直川隆久 2016年2月21日

1602naokawa

ふきのとう

    ストーリー 直川隆久
       出演 吉川純広遠藤守哉

大学生活最後の春休み。
K先輩が、大学5年間を過ごした世田谷代田の部屋を引き払い、
練馬のさる機械メーカーの独身寮へ引っ越すことになり、その手伝いに呼ばれた。
先輩のアパートに出向いて2階にあがると、目指す部屋の引き戸は半開きだった。
タバコのにおいがする。中を覗くと、先輩は壁に向かって座り込んでいた。
壁を雑巾で一心にこすっている。
「先輩」
「おお、来てくれたか」
「なにしてはるんですか」
「煙草のヤニ落としてんねや」
 見ると、たしかに、先輩がこすっている周囲だけ壁が白い。
「そんなこと、せなあかんのですか」
「いや、まあ、せんでもええねやけどな。
 ひょっとしたら、敷金の引かれ方が違うかもしれんから」というと
また先輩は、黙々と壁をこすりはじめた。
俺もしょうことなしに手伝うことにした。
えらいもので、こすった分だけ壁の元の色があらわになる。
ものすごい主張をともなう白い丸が、忽然と現れる。目立つ。
これはむしろ何もしないほうがよいのでは、とも思ったが、
顔を真っ赤にして壁をこすりつづける先輩を見ると、言う気も失せた。

作業は遅々としてすすまず、
30分かけても、清浄なスペースはせいぜい下敷き一枚分くらいしか広がらない。
「あかん。やめや。しんどい」
そうつぶやくと先輩は、雑巾を放り出してしまった。
そして煙草に火をつけると、ぼんやりとした顔で壁を見つめる。
「ええんですか」
「ええわ。どうせ敷金なんか返ってけえへんねやろ」
くわえっぱなしのマイルドセブンの先っぽから、ぼたりと灰が畳に落ちた。
この人はこういう具合に、雑に人生をやり過ごしてきたんだろうなと、あらためて思う。
ぼく以外にはゼミの人間は誰も手伝いにこんのですか、と言いかけてやめた。

先輩は、本当は出版社に就職したがっていた。
でも、坂口安吾がいくら好きで全集を借金してまで買ったとはいっても、
それだけで就職できるほど、出版業界は甘くない。
同時代のベストセラーを小馬鹿にしながら
さりとて文学についての該博な知識があるわけでもない先輩の底の浅さは、
おそらく就職活動先の社員にはお見通しだっただろうと思う。
ちなみに、全集を買う金は、いくばくかおれも貸し、結局返ってこなかった。

大家さんに借りた軽トラックを先輩が運転し、寮に乗り付ける。
3階建ての古い建物で、エレベーターはない。
すると先輩は「あ、ポケベルが」とだけ言って、出て行ってしまった。
公衆電話なら、寮内にもあったはずだが。
一人残されたおれは、荷台の段ボールを手でおろし、運ぶ。
都合20回も往復したあたりで、先輩が戻ってきた。
疲労の極みで最後の箱を運びこむと、
先輩は「いやお疲れさんお疲れさん。茶でも飲むか」と大きな声で言い
「寮生用の食堂があるんや」と続けた。
一階に降りると、なるほど50人ほど入れるホールがあった。
いまどきこれだけの設備をもっているなら立派な会社といえる。
しんと寒い。
空気の底に、干物やら、ハンバーグやら、卵焼きやら、味噌汁やら、
柴漬けやら、ナポリタンやら、いろんなおかずの残り香が折り重なって淀んでいた。
平日の昼間のこととてテーブルにも厨房にも誰もいなかったが、
先輩は勝手知ったるといわんばかりに、
備え付けの給湯器から茶をそそいでおれにさしだした。
「来月から、毎朝ここで朝飯を食うのか」と先輩はぼそりと言った。「信じられんな。今でも」
先輩が、くしゃみを一つした。
ホールの冷え切った壁や床に、短い残響が残った。
「そういうたら、お前は優文堂にうかったんやったな」と先輩がこちらをむかずに言った。
「はい。ま、あそこしか拾(ひろ)てくれませんでしたんで」
「ええやないか。おれもあの会社は、ええ本だしてると思う」
その出版社の就職面接で、おれと先輩は、顔を合わせていた。
おれは通り、先輩は落ちたのだ。
「やっぱり留年がひびいたんかな。おまえは現役やからな」
と先輩が不服そうな顔でつぶやいた。
いや、問題はそこやないでしょうね、とおれは思ったが
「どうでしょうね」とだけ言った。
味のない茶を飲み干すと、おれは、先輩に挨拶して寮を去った。
引き止めるかな、と思ったが、先輩は引き止めなかった。

4、5日後。
先輩から小さい段ボール箱が届いた。
開ける。と、「おれは植物だ」という濃厚な主張を伴った匂いが鼻に襲い掛かった。
生のふきのとう。数えると36個あった。その上に、メモ用紙が一枚。
「このあいだは礼も至らず失敬。実家より送ってきたふきのとう、おわけします」とある。
改めて箱を見ると、宛先が先輩の名になった伝票を剥がしもしていないのがわかった。
察しがついた。
実家から届いたふきのとうを一目見て、処置がめんどうだと思った先輩は、
そのまま伝票を剥がしもせずに後輩に送りつけて厄介払いすることにしたのだろう。
それでさらに感謝でもされればもうけものだ、と。
雑だ。
この人のこういうところはたぶん、一生治らないのだろうなと思った。

優文堂での面接の日、待合室にはおれのほうが先に着いていた。
開始時間ぎりぎりにやってきた先輩はおれをみつけると
「お」という口の形になって、目元を緩ませながらおれに近づいてき、
ひそひそと囁いた。
「優文堂の最近の一番のヒットってなんやったかいな。面接でその話題になるかもしれんやろ」
と訊いた。おれは
「『清貧の思想・実践マニュアル』やないですか」と答えた。
嘘だった。

ふきのとうの天ぷらというものは知っていたが、揚げ物なんてしたことがないし、
そんな大量の油も後の処置に困る。
とりあえず電子レンジで蒸してマヨネーズで食ってみたが、
アクがひどく、食うのに難渋した。よほど捨てようとも思ったが、
それはすまいと思った。それを食い切ることが最後の務めのように思えたのだ。
3日ほどかかって、なんとか全てのふきのとうを腹に入れた。
そして、手帳に控えていた先輩のアパートの電話番号に線を入れた。
 
それ以来、K先輩とは連絡をとっていない。

出演者情報:吉川純広 ホリプロ http://www.horipro.co.jp/
      遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/



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