牛深のむかし(牛深通信最終回-2)

なかやまです。久々の更新です。
無精を決め込んでいて申し訳ありません。
牛深の昔をちょっと調べておりました。

牛深の中心はなんといっても港です。
牛深には、むかし七つの港がありました。

① 旧船津郷は昔から漁業の中心
② 旧岡郷は牛深の玄関口で、番所があった。
  昭和21年の大火で町並みを失い、いまは都市開発で姿を消している。
③ 旧宮崎郷は江戸中期からカツオ漁の中心地だったが海難事故で衰退。
④ 旧茂串郷は大正期に縫切矢田網という漁法で繁栄した。
⑤ 古久玉は近代まで自然海岸だったが、大正の頃から埋め立てられ
  船の係留所や加工場ができた。
⑥ 久玉は16世紀まで土地の豪族久玉氏の海城があった。
  現在は一本釣りなどの漁業基地。
⑦ 須口は海女による素潜り漁の中心地。

地図で調べてみると、現在の牛深町に久玉を加えたくらいの土地に
上記の七つの港がせめぎあっています。
港があれば当然ながら村があり町があり人がいるわけですから
かつての牛深の繁栄も想像できますね。
上の説明だと漁港だけのようにみえますが
牛深の港は漁港と商港が一体化した珍しい港湾です。

さて、この天然の良港である牛深で
いつから人は舟を浮かべていたのだろうという問題があります。
牛深は天草でも早くから人が住み着いたところです。
この場合の牛深は「牛深地区」です。
おおざっぱに旧牛深市と思っていただけると大丈夫と思います。
旧石器時代、24,000年前の天草でも最古の遺跡があります。
内之原遺跡群です。地図で見ると牛深温泉の近くですか。
よさそうなとこですね。私も住みたいです。
この時代になると舟でけっこう遠くまで移動する航海術があったようです。
丸太舟で一日60kmくらいといいます。
縄文時代になると航海術はさらに進みます。
縄文時代の遺跡もあります。椎の木崎遺跡です(下の写真)
海岸遺跡といって、もうすぐそこが海という場所にあります。
はじめは内之原あたりの山に住み着いて海岸まで降りてきていたのが
いちいち面倒になったんでしょうか。
海産物豊富ですからね、海の近くがいいかもです。

まあ、そうやって海の近くでうまいもんを食べながら暮らしているうちにも
歴史は進みまして、日本は近畿あたりに権力ができまして
お隣の中国に使者を派遣したりしています。
遣唐使のご一行さまが近くの島に流れ着くこともあったようです。
しかし大きな地図で見てみると
牛深の港から船を出したら、韓国沖縄なんのその。
島伝いに台湾やルソンも平気で行けそうですね。
中国もたいへん近く見えます。
ということは、それらの国にとっても牛深は便利な港ということです。
海洋民族がたくさん行き来したのではないでしょうか。
海には国境も関所もないですから。

私たちは旅というとまず陸上を考えます。
電車やバスというものに慣れきっています。
いま天草航空も機体の塗り替えで運休してますから
牛深だとクルマで3時間かなあ…なんてぼやくわけです。
でも、人類の長い歴史を考えると
ついさっきまでは電車もバスも飛行機もなかったわけです。
でも舟は早くからありました。
人は舟で遠くまで移動し、文化は海から舟でやってきました。
牛深ってすごい土地だったんですね(なかやま)

* 写真2枚はよそのサイトから拝借しています。
  写真をクリックでそのサイトに飛びます。


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One Response to 牛深のむかし(牛深通信最終回-2)

  1. チロリン村、村長より says:

    お久しぶりです。
    よく調べましたね。
    昔、天草郡久玉村が中心で、字牛深だったと聞きました。

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