佐藤充 2025年4月13日「気になる春」

気になる春。

   ストーリー 佐藤充
      出演:遠藤守哉

粘度の低いほぼ液体のような鼻水が
右の鼻の奥からゆっくりとゆっくりと
垂れ出てくるのを感じる。

近所の喫茶店で
佐藤究の小説『テスカトリポカ』を読んでいた。

鼻水に意識を持っていかれそうになる。
スッと鼻をすすり、液体を鼻の奥へ戻す。

メキシコのカルテルに君臨した麻薬密売人の男が、
潜伏先のジャカルタで日本人の臓器ブローカーと出会い、
新たな臓器ビジネスのために日本の川崎へ向かう。

意識を目の前の小説に戻したときだった。

「馬事公苑って知ってるかしら?あそこ昔は雑木林だったのよ。
その隣に農大があるでしょ?あそこ昔は自衛隊があったの」

左の席におばあさん2人と30代くらいの男女がいる。
会話というよりさっきから1人のおばあさんが一方的に喋っている。
声が大きいので耳に入ってくる。きっと耳が遠いのだろう。

「すみません、ここら辺で」と、
30代くらいの男女が立ち上がる。

「ごめんなさいね。昔話ばかりで」

「あ、いえいえ…」と30代の男女は困ったような苦笑いの表情で去る。

このときおばあさん2人と30代くらいの男女の関係がわかる。
知り合い同士ではなく、
おばあさんが一方的に話しかけていたのだ。

「私たちもお会計しようかしらね」とおばあさん2人が店員を呼ぶ。
「お会計はレジでお願いします」と言われ、
声の大きなおばあさんがレジへ向かう。

席からレジは少し離れている。
それでもおばあさんの声が聞こえてくる。

「お会計、2人で割れるかしら」
「すみません、
それはできないのでおひとりさまが払っていただく形になります」
「じゃあ私が立て替えるから、1人だといくら?」
「3600円なので、
おひとりさま1800円になります。レシートに書いておきますね」

店員が親切にレシートに2人で割った金額の1800円を
ペンで書いているようだった。

おばあさんが支払いを済ませて席へ戻ってくる。
それからしばらくおばあさんたちはまた会話をしていた。

意識を小説へ戻す。

川崎で生まれ育った少年コシモが
ジャカルタから来た麻薬密売人の男に見いだされて、
犯罪に巻き込まれていく。

さらにページをめくろうとしたときだった。

「あれ?私がぜんぶお会計払ったのかしら?」
「あんたがぜんぶ払ったからレシートここにあるじゃない」

そうです。もうひとりのおばあさんが言うとおり、
さっきお会計していましたよ、と心の中で思う。

「え?そうだったかしら?店員さんに聞いてくるわね」
おばあさんは店員へ聞きにいく。

その様子を目で追ってしまう。

おばあさんが「もうお会計していたみたい」と言い席に戻ってくる。

「ほら言ったじゃない。じゃあ1800円払うわね」
もうひとりのおばあさんが払おうとする。

「1800円?それ多くないかしら?900円でいいのよ」
先ほどお会計をしたおばあさんが答える。

いやいや、
900円ではないです、ひとり1800円ですよ、と心の中で思っていると、
「ほらレシートに3600円で、1人用の金額1800円って書いてるじゃない」
ともうひとりのおばあさんが言う。

そう!そうです!
ひとり1800円です!と僕は心の中で答える。

「そうかしら?ひとり1800円は多くないかしら?
きっと間違ってるのよ、店員さんに聞いてくるわね」
おばあさんはまた店員へ聞きにいく。

僕はまたその様子を目で追ってしまう。

店員は「3600円なので2人で割るとひとり1800円です」と答えている。
たぶんこの喫茶店にいるお客さん全員がおばあさんの一挙手一投足に注目していた。

おばあさんが席に戻ってくる。

「ぜんぶで1800円だったわよ、だからひとり900円」と大きな声で言う。

違う違う違う。
おばあさん、ひとり1800円です、と喫茶店の全員が思う。
向かえの席で仕事をしている男性もパソコンを打つ手を止めて見ている。

もうひとりのおばあさんが
「わたし1万円札しかないから、両替頼んでくるわね」と言うと、

さっき3600円を立て替えているおばあさんが
「いや、わたしが細かいのを持っているから、
わたしがあなたに900円払えばいいのよ」
と言う。

いやいやいやいや、
3600円払って、また900円払うのは払いすぎですよ、
喫茶店にいる全員が心の中で思う。

店員のほうを見る。
1800円と書いたのが余計な混乱を生んでしまって気まずそうにしている。

もうひとりのおばあさんが
「あんたが立て替えたのになんでまたあんたが払うのよ、
わたしが両替して払うから」と答える。

そうそうそうそう!
そのとおり!それで合っています!
喫茶店にいる全員が心の中で思う。

こうして3600円を立て替えたおばあさんは
1800円をもうひとりのおばあさんからちゃんともらって
「年取るとすぐ忘れちゃってダメね」などと笑いながら
無事にお店を出ていった。

はぁ、よかったぁ。
喫茶店にいる全員が顔を見合わせた。

ズッと鼻をすする。
口の中に少ししょっぱい味が広がったのをコーヒーで流し込む。

これはまだ僕が花粉症ボトックスをするまえの春の話。

.
出演者情報:遠藤守哉(フリー)


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佐藤充 2025年1月26日「先生の電話番号」

先生の電話番号

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

1月。地元に帰省をして中学時代の友人に会う。
社会人10年目になる。
今でも中学時代の先生の電話番号を覚えている。
そう言うと記憶力を驚かれる。
でも、それには訳がある。

毎日電話かけていたんです。
というか毎朝かけていたんです。

そして、どこからでもかけていました。
自分の家から。親戚の家から。友達の家から。
ときには公衆電話から。

仮にその先生をS先生とします。
S先生は僕のクラスの担任であり、
僕の所属していたサッカー部の顧問であり、
地域の選抜チームの監督でした。

いつも僕の行く場所に必ずS先生がいました。

でもなにをそんなに毎日電話する用件があるのか。

遅刻の電話です。

僕はお腹が弱くて、
よく壊していました。

でも毎日お腹壊したと電話をしていると先生が電話の向こうで
本当は寝坊じゃないのか?と疑っているのを感じます。

自分で言うのもなんですが、
僕はとても寝坊しそうな顔をしています。
眠たそうな顔が理由で怒られたこともあります。
疑われるのもわかります。

だからそんなことをする必要もないのに
「寝坊しました。すみません。遅刻します」
と先生のイメージ通りの自分を演じて電話したりもしました。

そして、
毎日お腹壊してばかりだと学習がないと思われるのではと、
そこから色々な理由をつくる日々が始まりました。

ボーッとしていました。遅刻します。
キシリトールガムの食べ過ぎでお腹を壊しました。遅刻します。
鼻血が止まりません。遅刻します。
37度。微熱です。遅刻します。
雪で家のドアが開きません。遅刻します。
妹に教科書をビリビリに破かれました。遅刻します。
吉野家の牛丼についていた七味が目に入って目が開きません。遅刻します。

理由がなくなってきたら外の公衆電話からもかけました。

木曜日は燃えるゴミの日でカラスに襲われました。遅刻します。
野生のキジに威嚇されていました。遅刻します。
どこかの家から脱走したパグに追いかけられていました。遅刻します。
キツネに追いかけられていました。遅刻します。

様々な理由で遅刻の電話をしていました。
理由を考える時間のせいで遅刻した日もありました。

この遅刻の理由を考える日々が
今の企画を考える仕事につながっている気もする。
そして、お腹が弱いことを正直に打ち明けていたら良かったなとも思う。

先生の電話番号を思い出すたび、
あの日々がよみがえりいつも初心にかえる。

.
出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

録音:字引康太

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佐藤充 2024年12月15日「100ドル」

100ドル

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

1ドルが80円くらいの頃。

「You are crazy」

「No! You are crazy」

エジプトのどこかわからない砂漠で、
僕はエジプト人と言い争っていた。

なぜこんなことになったのか。

2日前、
パスポートを含む全ての荷物をタクシードライバーに盗まれた。
エジプトではアラブの春と呼ばれる革命が起きていた。

どこの航空会社も渡航中止を呼びかけていることも知らずに、
ヨルダンからフェリーで入国してカイロへやってきた。
観光客もほぼいないカイロのゲストハウスで日本でも読める
AKIRAや寄生獣などの漫画を何度も読んで過ごしていた。

そこで帰国するために空港へ向かうタクシーで
着ている服以外をすべて盗まれたのだった。

翌日ゲストハウスのスタッフに日本大使館の場所を聞き、
大使館でパスポートの代わりとなる渡航書の発行方法を聞き、
100ドルを借りた。

渡航書発行にはいろいろな書類と、
帰国日のわかる航空券が必要だということがわかった。

やることが多くて気が遠くなるが、
そのまま警察署で盗難されたことを証明する書類を書いてもらい、
次はカイロ市内の区役所的な場所で書類をもらおうとしているときだった。

日本のように番号の書いた整理券をもらい順番を待つスタイルではなく、
窓口に向かって人の群れをかき分けて身体をぶつけあい、
順番を勝ち取るのがエジプトスタイルだった。

何度かチャレンジして諦めそうになっている時だった。
エジプト人の男が話しかけてきた。
この男がいうには友人に警察がいるので、
頼めばすぐに書類が手に入ると言う。

昨夜から一睡もできていなかったので藁にもすがる思いで
この男の言葉を信じてついていくことにした。

なぜか区役所的な施設を出て、
電車を乗り継いでたどり着いたのは、
この男の家だった。

友人の警察が来るまでゆっくりしてくれと言うので、
出されたコーヒーを飲んでくつろいでいると、
ドライブに行かないか?と男が言う。

もうここまで来てしまったら、
とことん付き合おうと思い、
ドライブへ行くことにした。

車は街を抜けて砂漠のなかへ入っていく。
街がどんどん遠ざかり小さくなっていく。
するとピラミッドが見えてきた。

それは教科書でよく見るスフィンクスがいる
ギザのピラミッドとも違う見たことのないピラミッドだった。

男はピラミッドの前で車を停める。
見渡す限り観光客などもいなく
ここにいるのは男と僕の2人だけだった。

ピラミッドのなかへ入ろうと男が言うので、
入ってみることにした。

なかは狭くて暗くて洞窟のような感じだった。
男が日本の有名な曲を歌ってくれないかと言うので、
坂本九の『上を向いて歩こう』を歌った。

男は手拍子をして答える。
知らない男と知らないピラミッドのなかで
『上を向いて歩こう』を歌う日が来るとは。

そんなことをしてピラミッドを出たあとだった。
男が僕に言う。

100ドルだ、と。

何を言っているのかわからないという態度をしていると
畳み掛けるように男は言う。

ドライブして
ピラミッドの中に入ったのだから100ドルだ、と。

そんなの払わないと伝える。

「You are crazy」と男が言う。

「No! You are crazy」と言い返す。

誰もいない砂漠のうえで言い争う男2人。
遠くに見えるカイロの街に夕陽が輝き砂漠を照らしている。

今朝大使館で借りた100ドルは消えた。
そして、友人の警察に頼んで書類を手にいれてくれる約束も嘘だった。

この100ドルなくなると無一文になるんだけど、と伝えると
男はポケットから小銭を出して渡してきた。
これでバスに乗れるから帰りな、と。

知らない街で
知らない男に渡された小銭を握りしめ、
どこで降りればいいかもわからず、
知らないバスに揺られる。

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日 ひとりぼっちの夜

.
出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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佐藤充 2024年11月10日「雪虫」

雪虫

    ストーリー 佐藤充
       出演 大川泰樹

中学時代の家庭科の時間。
栄養バランスのいい献立を考えて、
それを調理実習の時間につくることになっていた。

多くの男子はバランスなど考えずに食べたいものを書いて、
野菜も入れなさいなどと先生に注意を受けていた。

それを聞いて僕はハンバーグや生姜焼きだったら、
ハンバーグには玉ねぎが、生姜焼きには生姜が入っている。
これはギリギリいけるのではと思っているときだった。

隣の女子が何を書いているのか覗いてみた。
見た瞬間にくらくらしたのを覚えている。
そこには『カロリーメイト』とだけ書いていた。

正しくて、面白くて、新しい。
調理実習であるという固定概念に
邪魔されていない自由な発想だった。

『カロリーメイト』はバランス栄養食だし、
部活をやっている僕はいつも食べていた。
こんな身近にあるのに気づくことができなかった。

どんな顔をしてこんなことを書いているのかと
見てみると凛と澄ました顔をしていた。

澄ましたまま席を立ち上がり、
『カロリーメイト』とだけ書いた献立表を先生に見せる。

先生は一瞬困惑した表情をして、
彼女に何かを言っている。

「今回は調理実習だから調理できるものじゃないとね」
的なことを言っているように見える。

彼女は表情を変えずに席に戻り、
僕の献立表を一瞥する。

ハンバーグには玉ねぎが、
生姜焼きには生姜が入っているから、
これで野菜も摂取できるとか
つまらないことを考えているんだね、
と言われているような気分だった。

敗北にも似た感情だった。

それがマスイだった。

マスイは変わっているやつだった。
別々の高校になったがよく遊んだ。

一緒にいるときによく言っていたのが、
「悲しいから遊びたくない」だった。

聞くと、
「今日が終わることを考えると悲しくなる」
と言う。

なんだ、それ。かっこいい。

喜怒哀楽のなかで1番かっこいい感情は悲しみだ。
北海道の田舎の高校生の僕にはそう思えた。

喜ぶのも怒るのも楽しいもすこしバカっぽい。
悲しむのはどこか哀愁をともなってかっこいい。

だから悲しいと言う理由で、いつも遊ぶのを断られた。

そのたびに僕は「また遊べばいいよ」と、
断られても毎日のようにマスイの家に遊びに行っていた。

10月。
北海道の高校では修学旅行の季節である。
マスイは修学旅行に行かなかった。
理由を聞くと家で猫といっしょにいる方が楽しいから、と。

くらくらした。
雪虫が飛んでいた。

雪虫とは白い綿毛のついた小さな虫である。
北海道では10月に雪虫が飛ぶ。
大量に発生する雪虫はすべてを白で覆い尽くす。

家を、学校を、帰り道によく行くセイコーマートを、
1時間に1本しか来ないバスを、軒下で干された大根を、
枯れた落ち葉を、電柱の錆びた歯医者の広告を、
身体を、頭を、ぜんぶ真っ白にする。

雪虫はやがて時雨に変わる。
そして時雨は雪に変わる。

こうして冬がやってくる。



出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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佐藤充 2024年10月20日「唐辛子とホルモン」

唐辛子とホルモン

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

東京に妹と甥っ子と母親が来たので、
焼肉をご馳走することにした。

最近どう?のノリで甥っ子が
「50メートル何秒?」と聞いてくる。
「今だったら10秒以上かな」と答えると、
「おそ。おれ7秒」と噛んでぐちゃぐちゃになった
ストローでリンゴジュースを飲みながら言う。

「でも昔は6秒台だった」と答えると、
「すげ」と甥っ子は尊敬の眼差しで見てくれる。

甥っ子は妹の子供で、
僕が高校生のときに生まれた。

人生ゲームだったら、
ぼくはルーレットを回しても1しか出ない。
牛歩のようなスピードで駒を進めている。
妹は常に10が出て人生を進めている。
バツ3で、また結婚しようとしている。

いつだったか電通に勤める知り合いから連絡がきた。

「いま、お前のお姉ちゃんと合コンしている」と。
「僕に姉なんていませんよ」と返信すると、
「ほんと?この人だよ」と1枚の写真が送られてくる。
そこに映るのは妹だった。

どうやら合コンで出身地の話題になり、
旭川だと自称姉の妹が答えると、
電通の人が「だったら佐藤のこと知ってる?」と言うと、
「それ弟です」と答えたらしい。

確かに人生という意味では妹は大先輩である。
思うと家族のなかでのヒエラルキーで僕は最下層に位置している。

もちろん理由もなくそのような扱いは受けない。

学生時代に留年したことを隠して、
就活には車の免許が必要だから
免許取得するためのお金を貸してくれと嘘をつき、
借りたお金で海外に2ヶ月くらい行き音信不通になり、
帰国する際に無一文になったのでまたお金を無心したりした。
親がダメだったら妹にもお金を貸してくれと連絡をした。

そのようなことすると妹も姉を名乗るようになる。
慕ってくれるのは甥っ子だけだった。

サッカーのリフティングができる。
そのままボールを公園の木より高く蹴り上げられる。
パソコンの文字を素早く打てる。
ゲームセンターのワニワニパニックでワニを逃さずにハンマーで叩ける。
飛行機にひとりで乗っていろんな海外に行ける。
地元の駅前から実家まで何も見ずに歩いて帰ってこられる。
割り箸を片手でパキッと折れる。
ロケット花火を手に持ってできる。
実家のテレビをNetflixが見られるようにしてくれる。
サウナと水風呂に長く入っていられる。

甥っ子はどれだけ僕がすごいのかを妹や親に語る。
すると決まって「わかってない」「人を見る目がない」
「騙されるんじゃないよ」などと甥っ子は責め立てられる。

甥っ子は悪くない。ぼくが悪い。

目の前にある七輪の上のホルモンがそろそろ食べごろになっている。

「この唐辛子あるでしょ」
「うん」
「これだけで食べると辛いけど、
ホルモンと一緒に食べたらぜんぜん辛くないからやってみな」
「ほんとだ、すげぇ」

甥っ子はまた妹や親から注意を受けている。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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佐藤充 2024年9月8日「オットセイがいる」

オットセイがいる

   ストーリー 佐藤充
      出演 遠藤守哉
   
南アフリカのケープタウンに滞在しているときだった。
ここから車で30分くらいの場所に野生のオットセイがたくさんいる。
そう聞いたので同じ宿の人たち4人でレンタカーを走らせることにした。

スマホでオットセイを検索する。
よちよちと移動する姿が可愛らしい。
これから会えるのかと心をおどらせる。

車は海辺のほうへすすむ。
窓をあける。磯の香りがする。
それと嗅いだことのないにおいがしてすぐ窓を閉めた。

車を海の近くの岩場で停める。
ここから歩いて数分のところがオットセイのスポットらしいと
地図など見なくてもわかった。

なぜかと言うと、においだ。
さっきの嗅いだことのないにおいの正体はオットセイだった。
風に乗ってこちらまでくる。

においのほうまで歩く。
遠くから見てもわかるほど大量に黒い塊が岩場にいる。
だんだんにおいも強くなってくる。
そこには数千を超えるオットセイがいた。

この強烈なにおい。
数千のオットセイの糞や尿と腐らせた魚を濃縮したような、
とにかく例えようがない強烈な刺激。臭いを超えて痛いのだ。
鼻を超えて目を刺激してくる。
目の痛みに耐えていると今度は頭が痛くなってくる。
こんな経験は初めてだった。

内心はもう帰りたいと思っていたが、
わざわざレンタカーを借りてまで来ている。

同じ宿の人たちにも申し訳ないので、
もう少し見てまわることにした。

そこには親切にオットセイを至近距離で
観察できるように木でできた橋があり、
そこを渡りながら見ることができる。

おうおうおうおう。
数千を超えるオットセイの野太い鳴き声のなかを
歩いていくとなぜか橋の上に1匹のオットセイがいる。

距離は10メートルほど。
地元北海道ではクマに遭遇したら、
静かにゆっくりと背を向けずに後退りをし
逃げるようにと習った。

オットセイはどうしたらいいのだろうと
立ち往生しているときだった。

おうおうおうおう。
鳴きながらオットセイが追いかけてくる。
全力で背を向けて車のほうまで走って逃げる。

帰りの車内も4人しかいないはずなのに
オットセイを何頭か乗車させているのかと思うほどにおいがする。

宿に戻りすぐにシャワーを浴びる。
それでもオットセイのにおいは落ちなかった。
あまりに強烈すぎて脳が混乱しているのかもしれない。

そこで南アフリカ滞在中の毎晩の楽しみで
気を紛らわせることにした。

南アフリカはワインがうまい。
種類も豊富で安い。

毎日近所のスーパーへ行き、
気になるラベルのボトルを数本買って
宿のキッチンで肉を焼いて
いっしょに楽しむのが日課になっていた。

ワインでオットセイを忘れよう。
そう思ってグラスにワインを注ぎ、
ワイングラスをまわす。

ブドウの芳醇な香りを楽しもうと目を閉じて鼻を近づける。

おうおうおうおう。
ワイングラスのなかで昼間のオットセイが鳴いていた。

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出演者情報:遠藤守哉

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