古川裕也 2010年2月20日ライブ



僕には君がわからなかった

               ストーリー 古川裕也
                  出演 大川泰樹

 春になると、君は僕の耳元で、突然ヴィトゲンシュタインと3回ささやいた。
何日かそれをくりかえすと、今度は、エイゼンシュテインと3回ささやいた。
その完璧にコントロールされた吐息の質と量に僕は君の思惑通り興奮した。
というか、僕が興奮するまで君はそれをやめなかった。
やがて僕の方がそれを期待するようにさえなった。
ルビンシュタインとささやかれたら興奮するだろうか。
ストラヴィンスキーだとどんな感じだろうかと。
今となっては無邪気な思い出だけれど、間違いなく言えるのは、
君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。

 春になると、僕たちはよくけんかをした。
細かいことはいちいち覚えていないけれど、
いちばん深刻なけんかの原因は、確か、八重洲ブックセンターの
5色あるしおりのうち、ふたりがいちばん好きなムラサキ色が一枚しかなくて、
それを取り合ったことだと記憶している。
今から考えてもお互い譲れない問題だったと思う。
とくにその本が長編小説である場合、
それは読後感に決定的な意味を持つ。
ジョイスを読んでるのにトルストイを読んでるような感じになることすらある。
それはよくない。
喧嘩の決着がつかないと、君は必ず街の時計台のいちばん上に登って
降りてこなかった。
春とはいっても、そこは寒い。
たぶん。君は、またたくまに風邪をひいた。
咳をしては、その振動で時計を3分遅らせ、洟をかんでは7分、
くしゃみをしては11分遅らせた。
これは、街のヒトみんなの迷惑のみならず、
僕たちが喧嘩をしていることを街中に知らせることも意味した。
今となっては無邪気な思い出だけれど、間違いなく言えるのは、
君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。

 春になると、僕たちはよく散歩に出かけた。
そうしてみると僕たちはそれなりに似合いのカップルだったと思う。
セーヌ河沿いも散歩したし、テムズ河沿いも、テベレ河沿いも、
ガンジス河沿いも、チグリスユーフラテス河沿いも、
黄河沿いも、多摩川沿いも。
君は気持ちのいい春の空気に触れると必ず僕の耳
に噛付いた。しかもちぎれるまでやめなかった。
ちぎった僕の耳をくわえる君の顔には残忍さなど微塵もなく、
むしろ愛情にあふれていて、僕はうれしかったけれど、
正直ちょっと痛かった。
もういちど耳が生えてくるまで2週間くらいかかったし。
今となっては無邪気な思い出だけれど、間違いなく言えるのは、
君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。

 春になると、とても悲しいことが起こる。
君の17歳の妹が死んだのだ。葬儀で妹のために自作の詩を読んだ君は
美しく気高かった。今回の神様の行いを咎める詩だった。
“神様、あなたはときどきまちがえる”というような題の。
美しい喪服姿の君は葬儀が終わると僕の手をぐいぐい引っ張って行った。
ある種興奮してる様子だったので、
僕のアタマの中には、エロスとタナトスとか
ジョルジュ・バタイユなどの単語が浮かんでいた。
立ち止まった瞬間、ヴィトゲンシュタインと耳元でささやかれると思っていたのだ。けれど、着いた先はなんの変哲もない中華料理屋。
僕がビールと餃子と焼きそばを食べてる間、君は、餃子8人前はじめ
店のメニュー全部平らげた。
“悲しいときがいちばんおなかがすくという真実を知ったわ”とか言いながら。
喪服をラー油だらけにして。
このできごとで、僕はますます君を好きになった。
今となっては無邪気な思い出だけれど、
間違いなく言えるのは、君が僕が出会った中で
飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。

 僕には君がわからなかった。
こうして墓の下にいるとますますそう思う。

そして最後の春、なぜ君は僕を殺したんだろう。
あの日、あの時刻、たまたま気温が殺人に最適の19.4度になったから。
君がほんとうは猫であることに僕が気付いたから。
セックスではなく死を前にした男の耳に、
ヴィトゲンシュタインとささやいてみたかったから。
この3つのどれかの理由にちがいないと僕は思う。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/  03-3478-3780 MMP


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