中山佐知子 2019年4月28日「織部」

織部

    ストーリー 中山佐知子
       出演 大川泰樹

桃山時代に突然出現した緑色の茶碗、香炉、皿。
織部焼の特徴である緑の釉薬は
中近東から中国を経て日本に伝わったが
これを用いて大胆な意匠の陶器を生産したのが
古田織部だった。

古田織部は戦国の武将だったが
その卓越したクリエイティブ能力を秀吉に買われ
いまでいう産業大臣のような地位に就いた。
おりしも利休によって茶道がひろまり、
日本は芸術品としての陶磁器を必要としていたのである。

16世紀の末、天下統一を目前にした織田信長は
道路を整備し、自由取引の市場をつくった。
街はにわかに活気づいた。
南蛮貿易にも力を入れた。
海の向こうから見知らぬデザインや色がやってきて
日本の美術に影響を与えた、と同時に
ちゃっかり自分も大儲けをしていた。

戦国の世の終わりはそこに見えていた。
前代未聞の好景気で国中が沸き立っていた。
信長にとっての金(きん)は
貯め込むものではなく使うものだった。

信長は凶暴だったかもしれないが
文化を重んじ芸術の目利きでもあった。
文芸も美術も茶の湯という総合芸術で統括し
茶道具、絵画、陶芸など超一流のアートをコレクションした。
さらに当代一流の陶工を膝元に集めて管理下に置いた。

それをそのまま引き継いだのが秀吉だった。
1605年、岐阜に開かれた織部焼の窯は
秀吉の管理のもとに置かれ、
古田織部というクリエイティブディレクターの指揮下に
一流の職人…というよりアーチストを集めた。

その頃に生み出された陶芸品は
世界のどんな食器とも較べようがないほど斬新で奇抜で、
それでいながら品格があり美しいと評価されている。
茶碗ひとつに城ひとつと言われるほど
高価なものが作られていた。
この時代を日本のルネッサンスと呼ぶ人がいるが、
そのとき、古田織部はダ・ヴィンチだった。

しかし、織部焼の寿命は短い。
1615年、古田織部は
徳川家康に豊臣との内通を疑われ切腹し、
それと同時に芸術品としての織部焼は途絶えた。
織部の自由闊達な作風は
徳川政権の管理体制には到底おさまらなかったのだろう。

徳川幕府は古田織部の死の記録を隠し、
織部焼の記録も消してしまった。

研究者によると古田織部の罪は冤罪だそうだ。
古田織部はひとことの釈明もせずに死んだ。
その沈黙の意味を考えるに、
しょせん徳川の田舎もんに何がわかるんだよ…
というようなことではないかと思う。

出演者情報:大川泰樹(フリー)


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