ストーリー

古川裕也・大川泰樹 2011年作品「彼は彼女を。彼女は彼を。」


彼は彼女を。彼女は彼を。

         ストーリー 古川裕也
            出演 大川泰樹

彼女は、今、ジョナサン・スイフト精神病院にいる。
3歳の頃から集めている、飛行機雲のコレクションの展示会を
ジョナサン・スイフト市民ホールで催したいと、
ジョナサン・スイフト市役所に申しこんだためだ。
彼女によれば、飛行機雲が現れ、形が完成した瞬間にライフルで撃ち落とす。
地上に落ちてきた飛行機雲をその場で血抜きして冷凍保存。
これがいちばんきれいに雲をコレクションする方法だという。
そうして集めた飛行機雲は全部で868個。
いちばん古いのが、ハノイで採集された全長50メートルにもおよぶ
あかね色の飛行機雲。
いちばん新しいのが、ナパヴァレーで採集された渦巻き型の飛行機雲だ。

残念ながら、この話を信じた市役所職員はいなかった。
心神喪失かどうかの判断に絶対的基準はない。
ひとつの決定的行為によってではなく、
たいていの場合、絶対ではないが疑わしい行為の積み重ねによって判断される。
狂気のマイレージのようなものだ。
ジョナサン・スイフト市役所職員は職務に忠実なことに、
ジョナサン・スイフト精神病院に通報した。
彼女の場合、これが既に、3度目の入院で、
今回の主治医はミッシェル・フーコー先生だった。
先生は、必ずしも心神喪失とは言い切れないが少し入院して様子を見ましょう。
と言いながら、カルテにははっきり、心神喪失と書き込んだ。

彼は彼女を見舞いにやってきた。朝晩欠かさずに。
彼女の夫は、要するにハリソン・フォードのような顔で、
たいていの人に好意を抱かせる種類の人間だった。
その彼に、彼女はひどくつらくあたった。
“あのナブラチロワとかいう女とまだつきあってるのね”とか、
“わたしに無断でなぜポルシェ968を買ったのか”とか、
“歯医者の受付のチャスラフスカとできてるのを知らないとでも思ってるの”とか、
内容は他愛ないのだけれど、
それが、彼の髪の毛を引っ張りながら病院の庭を3周しながらとなると、
良し悪しは別として、確かに人目についた。
言うまでもないことだが、
彼には彼女に対する愛はまったく残っていなかった。
彼は今、全知全能を傾けて膨大な量の浮気をしていた。

去年の夏、彼女は空に向ってライフルを乱射していた。
彼女としては、飛行機雲を撃とうとしているつもりだが、
傍目にはどう見ても、飛行機を撃ち落とそうとしているようにしか見えなかった。
居合わせたジョナサン・スイフト市役所職員の通報により、
すぐジョナサン・スイフト病院に入院した。
それが彼女にとって最初の入院だった。
見舞いに来た夫には、“5年前に一度別れたジークリンデとかいう女と
またつきあいはじめたでしょ”と罵声を浴びせた。
そのときの主治医はロラン・バルト先生だった。
先生は、必ずしも心神喪失とは言い切れないが少し入院して様子を見ましょう。
と言いながら、カルテにははっきり、心神喪失と書き込んだ。

今年はじめ。ルキノ・ヴィスコンティ航空でミラノに行くとき、
彼女は、飛行機雲を素手で獲ろうとして
旅客機の窓をハンマーで叩き割っているところを取り押さえられ、
そのままジョナサン・スイフト病院に入院した。
見舞いにやってきた彼に、“あなたが今夢中なブリュンヒルデとかいう女は
そもそも男なのよ”と言い放ってから殴りつけた。
そのときの主治医は、フェリックス・ガタリ先生だった。
先生は、必ずしも心神喪失とは言い切れないが少し入院して様子を見ましょう。
と言いながら、カルテには、はっきり、心神喪失と書き込んだ。

この国の行き過ぎた福祉政策のおかげで、
ジョナサン・スイフト精神病院では極めて快適な暮らしを送ることができた。
3食とも明らかに彼女のふだんの食生活よりも豪華かつヘルシーだった。
そこには、無限の時間と完全な自由があった。
そもそも精神病院では、自分がなりたいと思う人間になることができる。
医者に向かって、ファッキンと言いたければ言えばいいし、
セクシーなインターンの前でいきなり裸になってもかまわない。
正常だとここにいられないわけだし。

彼女が、2週間ほどの入院と半年くらいのふつうの生活とを
繰り返していることは、
町中のひとは、もう、おおよそ知っていた。
そろそろだわ、と、彼女は思った。

やっぱり日曜がいい。それも午後2時くらい。
みんなが集まるジョナサン・スイフト広場。
彼女は彼と腕をくんで歩く。まるで、ほんとは仲がいいかのように。
知った顔がたくさんいる。
みんな彼女を見かけると少し不安そうな表情を浮かべた後、会釈を交わす。
今日は大丈夫そうだ、と思いながら。
そのとき、彼女は、“あ。飛行機雲”と叫び、銃を取り出す。
それを空には向けず、そのまま、彼の方へ向ける。
すぐ、撃つ。再び、撃つ。もう一回、撃つ。
まるで、広場にいるみんなに見せるかのように、
なんだか説明的なゆったりとした動きで。
誰が殺し、誰が殺されたか、みんな知っている。
けれど、誰も、その殺人者を捕まえることはできない。
罪に問うことはできない。

心神喪失は、数字だ。
彼女は、2週間ずつ過去3度精神病院に入っていたことがある。
心神喪失は、多数決だ。
ジョナサン・スイフト裁判所が精神鑑定を依頼するのは、
ミッシェル・フーコー医師。ロラン・バルト医師。
フェリックス・ガタリ医師の3人。

彼女は、微笑んだ。銃を持ったまま。
これから、1年くらい、大好きなジョナサン・スイフト病院で暮らせる。
たまった本を読もう。好きなだけ音楽を聴こう。
彼女には、無限の時間がある。何をしてもいい自由がある。
それは、愛する彼と引き換えに、手に入れたものなのだ。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/  03-3478-3780 MMP

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岩崎俊一 ・仁科貴 2008年作品「よっちん」



よっちん

                   
ストーリー  岩崎俊一
出演    仁科 貴

よっちんが東京に逃げたという話は、ヒデオから聞いた。

2日前、よっちんはけんか相手にケガをさせた。
木屋町通りを、恋人の今日子さんと歩いていたよっちんは、顔見知りの
3人連れの男にからまれ、今日子さんの肩に手をかけた男の顔面に思いき
りパンチを入れた。男は倒れ、気を失った。

よっちんは、僕より4つ上の24歳だった。もともとは、僕の大学の同
級生であるヒデオの遊び仲間だった。
京都の街なかで育ち、小さいころから男女のやりとりや、大人の酔態を
見てきたヒデオは、僕よりはるかに世間に通じていたけれど、その何歳も
年上で、高校を中退したあと、いろいろな世界を見てきたよっちんの成熟
度は、僕の想像をはるかに越えていた。
気性は激しいけれど、よっちんはやさしい男だった。インテリであり、
熱かった。義に感じて無茶ばかりやり、そのあげく損ばかりしてきた。高
校をやめたのも、職を転々としたのも、ケンカばかりしてきたのも。
うわべしか見ない人は、たぶん彼をチンピラと呼んでいただろう。でも、
よっちんは、チンピラとはまったく次元が違っていた。
そのよっちんが、
「わし、ほれた女できてん」
と照れながら話してくれたのは、一年前だった。シマちゃんも、シマち
ゃんの店の大将も、明石焼きのおばちゃんも、喫茶店のマスターも、ヒデ
オも、僕も、よっちんのためにとてもよろこんだ。
それからしばらくして、よっちんは仕事に就いた。前からやりたかった
インテリアの会社に入ったのだ。もともと好きなことであった上、頭がよ
くて情熱家のよっちんは、その会社ですぐ頭角をあらわした。恋人のため
に働く男は強いと思った。もう前のように一緒に遊べなくなったヒデオと
僕は、ちょっとさびしい思いもしたけれど。

よっちんが東京に逃げたのには理由がある。
2年前に、彼は、やはりケンカで傷害騒ぎを起こしていた。その時は大
事にならずにすんだのだが「次、あると、まちがいなく実刑だから」と警
察に強く釘をさされていたのだ。
一年間、東京に行く。待っててくれと言うよっちんに、昨夜、今日子さ
んは泣いて怒った。
「なんでケンカなんかするんや。あんたは、ケンカしたらあかんのや。
あんたは人をなぐってるつもりかしらんけど、あんたのそのげんこつはな、
うちをなぐってるんやで」

結局よっちんは、東京に2年いた。京都の会社の社長が紹介してくれた
内装関係の店で働き、一人前の職人として京都に戻り、もとの会社に勤め
た。そして3年後独立した。騒動の元になったけんかは、男のケガも大事
に至ることはなく、事件にならずに終息したらしい。
でも、京都に戻ったよっちんに、今日子さんはいなかった。
よっちんが東京に行った3ヶ月後、今日子さんに新しい恋人ができたと
ヒデオから聞いた。それを聞いて、なぜか僕はとても傷ついた。胸がどき
どきして、そして痛かった。
大人になることは大変だと思った。ただ恋人を失うのではない。腕の中
にあった恋人を失う痛手に、大人は耐えなければならないのだ。

出演者情報:仁科貴 03-3478-3780 MMP

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山本高史・山田辰夫 2009年作品「影」


  影
             
ストーリー 山本高史
出演  山田辰夫

奥さん、影ですよ、と。
だいじょうぶ、なにも売りつけたりしませんよ、と。
今日はちょっとしたクレームに参りましたよ、と。

広告会社にお勤めのご主人、頑張ってらっしゃいますねえ。
男はよく働いてたくさん稼ぐ。
それがいちばん。ところがですねえ。
この間ご主人がおつくりになったチョコのCM、見ましたよ。
女子高生たちが♪ウチらのハートはドキドキ、って
縄文式土器から出てくるやつ。
ものすごいインパクトでした。
こんなことどんな頭が思いつくんだろうな?ってね。
こんなの通すクライアントもクライアントですが、
考えるほうの責任ですわな。

ふ~(鼻息)。ここまではいいんですよ。
少なくとも私の問題じゃない。
そんでね、歌の続きの♪ちょっと「カゲ」あるいい男~のテロップが、
陰気の陰じゃなくて、私の影、シャドウですわな、
その影になってたんですよ。
私、陰気の陰じゃないですから。私、シャドウですから。
最近パソコンで文章書いたりすると、
こういう誤字多いですけどね、
陰気とシャドウの違いもわからないのは、誤字じゃないですから、
誤脳ですよね、脳みその脳。

よくね、私のこと暗いっておっしゃる。誤脳の人、おっしゃる。
陰気とシャドウの区別もつかないお宅のご主人のような方、
おっしゃる。
奥さんもきっと、思ってる。仲良きことは美しきかな、
えぇえぇ、そうですよね、似た者夫婦。
ところがどっこい、あなた方大間違い、残念賞。
ヤツはそうなのよ、陰と陽って言うでしょ、
ヤツは暗い、陰気の陰だから。
その勢いで、光あるところ影がある、なーんて私のことおっしゃる。
ところが私、暗くないです。ぜーんぜん暗くない。
光の下ですよ、太陽の下ですよ、私のいる場所。
光り輝くシャンデリアの下ですよ、私のいる場所。

暗闇で見ました?陰気な雨の日に、私いましたっけ?
明るくまぶしい場所にしか、私いませんから。
真夏の砂浜の上に、胸のふくらみも腰のくびれもくっきり浮き出た影が、
暗いですか?ヤフオクでは、その影だけでも売ってくれ、って
マニアが高値をつけてるんですよ。

あのね、影はむしろ光ですよ。私は光の子ですよ。
つまり♪ちょっとシャドウあるいい男~じゃねえ、
太陽の高い晴れた真っ昼間の短い影のことですぜ、奥さん。
ご主人がそれを言いたかったんなら別ですがね。へへへ。

ではこの辺でおいとましますよ、と。もうすぐ夜ですからね、と。
暗い夜が怖いんですよ、私。消えちゃいますから。
最後に関係ないこと一つ、いいですか。
奥さん、かわいいですね。奥さんの影になっちゃおうかなあ。
影のように付きまとえるしね。あ、これは、私の「影」でいいんです。
しつこく付きまとうのは、シャドウ。

出演者情報:この収録が山田辰夫さんの最後の仕事になりました。

shoji.jpg  
動画制作:庄司輝秋


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中山佐知子 2020年4月26日「チグリスとユーフラテスの三角地帯で」

チグリスとユーフラテスの三日月地帯で

    ストーリー 中山佐知子
       出演 遠藤守哉

チグリスとユーフラテスの肥沃な三日月地帯で
1万年ほど前から栽培されていた大麦が
ウイスキーという金色の液体に変貌を遂げるには
奇跡のような偶然が重なっている。

大麦ははじめこそパンやお粥になって
貴重な食料とされていたが
古代ローマの時代になると小麦にその地位を奪われ、
家畜の餌に転落してしまった。
エジプトではすでに大麦を使ったビールの製造が始まっていたが
ローマ人はワインばかり飲んでいて
大麦はちっとも大事にしてもらえなかった。

ところが、4世紀になるとゲルマン民族の大移動という事件が起きた。
地中海を支配し、文明を築いたローマ人にとって
ゲルマンは北の森や沼地の暗黒地帯に棲む野蛮な民族だったが、
ビール造りの名人でもあった。
ゲルマンの大移動はヨーロッパの地図を塗り替え、
各地にビールをひろめた。
大麦も酒の原料としての地位を得た。

7世紀になるとオーデコロンの蒸留技術が
イスラムからアイルランドに飛び火する。
香りの技術は同時に酒の技術であり、
イタリアあたりでは葡萄を蒸留した酒を飲んでいた。
しかし、アイルランドは寒くて土地が痩せた貧しい国で、
葡萄の栽培ができない。
代わりになりそうなのは
主食のジャガイモとビールの原料になる大麦くらいだ。
大麦とジャガイモ、大麦とジャガイモ…
どっちにしようか迷ったかもしれないが
結局彼らは大麦を選んだ。
麦から生まれた蒸留酒、ウイスキーの始まりである。
当時のウイスキーは、つくるそばから飲む無欲透明のきつい酒だった。

さて、そのウイスキーが
アイルランドのお隣のスコットランドに伝わる。
スコットランドはウイスキーの風土に適していたらしく、
修道院や貴族の館、農家の庭先に無数の小さな蒸留所ができた。
ウイスキーという名前が付いたのもスコットランドだ。

ところが18世紀のはじめ、
スコットランド王国はイングランドに吸収合併されてしまった。
国がなくなった国民は、
さらに愛するウイスキーにかけられた過酷な税金に激怒する。
しかも税金を取り立てに来るのはにっくきイングランド人だ。
彼らは税金を逃れる方法を必死で考えた。

深い森で、山の奥で、誰も知らない谷間で
スコットランド人はウイスキーを密造し、樽に詰めて隠した。
保存期間が長くなると、無色透明だったウイスキーは熟成し、
金色に色づき、果物や樫の木やくるみの香り、
花やクリームの香りを放つようになった。

まったく、何が幸いになるかわからない。
ヨーロッパ全土を震撼させたゲルマンの大移動も、
アイルランドの痩せた土地もスコットランドの過酷な税金も
ウイスキーにはプラスに作用した。

そうして、
世界史を肥やしにして成長し、花開いたウイスキーを
我々は今夜も飲んでいる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 2020年4月19日「ウイスキー」

ウィスキー

         ストーリー 直川隆久
          出演 地曳豪

原田に電話をかけて、家出しようと思うんだ、と言ったとき、
原田の返事は「ほんとか」でも「なんで」でもなく
「そうか、じゃテントがいるな」だった。
「もっていくよ。とりにこいよ。ブックオフの前」
「うん」
「自転車だろ?」
「うん」
ブックオフの前に行くと、原田が自転車にテントを積んで待っていた。
「ありがと」とぼくは言うと、原田からテントを受け取った。
テントを荷台にくくりつけているぼくに原田が「一緒に行こうか」と訊いた。
ぼくは、「うん」とだけ言って自転車をこぎだした。
原田も、にやにやしながら後からついてきた。
ぼくと原田は、いつもだいたいそんな感じだった。
途中のコンビニで弁当を買った。財布には3,000円とちょっと。
まあ、何日かはもつだろう。原田のもっている金も似たようなものだった。
どこへ行こうというあてはなかった。とりあえず、家から離れたかった。
別に、あの人にうらみがあったわけじゃない。
お互い距離をおいたほうがよいと思った。
あの人は、親父と一緒になりかっただけであって、
ぼくの母親になりたかったわけじゃないんだから。
お互い気を使いあいながら暮らす毎日にも、うんざりだった。

峠に向かう山道の途中で、陽が暮れ始めた。
急な上り坂で立ちこぎも無理になって、
原田とぼくは自転車に覆いかぶさるようにして押しながら歩いていく。
きつい。
「おおたっち、どうする」と原田が訊いてきた。
(ちなみに、ぼくの苗字は太田ではなく、大竹だ。)
「日が暮れないうちに、テント張ったほうがいいんじゃないの」
「テント?どこに?」
「ここ」
道がカーブになっていて、路肩の外側に小さく平坦な地面があった。
「間にガードレールあるから、寝てても轢かれんよ」と言って原田は笑った。
ぼくと原田は、そのスペースに、テントをひろげた。
寒くなったので、テントの中に引っ込む。腰をおろすと、
つたわってくる地面の冷たさにびっくりする。
「ほんとは、中に、マット敷くんだけどさ、もってくんのわすれた」
弁当を食べ終えたあとは、Switchをやったり、
クラスの気になる子の噂話とか、数学の先生の物まねとかで時間をつぶす。
 いつの間にか外は暗くなっていた。
さっきまで、頻繁に聞こえていたクルマの音も、ほとんど聞こえなくなった。

真っ暗なテントの中で、原田が懐中電灯をつけて、顔を下から照らす。
「こうやってさ。外にじいっと2人で立ってたらさ、
クルマ乗ってるやつ、めっちゃマジでビビるよな。ワーッ!だよな」
「やめとけバカ」
「なんで」
「事故おこしたらどうすんだ」
2人で寝転ぶ。寝袋なんてないから、雑魚寝だ。
体の下、地面と接しているところがどんどん冷たくなっていく。体を動かして、
ほかの部分が地面と接するようにする。しばらくはいいけれど、
じきにそこも冷たくなる。そんなことを繰り返してては、とても眠れそうになかった。
「寒いな、おおたっち」
「うん」
原田は起き上がって懐中電灯をつけ、リュックをごそごそと探ると、
なにかの酒の瓶をとりだした。
金色のラベルに、黒い文字でいろいろ書いてある。
ウィスキーだろう。それも、けっこう高いやつだ。
「のもう」
「え、なに、それ、原田のおとうさんの?」
「うん」
「やばくない?」
「全然」
コップもないので、そのまま飲むしかない。
原田は瓶に口をつけ、瓶のお尻を勢いよく持ち上げた。
原田の、最近大きくなってきたのどぼとけがぐり、と動いたととたん、
「げへー」と大きな声。
爆笑するぼくの横で、原田は目に涙をためながら、たっぷり1分はむせ返っていた。
「あー、きつい」
「そりゃそうだろ」
「あーでも、このへん、あっつい。あったかい」
胃のあたりをさすりながら原田が瓶をこっちへよこす。「おおたっちも」
「いいのかな」
「いいよ。ほら、雪山で、遭難するでしょ。そしたら、
セントバーナードがウィスキーもって助けに来てくれるじゃん」
「ブランデーじゃないの」
「そうだっけ」
ぼくも、瓶に口につけ、ぐっとあおった。
一気にのどに流しこまずに、口の中にいったん溜めようとしたけれど、
液体がびりびりと舌を焼く熱に、たまらず飲み込んでしまった。
 食道、胃、とウィスキーが通ったところが熱くなる。
交互に、ふたりでウイスキーを飲んで、
気が付いたら瓶の半分くらいがなくなってしまった。
テントの天井がぐるぐると回りだし、顔は猛烈に火照ってくる。
そういうめまいの感覚はわかったけれど、大人がよく言うような、
楽しくなったり、気楽になる感じはなかった。
ぼくらは寝転がり、ならんで、テントの天井を眺めていた。
「おおたっち、明日、か、かえんなよ」
「なんで?」
「い、家の人、心配するだろ」
「しないよ…ていうか、おまえこそ帰れよ」
「おれ…おれは、おおたっちが帰れば帰るよ」
「いいよ、つきあわなくて。そもそも、なんでひとの家出につきあうんだよ」
「なんでって…なんでかな…」原田は黙ってしまった。
 言ってから、後悔した。原田が一緒に行く、と言ったときに、
ぼくはすごくうれしかったんだから、そういう言い方はフェアじゃなかった。

「おれも、い、家から逃げたことあんだ」
「ふうん」
「でも、どこへも行けなかった。金ないし。すぐ…すぐ見つけられてつれもどされた」
「だせえな」
「だせえよな。でも、けっきょく、も、もどるしかないんだよな」
「…」
「…おれら、まだ力がないからさ。も、もうちょっと…腕も足も太くなんなきゃ…
ダメなんだ。じ…時間がいるんだ」
「時間って、いつまでさ」
ぼくは、原田の次の言葉を待って、じっと黙っていた。
でも次に聞こえてきたのは原田の寝息だった。

夜中、頭ががんがんして、吐きそうな気分になってきた。
やばい、と思ってテントの外に出る。側溝までかけていき、
しゃがみ込んだ瞬間、胃の中のものが全部逆流してきた。のどが猛烈に焼ける。
吐ききってしまうと、少し気分がましになった。と…
がさがさと、10メートルほど先で音がする。
がさ。がさ。
動悸が速くなる。
じっと音のするほうを見ていると、茂みから道路になにかが飛び出てきた。
犬にしては大きい。
…鹿だ。
角がある。雄だ。
 この山に鹿がいたなんて聞いたことがない。
 だけど…目の前にいるのは間違いなく鹿だ。それも、大きい。
角の先端はぼくの背丈をゆうに超える高さがあった。
 鹿は、悠然と道を横切ろうとしていたが、ぼくの気配にきづいたように、
ぴくりと頭をこちらに向けた。そのとき、
月の光を反射して暗闇に浮かび上がった二つの目――
異様に鋭い光が、まっすぐにぼくの体を射抜いた。
ぼくは、体を動かすことができなかった。
そのとき、鹿が、ぶふ、と息を鼻から出し、ぐっと、こちらに足を進めた。
ぼくはぎょっとして、すくみあがる。
原田!
そう叫ぼうと思っても、声がでない。
一歩。二歩。鹿がこちらに近づく。
だけど、鹿はそこで足をとめた。
取るに足らぬものにかかずらって、要らぬエネルギーを使うこともない、
と思ったのだろうか。ぷいと視線をそらし、鹿は、茂みの中に姿を消した。
そのあとで、どれくらいそこでじっとしていたかわからない。
自分の心臓の音で我に返った。
ぼくは、テントに戻ると、ただ黙って夜が明けるのを待った。

朝になって、テントから体をひきずりだす。
頭がどんよりして、気持ち悪い。
寝ぐせの頭を爆発させながら真っ青な顔をしている原田と、
のろのろとテントをたたんだ。
「おおたっち、どうする」と原田がきいてきた。
しばらく考えて、ぼくは答えた。
「この峠、上りきってから決める」
「ええ、のぼるの」
原田が、登坂を見上げて、泣きそうな顔をした。
「帰んないのか」
「うん。いちばん高いとこまで行って、眺めたいんだ。俺の街と、隣の町」
「…」
「それから決める」
どうせ、帰ることになるのかもしれない。それでも、
見慣れない風景を見てからにしたかった。
僕は、自転車を押し始めた。
原田は、おえ、と息を漏らし、「しょうがねえなあ」と言いながらぼくに続いた。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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坂本和加 2020年4月12日「ウイスキー」

ウイスキー

   ストーリー 坂本和加
      出演 森一馬

死んでからの生き方について、
考えたことはあるだろうか。

あるバーで聞いた。
バーテンダーは店のマスターであり、
オープンは32才のとき。
いまは92才だから、60年ものあいだ
週に一度の休みを除いて毎日、
カウンターに立ち、酒をつくり続けてきた。

その男は、上村といった。いい酒飲みだった。
いつも店には前払いで10万を渡し、
なくなるとまた同じようにした。
たいていひとりで、カウンターで静かに本を開いた。
酒で乱れるようなことはなく、
マスターとは、ぽつりぽつりといろんな話をした。
苗字は違うが、父親は著名な医学者であり
編纂した医学書を店に持ち込むほど、誇りに思っていること。
自分は大手と言われる勤め先にいるが、
結婚もせず40を過ぎて、いまだ独り身だということ。
母は亡くなり兄弟もおらず、天涯孤独だということ。

上村は、珍しいウイスキーを好んだ。
ときどきそれらを見つけてきては店に持ち込み、
その日たまたま隣りに座ったような
一見(いちげん)の客にも、
気前よく酒を振る舞うような男だった。

エドラダワーの10年。
これに「1960年代の」がつくと
とたんに値は跳ね上がる。麦の黄金時代に生まれた酒。
いまは1本、80万のビンテージ。
長くバーテンダーをしているマスターでさえ、
いまだかつて飲んだことのないような、酒。
それをどうやって入手したのかを
自慢げに語るような男ではなかったが、
大枚をはたいて手に入れた酒には違いない。
「いつ、開ける」そんなやりとりが笑い話とともに交わされ。
ある日、上村はパタリと店に来なくなった。

それから30年近く、月日は流れた。
希少な高級級だ。そのまま店で保管していいものかと
マスターも何度か会社に電話したそうだが。
「そのような名前の者はおりません」。

特別なエドラダワーは、最初のうちは
カウンターからよく見える場所に置かれた。
上村を知る誰かに、たどり着きはしないかという期待を込めて。
マスターが、カウンターの客にさりげなく話をしやすいように。
同じ業種で、似たような仕事をしている人間は多いから。

けれど男は消えたまま。
生きていれば、もう70を超えている。
きっとこの世界に、彼はもういない。
マスターの推測にしか過ぎないけれど。ふつうそう思うだろう。
自死か病死か、その原因はわからない。
家族も子供もいない、とるに足らない平凡で孤独な男を
思い出すひとなどこの世界に誰ひとりいないことはわかっていた。
だから。このバーで「特別なエドラダワー」とともに
オーナーや客たちに、くり返し語られることを想像したのだと思う。
あとは上村の思惑通り。
彼は30年にわたり鮮やかに、ここにいた。

特別なエドラダワーは、いまもバーの片隅で。
未開封のまま、タバコのヤニで
包まれたフィルムを黄色くして。
消えた男の輪郭をつくるためにそこにある。

出演者情報:森一馬 ヘリンボーン所属 https://www.herringbone.co.jp/

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