容師はそう言うと、
仕上げの魔法のように男の頭をさっとひとなでした。
若者は照れくさそうに笑い、自分もさっと頭をなでた。
そしてぺこんと頭を下げて店を飛びだして行った。

風が吹く街へ。
彼の人生へ。

理容師は何事もなかったように床を掃除し、椅子をきれいに整え、次の客を待った。
鏡の中で私と目があった。
その目がやさしく笑った。
窓の向こうに春風が舞っていた。

出演者情報:

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岩田純平 2025年4月20日「かんな 2025春」

かんな2025 春

ストーリー いわたじゅんぺい
       出演 齋藤陽介

かんなは小学3年生である。
ジャンガリアンハムスターの
モノマネが得意な
どこにでもいる小学3年生だ。
将来は
チームラボをつくる人になリたい、
と言っている。

朝は「ZIP」をつけていて、
7時54分になると
「めざましテレビ」に変える。
で「きょうのわんこ」を見る。

犬が好きなのだ。
一番好きなのはブルドッグ。
理由は「人間みたいな顔をしてるから」

夏。

2024年の夏はパリオリンピックがあった。
もちろんパリには行っていないが、
毎日テレビでオリンピックを見ていた。

TOKYO2020の時は
まだオリンピックに
興味がなかったので
パリがオリンピックデビューになる。

スケボー、柔道、フェンシング、バレー、ブレイキン。
ルールはわからなくても
日本選手が勝つと大喜びしていた。

体操の鉄棒を見ていた時、
急に「ひらめいた!」という顔で
「ということは、橋本大輝は
空中逆上がりを何回もやってるってこと?」
と言っていた。
自分ができなかったことに
置き換えてみたら、
そのすごさが実感できた!
という瞬間の表情だった。

パリオリンピックの影響は
国語のテストにも出ていて、
「国」という漢字の部首を書く問題で
「くにがまえ」と書かなければ
いけないところで、
「がいせんもん」と書いていた。
間違いではあるのだが、
部首名「がいせんもん」はかっこいいので、
いつか採用していただきたい。

そのテストでは、
「百円玉」と書くところで
「百点玉」と書いていたり、
「近所の行事に出る」を
「近所のいくじに出る」と読んでいたり、
漢字の画数を書く問題で
「九画」を「丸画」と
漢数字を書き間違えて
バツになったりしていた。
ケアレスミスの多い人生に
なりそうである。

近所の市民プールに行った時、
併設されているバイキング形式の食堂で
昼ごはんを食べたのだが、
「わたしクルトンが好きなの」
と言って、
サラダのトッピングのクルトンを
茶碗一杯に入れて食べていた。
安上がりでよろしい。
食費には困らなさそうである。

一緒にとうもろこしの皮を
むいていた時は、唐突に
「つちのこみたい」
と言うので、
なかなかいい感性だぞ、と思い
「いいね」
と言ったら
「まちがえた。たけのこだ」
と言っていた。
つちのこの方が良かった。

秋。

「かんなキンモクセイのにおい
あんまり好きじゃない。
ちょっとくさいにおいする」
と言うので、
キンモクセイの匂いが嫌いな人も
いるんだなあ、と思っていたら、
「あ、キンモクセイじゃなくて
ギンナンだったかも」
と言い直していた。
多分ギンナンだろうと父は思った。

玄関の前にショウリョウバッタがいて
そのシュッと尖った外見に驚き、
「かんなバッタってもっと
トノサマバッタみたいな
ぶっといオクラみたいなのだと思ってた」
と言っていた。
トノサマバッタは
ぶっといオクラ。
とてもよい。

「今日学校でバレー見たの。体育館で」
と学校であったことを教えてくれた時、
「どうだった?」
と尋ねると
「パイプ椅子に座ったよ」
と教えてくれた。
詳細に説明するポイントが
ややずれているが、
楽しそうだからよかった。

学校公開で授業参観にいった時、
壁に貼ってあった絵のタイトルが
他の生徒は
「くさもち」とか「トゲトゲの花」
だったのだが、
かんなだけ
「朝と夜、くもりと風のお友だち」
という、妙にポエムなものだった。
意味はよくわからなかったが、
父はなんだか誇らしかった。

そろばん教室で川柳を募集していて、
「みとりざん なんどやっても にじゅってん」
というのを書いて出したら、
佳作に選ばれていた。
経験から生まれたメッセージは強い。

そろばんの他には
テニスも3年ほど習っているのだが、
その日の感想や反省を書く
テニスノートに
「しりもちはいたい。きをつける」
と書いていた。
3年目に気づくことではない気がする。

また、テニスがあった日に
「来週、野生のコーチなの」
と教えてくれたので、
「野生のコーチ?」
と聞いたら
「野生のコーチ」ではなく、
「学生のコーチ」だった。
野生のコーチを見たかったので残念である。

冬。

「年末っていつ?」
と聞くので
「年末は一年の最後」
教えてあげた。
「一週間の最後は週末って言うでしょ」
と付け加えると、
「なるほど」と納得したような顔をしていたので、
「じゃあ月末はいつ?」
と逆に質問してみたら、
「月曜日の最後!」
と言っていた。
全く理解していなかったようだ。

正月の朝。
「かんな初夢すごくいい夢を見たの!」
と興奮した顔で起きてきたので、
どんな夢か聞くと
「5円玉が2枚出てくる夢」
と言っていた。
お金が好きなのだ。

お年玉をあげた時は
「かんなちゃんペラペラのお金だーいすき」
とうれしそうにお札をひらひらさせていた。

箱根駅伝を見ながら、
「これは夜も休まずに走ってるの?」
と聞くので、
「昼だけだよ」
と教えてあげたら、
「じゃあ自分がここまで走ったって
ところを覚えているの?」
と不思議そうな顔で聞いてきた。
日没になると、今日はここまで、
という仕組みではない、
ということを丁寧に教えてあげた。

カードゲームをやっていて、
どうしてもぼくが勝ってしまうので、
かんなに有利な条件を提示したら
「そんなことしたらずるずるしくなっちゃう」
と言っていた。
「ずるずるしくなる」は
新語としてぜひ辞書に載せて欲しい。

スーパーで売ってる焼き芋が好きすぎて、
芸人の紅しょうがを見て
「なんだっけこの人たち、べにはるかだっけ?」
というくらいにさつまいもを愛している。

ある時は唐突に
「ものごころがつくって何?」
と聞かれた。
「世の中のいろんなことがわかってくるってことかな」
「じゃあ、かんなはものごころついてる?」
「そうだね」
とぼくは言いながら、
もうものごころついちゃったんだな、
と感慨深かった。

とはいえ、
風呂上がりに
第九のメロディで
「おーばか かんなが ララララ ラーララー」
と歌いながら出てきたり、
素っ裸の兄を見て、
「お兄ちゃん、おちんちんの後ろに
2個ポケットがあるよ」
と言っていたり、
まだまだものごころがついたわりには
幼いので安心している。

また、春が来る。
かんなは四年生になる。
集団登校の副班長をやるらしい。
最後尾を歩く係だ。
遅れないように歩いて欲しいと思う。

出演者情報:齋藤陽介 03-5456-3388 ヘリンボーン所属





かんな 2024夏:https://www.01-radio.com/tcs/archives/33031
かんな 2023冬:https://www.01-radio.com/tcs/archives/32901
かんな 2023春:https://www.01-radio.com/tcs/archives/32349
かんな 2022夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/32004
かんな 2022冬:http://www.01-radio.com/tcs/archives/32004
かんな 2021春:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31820
かんな 2020夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31699
かんな 2019冬:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31528
かんな 2019夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/31025
かんな 2018秋 http://www.01-radio.com/tcs/archives/30559
かんな 2018春:http://www.01-radio.com/tcs/archives/30242
かんな 2017夏:http://www.01-radio.com/tcs/archives/29355
かんな:http://www.01-radio.com/tcs/archives/28077

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佐藤充 2025年4月13日「気になる春」

気になる春。

   ストーリー 佐藤充
      出演:遠藤守哉

粘度の低いほぼ液体のような鼻水が
右の鼻の奥からゆっくりとゆっくりと
垂れ出てくるのを感じる。

近所の喫茶店で
佐藤究の小説『テスカトリポカ』を読んでいた。

鼻水に意識を持っていかれそうになる。
スッと鼻をすすり、液体を鼻の奥へ戻す。

メキシコのカルテルに君臨した麻薬密売人の男が、
潜伏先のジャカルタで日本人の臓器ブローカーと出会い、
新たな臓器ビジネスのために日本の川崎へ向かう。

意識を目の前の小説に戻したときだった。

「馬事公苑って知ってるかしら?あそこ昔は雑木林だったのよ。
その隣に農大があるでしょ?あそこ昔は自衛隊があったの」

左の席におばあさん2人と30代くらいの男女がいる。
会話というよりさっきから1人のおばあさんが一方的に喋っている。
声が大きいので耳に入ってくる。きっと耳が遠いのだろう。

「すみません、ここら辺で」と、
30代くらいの男女が立ち上がる。

「ごめんなさいね。昔話ばかりで」

「あ、いえいえ…」と30代の男女は困ったような苦笑いの表情で去る。

このときおばあさん2人と30代くらいの男女の関係がわかる。
知り合い同士ではなく、
おばあさんが一方的に話しかけていたのだ。

「私たちもお会計しようかしらね」とおばあさん2人が店員を呼ぶ。
「お会計はレジでお願いします」と言われ、
声の大きなおばあさんがレジへ向かう。

席からレジは少し離れている。
それでもおばあさんの声が聞こえてくる。

「お会計、2人で割れるかしら」
「すみません、
それはできないのでおひとりさまが払っていただく形になります」
「じゃあ私が立て替えるから、1人だといくら?」
「3600円なので、
おひとりさま1800円になります。レシートに書いておきますね」

店員が親切にレシートに2人で割った金額の1800円を
ペンで書いているようだった。

おばあさんが支払いを済ませて席へ戻ってくる。
それからしばらくおばあさんたちはまた会話をしていた。

意識を小説へ戻す。

川崎で生まれ育った少年コシモが
ジャカルタから来た麻薬密売人の男に見いだされて、
犯罪に巻き込まれていく。

さらにページをめくろうとしたときだった。

「あれ?私がぜんぶお会計払ったのかしら?」
「あんたがぜんぶ払ったからレシートここにあるじゃない」

そうです。もうひとりのおばあさんが言うとおり、
さっきお会計していましたよ、と心の中で思う。

「え?そうだったかしら?店員さんに聞いてくるわね」
おばあさんは店員へ聞きにいく。

その様子を目で追ってしまう。

おばあさんが「もうお会計していたみたい」と言い席に戻ってくる。

「ほら言ったじゃない。じゃあ1800円払うわね」
もうひとりのおばあさんが払おうとする。

「1800円?それ多くないかしら?900円でいいのよ」
先ほどお会計をしたおばあさんが答える。

いやいや、
900円ではないです、ひとり1800円ですよ、と心の中で思っていると、
「ほらレシートに3600円で、1人用の金額1800円って書いてるじゃない」
ともうひとりのおばあさんが言う。

そう!そうです!
ひとり1800円です!と僕は心の中で答える。

「そうかしら?ひとり1800円は多くないかしら?
きっと間違ってるのよ、店員さんに聞いてくるわね」
おばあさんはまた店員へ聞きにいく。

僕はまたその様子を目で追ってしまう。

店員は「3600円なので2人で割るとひとり1800円です」と答えている。
たぶんこの喫茶店にいるお客さん全員がおばあさんの一挙手一投足に注目していた。

おばあさんが席に戻ってくる。

「ぜんぶで1800円だったわよ、だからひとり900円」と大きな声で言う。

違う違う違う。
おばあさん、ひとり1800円です、と喫茶店の全員が思う。
向かえの席で仕事をしている男性もパソコンを打つ手を止めて見ている。

もうひとりのおばあさんが
「わたし1万円札しかないから、両替頼んでくるわね」と言うと、

さっき3600円を立て替えているおばあさんが
「いや、わたしが細かいのを持っているから、
わたしがあなたに900円払えばいいのよ」
と言う。

いやいやいやいや、
3600円払って、また900円払うのは払いすぎですよ、
喫茶店にいる全員が心の中で思う。

店員のほうを見る。
1800円と書いたのが余計な混乱を生んでしまって気まずそうにしている。

もうひとりのおばあさんが
「あんたが立て替えたのになんでまたあんたが払うのよ、
わたしが両替して払うから」と答える。

そうそうそうそう!
そのとおり!それで合っています!
喫茶店にいる全員が心の中で思う。

こうして3600円を立て替えたおばあさんは
1800円をもうひとりのおばあさんからちゃんともらって
「年取るとすぐ忘れちゃってダメね」などと笑いながら
無事にお店を出ていった。

はぁ、よかったぁ。
喫茶店にいる全員が顔を見合わせた。

ズッと鼻をすする。
口の中に少ししょっぱい味が広がったのをコーヒーで流し込む。

これはまだ僕が花粉症ボトックスをするまえの春の話。

.
出演者情報:遠藤守哉(フリー)


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上田浩和 2025年4月6日「助手席の男」

助手席の男

   ストーリー 上田浩和
      出演 大川泰樹

助手席の男が、
運転席に座ることはない。
運転免許がないからだ。
家族とクルマで出かけるときも、
助手席に座り外の景色を眺めながら、
早く着かないかなと思っている。
助手席の男とは、そういう男なのである。
でも、ただ座っているだけではない。
助手席の男も一応それなりに心を忙しく動かしている。

助手席からいちばんよく見えるのは、
運転席に座る奥さんの横顔だ。
家族を無事に目的地まで届けるという責任感と緊張感が、
奥さんの目元と頬のあたりを引き締めている。
その表情を見て、助手席の男は、
自分にできることはとにかく眠らないことだと気を引き締める。
運転をかわってあげられない代わりに、ただひたすら起きている。
適度に運転席にむかって話題を振る。
後部座席で子どもたちが騒ぎ出したら、
対向車や追い越していくクルマのナンバープレートを見ながら、
足し算大会を開く。
車内が静かすぎて、奥さんが眠くならないように、
うるさすぎて気が散らないように、
明るく盛り上げるMC役を引き受ける。
なかなかたいへんだ。
でも、クルマを運転することに比べたらなんてことはない。

2年前、助手席の男がもっとも恐れていたことが起きた。
ある夜、小学2年生だった長男が、聞いてきた。
「なんでうちは、ママがクルマ運転するの?
友達の家は、パパが運転しているみたいなんだけど」
いつかくるに違いないと恐れていた質問だった。

助手席の男も、
子どもの頃は後部座席の少年だった。
後ろの席の左側に座り、運転する父親の横顔と、
助手席に座る母親のうなじを座席とヘッドレストの隙間から見ていた。
大学生になり、運転席の男になるチャンスはいくらでもあったが、
東京はクルマがなくても電車があるから不便はないという話を真に受け、
教習所に通うことを面倒くさがり、そのまま就職した。
もちろん働きながらでも免許を取りに行くことはできた。
でも、忙しさを理由に行かなかった。
子どもができたとき、
このままだと成長したとき恥ずかしい思いをさせることは分かっていた。
それでも、やっぱり行かなかった。
そうやって、助手席の男は、助手席の男になった。

春。クルマのなかも、日差しが厳しくなってくる。
奥さんはサングラスをかける。
当然である。
運転手が目を守ることは、家族を守るということなのだから。
助手席の男も、サングラスをかけたいと思う。
なぜなら、眩しいのだから。
でも、助手席の男がサングラスをしてもいいのだろうか。
ただかっこつけたいだけなのではないかと、
思われている気がしてならない。
だから、春の助手席の男は、強い日差しのなかで、
しかめ面をしていることが多い。

.
出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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村山覚 2025年3月30日「ハルさんの替え歌」

「ハルさんの替え歌」

ストーリー:村山覚
出演:遠藤守哉

ぼくが時々顔を出すスナックに、
ハルさんというおじさんがいる。

ハルさんはハルさんのくせに春が嫌いだ。
花粉も、桜も、花見も「いけすかない」と言う。
「梅はどうですか?」と聞いてみたことがある。
「わざわざ見に行ったりはしないけど、
梅干しと梅ねりは好きだな」と彼は言った。
ハルさんは若い頃、ばりばりの営業マンだったらしい。
銀座や六本木での接待も多かったという。
「あの頃は本当にタクシーがつかまらなかった」という話を
何度も聞かされた。「毎回それ言いますよね」と
ぼくが言うと、ハルさんはグラスの中の氷を
カラカラと鳴らした。
ハルさんは歌がうまい。ばりばり時代は先輩や
お客さんから「おい、ハル! なんか歌え!」と
よく言われたらしい。そんなときは
「では、今日もハルソングを」と言い
分厚いソングブックをめくっていたそうだ。
あの分厚いの、ちょっとした鈍器だったな。

春一番  春なのに
春だったね  春よ、来い

ハルさんは、それらの歌を1番はそのまま歌い、
2番からは「春」という歌詞を「悪」に置き換えた。

もうすぐ悪ですね  悪なのにお別れですか?
あゝ あれは悪だったね  悪よ、遠き悪よ

ハルさんは言った。
「ほら、春ってさ、少し悪いやつだろ?」
たしかに春には暖かさの陰に底知れぬ冷たさがある。
出会いと別れ、期待と落胆、満開と散り散り。

ある春の日。けっこう酔っ払っていたぼくは
ハルさんの真似をしてワルソングを歌ってみた。
変な空気になった。ママの「いぇい!」という
合いの手と拍手がさびしく響き、当のハルさんは
にんまりしながら氷を指で回していた。

ぼくはマイク越しに言った。
「おい、ハル! なんか歌え!」

.
出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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宗形英作「都会の野原(2025年版)」

都会の野原    

          ストーリー 宗形英作
             出演 大川泰樹

あなたは知っていますか?
あなたが今いるところが、野原だったことを。

あなたは想像できますか?
あなたが今暮らしているところが、野原だったことを。

かつてそこは空と雲と野原しかなかった。
あるいは、月と星と野原しかなかった。

50年前のことなのか、
100年前のことなのか、
300年前なのか、500年前なのか。
あるいは1000年も前のことなのか。
もっともっと前のことなのか。

なだらかで、風通しがよくて、見晴らしのいい、
その野原に一軒の家が建った。
ほんの小さな一軒の家ではあったけれど、
その家から少し離れたところにまた一軒の家が建ち、
それが十軒になり、百軒になり、千軒になり、家々が連なり、
野原は村になり、町になった。

野原の面影を残していた村は、屋根の連なる町になり、
水平に広がっていった町は、縦に縦にと伸び始めた。
高層のビルが立ち、その高さを競うようにビルの隣にビルが立ち、
ビルとビルの間には陽のあたらない場所が出来た。
野原は村になり、町になり、そして都会になった。

ずっと昔々から、
その都会は都会であったかのように佇んでいる。
そこであなたは暮らしている。

都会で暮らすということは、
そこが野原であったことを忘れるということかもしれない。
もはや野原を思い出すこともできないということは
ようやく都会になったということかもしれない。

だからこそ、ほんの少しだけ思い出してみよう。
あなたが今いるところ、そこが野原だったことを。
ほんの少しだけイメージしてみよう。
あなたが今暮らすところ、そこが野原だったことを。

あなたの野原はどんな野原だろう。
あなたの野原はどんな季節の野原だろう。
あなたの野原はどこの野原に似ているのだろう。

陽は東にあるのか西にあるのか。
風は南から吹いているのか北から吹いているのか。
草の高さは足首までか膝上までか。

野原にはいろんなものが潜んでいる。
野原にはいろんなものが混じり合っている。

蝶がいて、トンボがいて、
カマキリがいて、トカゲがいて、
クモがいて、てんとう虫がいて、
赤があって、緑があって、
黄色があって、紫があって、
知っているものがあって、知らないものがあって、
光があって、影があって、
そして、どれもみんな動いている。

野原であなたはきれいに出会い、
野原であなたは不気味に出会い、
野原であなたは心地よいに出会い、
野原であなたは怖いに出会い、
野原であなたは子供のころに出会う。

目は近くも遠くも見つめている。
耳は360度の音に神経を使っている。
皮膚はささいなことにも繊細になっている。
そしてなにより、あなたの動きがゆっくりになっている。

生きるということは急がないということなのだ、
そんなことに改めて気づいたりする。
生きるということはいろんな生きると出会うことなのだ、
そんなことに改めて気づいたりする。

もしもあなたが疲れていたら、
あなたが今いるところが野原だったということを思い出してみよう。
もしもあなたが眠れなかったら、
あなたが今寝ているところが野原だったということを思い出してみよう。

野原はきっとあなたを大切に迎えてくれる。
野原はきっとあなたを大きく包んでくれる。
都会に住むひとにこそ野原は必要なものだから。
そしてなにより野原はあなた自身なのだから。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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