佐藤充 2023年12月24日「ほっとけない男」

ほっとけない男

  ストーリー 佐藤充
     出演 遠藤守哉

ある日、ラーメン屋で遅い昼食を食べていると、
懐かしい歌が流れてきた。
Janne Da Arc(ジャンヌダルク)だった。
Janne Da Arcとは日本のビジュアル系ロックバンドである。

ラーメンとジャンヌ。
中野でシェアハウスをしていた頃を思い出す。

シェアハウスには、いろんな人間が暮らしていた。

実家に霊の通る道があることから霊道と呼ばれる男。
歌舞伎町でホストをしているから歌舞伎町と呼ばれる男。
歌舞伎町が連れ込んだキャバ嬢と呼ばれる女。
歌舞伎町の彼女でリストカットをすることからリスカと呼ばれる女。
研究でいつもバングラデシュにいるからバングラと呼ばれる女。
北海道から就活で東京に来ていたはずが、
なぜかいつまでも帰らない就活生と呼ばれる男。
オーストラリアのファームでワーホリするはずが、
悪い大人に騙されてダムの建設をやらされていたダムと呼ばれる男。

そんなシェアハウスというより、
動物園と呼んだほうがよさそうな場所にくる前、
歌舞伎町は旭川の梅光軒というラーメン屋で働いていた。

あるとき、
このままラーメンを一生作り続ける人生はつまらない、
とラーメン屋をやめた。

そして広い世界を自分の目で見るために
ラーメン屋の厨房を飛び出し、
ママチャリにまたがり日本一周の旅に出て、
帰ってきてホストになったのが歌舞伎町だった。

歌舞伎町はJanne Da Arcが好きで、
よく部屋で曲を流していた。

みんなが寝静まりゆっくり読書をしていた深夜3時だった。
誰かが帰ってきた。そこには顔面真っ青な歌舞伎町がいた。

「どうした?仕事は?」と聞くと、
「いや、気絶したから早上がりしてきた」と答える。

歌舞伎町はお酒が飲めないうえに
体調が悪い状態でお酒を飲むと気絶する体質だった。

ホストとして致命的だった。
だからこそ、ほっとけない男だった。

シェアハウスの仲間たちで
月に1度の食事会をしているときだった。
歌舞伎町にもっと広い世界を見てほしいと
ひとりで初めての海外旅行に行ってみてはどうかと提案してみた。

「でも普通に行くんじゃつまらなくない?」と誰かが言うので、
関口宏のフレンドパークのようにルーレットで決めて
その場で航空券を買うことになった。

ルーレットには30カ国ほどの候補地の都市が書かれていた。
歌舞伎町の初海外は楽しい思い出になってほしい。
僕らも関口宏のフレンドパーク的に言えばタワシぐらい
バンコクやハワイやニューヨークなどを多く面積広めに、
パジェロぐらい小さめに大変そうな都市を入れて作った。

そしてルーレットを回す。

「パジェロ、パジェロ」と盛り上がる。
ルーレットがゆっくりとゆっくりと止まる。

止まった先はタワシのように広く大きく作ったところではなく、
パジェロのように狭く小さいところだった。

小さすぎて文字が認識できないので、
誰かが近づき書かれた国名を読む。

パキスタンだった。

さっきまでの「パジェロパジェロ」との盛り上がりが
嘘みたいに静かになる。

「本当に航空券取るよね?」と誰かが沈黙を破る。
調べてみるとパキスタンへの直通の便はなく、
インドのデリーへ行き、そこからパキスタンへ行くことになった。

歌舞伎町がパキスタンへ行っている3週間は、
ほっとけない男を、さらにほっとけない男にした。
全員がLINEに既読がつかないか、SNSに更新がないかを常に見ていた。

予定より1週間早く帰国した歌舞伎町にパキスタンの感想を聞いた。
何を聞いても「あの花」の感想しか返ってこなかった。
「あの花」とは「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」という
秩父を舞台にしたアニメのことである。

歌舞伎町はパキスタンが怖いので宿にこもり
ずっとアニメを見るという日本でもできることをしていたらしい。

ラーメン屋のBGMがJanne Da Arcで、
僕は久しぶりに歌舞伎町に会いたくなり
「今度飲もう」とLINEをした。

1ヶ月くらいして
「2年後だったら会える」と返信があった。

歌舞伎町は、どこで何をしているのだろう。
本当にほっとけない。
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出演者情報:遠藤守哉

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佐藤充 2023年11月26日「希望岬にて」

希望峰にて

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

この1ヶ月で2度死ぬかと思ったことがある。

ナミビアでレンタカーを借りて走っているときだった。
ナミビアは現地の言葉で「何もない土地」を意味する。
世界で最も人口密度が低い国だ。

見渡す限り地平線。
人も車もいない。
いくら走っても変わらない景色。

その変わらない景色は
いくら走っても止まっているように錯覚させた。

車は100キロを超え、120キロ、150キロとどんどんスピードを上げていく。
すると突然野生のジャッカルが目の前に飛び出してきた。
避けようとすると轍にハンドルをとられる。

車は大きく傾く。
景色がスローモーションになる。
内臓が口から飛び出そうだ。
数メートル先には崖がある。

ここで人生が終わるのだろうか。

このアフリカ卒業旅行から帰国したら、
来月から僕は社会人になる。
まだ働いたことがない。

親に借りたお金を返せていない。
出世払いでと散々言い続けて借りてきたのだ。

「あちらのお客様から」といい感じのバーで
お酒をご馳走したこともない。
社会人になったら絶対にやろうと思っていた。

よくわからないけど港区あたりでやっていそうな
酒池肉林のパーティーみたいなものにもまだ参加したことがない。

崖から落ちたら、死ぬ。
止まってくれ、止まってくれ、止まってくれ。
願いが通じたのか、車はギリギリのところで止まる。

死ぬかと思った。
これが1度目だ。

そして、2度目。

ナミビアでレンタカーを借りて走っているときだった。

みなさんすでにご存知のように、
変わらない景色に車は知らずのうちにスピードが出る。

同乗していた誰かが言った。
「右にヌーだ!」

不意なヌーに意識とハンドルをとられる。

今回は道がジャンプ台のようになっていて、
車はスキージャンプのように勢いよく空中に放り出された。

何日かぶりの内臓が宙に浮く感覚。
何日かぶりのスローモーションの景色。

今度はヌーか。
流れゆく景色のなかで思う。

誰にも言ってこなかったけど、
社会人になったら親を海外旅行に連れていこうと思っています。

コンビニで買い物したら毎回小銭はすべて募金しています。

トイレを使用したらトイレットペーパーは三角折りにしています。

スマホを落としたときは、
スマホに「落としてごめん」と言っています。

雨の日に階段を歩くときは、
傘の先端がぶつからないように後ろの人に気をつけて歩いています。

元気がない友人がいたら何も言わずに飲みに誘っています。

小学校から高校卒業するまで朝晩かかさず犬の散歩もしていました。

トンボが雨で羽を濡らして飛べなくなっていたのを
家に持ち帰りドライヤーで乾かしてあげたこともあります。

「つゆだく」と注文していたのに、
「つゆぬき」できても何も言わずに牛丼を食べています。

封筒に入った10万円を拾ったとき、
ちゃんと交番に届けました。

誰もやりたがらなくて、
だからといってジャンケンで負けた人がやると先生が不機嫌になるので、
やりたいふりして学級委員長に立候補したこともあります。

空中に投げ出された車は、
地面に強く叩きつけられながらも
奇跡的に無事に止まった。

そして今、
南アフリカはケープタウンの希望峰にいる。

英語では「Cape of Good Hope」

2度死にかけた僕の目の前には、
大西洋とインド洋の水平線と
希望が広がっている。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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佐藤充 2023年10月15日「インシャアッラー」

インシャアッラー

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

「何を考えているのかわからない」

中学時代から9年お付き合いさせていただいていた女性に言われた。

「いや、ほんとに何も考えてないだけなんだよ」と答えると、
だとしたらそれはそれであり得ないことだと怒られた。

ボーッとしている。

だからなのか、存在に気づかれないことも多々ある。

まず自動ドアは感知してくれない。
虎ノ門ヒルズの自動ドアに感知されず、自力で開けたことがある。

撮影場所をまわるロケバスの中で
「やばい!置いてきた!」とプロデューサーが焦っていたこともある。
もちろん僕はロケバスに乗っていた。

大学時代の友人数人と遊んでいるときも行方不明になったと騒がれた。

吉野家の店員にも忘れられる。

シリアの国境で入国審査中にバスに置いていかれたこともある。
たまたまバックパックは背負っていたから、
バスに残していた読みかけの宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の文庫本だけ失った。

無事にシリアに入国し、
バスとフェリーでヨルダンとエジプトをまわったが、
カイロで全ての荷物を盗まれてしまった。
もちろんパスポートも荷物の中だ。
何もかも失ってどうやって帰国しよう…と宿に戻って考えていたら
世界一周中の日本人夫婦に出会った。

ふたりは「これで何か食べて」とお金と、
「私たちは読まないから」と一冊の文庫本をくれた。

それは僕が1ヶ月前にシリアの国境で
バスのなかに置いてきてしまった宮沢賢治の
『銀河鉄道の夜』だった。

「これ僕のです」と言うと2人は不思議そうな顔をしていた。

聞くとその夫婦はシリアのダマスカスで現地の人にもらったのだと言う。

こんなことがあるんだなと思った。
全てを失ったと思ったら、奇跡のように本だけが戻ってきた。

「インシャアッラーだね」とふたりは笑っていた。

アラビア語で「インシャアッラー」とは、
「神のみが知る」という意味。

現地の人たちに何かを聞いてもすぐに「インシャアッラー」と言われる。

最初は曖昧で無責任な言葉だと思っていたが、
考えてみれば思い通りにうまくいくことなんてなかなかない。
その代わりに神さまは小さな奇跡を用意してくれるのだろう。

カイロの日本大使館でパスポートを再発行してもらい、
日本へ帰る飛行機に乗ったら機内食で食中毒になった。
一刻も早く家に帰りたい。
しかし、家の鍵がなかった。
「銀河鉄道の夜」以外の荷物は全て盗まれていた。
僕は後払いの約束で鍵屋さんを呼んだ。

到着した鍵屋さんは僕の姿が不憫すぎたのか、
お金はいらないと鍵を開けて帰っていった。

もしかしたら奇跡みたいな出来事は、
ボーッとして隙のある人間の周囲に起こりやすいのかもしれない。

落ち着いてから世界一周中のふたりにお礼のメールをした。
これからアルプス山脈のモンブラン周辺をトレッキングするらしい。

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出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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佐藤充 2023年8月6日「8月6日のアサガオ」

8月7日のアサガオ

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

東京の暑さに耐えられず、北海道の実家に帰省した。

「ローソク出ーせー出ーせーよー 
 出ーさーないとー かっちゃくぞー
 おーまーけーにー噛み付くぞー」

窓の外から子どもたちの歌が聞こえてくる。
今日は8月7日か。

8月7日、北海道では「ローソクもらい」がある。

日が暮れ始めると子どもたちが
「ローソク出ーせー」と歌いながら近所の家々をまわる。
大人たちはやって来た子どもにお菓子を渡す。

アメリカのハロウィンと同じだ。

子どもたちが
「トリック・オア・トリート」と言ってお菓子をもらうか、
「ローソク出ーせー」と言うかの違い。

たまに本当にローソクを配る家があると
子どもたちの間で生涯ずっとローソクの家と呼ばれ続ける。

うまい棒などよく食べるお菓子を配る家は普通の家と呼ばれ、
カステラやワッフルなどを配ってくれる家はレアな家、
「ごめんね、お菓子買い忘れて」と100円をくれる家は100円の家と呼ばれる。

小学校5年の夏休み前に新しい学校に転校した。
これで3つ目となる小学校だった。

家庭環境のせいもあってか、転校はいつも突然だった。
3回目となるとまた次もすぐあるような気がして、考えるとまた憂鬱だった。
最初は転校に反対や抵抗をしてみたりしたが無駄だとわかった。
口でも勝てない。腕力も勝てない。子どもは何もできない。無力だった。

担任はサイトウという中年の女の先生で
国語の教科書に載っている与謝野晶子に似ていた。

新しいクラスには学校に来たり来なかったりする女の子がいた。
彼女はいじめられていた。

彼女が登校して来た日、
サイトウ先生が「彼女の嫌なところを1人1つ言っていこう」と言った。
転校してきたばかりの僕は免除された。

クラスメイトが1人ずつ順番に言う。
「走り方が変」
「汚い感じがする」
言葉のひとつひとつが彼女に向かって飛んでいく。

彼女は泣いている。

どこかのタイミングでサイトウ先生は
クラスメイトに注意するのかと思ったら違った。

泣きながら聞いている彼女に
「泣いてないでちゃんと聞きなさい」
と注意をする。

最後にサイトウ先生は彼女に「言われたところを直していこう」と言った。
この教室には、彼女の味方がいないように見えた。
思うことはあるのに黙って聞いているだけの自分もまた無力だった。

1学期が終わり夏休みに入る。
8月7日、僕は友人たちと「ローソク出ーせー」と歌いながら
お菓子をもらいにまわっていた。

すると友人の1人が彼女の家を教えてくれた。
嫌がる友人たちを無理やり連れて家の前まで行く。

これをきっかけに彼女が学校に来やすくなればいいと思った。
こういう空気を変えられるのは部外者の転校生だったりする。
と勝手に思っていた。

インターホンを押す。
そして、歌う。

「ローソク出ーせー出ーせーよー 
 出ーさーないとー かっちゃくぞー
 おーまーけーにー噛み付くぞー」

家からは、誰も出てこなかった。
つぼみを閉じたアサガオが玄関脇に植えられていた。

そして9年後、この話には後日談がある。

成人式の会場に彼女がいた。
「もしよかったら、今夜同窓会来てほしいです」
彼女が来たいどうかはわからなかったけど、
その夜にある同窓会に誘うことができた。

8月7日になると思い出す。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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佐藤充 2023年6月25日「水に流したい話」

水に流したい話

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

「もうあんたも大人になったから話すんだけど」
と前置きをして母は話しはじめた。

これは僕の実家の家業であるデリヘルを経営する母の話です。

旭川という小さな街ではじめて20年になります。

女手ひとつで僕と妹の2人を育ててくれました。

20年もやっているといろいろなことがあります。

窓ガラスを何者かに全部割られたときは
犯人を車で追いかけ回したり、

働く女性の子供たちを預かるから
実家が託児所みたいになったり、

実家の空いている部屋を貸してあげて、
ひとつ屋根の下でいっしょに生活したり、

当時僕の付き合っている彼女の名前を
働いている女性の源氏名に使ったりもしました。

最初はドライバーを雇う余裕もなく母が送迎をしていました。

僕がやっていたサッカーの送り迎えもデリヘルの車でした。

「そのときの話なんだけど
サッカーの試合を見にいかなくなったことあったでしょ」
と母は話しはじめました。

当時は忙しかったので試合を見にこれなかったのだと思っていました。

「あれ違うの」

「え、どういうこと?」

「気まずくて行けなくなったの」

「なにが」と聞くと言いにくそうに

「リップローズから出てくるのを見たんだよ」

リップローズとは地元のラブホテルの名前です。

「どういうこと?ちゃんと説明して」と問い詰めると

「Aくんのお父さんと、Sくんのお母さんが出てくるの見たの」

話を聞くといつものように女の子を迎えに
ホテルの前に車を停車していると
なかからサッカーのチームメイトのAくんのお父さんと
Sくんのお母さんが出てきて鉢合わせたというのです。

「もうあんたも大人だから話すんだけど」
と母はもう1度念を押して言いました。

次の日、僕は複雑な心境のまま成人式へ行きました。

壇上に立つ市長は「旭川は川の多い街です」と言いました。

この街であったこと全てを水に流してくれと思いながら聞いていました。

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出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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佐藤充 2023年5月28日「レディラック」

レディラック

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

「ドライバーのキクが店出すから、お前そこでバイトしろ」

高校入学を控えた春休み。
おじさんに言われバイトをすることになる。

おじさんは他人から見たら父親に見える。
たまに家に遊びにきた友人に
「お前んちの父さんさ・・・」といわれると
「おじさんね。うちおじさんだから。そういう家だから」と訂正する。
みんなよくわかったようなわからないような顔をする。
説明がめんどくさいときはそのまま流すことにしている。
どこの家にも説明の難しいややこしい部分がある。

母が経営するデリバリーヘルスで当時ドライバーをやっていたキクさんが
バーをやりたいと言うのにおじさんが出資する形で
店を開くことになった。

母親は金をドブに捨てるだけだと猛反対した。
しかし男というのは夢を語られると
なぜか利益とか頭から抜けて応援したくなるときがある。
義理と人情に弱い。
おじさんは「金は回収するから赤はでない」と言っていた。
その頃のおじさんは『ナニワ金融道・ミナミの帝王』をよく見ていたから
タイミングもあったのだと思う。
ナニワ金融道の竹内力はかっこいいから。

高校1年生になると同時にキクさんのバーで週に4回働くことになる。
高校生活って放課後に友達とびっくりドンキーでおしゃべりをしたり、
好きな女の子を自転車の後ろに乗せて
夕暮れ時の河川敷を走ったりするのだと思っていた。
だけどおじさんに
「お前を夜の男にする。夜の帝王になるんだよ」と言われ
「夜の帝王、かっこいいな」と思い、
その話にのってしまった。男は夢を語られると弱い。

店の名前はレディラック。意味は幸運の女神。
デリヘルで働いた女の子たちのお金で作った店だからなのか
ネーミングの意図はわからない。

知り合いだけを呼ぶプレオープンの日は
デリヘルで働く女の子たちなども来て盛り上がり幸先もよかった。

でもよかったのは最初だけだった。

暇。とにかく店はそれから暇だった。
「今日お客さん来なかったこと言うなよ」とよくキクさんに言われた。

来たとしてもたまに近所の飲食店のひとたちが様子を見に来るくらい。
そこでキクさんとお客さんの会話を聞いている時間が長かった。

キクさんは
「こう見えておれ大卒なんすよ」が口癖だった。
確かに旭川では特に夜の世界では大卒は珍しかった。
しかしキクさんの大学は旭川大学。
金を出せば誰でも行ける大学で、
旭川大学行くぐらいなら高卒でいいとまで言われる。
卒業生に小梅太夫がいる。

旭川は狭い世界なので友達の友達はみんな友達の世界で、
長く旭川にいると狭い世界で男と女も取替え引替えで、
みんなが元カノ元カレみたいなことがよくある。
来るお客さんもそんな感じで共通の知り合いが必ずいる。
共通の友達探しゲームな会話が多い。息苦しい。

いつもキクさんの「こう見えておれ大卒なんすよ」や、
「おれ柔道やってたんで若い頃に飲み屋でどこどこの誰々
(たぶん地元のヤンキーでは有名なひと)を
背負い投げしてぶっ飛ばしたんすよ」などの
本当か嘘かわからない武勇伝を聞かされる。

営業がおわる深夜2時。
親がデリヘルの仕事を終えて車で迎えに来る。
これから店の女の子たちと焼肉を食べるらしく一緒にいく。

深夜3時過ぎ帰宅。
犬の散歩にいく。1日で1番好きな時間。

静かな住宅街。自分の歩く砂利の音。
風に揺れる木の枝や葉の音。肌に触れる冷たい風。
息苦しさから解放されて空気がたくさん身体中に入ってくる。
公園の鉄棒前にキックボードが置きっ放しになっている。
世界に自分と犬しかいない気がする。
整骨院の横にあるセイコーマートの店の灯りに蛾が集まっている。
店員さんが暇そうにしている。

数時間後には学校にいる。
また3時間くらいしか眠れない。ゆっくり寝たい。
なにかの拍子に時空が歪んだりして学校がなくなったりしないかな。

犬が片岡の家の前でうんちをする。
ビニール袋を持たずに来てしまった。
曲がり角に黒い塊が動くのが見えた。

走る。走る。走る。黒い塊から逃げるように走る。
振り返ると黒い塊は、キツネだった。
化かそうとしているのか。もう化かされているのか。
夜はまだ雪が残る春のにおいがする。

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出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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