中山佐知子 2019年3月24日「あ、ハヤナリくん」

あ、ハヤナリくん

    ストーリー 中山佐知子
       出演 大川泰樹

あ、ハヤナリくん?
橘逸勢くんなら幼馴染だよ。
竹馬の友ってやつだ。
僕は逸勢くんが大好きなんだ。

逸勢くんの家はお父さんが中級貴族で
いまでいう東京都知事みたいな職についていた。
頭が切れて有能だったけど
目立たないことをモットーに生きているような人だった。
無理もないと思う。
橘氏は名門の一族だから標的にされやすく
逸勢くんの爺ちゃんの奈良麻呂さんは
本当だかでっち上げだかわからない
謀反の罪に問われて死んでいる。
このころの謀反というのは
政治の争いに負けたか誰かに陥れられたか、どっちかしかない。
まったく物騒な世の中だった。

そんな家に生まれた逸勢くんだから
世の中を遠いところから眺める姿勢が身についていた。
それは子供が蟻の巣を観察するのに似ていた。
次期天皇の候補だった僕は
争いの中で泥にまみれて苦労していたから
逸勢くんはいいなっていつも思っていた。

逸勢くんは22歳のとき遣唐使の船に乗って
中国へ留学した。
連れはあの空海だった。
逸勢くんは、せっかく才能を認められたのに
語学が苦手と主張しまくって
言葉がいらない音楽と書を学んだ。
認められて帰国して出世するというコースを
うまく避けたんだと思う。
避けたというか、めんどくさかったんだと思う。

でも、ある意味これはすごい。
だって、ラブレターを書くその字がしびれるほどうまくて
音楽に堪能だったら私生活では怖いものなしだ。
逸勢くんの従姉妹にとんでもない美少女がいて、
僕はその子と結婚したいと思ってたんだけど、
逸勢くんがラブレターを送ったらどうしようと
実はハラハラしてたんだ。
当時の、つまり平安時代初期の書の名人は
空海と逸勢くんと僕だけど、
逸勢くんの書はリズムがあって格調高く、
一文字一文字が本当に素晴らしかった。

僕は812年の花見を思い出す。
それは日本ではじめての桜の花見だった。
その三年前に僕は即位して天皇になっていた。
逸勢くんの従姉妹の美少女はすでに僕の妻だった。

平安京の御所のそばの広大な庭園で
僕たちは流れに舟を浮かべ、桜の下で楽を奏で、
詩をつくり、歌を詠んだ。
僕は、茜で染めた衣装を着て桜の下にいる逸勢くんを見つけた。
逸勢くんは小鳥が枝を揺らさずに木に止まっているみたいに
存在感をぼんやりとさせていたけど、
僕は逸勢くんを見つけるのがうまかった。

逸勢くんは中国からたった2年で帰ってきた。
帰りも空海と一緒だった。
「留学費がなくなった」と言い訳してたけど。
逸勢くんのお金も空海が使ったんじゃないかと僕は思う。
空海はそんなやつだし、逸勢くんもそんなやつだった。
ふたりとも、いま何が大事かを知っていた。
逸勢くんはどんなに勉強しても
それを世の中のために使う情熱がない。
一方で空海はあの時代の救世主だった。
だから逸勢くんのお金は空海に流れた。

逸勢くんは、後世になって
日本の書道の基礎を築いたと評価されるけど、
生きているときは何もしなかったなあ。
なんでもできるのになんにもしなかった。
そんな逸勢くんに、
あの日の桜はハラハラと豪華に花びらを投げかけていた。

僕が死んで二ヶ月後、
逸勢くんは反逆の罪を着せられて死んでしまった。
いや、殺されてしまった。
逸勢くんのことが大好きだった僕が先に死んだせいだ。
逸勢くんにとって政治は蟻の巣みたいなもので
観察はしても身を投じるはずがないじゃないかって
僕以外の誰も理解できなかったんだろうか。

ごめんね、逸勢くん。
僕はいまでもきみが好きだよ。

出演者情報:大川泰樹(フリー)


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