直川隆久 2012年12月12日「スバる」

スバる

   ストーリー 直川隆久
      出演 遠藤守哉

ここ数年、全国で断続的におこってきた失踪事件。
そこに共通する点がある。
みな、SNSへの投稿、書置き、離れた両親への留守番電話、
なんらかの形でメッセージを残す。
抽象的であいまいな言葉遣いながら、大体の内容は似通っていた。
明日から自分は「そちら側」から「見えなく」なること、
でもそれは自分の意志であり、
明日以降も自分は「こちら側」で生きていくつもりであり、
心配は無用であること。そして最後に必ずこの言葉があった。
「すばらしき無のために」。
宗教団体か、テロ組織か。反復される「すばらしき無」という
芝居がかった言葉は、失踪者間のつながりを想像させる。
そして、この言葉を残して失踪する行為を
「スバる」と人々は呼ぶようになった。

 ある社会学者は、こう解説した。
スバった人間たちは「忘れられる権利」を「無」になることで
主張しているのだと。
 われわれの生活の一瞬一瞬はすべてモニターされ、データ化される。
ネット上の検索行為やサイト訪問履歴はいうにおよばず、
ベッドに組み込まれたセンサーからは寝返りの回数と位置、
トイレのセンサーからは尿の量や各種成分、
食器に仕込まれたセンサーからは、食べ残した野菜の量…と、
瞬間ごとに大量のデータが吸い上げられる。
それを監視だ搾取だと非難する人もいるが、データはすべてポイントで買い取られ、
その収入で生きていくことができるのだから、
情報を提供する側は情報の「生産者」として、
資本側と対等の地位にいるともいえる。
われわれは幸福な時代に生きているのだ。
 ただ、そういう生き方をうけつけない人間がいる。
彼らは、データの網に捕捉されることを拒もうとする。
だから彼らは、物理的に消えることにした、
というのがその社会学者の見解だった。
言論ではなく実行で――
なぜなら言論は所詮データの1バリエーションだからだ。
質量はもちながら観測ができないダークマターのように、
この日本のどこかに生息しつづけること――
それが、連中が望むことだというのだ。

だが、はたしてこの時代に、
情報網の一部とならずに生きることが可能なものだろうか?
情報をポイントと交換し、そのポイントをカロリーと交換し、
その交換のしかたを、また情報として提供する。
このサイクルを抜け出す方策は「死」以外ない。
そしてそれは――現実だ。
その現実を、連中は否定することができると本気で考えているのだろうか。
無謀だ。それは火星に移住することよりも難しい冒険だろう。
いや、「冒険」などというポジティブな言葉は使うべきではない。
それは「あってはならないこと」だ。情報の網から進んで脱することは、
命綱を自分で断ち切って暗闇の中に飛び込むことだ。
「スバる」という言葉にあらわれた半笑いの態度が示すもの、
それはとりもなおさず、そんな無謀な行為を進んでやる人間がいる、
ということを信じたくない気持ちーー
それをごまかしたいという僕らの無意識ではないか。
現実はひとつであり、それ以外のありかたなどあってはならないのだ。
…と、僕はそこまでで考えるのを止めた。
そろそろお茶の時間だ。お湯をわかしコーヒーを淹れて、
情報を生産しなければいけない。
すばらしきもの、それは存在であり…情報こそが存在なのだから。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

 


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