安藤隆 2023年1月15日「COPY FUJIYAMA」

COPY FUJIYAMA

ストーリー 安藤隆
   出演 大川泰樹

 外へ出たとたんわかった。きのう日本がク
ロアチアに負けたからなんだ、朝から雲がこ
んなに重く垂れているのは。それになんだか
音がしないぞと思ったら、煙のような雨が降
ってきて音を消してるんだ。道のサルスベリ
も疑心暗鬼のかたちにくねっている。
 バス停はラブホテルの先にあり、負けたと
いうのに大勢の老人たちが溜まっている。律
儀に間隔を開けて並んでいるので、列がバス
停の屋根をはみだしている。老人パスで一つ
先のスーパーへ行く連中か。待て待て、連中
とか言えない、おれも老人だったと、日熊さ
んはすぐ反省した。
 バス停へ着くと、黙っていると見えた老人
たちはぺちゃぺちゃ喋っているのだ。最後尾
は雨に濡れるので閉口と、日熊さんは空いて
いる先頭付近にもぐりこむ。すると「あなた、
もっとこっち!順番とられちゃうよ」後ろむ
きに話していた先頭のお婆さんに、二人目の
お婆さんが遠慮のない声で言って、日熊さん
をいかにも睨むのだ。
 「そんなことしねえよ」
 潔癖症なとこがある日熊さんであるが、こ
のときは、自分の口からうっかり変な言い方
が出てしまい戸惑った。それで、ちゃんとし
た人間なんだぞとばかり言い直した。
 「僕は、みんなが乗り終わった最後に乗るん
だから!」しかしお婆さんは、不審者を見る
目をさらに強める具合にあらためて向け直す
のだ。たしかに日熊さんはバス停の新参者で
はある。駅まで歩くのが億劫になって近ごろ
よくバスを使うようになった。
 日熊さんがその昔、米軍ハウスに越してき
たころ、バス停は「ライターズ・ゲート」と
いう変な名前だった。管理人のヤマシロさん
に「ライターってなに?」と聞いたら「ゲー
トの前の代書屋!」と教えてくれた。
 いまラブホテルがある場所に、あのころ掘
立小屋のような建物があり、「COPY
FUJIYAMA」と英語の看板が掛かっていた。
英語の下に小さく「代書屋富士」と日本語が
書いてあった。背の高い鉤鼻の老人が建てつ
けのわるいガラス戸をあけて出入りするのを
見たことがある。道の反対側に基地の裏門の
ようなひっそりしたゲートがあっていつも閉
まっていた。
 「ラブレター専門の代書屋だよ、兵隊と女
の!」太った日系アメリカ人女性のヤマシロ
さんがつづけて言って大笑いした。
 看板の「COPY」を見たとき、日熊さんはと
っさにコピーライターを思ったのだ。代書屋
でなぜかほっとしたけど、ちょっと拍子抜け
もした。それで想像した。長身の鉤鼻の老人
は、ほんとはコピーライターだったのではな
いか。だから代書屋なのにCOPYを掲げたの
ではないか。それにしてもCOPYを代書と訳
していいものだろうか。よくわからないけど
それでもいい気がした。
 バスがきた。日熊さんは宣言したとおり、
溜まっている老人たちがぜんぶ乗り終わるの
を待って乗った。
 さっきのお婆さんが前方の老人障害者席に
座っていた。と、日熊さんが挑戦するように
前方へ行った。お婆さんを通り過ぎて吊り革
をつかんだ。ほら僕は狡いことはしない人間
だよと、斜め前に座るお婆さんを意識したけ
ど、お婆さんのほうは、バス停でも話してい
た知り合いと話のつづきをしていた。いっぺ
ん目が合ったけど、日熊さんのことはもう忘
れているようなのだ。
 バスから富士山がよく見える箇所がいまも
一箇所だけある。日熊さんが吊り革で立って
ゆくのは、窓の外がよく見えるからでもある。
日本が負けたせいの曇り空で、ぜったい見え
ないだろうと諦めていたら、山の上空だけぽ
っかり空いて富士山が光っていた。日熊さん
は「よし!」と声をあげた。



出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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安藤隆 2022年7月24日「 きょうは飛鳥さんと天の川」

きょうは飛鳥さんと天の川

 ストーリー 安藤隆
    出演 大川泰樹

 飛鳥さんが「天の川見たことない」と言う
から「天の川を、ミルキーウエイというのは、
どうしてですかあ?」と、僕の物知りぶりを
披露して、自慢しようとしたら「ひろしくん、
おしっこ出しなっ」と飛鳥さんが、寝ている
僕の僕を無造作につかんで、尿瓶の口に突っ
こんだ。
 ミルキーウエイの話が、どうしておしっこ
の話に変わったのと思ったけど、まあいいか
あ、と思った。僕は飛鳥さんを気に入ってい
るから。
僕は天の川を見たことがいっぺんある。あ
れはぜったい天の川だった。
 小学校4年と5年の2年つづけて、夏休み
のあいだじゅう、岐阜の山村にある父親の生
家に預けられて過ごした。
 庭で飼っている山羊の乳が搾りたてで毎朝
飲めるし、卵も生みたて、昆虫もいっぱい。
そのうえ店が忙しい親にとって、めんどくさ
い盛りの小学生を厄介払いできる一石二鳥の
アイデアというわけ。いま思い返せばね。
 僕は、でも、自然豊かな父親の村での夏を
十分楽しんだ。早朝、霧のかかった山へ入り、
みんなで蚕の桑の葉を摘んだ。夕方の矢作川
は、水面が斜めに光って、川がぐっと深くな
り、鮎がうようよいた。いとこたちが、おも
ちゃみたいな竹のモリで、たちどころに一人
5、6匹突いて、笹に刺し、意気揚々と持ち
帰った。
 天の川を見たのは、集蛾灯に集まる昆虫を
捕りに、夜の田んぼへ行ったときだ。うるさ
く飛び回るウンカや、蚊や、こがね虫や気味
のわるい蛾に混じって、目当てのかぶと虫も
いた。木の幹にいるのを見つけると、輝く宝
物だけど、集蛾灯のかぶと虫は、汚らしいた
だの虫に見えた。気分が下がって捕るのをや
めたら「お前が言うから連れてきてやったの
に」と、いとこたちは怒ったけど。
 その帰り道。異変を感じて見上げたら、空
が、集蛾灯みたいに細長く青白かった。星が、
虫みたいに集まっていた。
 「天の川だ、天の川だ」と騒いだら「きょう
は七夕でないで。8月だで。天の川でないわ」
と、いとこたちがバカにした。
 天の川は、天女の母乳が宇宙に飛び散った
んだ、だからミルキーウエイなんだ、という
話を飛鳥さんにまだできていない。飛鳥さん
なら飛び散らせるかもしれないね、と褒めた
いけど、セクハラじじいってまた言われるか、
あはは。
 僕はおしっこを尿瓶に垂れながら、子犬の
ように飛鳥さんを見あげる。
 「窓あけて天の川見たい」と甘えたら「見え
るわけないよ、夜でも明るいから」と言いな
がらあけてくれた。やっぱり飛鳥さんはやさ
しい。むーっとする湿った空気がさっそく入
ってくる。
 僕はベッドに寝たままだけど、二人で恋人
みたいにちょっと黙った。
 「汚いから、じぶんで拭いて」おしぼりを手
渡される。僕の僕にやっと届かせながら
 「来年の七夕って、飛鳥さんにまだ会えるか
なあ」と言ったら、
 「ひろしくん、おしっこけっこう出るから、
大丈夫だよ」と飛鳥さんが笑った。

出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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安藤隆 2021年10月10日「冬のお庭(風版)」

冬のお庭

  ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 千代さんはその朝、いつものように憂鬱
ではなかった。そのことを怪しみながら、魔
法瓶のヌルマ湯で、たくさんのきれいなカプ
セルの薬をのんだ。夫はもう会社へ行ったの
らしい。それともゆうべは帰ってこなかった
のかしら。千代さんは思い出そうとして、何
かに躓いてやめた。代わりに手にしているヌ
ルマ湯の花柄の茶碗が、新婚当時、夫と一緒
にデパートで買ったセットの残りであること
を思い出した。が、それも微かに心をよぎっ
た翳のようなものだ。なにかひとつことに捕
らわれるのがこわくて、いつだってあわてて
打ち消すことをしつづけてきたから、いまで
はそれが千代さんの思考の回路になってしま
った。
 冬の透きとおった午前。いいお天気。風が
つよい。お庭に出てみようかしら。ちょっ
と胸がどきどきしはじめた。冬の庭がきれい
なのは、スズメノカタビラやチドメグサら夏
の気味のわるい草たちがいなくなったせいだ。
いろんな命が風で吹きとばされていなくなっ
たせいだ。クチナシやアジサイもいまは冬の
陽をうけてじっとしている。千代さんはガラ
ス戸をあけて、スリッパのまま庭におりた。
千代さんは植物たちが嘘をついていることを
知っている。根っこは土の奥で盛んに生きて
いるのに、上は死んだふりをしている。目を
離すといまにもいっせいにワーッと土から生
えだす‥。ワーッ気持ちわるい。
 一本だけ咲いているサザンカの繁みに隠
れて子供がいた。千代さんは赤くなりながら、
襟元を手でかき合わせた。子供は小学校の一
年生ぐらいだろうか。でも中学校の一年生な
のかもしれない。千代さんには本当になにも
わからない。きっとずーっと千代さんを見て
いたのに違いない。でも心配することはなか
った。相手はほんの子供なのだ。
 千代さんは子供に笑いかけた。思いがけ
ず自然に笑えた自分にうれしくなって、すこ
し元気が出た千代さんは「こんにちは」と声
に出して、また笑おうとした。こんどは前ほ
どうまくいかなかった。子供の固い顔がまっ
たく反応しないもので、笑いが中途でこわば
ってしまったのだ。千代さんは思った。「こ
んにちは」より「君のお名前は?」と聞いた
ほうが、よかったかな、と。それだったら答
えてくれたかもしれないよ。千代さんは気を
取り直し「君の‥」と子供にしゃべりかけた。
 するととつぜん子供が「バカ、キチガイ
ババア、ベーエ」と目をむき、ベロを出して
逃げていった。千代さんは「まだ言い終わっ
てないのに‥」と笑っているような顔のまま、
子供をさがして周囲をきょろきょろ見回した。

出演者情報:大川泰樹  所属MMP 03-3478-3780

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安藤隆 2021年3月21日「引きこもり線の思い出」

引きこもり線の思い出
   
   ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 ヒグマさんは、私たち同様、道の真んなか
をなかなか歩けません。自動車がこないよう
な細い路でも、真んなかを歩くには勇気がい
るタイプの中年です。
 そのヒグマさんが、道の真んなかをにやに
やして歩いています。そこは草ぼうぼうの引
き込み線跡で、線路が邪魔なので、端っこよ
り真んなかのほうが歩きやすいのです。
 ヒグマさんが考えるに、引き込み線のいい
ところは道幅が狭く、ハウスのあいだをくね
って通っているところでした。適度にカーブ
して、先が見え隠れする道ほどそそられる道
はありません。
 その線路の撤去が、ついに明日はじまると
いうのです。ヒグマさんは落ち着かない気持
ちになって、缶ビール片手に引き込み線跡を
うろつくのでした。
 線路が二手に分かれる分岐点があります。
ほかより開けた場所でセイタカアワダチソウ
が茂っています。ヒグマさんは缶ビールをあ
けました。以前の夏、その場所に椅子を出し
て、昼から酒盛りをしたことがあったからで
す。沿線のハウスはぼろ家でしたが、広い庭
を作業用に使う彫刻家など、奇妙で優しい人
たちが借りて住んでいました。
 若い彫刻家の安田くんが「四国で煙突をつ
くるさいはよろしくね」と言って、年上の彫
刻家の富田さんに、与論島の強い焼酎をすす
めました。「口のなかに火がつきますよ」「え、
ラム酒より強いの?」富田さんは直射日光を
受けた赤い顔を嬉しそうにテカらせました。
クレーン車の運転免許を持っている富田さん
は、「煙突のような大物彫刻」を作る助手と
して、四国までいくことになっているのでし
た。彫刻が完成したら連絡するから必ずみに
きてねといいおいて、けっきょく四国へ移り
住んだ安田くんから、以後連絡は途絶えてい
ます。
 しかし富田さんよりも先に焼酎を飲みほし
たのは、劇団主宰者の小野さんでした。「あ
んがい甘いでしょ?」と安田くんに聞かれて、
照れたようにうなずきました。よくいる中年
のようにいつも野球帽をかぶり、影のように
おとなしい小野さんと、彼のミュージカル団
が結びつきません。その小野さんは、あの酒
盛りの日からまもなくして家出した、と聞い
たきりです。劇団員の女子学生と恋愛した、
とも聞きます。女子学生とのつきあいにおい
ても、あの広島カープの野球帽は脱がないの
かなあと、ヒグマさんは家出よりそっちを気
にしました。
 その日いたもうひとり、写真家の金森さん
は多摩川の草花の写真を撮っています。「イ
ヌノフグリはひどいよー」と笑いました。
 考えたら安田くんも、富田さんも、小野さ
んも、金森さんのこともすきでした。考えた
らあんな良い日はもうこないだろうなと思い
ました。
 缶ビールを飲んでるあいだに、セイタカア
ワダチソウが、同じ背丈に伸びています。急
に小便をもよおし、茂みに隠れました。
 ヒグマさんは、私たち同様、うずくまるば
かりの日常ですが、そのせいか「遠く」とい
う言葉がすきです。廃線の線路が、荒れた森
のなかのトンネルに消えてゆく風景を、テレ
ビでみると、「遠くの遠く」を想像してぼん
やりしてしまいます。



出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

 

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安藤隆 2020年9月6日「月とコロナ」

月のコロナ

   ストーリー 安藤隆
     出演 大川泰樹

 新型コロナでまっすぐ帰る口実ができてよ
かった。太る男は会社帰り、そう思った。電
車は混んでいた。みんなまっすぐ帰れてうれ
しいんだとなんとなく感じる。
 地元駅の改札を出る。商店街もない線路沿
いにコンビニがある。弁当を買おうと向かっ
たら隣の食堂の立て看板が目についた。こと
しの年明けにいっぺん入ったことがある店だ。
うすら寒くだだっ広かった。事務所みたいだ
った。その店に寄る気になったのは、そのと
きのがら空きの印象が強かったせいだ。コロ
ナの心配がなさそうだった。
 名前はパナマ食堂。そうだった。パナマ料
理? と思ったら焼き魚とかカキフライの店
だった。聞いてみると四十代くらいの店主が
ブラジルへ行ったことがあると言った。パナ
マの答えになってないと思ったけどべつによ
い。料理はどちらかといえばうまくなかった。
それも入る気になった理由だ。太る男は清潔
で料理がふつうの店を信用する。
 扉をあけると思いがけずうるさい笑い声。
左隅の四人席からだった。コロナ対策のカー
テンの衝立がしてあった。家族らしい。この
ままきびすを返すべきと思ったが太る男は入
った。二人席には中年と不美人な女のアベッ
クがいてこちらもすこぶる笑ったりしている。
家族に対抗しているのだろうか。太る男は調
理場前のちいさいカウンターへ向かった。主
人のほかに女店員がきょうはいてカウンター
へ座らせたい気配をみせたから。三つの真ん
なかの椅子にバッテンを書いた紙が置いてあ
る。奥の椅子で日本酒を飲んでいた男が嫌な
目つきをした。座って後ろを見たら、もうひ
とつあるついたての陰の四人席が空いていた。
そっちへ移ろうと思ったが太る男は動かなか
った。四人席にズルして移るなよと目つきの
嫌な男が監視している気がした。
 太る男は鯖の味噌煮定食を注文した。飲む
気はなかったが、お飲み物はと店の女に言わ
れてビールを頼んだ。カウンターに座るなら
酒飲めよと目つきの嫌な男が観察している気
がした。
「このオヤジさあ、ま〜だ飲む気だよ」「お
い、ケーキはごはん食べてからだろ」おばさ
んの声が傍若無人におおきい。太る男は一度
外したマスクをした。四人席に四人以上いる
のはまちがいない。目つきの嫌な男が「マス
クはむだだよ」と主人に喋っていた。「ほん
とは何十万人いるかわかんねえよ」「そうな
んですかね」と主人が答えていた。「だった
ら外しちゃお」太る男が唐突に会話に入った。
目つきの嫌な男はちょっとびっくりしたよう
だった。
 そこへ料理がきた。ここは鯖の味噌煮がい
ちばんうめえ、と目つきの嫌な男がぼそっと
言っていた。ビールどうします? 店の女に
きかれてビールはいいやと太る男は妙に明る
く答えた。日本酒にするかな。
「おんなじ医者が毎日おんなじこと言いに出
てきやがって」「いいアルバイトですよね」
目つきの嫌な男は主人とコロナの話をしてい
た。太る男もときどきそこへ入った。「話し
てもうつらないけど、笑うとうつるっていう
ね」そう言うと目つきの嫌な男がはじめて太
る男を見た。二人ともあわてて目線をはずし
た。家族は変わらず大声で話している。おば
さんは二人いたんだ。「先生にもう一本、常
温で」と主人が言っていた。先生? と太る
男は思ったがべつによい。
 帰り、病院まで出るとあとは一本道。右手
は広い原っぱで向こうに国営公園の森が鬱蒼
とこもっている。大きな月が浮かんでいる。
八月の満月の月曜日。みていたら月の輪郭が
ふと揺れた。うつったんだと太る男はわかっ
た。原っぱの先のラブホテルの前をゆっくり
走る車がいる。入るのかなと見張っていたら
入った。

出演者情報:大川泰樹(フリー)

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水下きよし「風と監督」


風と監督 (水下きよし七回忌特集 )

     ストーリー 安藤 隆
        出演 水下きよし

僕は25年前、地元の高校から甲子園に出場した。
4番打者だった。
いまは地元の役所に勤め、
毎週日曜に軟式の少年野球の監督をしている。
受け持っているのは、小学校の5年と6年の生徒だ。
チームの名前は富士見町ホエールズ。
50年前に、近くの多摩川の川原から、
鯨の全身の化石が出土したことからホエールズと名づけられた。
チームの練習場も、多摩川べりにある。
きわめて平和なチームだが、問題はある。
軟式だから引き受けたのに、勝負やレギュラーにこだわる親が多い。
子供をプロ野球選手にするという夢を見始める者さえ、出てくる。
もっとスパルタで鍛えてさあ、勝つ野球やってよ監督、と
小声で言う親が出てくると、そらきたと僕は思う。
高校野球の経験から、プロ野球のレベルは想像できる。
やり方を変えることは絶対にない、と僕は宣言する。

僕は基本的な練習を重視する。
ゆるいゴロを正面でとる。
ゆるいタマをピッチャーがえしに打つ。
変化球を投げさせない。
試合で40球以上は投げさせない。
決して子供たちを怒らない。
そんな風だから、
僕が監督を引き受けてからチームはたいてい弱い。

そして、きょうの日曜日だ。
秋晴れの美しい天気だった。
チームはいつものように練習をしていた。
するとにわかに、風が吹きはじめた。
グラウンドの土が、竜巻のように空を覆い、
富士山が見えなくなった。
僕らは練習を中断して屈みこんだ。
風が止んで、顔を上げた。
するとそこに中年の男が一人立っていた。
男はこう言った。
「君のチームは、とてもよい練習をしている」と。
そしてネクタイ姿のまま、股を割って、
子供達にゴロの取り方を見せてくれた。
それからボールの打ち方も見せてくれた。
強く打っても、タマは子供達の正面にゆるく飛ぶ。
いつもは騒ぎまくる子供達が、
このときは神妙な顔で聞き入っているのが不思議だった。
中年男は優しく教えるだけなのに。
だが、いちばん魔法にかかっていたのは、僕自身だろう。
男が「きょうはありがとう」と言って去るまで、
なにも言えない有様だった。
なにせ男は、落合監督だったのだ。
1985年、打率3割6分7厘。
得点圏打率4割9分2厘。
打点146。
僕が高校の4番だった年の落合。
僕の知っているほんとうの四番打者。
どうして落合監督が、ここにいたのかはわからない。
近所の大きなスーパーの駐車場で、
落合監督来たると書かれたのぼりが、
風に吹かれてちぎれていたのを見た。ような気がする。
それともそれは、10年前のことだったろうか。

ゆっくり歩いているのに、
落合監督の姿はまたたく間に見えなくなった。

出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/

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