直川隆久 2019年5月19日「寄り道」

寄り道

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

電車の扉が開いて降りた客は、その男一人だった。
無人駅。
かすかに、潮の匂いがする。
岬の展望台までは、きつい登り坂だそうだが、
歩いて2時間もかからないだろう。
早すぎるな、と男は思った。
暗くなるまでにはまだずいぶん時間がある。
経験がないから確証はないが、
飛び込みを図るなら、
やはり人目につきにくい時間のほうがいいだろう。

男は、腹が減っていることに気がつく。
これから死のうというのに、何か食うのもおかしな話だろうか。
だが、時間もつぶしたい。
男は、なにか店を探すことにする。

改札機に切符に吸い込ませて、駅の外へでる。
駅前には、公衆便所と、パンや日用品を売る小さな商店が一軒あるきりだ。
線路と並行に、一本の道路が走っている。
とりあえず右の方向に歩き出ししばらくすると、
「500m先 手打ちそば」と書かれた看板があった。
そばか。悪くない。最後の晩餐、いや、昼飯に、
枯れた感じが似つかわしい。
男は、看板に描かれた矢印を確認し、足どりを速めた。

道路わきに、愛想のないつくりの、四角い建物があった。
アルミサッシが埋め込まれた壁は、
建てられた頃は白かったのだろうが、今は全体に黒ずんでいる。
「そば」と書かれたのぼりが、鉄の傘立てに突っ込んで立てられ、
入り口の引き戸のガラスには「名物山菜そば700円」と書かれた紙が
セロテープで貼られている。

引き戸を横にすべらせて中に入ると、薄暗い。
店の床はコンクリートの土間で、年代物のテーブル…
といっても、キャンプのときに使うような、
足の細いもの…が8つほど並ぶ。
誰もいない。

―すみません。
と男は店の奥に声をかける。
すると、厨房らしきところから、もそもそと一人の男がでてきた。
見たところ70ほどか。店主だろう。
七分丈の調理用白衣の前身頃がネズミ色に変色している。
ずいぶん長い間、洗濯していないと見える。
―あの、そば、頼みたいんだけど。
店主は、返事もせず奥に引っ込んだあと、
メニューとコップの水を両手にそれぞれ持って戻ってきた。
男はメニューを眺める。
かけそば。もりそば。たぬき。山菜。コロッケそば。唐揚げそば。

唐揚げそば。
どうも、そば屋らしい職人的こだわりには無縁の店のようだ。
―山菜そば、ひとつ。
男の注文をきいて店主は、口元の形をほとんど変えることなく
「え」とも「う」ともつかぬ小さな音を発した。
「はい」という言葉の発音にかける労力を長年かけて節約し、
最終的にその形に落ち着いた、ということのようだった。

店主が奥に引っ込むと、男は手持ちぶさたになる。
テーブルの天板の下には、古い漫画雑誌がつっこまれているので、
めくってみる。
だが、連載ものの話の途中からでは、ついていけもしない。

麻雀漫画の表紙が目に飛び込んで、男は反射的に雑誌を閉じた。
男が死ななければならない原因が、
そのゲームでできた借金だったからである。

店主が、丼を片手に持ってふたたび現れた。
さっき同様、盆にのせず、直接手に持っている。
両手をつかうのが癪にさわるのだろうか、
かえって重いだろうに。と男は思う。
店主がテーブルにそばを置いて去る。
男は、割りばしで、そばをたぐる。
すすったそばをかみしめると、
舌の上にざらざらといらだたしい感触を残しながら、
粘土のように歯にまとわりついた。
うへえ、と男は思った。
男は、十割そばというものを食べたことがなかった。
食べたことはないが、それはラーメンやうどんとは違って、
やや口ざわりのなめらかさに欠けた食べ物ということは知っていた。
この食感は、本格的なそばの証拠…なのだろうか。
だが、やはり、もう一口食いたいという気持ちがどうしてもおこらない。
こんなものをありがたがる人間が世の中にそう多いとは思えず、
要するにこれは単にひどく不味いだけのそばなのだ、
と男は結論づけた。

そばの上にのった山菜を食べる。
ビニールのパックで売っているやつで、食べなれた味だった。
かまぼこも、かまぼこらしい味がした。
出汁をすすってみる。
これに味がなかった。出汁というより、ほぼ湯であった。

男は、だんだん、情けなくなってきた。
おれの人生最後の食事が、この不味いそばなのか。
運命というやつに、どこまでも小馬鹿にされているような気がしてくる。
男は、箸をおき、コップの水を一口のんだ。
席を立つ。丼の中のそばはほとんど残っている。
勘定のとき、こんなまずいものを出して、よく平気でいられるね。と
嫌味の一つも言ってやろうと男は思った。
あんたにとっては、どうということもない一杯のそばだろうが、
俺にとっちゃ深い意味があったんだよ。

レジに、店主が入る。男のだした1000円札を受け取る。
男が、よし、一言、と息を吸い込んだその瞬間――
店主は破顔一笑し、あーりがとうございましたー、と高らかな声をあげた。
さっきまで、口を動かすのも億劫だ、と言わんばかりの態度だったのが
信じられない豹変ぶり。
現金と引き換えにだけ、感情表現という労働をする…
それがこの店主のルールらしかった。
300円の、ぉー、おぅかえしでぇす。
男はタイミングを狂わされ、黙ってつり銭を受けとるしかできなかった。
まぁたおこしくぅださいませぇ。
店主の声を背中で聞きながら、男は引き戸を開け、店の外に出た。

まだ、日は十分に高かった。むしろ、ようやくそろそろ昼という時間。
腹はまだ、満ち足りていない。

男は、このそば屋の人生をしばし思った。
愛想と労力の出しおしみをしながら、ただ不味いだけのそばをつくる人生。
あの男にも、若く希望に満ちた頃があったのだろうか。
ひょっとすると、他人から受けた度重なる裏切りや、
思いにまかせぬ事々が、
長年の間に彼の心をいびつな形にねじり固めてしまったのかもしれない。
が…他人の人生はわからない。
余人にはうかがいしれない、彼なりの生きがいが、
そこにはあるのかもしれぬ。

男は決めかねていた。
来た道を戻るか。
もう少し先まで歩いてみるか。
目の前の道路を、ぶおん、と音をさせてトラックが1台通り過ぎる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 

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岩崎亜矢 2019年5月12日「とても感じのいい女」

「とても感じのいい女」

    ストーリー 岩崎亜矢
       出演 西尾まり

上りの電車が先ほど発車したので、
あと15分ほど、このホームは閑散とする。
がらんどう。
弁護士事務所の広告が書かれたいつものベンチに座るたび、
その言葉が頭に浮かぶ。
近辺には店も少なく、住宅ばかり。
急行が止まらないこの駅の昼時は、日々こんな感じだ。
知り合いもいなければ、用事があるわけでもない。
30分ほど電車に乗って、私はわざわざこの駅にやってくる。

クイ、と一口。
手に持った缶チューハイを飲み込み、その冷たさにぶるっと震える。
空は、春特有のどんよりとした灰色である。
春と聞くだけで、人々はことさら浮れるが、
Tシャツ一枚で出かけるにはあとどれくらいの日々を過ごせばいいのだろう。
そう思うだけで、また気が滅入ってくる。
くずれそうになる前に、私はここへ駆け込む。
なぜか? ここが、こここそが、私の居場所だからだ。

収入の高い仕事があって、夫がいて、実家は裕福で、友人もいて、
一体あなたは何が不満なんだと、問われたことがある。
あれは、何かのパーティーだっただろうか。
箇条書きでは見えない行間が、人間にはある。
そう答えたところで、
私のアラを探そうと躍起になる他人には、何も通じない。
私は、相手を不快にさせない程度の笑みを浮かべ、
「どうにも打たれ弱くて。だからダメなんですよね」と答えた。
相手はひとまず納得したようで、
もはや私以外の何かへと視線を移動させていた。
リフレッシュするにはやっぱり海外旅行だよ、とよく人は言う。
私から言わせれば、3泊4日程度、どこか遠くに行っただけで
気分が変わるという人は、そもそもたいした悩みなど持っていないのだ。

そんな私の気持ちとは裏腹に、人々はなんともあっけらかんと、
「悩みがなさそうだよね」という言葉を私にぶつけてくる。
つぶらな瞳、少し大きめの鼻の穴、上がった口角。
美人すぎないこの顔は、他者に対し、
敵意やストレスといった攻撃を仕掛けない。
「あの人は明るく、元気だ」。
誰に聞いても私の第一印象はこう返ってくるし、
どこにいても道を聞かれることはしょっちゅうだ。
この顔を持つ人間の責任として、
私も、周囲から求められる役割を演じてきた。
バカみたいな話だけれど、物心ついた頃から強くそれを感じ、
そしてそのように生きてきたのだ。
ただ、たまに、サイズの合っていない服を着せられているような気分に
なることがある。
そんな時は、その窮屈さに息が苦しくなり、
うまく笑うことはおろか、喋ることもままならなくなる。
一人になることが、唯一の治療法だ。

隣のベンチに座るややくたびれたスーツ姿の中年男性や
自動販売機の補充をしている作業員は、私の無を邪魔しない。
そこに彼らはいるけど、そこに彼らはいない。
彼らからしたら、私も無なのだろう。
感じがいいも悪いもないこの場所で、ちびちびと私は缶の水分を摂取する。
ここは無人島。ここは天国。
あと7分後に来る上り電車に乗ったら、いつもの日常が待っている。
そうして私はまた、
「つぶらな瞳と少し大きな鼻の穴、上がった口角が特徴の、
感じのいい遠山晴子さん」、に戻るのである。

出演者情報:西尾まり 30-5423-5904 シスカンパニー

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磯島拓矢 2019年5月5日「駅」

「駅」

    ストーリー 磯島拓矢
       出演 大川泰樹

電車で初恋の人と再会する。
そんなことは今や少女漫画でも起こらない、なんて言ったら
少女漫画家に怒られるだろうか。
しかし、思いがけない人との再会はある。

その日僕は、大学時代のサークルの後輩と再会した。
僕は外回りの途中で、ボーっと座席にもたれていた。
目の前にはカップルらしき男女が座っている。
男は居眠りをしている。女は中づり広告を見ている。
その女の人と目が合った。
「あっ」という顔をされた僕は、「え?」と思い、
1秒後に記憶がつながった。
いたいた。サークルの一つ下だ。
名前は、名前は・・・思い出せない。
つき合っていたわけではない。好きだったわけではない。
ただただ、同じサークルにいて、
時々コンパをして、時々テニスをしただけだ。
だからと言って、名前を忘れていいわけではないのだが。

目の前の彼女は、親しみを込めて頭を下げてくれる。
僕も下げる。
何だっけ?名前は何だっけ?
焦りが顔に出ていないことを祈る。
彼女は微笑み、僕を見る。
「久しぶりだね」という気持ちを込めて、僕はうなずく。
彼女もうなずく。
しかし名前は、相変わらず出てこない。

車内に次の駅の名がアナウンスされる。
彼女が男を起こす。僕はその駅で降りたことはない。
目をこすりながら男が起きる。立ち上がる。
電車にブレーキがかかり、少しよろけて彼女につかまる。彼女が支える。
僕はそんな様子を眺めていた。
電車が止まる。男はドアへ向かう。彼女が続く。
彼女は僕の方を振り返り、男の背中を指さしながら、
唇をゆっくり3回動かした。僕はそれを読み取った。
「だ・ん・な」
もう一度頭を下げて人妻は降りて行った。

もう一度言うけれど、
彼女とつき合っていたわけではない。好きだったわけでもない。
でも、僕はこの再会に感謝した。
「だ・ん・な」
唇から読み取ったメッセージは、なぜか僕を微笑ませる。

一度も下りたことのないその駅は、
ちょっと大切な駅になった。

出演者情報:大川泰樹(フリー)

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中山佐知子 2019年4月28日「織部」

織部

    ストーリー 中山佐知子
       出演 大川泰樹

桃山時代に突然出現した緑色の茶碗、香炉、皿。
織部焼の特徴である緑の釉薬は
中近東から中国を経て日本に伝わったが
これを用いて大胆な意匠の陶器を生産したのが
古田織部だった。

古田織部は戦国の武将だったが
その卓越したクリエイティブ能力を秀吉に買われ
いまでいう産業大臣のような地位に就いた。
おりしも利休によって茶道がひろまり、
日本は芸術品としての陶磁器を必要としていたのである。

16世紀の末、天下統一を目前にした織田信長は
道路を整備し、自由取引の市場をつくった。
街はにわかに活気づいた。
南蛮貿易にも力を入れた。
海の向こうから見知らぬデザインや色がやってきて
日本の美術に影響を与えた、と同時に
ちゃっかり自分も大儲けをしていた。

戦国の世の終わりはそこに見えていた。
前代未聞の好景気で国中が沸き立っていた。
信長にとっての金(きん)は
貯め込むものではなく使うものだった。

信長は凶暴だったかもしれないが
文化を重んじ芸術の目利きでもあった。
文芸も美術も茶の湯という総合芸術で統括し
茶道具、絵画、陶芸など超一流のアートをコレクションした。
さらに当代一流の陶工を膝元に集めて管理下に置いた。

それをそのまま引き継いだのが秀吉だった。
1605年、岐阜に開かれた織部焼の窯は
秀吉の管理のもとに置かれ、
古田織部というクリエイティブディレクターの指揮下に
一流の職人…というよりアーチストを集めた。

その頃に生み出された陶芸品は
世界のどんな食器とも較べようがないほど斬新で奇抜で、
それでいながら品格があり美しいと評価されている。
茶碗ひとつに城ひとつと言われるほど
高価なものが作られていた。
この時代を日本のルネッサンスと呼ぶ人がいるが、
そのとき、古田織部はダ・ヴィンチだった。

しかし、織部焼の寿命は短い。
1615年、古田織部は
徳川家康に豊臣との内通を疑われ切腹し、
それと同時に芸術品としての織部焼は途絶えた。
織部の自由闊達な作風は
徳川政権の管理体制には到底おさまらなかったのだろう。

徳川幕府は古田織部の死の記録を隠し、
織部焼の記録も消してしまった。

研究者によると古田織部の罪は冤罪だそうだ。
古田織部はひとことの釈明もせずに死んだ。
その沈黙の意味を考えるに、
しょせん徳川の田舎もんに何がわかるんだよ…
というようなことではないかと思う。

出演者情報:大川泰樹(フリー)

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直川隆久 2019年4月21日「夕方の匂い」

夕方の匂い

   ストーリー 直川隆久
      出演 清水理沙

お向かいの徳永さんは、空き家になったままだ。
道路から中をうかがうと、
新たな家主である雑草たちは野放図にのびさかり、
鮮やかな緑色で庭を覆いつくしつつある。
ふと気づく。今日は豚の角煮を煮る匂いがしない。

この家に引っ越してきた頃、
徳永家は、ご夫婦と幼いお嬢さんの3人暮らしだった。
けれど、お嬢さんが高校生の頃、
一人で北海道旅行に行ったまま、
行方不明になってしまったのだという。
わたしが物心つく前の出来事だ。
徳永の奥さんは、それから毎日、豚の角煮を作り続けた。
角煮が娘さんの大好物だったから。
いつあの子がもどってきても、角煮をたべさせてやれるように。
徳永さんのご主人は、何年かして、出て行ってしまった。
それでも、角煮の匂いはおさまらなかった。
砂糖と、醤油と、豚の脂と、八角の混ざりあった、
粘り気の強い匂い。
塾の帰り、部活の帰り、バイト先からの帰り…
わたしは、毎日、お向かいから漂ってくるその匂いを
嗅ぎながら生きてきた。
それは去年の暮れ、徳永の奥さんが入院するまで続き――
年を越すことなく、奥さんは亡くなった。

我が家と徳永さんの家とは付き合いがなく、
ときどき、家の前の道路を掃除する奥さんと挨拶をかわすくらいで、
そのお宅に上がったこともない。
それでも、生垣の切れ目からのぞくその庭が、
徐々に荒れていく様子を見るのは、悲しかった。
わたしは、門の前に進んだ。
門の扉を押してみる。すると、抵抗なく開いた。
入って…みようか?
周囲に誰もいないことを確認して、庭に入ってみる。
足元から、バッタが何匹か跳ねて逃げた。
庭の方を見ると、レンガで区切ったごく小さな花壇がある。
ふだん道路から覗くときは生垣に隠されて見えなかった。
草しかはえていない花壇に、
色あせたプラスチックのショベルが落ちていた。
昔、娘さんが使っていたものだろうか。
庭に面した側は雨戸で塞がれていて、中の様子はわからない。
道路側を振り返ると、生垣越しに自分の家が見える。
こんな角度と距離で自分の家を見たことがない。
すぐそこにあるのに、なぜかとても遠いところに感じる。
わたしは、玄関に戻り、ドアの取っ手に手をかけた。
ドアを引く。
鍵がかかっていてほしい、と思う自分もいた。
だが、ドアは、そのままこちら側に開いた。
中の空気が流れだす。
それは、あたたかく、今まさに料理をしている人と、
火の気配をふくんだ空気だった。
そして…わたしは、嗅いだのだ。
角煮の匂いを。
いま、まさに、くつくつとお鍋の中で煮込まれている。
その匂いの密度で、
もう、出来上がりの近いことがわかる。

「りかちゃん?」と女性の声が奥からする。
「りかちゃん、帰ったの?」
そして、ぱたぱたと軽やかな足音がこちらへ向かってきた。
わたしは、扉を閉め、玄関から道路に走り出る。
ごめんなさい。
ごめんなさい、徳永さん、わたしは、りかさんじゃないんです。
道路でわたしは、うずくまる。

何秒後か何分後かわからないが、
わたしは車のクラクションで我に返った。
振り返ると、見慣れた徳永さんの家が見える。
角煮の匂いは、もうしなかった。
庭の雑草が、傾きかけた太陽の光にまぶしく照らされている。



出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/

 

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勝浦雅彦 2019年4月14日「わからない顔」

「わからない顔」

   ストーリー 勝浦雅彦
      出演 遠藤守哉

娘の顔がわからなくなる。
男にその兆候が現れたのは、
小学校の授業参観でのことだった。

三日前、妻が「あなたが行ったら?」と
洗濯物を畳みながら男に言った。
そうだな、と生返事をした結果、
男はハナミズキが咲く校門の前に立っていた。
どうしたことか、
男は一度も授業参観というものに出席したことがなかった。

授業はもうはじまっているようだった。
廊下には男が妻に持たされたスリッパの音だけが響いていた。
教室に入ったと同時に、生徒たちが侵入者に向けて一斉に振り返った。
丸い無数の目が、男を凝視している。
男は混乱した。
いない?娘が。一瞬教室を間違えたのかと思った。
しかし、父兄が寄り添い立っている壁に掲出された
「遠足の思い出」
と題された三十枚ばかりのクレヨン画には、
2年4組としるされている。
やはりここだ、なのに娘の顔が見つけられない。

やがて子どもたちはまた教師の質問に答えるべく、
その小さな顔と艶やかな黒髪を旋回させた。
それっきり一度も振り向くことはなかった。
男は授業の流れに乗ることができず、吐き気すら覚えていた。
出し抜けに終了のチャイムが鳴った、ああ、解放されたと思った。
その瞬間、娘が男の元に駆け寄り、どん、とぶつかってきた。
じっと男を見上げる娘の顔をなでながら思った。
ほんとうに昨日までこんな顔だったか。

どうしてそうした事態が起きたのか、男はまるでわからなかった。
30歳になって購入した中古のマンションには、
部屋中の壁を覆い尽くすように、家族の写真が並べられていた。
写真展を毎日しているみたいだな、
男は新婚当初そう冗談交じりに話したが、妻は無反応だった。
だから男は遅く目覚めて、妻も娘もいない無人のリビングを
まるで世界中の誰もがいなくなったような気持ちに襲われながら
歩くときにすら、娘の表情はいつもそこにあったはずなのだ。

男は娘の顔を今まで以上に注意深く観察するようになった。
まだ七歳の娘の顔は、めまぐるしく変化していた。
ある日は妻を何分の一かに縮小したとしか思えないくらい
同じ顔をしていた。
と思えば、もうすでにこの世にいない男の祖母の顔で学校に出かけていく。
ある日は、誰にも似てないと結論づけたその顔は、
早逝した遠縁の伯父だった。
自分と妻の系類の間を自由に飛び回りながら
娘は毎日生まれ変わっているように思えた。
そして、娘から目を離した瞬間、男はその顔を構成している要素を
何ひとつ思い出せなくなるのだった。

男は時々夢を見た。
大きな竜巻が起き、町中を人々が逃げ惑っていた。
小高い丘に立つとおびただしい数の子供達が一直線に丘に向かってくる。
「パパは、私のパパだから、きっと私を探し出してくれるはず」
そんな娘の声が頭の中で響く。
だが、その子供達の誰もが同じ顔に見える。
名前も呼ぼうにも声が出ない。
寝床から飛び起きると、
開かなかった喉の奥が灼けるように乾いていた。

男は洗濯物を取り込もうとしている妻に話しかけた。
「ミドリの顔が、時々わからなくなるんだ」
きっと妻は「何をバカなことを言っているの」と
笑い飛ばすはずだった。
「ああ、あなたもそうなのね」
「あなたも?」
「私の父もそうだったみたいだから」
どういうことなのだろう、妻の話が普遍的なことなのだとしたら、
世の父親はどこかで娘の顔、
あるいは顔からなるイデアのようなものを
見失うということなのだろうか。
それはたとえば男の子、息子ならば起こり得ないことなのか。
男は、義父とすぐに話したかった。だが、叶いはしない。
彼は三年前に鬼籍に入っていた。
「私はたとえ大きな災害が起こって、
世界に何百万という子供が逃げまとっている中でも、
ミドリを見つけ出せる自信があるわ、母親だから」
男は仰天した。
「君は俺の夢をのぞいたのか?」
やはり妻はそれには答えなかった。

やがて男は、娘の顔を正確に把握することを諦めた。
目の前にあることをただ認めていくこと。
あるがままを受け入れることで父としての役割を全うしようとした、
そうでないと何かの拍子に細い糸が切れるように、
日常のすべてが崩れ落ちてしまいそうだった。

そうして毎日、違う顔になる娘を見守りながら、
十八年の月日が流れた。
男は初老を迎え、娘が結婚する日がやってきた。

三人で過ごす最後の夜だった。
定位置のように、妻はいつもと同じ場所で洗濯物を畳み、
娘はソファで膝を立てて座っていた。
どうしてかまるで、そこに男はいないかのように
二人は男の思い出話をしていた。

「お父さんのチュー、あれ嫌だったのよね」
「中学から高校まで、お父さんのことを無視しちゃったな」
「式で泣くのかしら。泣いたところを見たことないけれど」

男はそのやりとりをぼんやり眺めていた。
まるで自分だけが取り残されたまま、このリビングを中心に
気の遠くなるような時間が過ぎ去っていった気がした。

「私って、お父さん似だもんね」

男は驚いて娘を見た。
一瞬、今までぼやけ続けていた娘の輪郭がはっきりとした像を結び、
その顔をしっかりと捉えた。

そうか、お前はそんな顔だったんだな。

だがそれは生まれたばかりの、
まだ目すらあかない頃の面影を残しているようで、
やはり血を分けた自分の何かを引き継いでいるようには
思えないのだった。

どうしていいかわからず、リビングを視線がさまよった。
鈍色のガラスに映ったのは、
かつてみた自分の父親と同じ顔をした、老いた男だった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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