
夜桜
ストーリー 蛭田瑞穂
出演 遠藤守哉
四月だというのに、妙に肌寒い夜であった。
鎌倉雪ノ下の、人影の絶えた裏路地を、
川端康成と少女が連れ立って歩いていた。
突き当たりの角を曲がると、一木(いちぼく)の桜が、
まばゆいばかりに咲き誇っていた。
「見て先生、こんなに綺麗な桜が」
少女は小走りに近寄り、仰ぎ見た。
枝という枝に、隙間もなく白い花弁が重なり合っている。
そこに、一陣の春疾風(はるはやて)が吹いた。
枝を大きく揺らすと、無数の白片が雪のように舞った。
「あら、もったいないこと。
こんなに急いで散らなくてもよいのに」
少女は花びらに手を伸ばした。
その透き通るように白い指先を見つめながら、
川端は語りかけた。
「古来、日本人は儚さの中に、
真の美しさを見出してきたものです。
形あるものが消えたあとに、余韻が宿る。
そう考えれば、散る桜もまた、鮮やかに見えましょう」
少女は花びらを追う手を止め、
はにかみを隠すように笑みを浮かべた。
「儚さ、ですか。
でも私はやっぱり、満開のほうが好きですわ。
こうして元気に咲いているほうが」
川端はふと、少女の、そのいたいけな感情を
弄(もてあそ)んでみたい誘惑に駆られた。
「しかし、生気(せいき)に満ちた姿というのは、
時に品性を欠くものです。
満開の賑やかさは、どこか生(せい)の奢りも感じさせて、
私には少し、目に余ります」
「奢りだなんて……。私はただ、
一生懸命に咲いている桜を愛でたいだけです」
「だがそれでは、桜を見ながら、見ていないことになりますよ」
川端はなおも執拗に言葉を重ねた。
「真実というものは、
余計なものを削ぎ落とした果ての、無にあるのです。
形も色も捨て、虚空へ溶けてゆく。
その潔さこそが、何よりも充足した美なのです。
目に見える美しさなど、仮初の像に過ぎません。
君はまだ、お若い。
いつか、その奥に潜む深淵に触れる時がくるでしょう」
気がつくと、少女は黙り込んでいた。
手のひらにこぼれたひとひらを
うつむいたままじっと見つめている。
「でも先生、それなら……」
少女は不意に、射抜くような視線を彼に投げた。
その瞳の中で、夜桜が怪しく揺れている。
「それなら、私が死んで、いなくなってしまったら、
先生は嬉しいのですか。
この花びらのように、儚く散ってしまったら。
それでも先生は私を愛でてくださるの?」
川端は、言葉に詰まった。
己(おのれ)が弄ぼうとした純真が、
逃れようのない刃(やいば)となって、
彼の高慢な自尊を切り裂こうとしていた。
風が、再び吹き荒れた。
闇を背景に、狂おしいほどの花びらが舞い、
二人の間を分かつように通り過ぎていく。
風が凪ぐと、傍らから少女の姿は消えていた。
あとには、冷えびえとした夜の気配が沈んでいる。
川端は、知らぬ間(ま)に固く結んでいた右手を
ゆっくりと開いた。
そこには、ひとひらの桜が、
まるで行き場を失った遺品のように貼りついていた。





