小野田隆雄 2007年11月9日



遠い花

                
ストーリー 小野田隆雄
出演 久世星佳

 
秋の風が冷たく吹く夕暮に、
駅前の古本屋で
一冊の詩集を見つけたのは
もう、ずいぶん前のことでした。
すっかり忘れていたその詩集を
ふと、開いてみたのは、
やはり、秋も終わりに近い、
冷たい風の吹く夜でした。

その詩人は、牧場の仕事をしながら、
いつか、うたうことを忘れた日々を
火の山が見える、九州の高原地帯で
暮らしていました。
数十年は、ひともとの、
ユーカリの木の成長のように早く、
手に縦横に走る、
深い、たくましいしわの、
ひとつひとつと引き換えに、
詩人は、うつむいたまま、
老いていきました。

ある夜、食卓に向ったとき、
詩人は妻の横顔の深い陰影の中に
動かしがたい人生の一つを
見たような気がしました。
そして、彼と彼女の視線の両端に
キラキラ輝く水玉を見ました。
それは、子供たちの瞳でした。
ひとつの深い寂しさと一緒に、
ひとつの充足感に近い何かが、
胸につきあげてくるのを、
詩人は感じたのでした。

夏も終わりに近い、
空を領する鰯雲の夕暮、
切り岸に続くススキの原をくだって、
谷間に降りた詩人は、
赤茶けた土の上に
名も知らぬ白い花が
散っていくのを見ました。
その花が、実をつけるのか、どうか、
その種子を風に飛ばせて、
やがて、どこかの地にまた、
白い花を咲かせるのか、どうか。
その花の未来について、考えることは、
詩人の心に、
遠い花を見つめるような
まぶしさを感じさせるのでした。
彼の言葉は、次のように
続いていました。

―されど、この花は、
 ここに枯れてゆくのだろう。
 そして、そのときも、
 山ブドウは実り、
 火の山は、熱く燃え、
 モズはけたたましく鳴き、
 空をななめに切って
 飛び去って、いくのだろう。―

私は詩集を伏せました。
明け方も近い時刻、
窓を開けると、
赤い月が、のぞいていました。
もうすぐ、始発電車が走り、
私は、しばらく眠り、
そして街は、朝の光の中で、
全てが包み隠されてしまうのでしょう。
そのような想いは、私の心を
奇妙な透明な没落感に包むのでした。
次の日、私は九州に向けて
その詩人への手紙を書きました。
通りいっぺんの
ファンレターを書くみたいに。
それから二週間の後に、
私は返事をもらいました。
その手紙は、静かな雰囲気の
女性の文字で書かれていました。
詩人は、すでに死去していました。
「昨年の八月のことで
ございました」と、
手紙に書いてありました。

*出演者情報:久世星佳 03-5423-5905 シスカンパニー


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