安藤隆 2019年11月10日「おかずパン」

おかずパン

   ストーリー 安藤隆
      出演 遠藤守哉

 太った中年男のヒグマさんは、その日、前
夜の飲みすぎで勤めを休み、多摩川べりの
「鯨いるか球場」で軟式野球を見ていた。

 昼ちかくに起きると、二日酔いの「吐き
気からくる悪い食欲」にとり憑かれてヤキソ
バパンが頭に浮かび、自転車でパン屋へ行っ
た。店内にならぶパンをみて「吐き気からく
る悪い食欲」を加速されたヒグマさんは、吐
く予感に駆られながらヤキソバパンに加えて
コロッケパン、カツパン、缶コーヒーにコー
ラ、最後にはカレーパンまで買ってダメな日
をダメ押しするようだった。その時、パン屋
近くの野球場から秋風にのって、アナウンス
の声がパン屋までとどいたのだ。

 そんなわけでネット裏の中段あたりに、
海老色のジャージーを着た太った中年男・ヒ
グマさんが座っている姿が見える。コッペパ
ンに挟んだヤキソバをこぼさぬよう下からア
グウとかぶりつく。食べるときはいつも大い
そぎのヒグマさんはアグ、アグ、アグとだい
たい三回咀嚼しただけで飲みこみながら、脂
肪で濁った目でグラウンドを眺める。きれい
なひろい空き地。いつもヒグマさんをドキド
キさせる。昔々からだ。野球場はヒグマさん
をまるごと過去へ連れてってくれる。いまだ
って目の前の野球を見ているのに、過去ので
きごとを見ているようだし、きっとほんとに
過去を見ているのだ。ほかの誰もとおなじよ
うにヒグマさんは思い出でできている。

 そろって腹のでた丸顔の中年男たちと、
おむつの小便の臭う恐い目をした老人たち全
部で十五人ほどの観客が、沈痛な面持ちで午
前の終りの光のそそぐグラウンドを眺めてい
る。新聞社の小さい旗が野球場をまばらに一
周している。ゲームは大学の軟式野球の秋季
大会のようで穏やかに進行する。片方の投手
は杉浦投手で美しい下手投げで投げる。ヒグ
マさんはヤキソバパンとカツパンを食べたあ
と、つぎカレーパンかコロッケパンか迷う。
あきらかにやってきそうな吐き気を待ってい
るのでもある。

 さっきミニスカートの娘が入りこんで野
球場に緊張が生じている。しかも娘はヒグマ
さんのすぐ斜め後の段に坐ったのだった。ネ
ット裏の下段に群がって陣どる中年男と老人
が代わる代わる振り向いて娘の足を覗きあげ
る。光がしだいに高く強くなっている。「鯨
いるか公園」のケヤキの色づいた葉が陽を受
けて金色に輝く。ヒグマさんは苦しげに汗ば
む。スタンドのまわりの柳が屈したように垂
れている。閉じこめられた箱庭のような軟式
野球。あかるくて完全無欠な秋の正午。午後
からはきっと冬に入るのだ。

 ヒグマさんはカレーパンにするかコロッ
ケパンにするか、永遠に出ない答に吸いつけ
られたままだ。視界が狭くかつ遠くなる感じ
に襲われて、あやうく顔をあげ世界を見まわ
す。その太った顔を見たミニスカートの娘が
アッと小さな悲鳴をあげる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 


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