山本高史・山田辰夫 2009年作品「影」


  影
             
ストーリー 山本高史
出演  山田辰夫

奥さん、影ですよ、と。
だいじょうぶ、なにも売りつけたりしませんよ、と。
今日はちょっとしたクレームに参りましたよ、と。

広告会社にお勤めのご主人、頑張ってらっしゃいますねえ。
男はよく働いてたくさん稼ぐ。
それがいちばん。ところがですねえ。
この間ご主人がおつくりになったチョコのCM、見ましたよ。
女子高生たちが♪ウチらのハートはドキドキ、って
縄文式土器から出てくるやつ。
ものすごいインパクトでした。
こんなことどんな頭が思いつくんだろうな?ってね。
こんなの通すクライアントもクライアントですが、
考えるほうの責任ですわな。

ふ~(鼻息)。ここまではいいんですよ。
少なくとも私の問題じゃない。
そんでね、歌の続きの♪ちょっと「カゲ」あるいい男~のテロップが、
陰気の陰じゃなくて、私の影、シャドウですわな、
その影になってたんですよ。
私、陰気の陰じゃないですから。私、シャドウですから。
最近パソコンで文章書いたりすると、
こういう誤字多いですけどね、
陰気とシャドウの違いもわからないのは、誤字じゃないですから、
誤脳ですよね、脳みその脳。

よくね、私のこと暗いっておっしゃる。誤脳の人、おっしゃる。
陰気とシャドウの区別もつかないお宅のご主人のような方、
おっしゃる。
奥さんもきっと、思ってる。仲良きことは美しきかな、
えぇえぇ、そうですよね、似た者夫婦。
ところがどっこい、あなた方大間違い、残念賞。
ヤツはそうなのよ、陰と陽って言うでしょ、
ヤツは暗い、陰気の陰だから。
その勢いで、光あるところ影がある、なーんて私のことおっしゃる。
ところが私、暗くないです。ぜーんぜん暗くない。
光の下ですよ、太陽の下ですよ、私のいる場所。
光り輝くシャンデリアの下ですよ、私のいる場所。

暗闇で見ました?陰気な雨の日に、私いましたっけ?
明るくまぶしい場所にしか、私いませんから。
真夏の砂浜の上に、胸のふくらみも腰のくびれもくっきり浮き出た影が、
暗いですか?ヤフオクでは、その影だけでも売ってくれ、って
マニアが高値をつけてるんですよ。

あのね、影はむしろ光ですよ。私は光の子ですよ。
つまり♪ちょっとシャドウあるいい男~じゃねえ、
太陽の高い晴れた真っ昼間の短い影のことですぜ、奥さん。
ご主人がそれを言いたかったんなら別ですがね。へへへ。

ではこの辺でおいとましますよ、と。もうすぐ夜ですからね、と。
暗い夜が怖いんですよ、私。消えちゃいますから。
最後に関係ないこと一つ、いいですか。
奥さん、かわいいですね。奥さんの影になっちゃおうかなあ。
影のように付きまとえるしね。あ、これは、私の「影」でいいんです。
しつこく付きまとうのは、シャドウ。

出演者情報:この収録が山田辰夫さんの最後の仕事になりました。

shoji.jpg  
動画制作:庄司輝秋


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中山佐知子 2020年4月26日「チグリスとユーフラテスの三角地帯で」

チグリスとユーフラテスの三日月地帯で

    ストーリー 中山佐知子
       出演 遠藤守哉

チグリスとユーフラテスの肥沃な三日月地帯で
1万年ほど前から栽培されていた大麦が
ウイスキーという金色の液体に変貌を遂げるには
奇跡のような偶然が重なっている。

大麦ははじめこそパンやお粥になって
貴重な食料とされていたが
古代ローマの時代になると小麦にその地位を奪われ、
家畜の餌に転落してしまった。
エジプトではすでに大麦を使ったビールの製造が始まっていたが
ローマ人はワインばかり飲んでいて
大麦はちっとも大事にしてもらえなかった。

ところが、4世紀になるとゲルマン民族の大移動という事件が起きた。
地中海を支配し、文明を築いたローマ人にとって
ゲルマンは北の森や沼地の暗黒地帯に棲む野蛮な民族だったが、
ビール造りの名人でもあった。
ゲルマンの大移動はヨーロッパの地図を塗り替え、
各地にビールをひろめた。
大麦も酒の原料としての地位を得た。

7世紀になるとオーデコロンの蒸留技術が
イスラムからアイルランドに飛び火する。
香りの技術は同時に酒の技術であり、
イタリアあたりでは葡萄を蒸留した酒を飲んでいた。
しかし、アイルランドは寒くて土地が痩せた貧しい国で、
葡萄の栽培ができない。
代わりになりそうなのは
主食のジャガイモとビールの原料になる大麦くらいだ。
大麦とジャガイモ、大麦とジャガイモ…
どっちにしようか迷ったかもしれないが
結局彼らは大麦を選んだ。
麦から生まれた蒸留酒、ウイスキーの始まりである。
当時のウイスキーは、つくるそばから飲む無欲透明のきつい酒だった。

さて、そのウイスキーが
アイルランドのお隣のスコットランドに伝わる。
スコットランドはウイスキーの風土に適していたらしく、
修道院や貴族の館、農家の庭先に無数の小さな蒸留所ができた。
ウイスキーという名前が付いたのもスコットランドだ。

ところが18世紀のはじめ、
スコットランド王国はイングランドに吸収合併されてしまった。
国がなくなった国民は、
さらに愛するウイスキーにかけられた過酷な税金に激怒する。
しかも税金を取り立てに来るのはにっくきイングランド人だ。
彼らは税金を逃れる方法を必死で考えた。

深い森で、山の奥で、誰も知らない谷間で
スコットランド人はウイスキーを密造し、樽に詰めて隠した。
保存期間が長くなると、無色透明だったウイスキーは熟成し、
金色に色づき、果物や樫の木やくるみの香り、
花やクリームの香りを放つようになった。

まったく、何が幸いになるかわからない。
ヨーロッパ全土を震撼させたゲルマンの大移動も、
アイルランドの痩せた土地もスコットランドの過酷な税金も
ウイスキーにはプラスに作用した。

そうして、
世界史を肥やしにして成長し、花開いたウイスキーを
我々は今夜も飲んでいる。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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直川隆久 2020年4月19日「ウイスキー」

ウィスキー

         ストーリー 直川隆久
          出演 地曳豪

原田に電話をかけて、家出しようと思うんだ、と言ったとき、
原田の返事は「ほんとか」でも「なんで」でもなく
「そうか、じゃテントがいるな」だった。
「もっていくよ。とりにこいよ。ブックオフの前」
「うん」
「自転車だろ?」
「うん」
ブックオフの前に行くと、原田が自転車にテントを積んで待っていた。
「ありがと」とぼくは言うと、原田からテントを受け取った。
テントを荷台にくくりつけているぼくに原田が「一緒に行こうか」と訊いた。
ぼくは、「うん」とだけ言って自転車をこぎだした。
原田も、にやにやしながら後からついてきた。
ぼくと原田は、いつもだいたいそんな感じだった。
途中のコンビニで弁当を買った。財布には3,000円とちょっと。
まあ、何日かはもつだろう。原田のもっている金も似たようなものだった。
どこへ行こうというあてはなかった。とりあえず、家から離れたかった。
別に、あの人にうらみがあったわけじゃない。
お互い距離をおいたほうがよいと思った。
あの人は、親父と一緒になりかっただけであって、
ぼくの母親になりたかったわけじゃないんだから。
お互い気を使いあいながら暮らす毎日にも、うんざりだった。

峠に向かう山道の途中で、陽が暮れ始めた。
急な上り坂で立ちこぎも無理になって、
原田とぼくは自転車に覆いかぶさるようにして押しながら歩いていく。
きつい。
「おおたっち、どうする」と原田が訊いてきた。
(ちなみに、ぼくの苗字は太田ではなく、大竹だ。)
「日が暮れないうちに、テント張ったほうがいいんじゃないの」
「テント?どこに?」
「ここ」
道がカーブになっていて、路肩の外側に小さく平坦な地面があった。
「間にガードレールあるから、寝てても轢かれんよ」と言って原田は笑った。
ぼくと原田は、そのスペースに、テントをひろげた。
寒くなったので、テントの中に引っ込む。腰をおろすと、
つたわってくる地面の冷たさにびっくりする。
「ほんとは、中に、マット敷くんだけどさ、もってくんのわすれた」
弁当を食べ終えたあとは、Switchをやったり、
クラスの気になる子の噂話とか、数学の先生の物まねとかで時間をつぶす。
 いつの間にか外は暗くなっていた。
さっきまで、頻繁に聞こえていたクルマの音も、ほとんど聞こえなくなった。

真っ暗なテントの中で、原田が懐中電灯をつけて、顔を下から照らす。
「こうやってさ。外にじいっと2人で立ってたらさ、
クルマ乗ってるやつ、めっちゃマジでビビるよな。ワーッ!だよな」
「やめとけバカ」
「なんで」
「事故おこしたらどうすんだ」
2人で寝転ぶ。寝袋なんてないから、雑魚寝だ。
体の下、地面と接しているところがどんどん冷たくなっていく。体を動かして、
ほかの部分が地面と接するようにする。しばらくはいいけれど、
じきにそこも冷たくなる。そんなことを繰り返してては、とても眠れそうになかった。
「寒いな、おおたっち」
「うん」
原田は起き上がって懐中電灯をつけ、リュックをごそごそと探ると、
なにかの酒の瓶をとりだした。
金色のラベルに、黒い文字でいろいろ書いてある。
ウィスキーだろう。それも、けっこう高いやつだ。
「のもう」
「え、なに、それ、原田のおとうさんの?」
「うん」
「やばくない?」
「全然」
コップもないので、そのまま飲むしかない。
原田は瓶に口をつけ、瓶のお尻を勢いよく持ち上げた。
原田の、最近大きくなってきたのどぼとけがぐり、と動いたととたん、
「げへー」と大きな声。
爆笑するぼくの横で、原田は目に涙をためながら、たっぷり1分はむせ返っていた。
「あー、きつい」
「そりゃそうだろ」
「あーでも、このへん、あっつい。あったかい」
胃のあたりをさすりながら原田が瓶をこっちへよこす。「おおたっちも」
「いいのかな」
「いいよ。ほら、雪山で、遭難するでしょ。そしたら、
セントバーナードがウィスキーもって助けに来てくれるじゃん」
「ブランデーじゃないの」
「そうだっけ」
ぼくも、瓶に口につけ、ぐっとあおった。
一気にのどに流しこまずに、口の中にいったん溜めようとしたけれど、
液体がびりびりと舌を焼く熱に、たまらず飲み込んでしまった。
 食道、胃、とウィスキーが通ったところが熱くなる。
交互に、ふたりでウイスキーを飲んで、
気が付いたら瓶の半分くらいがなくなってしまった。
テントの天井がぐるぐると回りだし、顔は猛烈に火照ってくる。
そういうめまいの感覚はわかったけれど、大人がよく言うような、
楽しくなったり、気楽になる感じはなかった。
ぼくらは寝転がり、ならんで、テントの天井を眺めていた。
「おおたっち、明日、か、かえんなよ」
「なんで?」
「い、家の人、心配するだろ」
「しないよ…ていうか、おまえこそ帰れよ」
「おれ…おれは、おおたっちが帰れば帰るよ」
「いいよ、つきあわなくて。そもそも、なんでひとの家出につきあうんだよ」
「なんでって…なんでかな…」原田は黙ってしまった。
 言ってから、後悔した。原田が一緒に行く、と言ったときに、
ぼくはすごくうれしかったんだから、そういう言い方はフェアじゃなかった。

「おれも、い、家から逃げたことあんだ」
「ふうん」
「でも、どこへも行けなかった。金ないし。すぐ…すぐ見つけられてつれもどされた」
「だせえな」
「だせえよな。でも、けっきょく、も、もどるしかないんだよな」
「…」
「…おれら、まだ力がないからさ。も、もうちょっと…腕も足も太くなんなきゃ…
ダメなんだ。じ…時間がいるんだ」
「時間って、いつまでさ」
ぼくは、原田の次の言葉を待って、じっと黙っていた。
でも次に聞こえてきたのは原田の寝息だった。

夜中、頭ががんがんして、吐きそうな気分になってきた。
やばい、と思ってテントの外に出る。側溝までかけていき、
しゃがみ込んだ瞬間、胃の中のものが全部逆流してきた。のどが猛烈に焼ける。
吐ききってしまうと、少し気分がましになった。と…
がさがさと、10メートルほど先で音がする。
がさ。がさ。
動悸が速くなる。
じっと音のするほうを見ていると、茂みから道路になにかが飛び出てきた。
犬にしては大きい。
…鹿だ。
角がある。雄だ。
 この山に鹿がいたなんて聞いたことがない。
 だけど…目の前にいるのは間違いなく鹿だ。それも、大きい。
角の先端はぼくの背丈をゆうに超える高さがあった。
 鹿は、悠然と道を横切ろうとしていたが、ぼくの気配にきづいたように、
ぴくりと頭をこちらに向けた。そのとき、
月の光を反射して暗闇に浮かび上がった二つの目――
異様に鋭い光が、まっすぐにぼくの体を射抜いた。
ぼくは、体を動かすことができなかった。
そのとき、鹿が、ぶふ、と息を鼻から出し、ぐっと、こちらに足を進めた。
ぼくはぎょっとして、すくみあがる。
原田!
そう叫ぼうと思っても、声がでない。
一歩。二歩。鹿がこちらに近づく。
だけど、鹿はそこで足をとめた。
取るに足らぬものにかかずらって、要らぬエネルギーを使うこともない、
と思ったのだろうか。ぷいと視線をそらし、鹿は、茂みの中に姿を消した。
そのあとで、どれくらいそこでじっとしていたかわからない。
自分の心臓の音で我に返った。
ぼくは、テントに戻ると、ただ黙って夜が明けるのを待った。

朝になって、テントから体をひきずりだす。
頭がどんよりして、気持ち悪い。
寝ぐせの頭を爆発させながら真っ青な顔をしている原田と、
のろのろとテントをたたんだ。
「おおたっち、どうする」と原田がきいてきた。
しばらく考えて、ぼくは答えた。
「この峠、上りきってから決める」
「ええ、のぼるの」
原田が、登坂を見上げて、泣きそうな顔をした。
「帰んないのか」
「うん。いちばん高いとこまで行って、眺めたいんだ。俺の街と、隣の町」
「…」
「それから決める」
どうせ、帰ることになるのかもしれない。それでも、
見慣れない風景を見てからにしたかった。
僕は、自転車を押し始めた。
原田は、おえ、と息を漏らし、「しょうがねえなあ」と言いながらぼくに続いた。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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坂本和加 2020年4月12日「ウイスキー」

ウイスキー

   ストーリー 坂本和加
      出演 森一馬

死んでからの生き方について、
考えたことはあるだろうか。

あるバーで聞いた。
バーテンダーは店のマスターであり、
オープンは32才のとき。
いまは92才だから、60年ものあいだ
週に一度の休みを除いて毎日、
カウンターに立ち、酒をつくり続けてきた。

その男は、上村といった。いい酒飲みだった。
いつも店には前払いで10万を渡し、
なくなるとまた同じようにした。
たいていひとりで、カウンターで静かに本を開いた。
酒で乱れるようなことはなく、
マスターとは、ぽつりぽつりといろんな話をした。
苗字は違うが、父親は著名な医学者であり
編纂した医学書を店に持ち込むほど、誇りに思っていること。
自分は大手と言われる勤め先にいるが、
結婚もせず40を過ぎて、いまだ独り身だということ。
母は亡くなり兄弟もおらず、天涯孤独だということ。

上村は、珍しいウイスキーを好んだ。
ときどきそれらを見つけてきては店に持ち込み、
その日たまたま隣りに座ったような
一見(いちげん)の客にも、
気前よく酒を振る舞うような男だった。

エドラダワーの10年。
これに「1960年代の」がつくと
とたんに値は跳ね上がる。麦の黄金時代に生まれた酒。
いまは1本、80万のビンテージ。
長くバーテンダーをしているマスターでさえ、
いまだかつて飲んだことのないような、酒。
それをどうやって入手したのかを
自慢げに語るような男ではなかったが、
大枚をはたいて手に入れた酒には違いない。
「いつ、開ける」そんなやりとりが笑い話とともに交わされ。
ある日、上村はパタリと店に来なくなった。

それから30年近く、月日は流れた。
希少な高級級だ。そのまま店で保管していいものかと
マスターも何度か会社に電話したそうだが。
「そのような名前の者はおりません」。

特別なエドラダワーは、最初のうちは
カウンターからよく見える場所に置かれた。
上村を知る誰かに、たどり着きはしないかという期待を込めて。
マスターが、カウンターの客にさりげなく話をしやすいように。
同じ業種で、似たような仕事をしている人間は多いから。

けれど男は消えたまま。
生きていれば、もう70を超えている。
きっとこの世界に、彼はもういない。
マスターの推測にしか過ぎないけれど。ふつうそう思うだろう。
自死か病死か、その原因はわからない。
家族も子供もいない、とるに足らない平凡で孤独な男を
思い出すひとなどこの世界に誰ひとりいないことはわかっていた。
だから。このバーで「特別なエドラダワー」とともに
オーナーや客たちに、くり返し語られることを想像したのだと思う。
あとは上村の思惑通り。
彼は30年にわたり鮮やかに、ここにいた。

特別なエドラダワーは、いまもバーの片隅で。
未開封のまま、タバコのヤニで
包まれたフィルムを黄色くして。
消えた男の輪郭をつくるためにそこにある。

出演者情報:森一馬 ヘリンボーン所属 https://www.herringbone.co.jp/

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川野康之 2020年4月5日「ピートの島」

ピートの島                

       ストーリー 川野康之
          出演 地曳豪

スカイ島からグレートブリテン島にフェリーで渡った。
マレーグという小さな港町に着いた。
スコットランド鉄道・西ハイランド線の終点の駅がある町である。
ここから一日に3本だけ、グラスゴーへ行く列車が出る。
駅舎がクローズされていたので、勝手にホームに入ってベンチに座って待った。
潮の香りがしてカモメの声が聞こえた。
駅前に一台二台とクルマが着いては、
荷物を抱えた乗客や見送りの人が降りてくる。
人々は、三々五々ホームの上に上がってきて立ち話をしている。
ディーゼルの列車が入線してきた。

乗客たちが乗り込んで、出発を待った。
私の斜め向かいの席に、一人の青年が座った。
窓を開けて、ホームの見送りの人たちと話をしている。
見送り人の中に青年の父親らしき人がいた。
大声で青年に言葉をかけている。
車内の乗客たちがくすくす笑った。
私にはなかなか聞き取れなかったが、何々はだいじょうぶか、
これこれに気をつけろ、とまるで子供に言うように
こまごまと注意を与えているようだった。
青年は、この田舎町を出て、グラスゴーで学生生活でも始めるのだろうか。
幼さの残る頬を少し赤らめながら父の話にうんうんとうなずいている。
やがて、列車は動き始めた。
父親の姿が後ろへ下がって、カモメと一緒にマレーグ駅のホームに残された。
青年はしばらく窓から父の姿を追っていたが、
見えなくなると、バッグの中から分厚い本を取り出して読み始めた。

列車は徐々にスピードを上げ、
荒れ野と森林が交互に現れる荒涼としたハイランドの風景の中をひた走った。
5時間半の後にはグラスゴーにたどり着くだろう。
途中私がどうしても見たかった景色があった。
ロッホ・ローモンドだ。
フォートウィリアムの駅を過ぎてしばらくしたころ、
黒々とした森の合間から静かな水面が見えた。
列車と併走して湖は何度も見え隠れした。
氷河に削られてできた谷が長い時間をかけて巨大な湖になったのだという。
湖面にはいくつかの黒い島影が見えた。
何万年も前からここにあって、湖のまわりの人々を見てきたのだろうか。
私の頭の中にあのロッホ・ローモンドの歌のメロディが流れていた。
グラスゴーに着くと、乗客たちは都会の顔になった。
列車を降りて駅の人混みに紛れ、灰色の石の街へせわしげに消えていく。
その中に大きなバッグを抱えたあの青年もいた。

スコットランドを離れる日、
私はエディンバラのウイスキーショップで
『ロッホ・ローモンド』という名のモルトウイスキーを見つけた。
聞いたことのない蒸留所だが、何かなつかしい気がして一本買った。
ラベルをよく見るとロッホ・ローモンドの下に『インチモーン』と書いてある。
どういう意味だろう。
日本に帰ってから調べてみたら、
それはローモンド湖に浮かぶ一つの島の名前だった。
古代から周辺住民の燃料源となったピートの島だという。
湖に浮かんでいた黒い島の姿を思い出した。
封を開けると豊かなピートの香りがあふれてきた。
このウイスキーを今から私は飲むのである。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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水下きよし「風と監督」


風と監督 (水下きよし七回忌特集 )

     ストーリー 安藤 隆
        出演 水下きよし

僕は25年前、地元の高校から甲子園に出場した。
4番打者だった。
いまは地元の役所に勤め、
毎週日曜に軟式の少年野球の監督をしている。
受け持っているのは、小学校の5年と6年の生徒だ。
チームの名前は富士見町ホエールズ。
50年前に、近くの多摩川の川原から、
鯨の全身の化石が出土したことからホエールズと名づけられた。
チームの練習場も、多摩川べりにある。
きわめて平和なチームだが、問題はある。
軟式だから引き受けたのに、勝負やレギュラーにこだわる親が多い。
子供をプロ野球選手にするという夢を見始める者さえ、出てくる。
もっとスパルタで鍛えてさあ、勝つ野球やってよ監督、と
小声で言う親が出てくると、そらきたと僕は思う。
高校野球の経験から、プロ野球のレベルは想像できる。
やり方を変えることは絶対にない、と僕は宣言する。

僕は基本的な練習を重視する。
ゆるいゴロを正面でとる。
ゆるいタマをピッチャーがえしに打つ。
変化球を投げさせない。
試合で40球以上は投げさせない。
決して子供たちを怒らない。
そんな風だから、
僕が監督を引き受けてからチームはたいてい弱い。

そして、きょうの日曜日だ。
秋晴れの美しい天気だった。
チームはいつものように練習をしていた。
するとにわかに、風が吹きはじめた。
グラウンドの土が、竜巻のように空を覆い、
富士山が見えなくなった。
僕らは練習を中断して屈みこんだ。
風が止んで、顔を上げた。
するとそこに中年の男が一人立っていた。
男はこう言った。
「君のチームは、とてもよい練習をしている」と。
そしてネクタイ姿のまま、股を割って、
子供達にゴロの取り方を見せてくれた。
それからボールの打ち方も見せてくれた。
強く打っても、タマは子供達の正面にゆるく飛ぶ。
いつもは騒ぎまくる子供達が、
このときは神妙な顔で聞き入っているのが不思議だった。
中年男は優しく教えるだけなのに。
だが、いちばん魔法にかかっていたのは、僕自身だろう。
男が「きょうはありがとう」と言って去るまで、
なにも言えない有様だった。
なにせ男は、落合監督だったのだ。
1985年、打率3割6分7厘。
得点圏打率4割9分2厘。
打点146。
僕が高校の4番だった年の落合。
僕の知っているほんとうの四番打者。
どうして落合監督が、ここにいたのかはわからない。
近所の大きなスーパーの駐車場で、
落合監督来たると書かれたのぼりが、
風に吹かれてちぎれていたのを見た。ような気がする。
それともそれは、10年前のことだったろうか。

ゆっくり歩いているのに、
落合監督の姿はまたたく間に見えなくなった。

出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/

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