川野康之 2019年3月3日「チェリー」

チェリー

      ストーリー 川野康之
         出演 清水理沙

私の初恋の話をします。

その人は背の高い新任の先生だった。
入学式の最後にクラス分けの発表があり、
私のクラスの担任がその先生だとわかったときは、うれしかった。
教室に入ると、先生は黒板に、
Spring has come.
と書いた。
その下に、「桜木慎太郎」と名前を書き、
「桜」の字の下にアンダーラインを引いて、英語で「cherry」と書いた。
先生のあだ名はチェリーになった。

先生は授業の途中でよく脱線した。
映画が好きで、女優だとオードリー・ヘップバーンが好きだと言っていた。
日曜洋画劇場で「マイフェアレディ」や「ローマの休日」をやったときには、
翌週の授業で、吹き替えになっていたセリフの英語を黒板に書いてくれた。
私はそのすべてをノートに取り、何度も読み返した。
言葉というのは不思議である。
外国の言葉なのに、声に出してみると、
セリフの奥の、言葉に出来なかった気持ちが
胸の中にあふれてくるのである。

先生は、英語の勉強のために
イギリス人のペンフレンドと文通しているのだと言って、
時々手紙の中の一節を紹介してくれることがあった。
「私の家の近所の公園で桜がきれいに咲いています」
「日本の桜はきれいでしょうね」
「春になったら遊びに来てください」
ねえねえねえ、と私たちは授業の後で噂したものだった。
チェリーのペンフレンドさあ、日本に来たのかな。

いつの間にか私は先生の授業を心待ちにするようになった。
脱線して映画の話をしてくれるのが心から楽しみだったし、
ペンフレンドとの友情がどう進展するのか、
ちょっと気になっていたからだ。

2年目の学年が終わり、終業式の日に、突然、先生は学校をやめるといった。
留学生試験に受かって、イギリスに行くことになったのだという。
春休み、私たちは一大決心をして、新幹線に乗った。
東京の実家で留学準備をしている先生に会おうと思ったのである。
チェリー、驚くかなあ。
ところが先生は、何と一日前に出発したばかりだという。
うなだれている私たちをお母様が気の毒がって、ケーキを出してくれた。

先生の家のそばに井の頭公園という大きな公園があった。
見たことのないほどたくさんの桜が、
映画の過剰なエンディングのように咲いていた。
白い花びらが降る道を歩きながら、
私は、先生に会ったら言おうと思っていた言葉をそっと口に出してみた。
それは「ローマの休日」の中のアン王女のセリフだ。

I don’t know how to say goodbye. I can’t think of any words.
お別れにどう言ったらいいのか、一言も思いつかない。



出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/


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