名雪祐平 2015年6月1日「青天の月」

青天の月

   ストーリー 名雪祐平
      出演 平間美貴

ハロー、ぼくです。
ぼくは男でも女でもない。
仇名は、ゾラ。

16の時、校舎の屋上でこんなことがあったんだ。
売店で買ったコロッケパンをほおばろうとしてたら、
天文部の月子が近づいてきた。
「へぇー、いかにもコロッケパンらしいコロッケパン」
月子はへへへへと笑いながら、いきなり手をのばして、
コロッケパンからコロッケを奪い取り、
空中にオーバースローで放り投げた。

5月の青空に浮遊する、コロッケ型UFO。
ぼくの手に残ったのは、ただのパン。
アイデンティティを無くしたパン。

月子は、指についたソースを面倒くさそうに舐めながら、
聞いてくる。
「そのパンにいま、何が挟まってる?」
見てのとおりさ。何も。
「君だよ。この青空みたいに、がらんどうの君が挟まってる」
ぼくは何も抵抗できなかった。
なにしろ、ゼロ・アイデンティティ。

「がらんどうだから、名前なんか無くていいね」
間に合わせに、月子はぼくに仇名をつけた。
青空を略して、ゾラ。
宇宙人みたいな、ゾラ。

「ゾラ、あしたから国籍無しね」

オッケー。
月子とぼくは、また会う約束をした。
この屋上で、雲ひとつない青空の日にだけ会う。
一週間に一日あるかないかだったけれど、
月子は会うと気まぐれに
へへへへと、ぼくから一つ一つ奪っていった。

「ゾラ、人種無しね」

「ゾラ、性別無しね」

「ゾラ、夢無しね」

夢なんかもともと無かったけれど、
無くていいんだと、スーッと楽になった。
そうやって一つ奪われるたびに、不思議なことに
ぼくは身震いするような喜びを感じた。

これが自由なんじゃないか?
あたりまえにあると思い込んでいたコロッケが、
何個も空に飛んでいった。

雨ふる季節になった。なかなか月子に会えなくなった。

ぼくは、どうしても無くしたくないものに気づいてしまった。
つぎに月子に会ってしまえば、それを「無しね」と
告げられそうで恐ろしい。
だから、祈った。
あした雨になあれ。あした曇りになあれ。

6月のある日。梅雨が嘘のような青空。
ぼくは階段をのぼった。
屋上で、もう月子が待っていた。
へへへへ、こんなに無邪気に笑うんだ。

「ゾラ、わたし、無しね」

恐れていたとおり、ぼくは月子を無くした。
会ったのは、それが最後。

抜けるような青天の日。
白い月が淡く見えることがあるでしょう。

ハロー、月子。
ハロー、ゾラです。
あれからぼくは、ほんとうに、がらんどうになったよ。
ぼくは自由なんだ、よね?

ぼくはささやく。返事はなくても。



出演者情報:平間美貴 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

Tagged: , , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

佐藤充 2025年5月25日「ジャッカル先輩」

ジャッカル先輩

    ストーリー 佐藤充
       出演 大川泰樹

「これでようやく出発できるな」

ナミビアの首都ウィントフックのゲストハウスで、
友人のヨシとナミビアを一緒にまわる
他のバックパッカーたちを探していた。

2人でまわればいいだろうと思う人もいるだろう。
こちらも好んでわざわざ知らない人と旅をしたいわけではない。
ただ、2人だと割高なのだ。

ナミビアの観光地は国立公園などのほぼ自然だ。
それぞれの国立公園が街から離れており、
なおかつ観光地をつなぐ交通機関が存在しない。

だからバックパッカーたちはゲストハウスで、
一緒にレンタカーを借りて周遊する仲間を探す。

レンタカーは10万円ほどの5人乗りの四駆しかないので、
貧乏なバックパッカーは頭数を5人ちょうどに揃えるのだ。

もちろんツアーもあるが、それは高額だ。
貧乏なバックパッカーには手が出せない。

5人乗りの四駆を借りるためにあと3人見つけたらいい。
すぐに出発できるだろうと思っていた。

しかし、仲間探しは難航した。
自分たちの宿泊しているゲストハウスにいないだけで、
他のゲストハウスにいるかもしれないと行ってみるが見つからない。

ツイッターで【ナミビア】や【ウィントフック】というワードで
検索しても都合よく旅している人もいない。

2日経過した3日目だった。

動き回ると逆に見つからないのでは、と謎の逆に理論で、
ゲストハウスのプールサイドでビールを飲みながら
世界のかっこいい都市名対決をすることにした。
ヨシも僕もこの世界のかっこいい都市名対決が好きだった。

「ジュネーブ」
ヨシは「ジュ」で少しためて「ネーブ」をさらに伸ばして
ジュネーブと言うのを得意としていた。

「マチュピチュ」
ヨシのジュネーブに対抗してぼくはささやくように
マチュピチュと言う。

「ニューヨーク」
ヨシは堂々とまるで世界の中心はアメリカだと言わんばかりに
威厳たっぷりに言う。

「喜連瓜破」
僕は必殺技のように言い返す。

そんなことをして過ごしているときだった。

プールサイドの向こうから3人の日本人がやってくるのが見えた。

7つ上で世界一周中の九州出身のトシさん、
同じく世界一周中のブロガーのマサさん、
アフリカ横断中のユキさんの3人だった。

なんとその3人もレンタカーを借りる人を
ちょうど2人探しているとのことだった。
お互いの条件が合致した。

旅をしているとこういう巡り合わせというか、
縁を感じるような奇跡みたいなことが起きる。

早速レンタカー屋へ手続きをしにいこうとしたときだった。

プールサイドの向こうから割れんばかりの笑顔で、
こちらへ手を振ってやってくる日本人男性の姿が見える。

「あ!よかったよかった!僕も仲間に入れてもらっていいですか?」

その男性の名はヨウスケさん。

6人になったら車を2台借りなければならない。
2台で行くならば正直あと何人かいたほうがいい。
しかしあと何人かがすぐに見つかるかもわからない。

全員がどうするか考えていた。
なんとも言い難い沈黙が流れる。

僕ら5人でもうレンタカー借りちゃったのですみません、
と嘘をつくこともできる。

ヨウスケさんは僕らとじゃなく他の人を探して一緒に行ってください、
と言うこともできる。

でも僕らも5人集めるのに数日を要して苦労していたので
ヨウスケさんが他の人を集めるのに苦労することもわかる。

ヨウスケさんがこの空気を察して、
あと4人探して僕は別で行きます、
と言ってくれないかなと思った。

7つ上のトシさんの顔を見る。
とても悩んでいる顔をしている。

「一緒に行きますか!」

九州出身のトシさんは男気のある人だった。

「やった!ありがとうございます!」

ヨウスケさんはピュアな男だった。

そしてまた人数を合わせるために人を探すことになるが、
それは意外とすぐに見つかった。

カポエラーを教えながらアフリカをまわっている韓国人カップルと、
中国人の男子大学生のジャクソンを含めた9人で、
2台のレンタカーを借りて行くことになった。

僕たちはレンタカーで国立公園へ行き、
昼は国立公園のなかを運転しながら
ライオンやゾウやキリンなどをサファリしたり、
夜は国立公園内のキャンプサイトで、
バーベキューをして、
流れ星がたくさん流れる夜空を眺めたりした。

そしてバーベキューの火が消えてきたら、
それぞれテントを張ったり車の中で寝る。

僕とヨシは毎日車のなかで寝ていた。

そんな僕らを見てヨウスケさんは
「2人ともわかってないなぁ。
サバンナではテントで寝るのが1番幸せなんだよ」
と持論を言いテントの中に入っていった。

「勉強になります」と言い僕らは車で寝た。

夜中のことだった。

車の外から
「ヴゥーヴゥー」という獣の唸り声、
「キャンキャン」という吠える声や、
そこら中を走り回る音が聞こえる。

しかもそれは1匹や2匹ではなく、
10匹以上の獣たちがいる気配がするのだった。

「なんだろこの音」と僕が聞くと
「あれやろ、バーベキューの残りの肉とか漁りにきてるんちゃうん?」
とヨシは答える。

理由がわかると途端に興味がなくなり、
何事もなかったことのようにまた寝た。
朝、僕らは誰かが車の窓を叩く音で目が覚めた。

「ジャッカルに靴片方盗まれたのって海外保険おりると思う?」
そこには笑顔のヨウスケさんがいた。

なんと夜中バーベキューの残りの肉を漁りにきたジャッカルたちが
ついでにテントの前に脱いでおいたヨウスケさんの靴を片方だけ盗んでいったらしい。

「やっぱりサバンナではテントで寝るのが1番幸せだって言ったでしょ」

青空の下でジャッカルに靴を盗まれたことを
嬉しそうに報告するヨウスケさんは輝いていた。

誰かとする旅も悪くないなと思った。



出演者情報:
大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

李和淑 2025年5月18日「青空泥棒」

青空泥棒

   ストーリー 李和淑
      出演 大川泰樹

たいへんだ。青空の「青」が盗まれた。
青空の「青」を取り戻すまで、空は何色にすればいいのだろう。
青空の守り神は頭をかかえた。

青空を、茶色にしてみようか。
いやいや、なにやら悪い物が浮遊しているようで
みんな呼吸をしたくなくなるだろう。
公園の散歩やラジオ体操も、やる気にならないだろう。
ひとびとは無意識に息を止めて歩き、
家の中にいても、窓を開ける気にもならない。
とたんに息苦しい世界になってしまう。

青空の「青」を取り戻すまで、空は何色にすればいいのだろう。

青空を緑色にしてみようか。
いやいや、木や草との境界線がなくなって、
自然に癒やされるありがたみが、なくなってしまうだろう。
山登りやキャンプにも行かなくなるし、
ゴルフも難しくなりそうだ。
それから、キャベツ、きゅうり、ピーマンとか
緑の野菜はもう食べたくなくなるだろう。
トマトやニンジンが重宝されて、取り合いになるかもしれない。
それよりなにより、緑の空にオレンジの夕焼け…
なんて強烈な色の組み合わせなんだ。
想像するだけで、クラクラする。

青空の「青」を取り戻すまで、空は何色にすればいいのだろう。

青空を、ショッキングピンクにしてみようか。
女の子たちのテンションは上がるだろう。
ひょっとしたら、
疲れたオジサンたちのテンションも上がるかもしれない。
なんたって見上げれば、ピンクピンクピンク!
富士山も、国会議事堂も、トランプタワーも、
世の中のすべてのものをポップにしてしまう。
ピンクの空の下なら、戦争だってバカバカしくなるはず。
世界中の空がピンクで染まれば、一瞬で平和になりそうだ。
これはワクワクするぞ。
でも、あの真っ赤な太陽が、ショッキングピンクを許してくれるだろうか。

青空の「青」を取り戻すまで、空は何色にすればいいのだろう。

青空を、真っ白にしてみようか。
でもそうすると、雲がひとつも見えなくなってしまう。
入道雲、ひつじ雲、うろこ雲
広い空からあの模様が消えるなんて、私でさえちょっとさびしい。
それから白という色はなぜか、
人間の感覚や感情を麻痺させてしまうような気がする。
暑いのか、寒いのか。おいしいのか、まずいのか。
うれしいのか、悲しいのか。好きなのか、嫌いなのか。
なにも感じない。なにも考えない。
人間をそんな風にはしたくはない。

青空の「青」を取り戻すまで、空は何色にすればいいのだろう。

青空を、真っ黒にしてみようか。
正直、ちょっと怖いかもしれない。
昼間なのに夜みたいな空、太陽は出ているのに空は黒。
映画のブレードランナーの世界、といえばカッコいいけれど、
空に青空があったときのように、
解放感を味わったり、気持ちを切り替えたりできるとは思えない。
真っ黒な空を見上げても、夢も希望も描けない。
寝ても覚めても黒の世界。
そこでは笑い声すら塗りつぶされてしまうだろう。

さて、
青空の「青」を取り戻すまで、空はいったい、何色にすればいいのだろう。
青空の守り神は頭をかかえた。

もうすぐ虹がかかる。

.
出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

佐藤義浩 2025年5月11日「手のひらに太陽を」

手のひらに太陽を

   ストーリー 佐藤義浩
      出演 遠藤守哉

朝起きたら透明人間だった。

ラッキーだと思った。
透明ならいろんなことができる。
誰にも気づかれずにいろんなところにも行ける。
悪いことだってできそうだ。
考えてみれば、いいことのない人生だった。
いつもオドオド、こっそりと生きてきた。
それでもなぜか、
偉そうな奴らに見つけられてはやたらと絡まれた。
いくら自分は目立たないつもりでいても、
問題はいつも向こうからやってくる。

だから日頃は人と目を合わさないように
いつも下を向いて歩いていた。
だけど今は他人を気にする必要はない。
やっと前を向いて歩くことができる。
そうだ。いつも嫌がらせをしてきた
アイツに仕返しをしよう。
気づかれずに後ろから忍び寄って
頭を殴って逃げよう。

そう思ってはみたものの、
いざやろうと思うと問題はある。
まず武器が持てない。
手に持つものは透明にはならないからだ。
そっと近づいて、
その辺の石でも拾って殴るしかないか。
服を着ることもできないが、
どうせ見えないんだから関係ない。
そう思ったらちょっと気が楽になった。

家を出た。
雨上がりで道は濡れている。
水たまりに気をつけながら歩く。
なんだ結局、また下を向いてるじゃないかと思う。
いきなり車に轢かれそうになった。
相手から自分が見えないとはこういうことか。
下を向いている場合ではない。
気を取り直し、360度、
周りに注意を払いながら慎重に歩いてゆく。

いた。
まだ誰かに絡んでいる。本当に嫌なヤツだ。
後ろからゆっくりと近づく。
濡れた路面が小さな音を立てるが
気づかれている気配はない。

まだ届かない。あと一歩。気が早る。
今だ。思いっきり手を振り下ろした瞬間、
水たまりで足が滑って大きく空振りした。
勢い余ってすっ転ぶ。
バシャンと大きな音がして水が跳ねた。

これだけ派手な音がしたのに
ヤツは全く気づく様子もなく、
何事もなかったように誰かに絡み続け、
そのまま歩き去ってしまった。

なんだ、こんなに自己主張をしても
気づかせることもできないのか。
俺って本当に透明なんだな。と
思ったら急に可笑しくなって、
声を出して笑ってしまった。

驚いたカラスがバタバタと飛び立った。

誰にも気づかれずしばらくそのまま
地面に這いつくばっている。
目の前に水たまりがあった。

いつの間にか雨は上がっていて、
水たまりに青空が映っていた。
ゆっくりと起き上がり、
一度前を向いてそれから上を見上げた。

眩しい。
手をかざしたが透明な手のひらは
光を遮ってはくれなかった。

その先には青空があった。
透明な手のひらの先にある太陽は
いつもより眩しかった。



出演者情報:遠藤守哉

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

小山佳奈 2025年5月4日「空は青色だけじゃありません」

空は青色だけじゃありません

   ストーリー 小山佳奈
      出演 阿部祥子

「空は青色だけじゃありません」
そう先生に言われるのがいつも嫌だった。
「何色で塗ってもいいんですよ」と
やさしく言われるたびに
私の絵の具を持つ手が止まる。

初めのうちは真に受けて
自由に、というかむしろ、
しっちゃかめっちゃかに、
いろんな色を塗りたくっていた。
しかし色を重ねるたびにどんどんと
雲行きはあやしくなっていく。
乾くのを待てないから
乾かないうちに塗って
そこがにじんでまた汚くなる。

出来上がる頃には
悪魔が降ってきそうな
どす黒い空になっている。
塗ってしまったら元には戻れない。

あぁ、こんなことなら
青一色で塗ればよかった。
つまらないといわれようが
まごうことなき青一色の空がよかった。
図工嫌いが始まったのは
絵の具の授業が始まった頃
だったのかもしれない。

そんな苦い記憶を掘り起こすように
子どもが学校の授業で
絵の具で絵を描いてくるようになった。
持って帰ってきたのは一本の木が描かれた絵。
そして空はやはりどんよりと曇っている。

そうだよね。
色を塗り重ねると曇るよね。
やっぱり青い空にしたかったよね。

そんなことを思っていたら子どもが

「それ、暗黒世界」

と絵を指さして言った。

「その木は地獄に落ちたときに
一番さいしょに襲ってくる木」

なんだそれと思いつつ
そうか、と思った。

そもそも現実の空を
描こうとしなくてもよかったんだ。
青空を描くんじゃなくて
好きな空を描けばいいって思えば
あんなに残念な気持ちに
ならなかったのかもしれない。

とは言ってもなぁ。

そうして窓の外を見ると
春の空は今日もどんよりと曇っている。

.
出演者情報:阿部祥子 出演者情報:阿部祥子  
連絡先ヘリンボーン https://www.herringbone.co.jp/

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ

川野康之 2025年4月27日「オフィス街の理髪店」

オフィス街の理髪店

    ストーリー 川野康之
       出演 大川泰樹

オフィス街の理髪店。
映像はモノクロ、
下記モノローグの通りに進行する。
語り手の男は中年から初老にかけた年頃。
バーバーチェアに座っている。

男 モノローグ:
「四月、
この街には新人が増える。
私が髪を切ってもらっていると
スーツ姿の若い男が駆け込んできて
隣の椅子に座った。
『坊主にしてください』
ずっと走ってきたのか、荒い息をしている。
鏡の中をにらんでいる。
『いいんですか?』
理容師はためらった。
『いいんです』
この男の身にいったい何があったのだろうか。
何か大失敗をやらかしたのか。
それとも得意先とケンカでもしたのか。
私はあれこれと想像してみた。
理容師は余計なことは聞かず
『わかりました』
とだけうなずくとはさみを手に取った。
それからはさみを元に戻し、
引き出しを開けて、奥からバリカンを取り出した。
男の目がそれを見てこわばった。
静かな店の中にバリカンのモーターの音が響く。
男は目をつむった。
理容師は黙って自分の仕事にとりかかった。
これ以上見ているわけにもいかず、私も目を閉じた。
男の登場で中断された考えごとの続きに戻ろうとしたが、
何を考えていたか忘れてしまった。
しかたがないから窓の外を眺める。
ガラスの向こうに見えるのはいつもの灰色の街である。
ビルを抜ける風が埃を巻き上げていた。
人々は急ぎ足で通り過ぎていく。
30年近く見慣れた風景である。
この街で私は長い時間を生きてきた。
そう、隣の男のような新人の頃からだ。
知らない人だらけの街で
何もわからず、ただ右往左往していた。
失敗ばかりして、何度もやめようと思った。
それでもやめなかったのは、この街の魔力だろうか。
30年、あっという間だった。
いつからだろう、
この街の景色から色がなくなったのは。
春も夏も秋も冬も、今では同じ色に見える。
愚かな若者め、と私は思った。
何があったのか知らないが、
やけになって馬鹿なことをするもんだ。

私の髪が仕上がるよりもはやく、隣の男の頭が完成した。
男は呆然として鏡を見つめている。
右に左に角度を変えて確かめている。
驚いたことに、それは坊主頭ではなかった。
何の変哲もないけれど、
短くカットされた頭は、男の顔によく似合った。
彼は思ったよりも若かった。
どこか幼さが残っている。
人生はまだ始まったばかりであった。
これから何でもできる、
ただの若者の顔があった。
うらやましいなと私は思った。
『できました』
理容師はそう言うと、
仕上げの魔法のように男の頭をさっとひとなでした。
若者は照れくさそうに笑い、自分もさっと頭をなでた。
そしてぺこんと頭を下げて店を飛びだして行った。

風が吹く街へ。
彼の人生へ。

理容師は何事もなかったように床を掃除し、椅子をきれいに整え、次の客を待った。
鏡の中で私と目があった。
その目がやさしく笑った。
窓の向こうに春風が舞っていた。

出演者情報:

Tagged: , , ,   |  コメントを書く ページトップへ