佐藤充 2023年11月26日「希望岬にて」

希望峰にて

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

この1ヶ月で2度死ぬかと思ったことがある。

ナミビアでレンタカーを借りて走っているときだった。
ナミビアは現地の言葉で「何もない土地」を意味する。
世界で最も人口密度が低い国だ。

見渡す限り地平線。
人も車もいない。
いくら走っても変わらない景色。

その変わらない景色は
いくら走っても止まっているように錯覚させた。

車は100キロを超え、120キロ、150キロとどんどんスピードを上げていく。
すると突然野生のジャッカルが目の前に飛び出してきた。
避けようとすると轍にハンドルをとられる。

車は大きく傾く。
景色がスローモーションになる。
内臓が口から飛び出そうだ。
数メートル先には崖がある。

ここで人生が終わるのだろうか。

このアフリカ卒業旅行から帰国したら、
来月から僕は社会人になる。
まだ働いたことがない。

親に借りたお金を返せていない。
出世払いでと散々言い続けて借りてきたのだ。

「あちらのお客様から」といい感じのバーで
お酒をご馳走したこともない。
社会人になったら絶対にやろうと思っていた。

よくわからないけど港区あたりでやっていそうな
酒池肉林のパーティーみたいなものにもまだ参加したことがない。

崖から落ちたら、死ぬ。
止まってくれ、止まってくれ、止まってくれ。
願いが通じたのか、車はギリギリのところで止まる。

死ぬかと思った。
これが1度目だ。

そして、2度目。

ナミビアでレンタカーを借りて走っているときだった。

みなさんすでにご存知のように、
変わらない景色に車は知らずのうちにスピードが出る。

同乗していた誰かが言った。
「右にヌーだ!」

不意なヌーに意識とハンドルをとられる。

今回は道がジャンプ台のようになっていて、
車はスキージャンプのように勢いよく空中に放り出された。

何日かぶりの内臓が宙に浮く感覚。
何日かぶりのスローモーションの景色。

今度はヌーか。
流れゆく景色のなかで思う。

誰にも言ってこなかったけど、
社会人になったら親を海外旅行に連れていこうと思っています。

コンビニで買い物したら毎回小銭はすべて募金しています。

トイレを使用したらトイレットペーパーは三角折りにしています。

スマホを落としたときは、
スマホに「落としてごめん」と言っています。

雨の日に階段を歩くときは、
傘の先端がぶつからないように後ろの人に気をつけて歩いています。

元気がない友人がいたら何も言わずに飲みに誘っています。

小学校から高校卒業するまで朝晩かかさず犬の散歩もしていました。

トンボが雨で羽を濡らして飛べなくなっていたのを
家に持ち帰りドライヤーで乾かしてあげたこともあります。

「つゆだく」と注文していたのに、
「つゆぬき」できても何も言わずに牛丼を食べています。

封筒に入った10万円を拾ったとき、
ちゃんと交番に届けました。

誰もやりたがらなくて、
だからといってジャンケンで負けた人がやると先生が不機嫌になるので、
やりたいふりして学級委員長に立候補したこともあります。

空中に投げ出された車は、
地面に強く叩きつけられながらも
奇跡的に無事に止まった。

そして今、
南アフリカはケープタウンの希望峰にいる。

英語では「Cape of Good Hope」

2度死にかけた僕の目の前には、
大西洋とインド洋の水平線と
希望が広がっている。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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佐藤充 2023年10月15日「インシャアッラー」

インシャアッラー

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

「何を考えているのかわからない」

中学時代から9年お付き合いさせていただいていた女性に言われた。

「いや、ほんとに何も考えてないだけなんだよ」と答えると、
だとしたらそれはそれであり得ないことだと怒られた。

ボーッとしている。

だからなのか、存在に気づかれないことも多々ある。

まず自動ドアは感知してくれない。
虎ノ門ヒルズの自動ドアに感知されず、自力で開けたことがある。

撮影場所をまわるロケバスの中で
「やばい!置いてきた!」とプロデューサーが焦っていたこともある。
もちろん僕はロケバスに乗っていた。

大学時代の友人数人と遊んでいるときも行方不明になったと騒がれた。

吉野家の店員にも忘れられる。

シリアの国境で入国審査中にバスに置いていかれたこともある。
たまたまバックパックは背負っていたから、
バスに残していた読みかけの宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の文庫本だけ失った。

無事にシリアに入国し、
バスとフェリーでヨルダンとエジプトをまわったが、
カイロで全ての荷物を盗まれてしまった。
もちろんパスポートも荷物の中だ。
何もかも失ってどうやって帰国しよう…と宿に戻って考えていたら
世界一周中の日本人夫婦に出会った。

ふたりは「これで何か食べて」とお金と、
「私たちは読まないから」と一冊の文庫本をくれた。

それは僕が1ヶ月前にシリアの国境で
バスのなかに置いてきてしまった宮沢賢治の
『銀河鉄道の夜』だった。

「これ僕のです」と言うと2人は不思議そうな顔をしていた。

聞くとその夫婦はシリアのダマスカスで現地の人にもらったのだと言う。

こんなことがあるんだなと思った。
全てを失ったと思ったら、奇跡のように本だけが戻ってきた。

「インシャアッラーだね」とふたりは笑っていた。

アラビア語で「インシャアッラー」とは、
「神のみが知る」という意味。

現地の人たちに何かを聞いてもすぐに「インシャアッラー」と言われる。

最初は曖昧で無責任な言葉だと思っていたが、
考えてみれば思い通りにうまくいくことなんてなかなかない。
その代わりに神さまは小さな奇跡を用意してくれるのだろう。

カイロの日本大使館でパスポートを再発行してもらい、
日本へ帰る飛行機に乗ったら機内食で食中毒になった。
一刻も早く家に帰りたい。
しかし、家の鍵がなかった。
「銀河鉄道の夜」以外の荷物は全て盗まれていた。
僕は後払いの約束で鍵屋さんを呼んだ。

到着した鍵屋さんは僕の姿が不憫すぎたのか、
お金はいらないと鍵を開けて帰っていった。

もしかしたら奇跡みたいな出来事は、
ボーッとして隙のある人間の周囲に起こりやすいのかもしれない。

落ち着いてから世界一周中のふたりにお礼のメールをした。
これからアルプス山脈のモンブラン周辺をトレッキングするらしい。

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佐藤充 2023年8月6日「8月6日のアサガオ」

8月7日のアサガオ

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

東京の暑さに耐えられず、北海道の実家に帰省した。

「ローソク出ーせー出ーせーよー 
 出ーさーないとー かっちゃくぞー
 おーまーけーにー噛み付くぞー」

窓の外から子どもたちの歌が聞こえてくる。
今日は8月7日か。

8月7日、北海道では「ローソクもらい」がある。

日が暮れ始めると子どもたちが
「ローソク出ーせー」と歌いながら近所の家々をまわる。
大人たちはやって来た子どもにお菓子を渡す。

アメリカのハロウィンと同じだ。

子どもたちが
「トリック・オア・トリート」と言ってお菓子をもらうか、
「ローソク出ーせー」と言うかの違い。

たまに本当にローソクを配る家があると
子どもたちの間で生涯ずっとローソクの家と呼ばれ続ける。

うまい棒などよく食べるお菓子を配る家は普通の家と呼ばれ、
カステラやワッフルなどを配ってくれる家はレアな家、
「ごめんね、お菓子買い忘れて」と100円をくれる家は100円の家と呼ばれる。

小学校5年の夏休み前に新しい学校に転校した。
これで3つ目となる小学校だった。

家庭環境のせいもあってか、転校はいつも突然だった。
3回目となるとまた次もすぐあるような気がして、考えるとまた憂鬱だった。
最初は転校に反対や抵抗をしてみたりしたが無駄だとわかった。
口でも勝てない。腕力も勝てない。子どもは何もできない。無力だった。

担任はサイトウという中年の女の先生で
国語の教科書に載っている与謝野晶子に似ていた。

新しいクラスには学校に来たり来なかったりする女の子がいた。
彼女はいじめられていた。

彼女が登校して来た日、
サイトウ先生が「彼女の嫌なところを1人1つ言っていこう」と言った。
転校してきたばかりの僕は免除された。

クラスメイトが1人ずつ順番に言う。
「走り方が変」
「汚い感じがする」
言葉のひとつひとつが彼女に向かって飛んでいく。

彼女は泣いている。

どこかのタイミングでサイトウ先生は
クラスメイトに注意するのかと思ったら違った。

泣きながら聞いている彼女に
「泣いてないでちゃんと聞きなさい」
と注意をする。

最後にサイトウ先生は彼女に「言われたところを直していこう」と言った。
この教室には、彼女の味方がいないように見えた。
思うことはあるのに黙って聞いているだけの自分もまた無力だった。

1学期が終わり夏休みに入る。
8月7日、僕は友人たちと「ローソク出ーせー」と歌いながら
お菓子をもらいにまわっていた。

すると友人の1人が彼女の家を教えてくれた。
嫌がる友人たちを無理やり連れて家の前まで行く。

これをきっかけに彼女が学校に来やすくなればいいと思った。
こういう空気を変えられるのは部外者の転校生だったりする。
と勝手に思っていた。

インターホンを押す。
そして、歌う。

「ローソク出ーせー出ーせーよー 
 出ーさーないとー かっちゃくぞー
 おーまーけーにー噛み付くぞー」

家からは、誰も出てこなかった。
つぼみを閉じたアサガオが玄関脇に植えられていた。

そして9年後、この話には後日談がある。

成人式の会場に彼女がいた。
「もしよかったら、今夜同窓会来てほしいです」
彼女が来たいどうかはわからなかったけど、
その夜にある同窓会に誘うことができた。

8月7日になると思い出す。



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佐藤充 2023年5月28日「レディラック」

レディラック

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

「ドライバーのキクが店出すから、お前そこでバイトしろ」

高校入学を控えた春休み。
おじさんに言われバイトをすることになる。

おじさんは他人から見たら父親に見える。
たまに家に遊びにきた友人に
「お前んちの父さんさ・・・」といわれると
「おじさんね。うちおじさんだから。そういう家だから」と訂正する。
みんなよくわかったようなわからないような顔をする。
説明がめんどくさいときはそのまま流すことにしている。
どこの家にも説明の難しいややこしい部分がある。

母が経営するデリバリーヘルスで当時ドライバーをやっていたキクさんが
バーをやりたいと言うのにおじさんが出資する形で
店を開くことになった。

母親は金をドブに捨てるだけだと猛反対した。
しかし男というのは夢を語られると
なぜか利益とか頭から抜けて応援したくなるときがある。
義理と人情に弱い。
おじさんは「金は回収するから赤はでない」と言っていた。
その頃のおじさんは『ナニワ金融道・ミナミの帝王』をよく見ていたから
タイミングもあったのだと思う。
ナニワ金融道の竹内力はかっこいいから。

高校1年生になると同時にキクさんのバーで週に4回働くことになる。
高校生活って放課後に友達とびっくりドンキーでおしゃべりをしたり、
好きな女の子を自転車の後ろに乗せて
夕暮れ時の河川敷を走ったりするのだと思っていた。
だけどおじさんに
「お前を夜の男にする。夜の帝王になるんだよ」と言われ
「夜の帝王、かっこいいな」と思い、
その話にのってしまった。男は夢を語られると弱い。

店の名前はレディラック。意味は幸運の女神。
デリヘルで働いた女の子たちのお金で作った店だからなのか
ネーミングの意図はわからない。

知り合いだけを呼ぶプレオープンの日は
デリヘルで働く女の子たちなども来て盛り上がり幸先もよかった。

でもよかったのは最初だけだった。

暇。とにかく店はそれから暇だった。
「今日お客さん来なかったこと言うなよ」とよくキクさんに言われた。

来たとしてもたまに近所の飲食店のひとたちが様子を見に来るくらい。
そこでキクさんとお客さんの会話を聞いている時間が長かった。

キクさんは
「こう見えておれ大卒なんすよ」が口癖だった。
確かに旭川では特に夜の世界では大卒は珍しかった。
しかしキクさんの大学は旭川大学。
金を出せば誰でも行ける大学で、
旭川大学行くぐらいなら高卒でいいとまで言われる。
卒業生に小梅太夫がいる。

旭川は狭い世界なので友達の友達はみんな友達の世界で、
長く旭川にいると狭い世界で男と女も取替え引替えで、
みんなが元カノ元カレみたいなことがよくある。
来るお客さんもそんな感じで共通の知り合いが必ずいる。
共通の友達探しゲームな会話が多い。息苦しい。

いつもキクさんの「こう見えておれ大卒なんすよ」や、
「おれ柔道やってたんで若い頃に飲み屋でどこどこの誰々
(たぶん地元のヤンキーでは有名なひと)を
背負い投げしてぶっ飛ばしたんすよ」などの
本当か嘘かわからない武勇伝を聞かされる。

営業がおわる深夜2時。
親がデリヘルの仕事を終えて車で迎えに来る。
これから店の女の子たちと焼肉を食べるらしく一緒にいく。

深夜3時過ぎ帰宅。
犬の散歩にいく。1日で1番好きな時間。

静かな住宅街。自分の歩く砂利の音。
風に揺れる木の枝や葉の音。肌に触れる冷たい風。
息苦しさから解放されて空気がたくさん身体中に入ってくる。
公園の鉄棒前にキックボードが置きっ放しになっている。
世界に自分と犬しかいない気がする。
整骨院の横にあるセイコーマートの店の灯りに蛾が集まっている。
店員さんが暇そうにしている。

数時間後には学校にいる。
また3時間くらいしか眠れない。ゆっくり寝たい。
なにかの拍子に時空が歪んだりして学校がなくなったりしないかな。

犬が片岡の家の前でうんちをする。
ビニール袋を持たずに来てしまった。
曲がり角に黒い塊が動くのが見えた。

走る。走る。走る。黒い塊から逃げるように走る。
振り返ると黒い塊は、キツネだった。
化かそうとしているのか。もう化かされているのか。
夜はまだ雪が残る春のにおいがする。

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佐藤充 2023年4月16日「嘘と10円ハゲ」

嘘と10円ハゲ

ストーリー 佐藤充
出演 地曳豪

「わ、これ辛いやつだ」

ししとうを食べていると辛いのが混ざっていることがある。
同じ環境で育ったはずなのに違う。
僕ら兄妹と似ている。

1つ下に妹がいる。
最終学歴は小卒だ。
なぜ小卒が生まれたのか。

きっかけは、1つの嘘からだったと思う。
ネット上で架空の自分を作ったのだ。

前略プロフィールというネット上に
自己紹介ページを作るサイトがあった。
そこにリンクしてブログや写真なども載せられた。

妹はそこに架空の自分を作った。
本来は引っ込み思案で大人しい人間だが、
ネット上では違った。

旭川ではその年齢の代で1番の不良を
「旭一(きょくいち)」と言う。
「旭川で1番」を略して「旭一」だ。
妹は何を思ったのか勝手に名乗るようになる。

前略プロフィールのリンク先のアルバムに飛ぶと、
妹のプリクラには「旭一」と書かれていた。

田舎の小中学生は不良に憧れる。
それはDNAに組み込まれてるかのようにある日突然はじまる。
男の子ならママチャリの荷台を上げ、
ハンドルをカマキリのように改造する。

放課後や休みの日は用もなくマクドナルドに行く。
急に色気づいてお香にハマり部屋中を煙たくする。
ラスタカラーのグッズが部屋に増える。

理由はわからないが路上に唾を吐く。
ドンキホーテで買ったPLAYBOYのスウェットを着て、
冬でもキティちゃんのサンダルでラウンドワンに出かける。
児童相談所を「児相」と言う。

妹の前略プロフィールのゲストと書かれた
誰でも書き込めるリンク先に飛ぶと
そんなお友達からの「絡も〜」という書き込みが溢れていった。

妹はそこで辞めることができなかった。
ネット上の人格が現実になってきた。
実際にそんな友達と絡むようになる。

家にやんちゃな友達が出入りするようになった。
そして僕の部屋にもふざけて入ってくるようになった。

すごく嫌だった。
どうやったら自分の部屋に入ってこなくなるかを考えた。
そして実行に移した。

「お兄ちゃん元気〜?」という声とともに部屋のドアが開く。
僕は薄暗い部屋で妹の下着を身につけてベッドに腰掛け無言で見つめた。

相手は見てはいけないものを見たような、
理解できないものに対する恐怖のような、
鳩が豆鉄砲を食らったような、
どうリアクションしていいのか戸惑っていた。

実は僕も戸惑っていた。
本当はこんなことしたくないし、
これが正解なのかもわからない。
今からでも事情を説明した方がいいかもしれない。

腰掛けていたベッドから立ち上がり一歩近づくと扉は力強く閉められた。

戦わずして不良に勝った瞬間であり、
何かを失った瞬間でもあった。

次の日、生まれてはじめて10円サイズの円形脱毛症ができた。

親も困っていた。
妹はやんちゃな友達と絡み続け無断外泊や補導をされ、
兄は妹の下着を身につけて10円ハゲができる。

結果的に妹は中学を卒業する年齢になるまで
施設に預けられることになった。

きっかけは、1つの嘘だった。

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佐藤充 2023年3月26日「アラブの春」

アラブの春

ストーリー 佐藤充
出演 地曳豪

帰国3時間前。
タクシーはハイウェイでいきなり止まった。
2011年3月、
アラブの春と呼ばれる革命が起きているエジプトだった。

中東を1ヶ月ほど1人で見てまわり
ヨルダンからフェリーで入国してやってきた。
日本への帰国便をカイロから取っていたのだ。
街では車が燃え、催涙ガスの煙が舞っている。
できるだけ外に出ることなく過ごし帰国日を迎えた。

帰国3時間前。
空港へ向かうタクシーがハイウェイで止まる。
ルームミラー越しにドライバーの男と目が合う。
「エンジントラブル」と男は英語で言う。
続けてジェスチャーとアラビア語で「車を後ろから押してくれ」と言うので
一緒に押すことにした。

車は2人で押すと少し動いた。
男は「そのまま押し続けてくれ」と言い、
急いで運転席に戻りエンジンを掛けに行く。
ブルルンとエンジンが掛かる音がする。
タクシーはそのまま僕をハイウェイに置き去りにして
猛スピードで走り出した。

Uターンするだろうと見ていたら、
タクシーのテールランプは遠ざかるばかりで
ついに闇に消え見えなくなった。

もしかしてまだ戻ってくる可能性も
あるかもしれないとも思ったが、
あの走り方は戻ってくる感じのスピードではなかったなと思い、
ここで待つのは危ないので
いったんハイウェイの中央分離帯に移動する。

タクシーのトランクにパスポートに財布、
着ている服以外の全ての荷物を乗せていた。
残り3時間でパスポートだけでも取り戻して帰国することはできるだろうか。
たぶん無理だ。帰国できない。
無一文でカイロのハイウェイの中央分離帯で考える。

ちょうど去年の今頃、大学へ入学するために北海道から上京してきた。
厳密には埼玉の新所沢に住み始めるので
上京と言っていいのかわからないけれど。

上京1日目に西友で12800円の自転車と9800円の自転車で迷って
9800円の方を買った。
明日はこの自転車に乗って近所を散策しようと思ったら、
次の日アパートの1階の駐輪場に止めていた自転車はパンクしていた。
目線を上げた先には都合よく「パンク直します」と手書きの張り紙があって、
その横には「張り紙禁止」という旨のアパートの管理会社の張り紙もあったが、
気にせず電話をした。

「もしもし、自転車パンクしちゃって」
「あ、そうなの」
「はい、直してもらいたくチラシ見て電話しました」
「いま、昼飯食べてるんだわ」
「はい」
「そのあと出勤の準備あるんだわ」
「はい」
「家どこなの?」
住所を伝えると「あ、近いから30分後に行くわ」と男は言った。

男は少し遅れてやってきた。
「どれ自転車」と言うと男は慣れた手つきでホイールからタイヤを外し、
水に浮かばせてどこに穴が空いているのかを確認しはじめた。

「俺さ、本職は流しなんだわ」
「ナガシ?」
「新宿のゴールデン街で夜ギター持って歌ってるんだわ」
「ああ、流し!」
流しという職業の人に初めて出会って感動した。

「俺、CDデビューもしてんだわ」と
男はもともと黒色だったのだろうけど、
日焼けして紫色になった使い古したアディダスのカバンから
CDを出した。

「1500円」
「え?」
「CD込みでパンク代1500円」
「あ、CDも、、、」
「ほんとはCDだけで1500円だから」
CDはいらないから安くしてくれとは言えずに1500円を払った。

「新宿にも聞きにきてよ!」と言われ
いつか行こう行こうと思って、
まさか1年後に革命中のエジプトカイロのハイウェイの中央分離帯で
帰国できずに途方に暮れているなんて思ってなかったので
まだ新宿にも聞きに行かず、CDも聞かずに引き出しに入れっぱなしだ。

帰国できたら聞きに行くだろうか。
いや、行かない気がする。

東京はきっともう桜が咲いている。

花見でこれを笑い話にできるように
ひとまずなんとかなるだろうと歩きだす。
 
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出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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