川野康之 2026年6月28日「台南の忘れられない夏」

台南の忘れられない夏

   ストーリー 川野康之
      出演 大川康樹

北半球では、夏至の日に、太陽の高さが最も高くなる。
北回帰線が通る場所では、夏至の瞬間、太陽は頭の真上に来る。
そのため、太陽の下に立っても影がまったく見えない
不思議な現象が体験できるという。

北回帰線は台湾島を東西に横切っている。
ある夏の日、私は台北から特急自強号に乗って南へ向かっていた。
台北で仕事を終えた後に、
短い休みを取って台南を旅しようと思いたった。
台湾の原点と言われる台南を歩いてみたいと思ったのだ。
嘉義を通過してほどなく、列車は北回帰線を通過した。
と言ってもガタンと揺れたりはしない。
北回帰線は北緯23.26度の緯線。
温帯と熱帯をわける境界線でもあるという。
気のせいか窓の外の日差しが強くなった。
南国っぽい植物が多くなった。
台南の駅に降り立つと、ぎらぎらする光が私を迎えてくれた。
通りの向こうには店や屋台が並び、
街路樹の下には濃い影ができていた。

台南の太陽は私を有頂天にさせた。
ホテルに荷物を投げ込むとすぐに外に飛び出した。
旅に出るとじっとしていられない。
どこへ行こうか決めていないまま街を歩き出した。
台北の友人が、
台南に行ったらこれを食えとすすめてくれた食べものがあった。
台湾では料理の名前はたいがい四文字熟語で表す。
「蝦仁肉圓(シャーレンバーワン)」。
蝦と肉と団子の字が興味をそそる。
友人は店の地図まで書いてくれた。
よし、まずはこれを食おう。
ホテルからは思ったよりも遠かった。
日差しの照りつける通りを何度か行ったり来たりしてから、
やっと見つけた細い路地に入った。
迷路のような道を歩いていると突然不思議な空間が現れた。
狭い道が集まって三叉路になっている。
駄菓子屋の前に遊具が置いてある。
子どもたちが遊んでいる。
のんびりとした空気、ただよう幸福感。
私が子どもの頃にいた世界にそっくりだった。
パラレルワールドではないかと思った。
迷路の出口で目指す店を見つけた。
「蝦仁肉圓」はプリプリのエビ入り肉団子のあんかけだった。
やわらかくて甘くておいしい。

台南の街を私は3日間歩き回った。
朝、街に出ると、歩道の上に豆乳の屋台が出ている。
出勤する人を眺めながら豆乳と揚げパンを食べた。
この時間はまだ日差しがやわらかい。
ガイドブックの地図を見て、今日はどこへ行こうかと考える。
歩き始めると、太陽はすぐに強さをむき出しにして、
じりじりと照りつけてきた。
その強い光は日没まで衰えることはない。
真上から降り注ぐ熱線が、道路をフライパンのように焼く。
自分の影が、短く、墨のように黒い。
北回帰線直下の太陽を私はなめていた。

私は道に迷っていた。
暑さのせいで方向感覚を失った。
たまたま横にあった店にふらふらと入り、道を聞いた。
店にいた女の人が、私の地図を手に取ってじっと見た。
それから片言の英語で、身振りを交えながら説明してくれた。
二人とも英語はあまりうまくはなかったが、
なんとか意思は通じ合った。
私は「謝々!」と言って歩き出した。
そうしてかなりの距離を歩いた頃である。
後ろから呼び止める声がして、振り向くと、
さっきの女の人が走って追いかけてきた。
「私のお父さんは日本語が話せます」
片言の英語で言った。
「日本人が道に迷っていたと話したら、
すぐに呼んできなさいと言いました」
どうしようかと思った。
炎天下をまた引き返すのはちょっと気が重い。
しかし彼女は「ぜひ戻ってほしい」と懇願するように言った。
店には一人の老人が待っていた。
私を見るなり、なつかしそうに日本語を口にした。
日本統治時代の教育を受けた世代には、
今も日本語を話せる人が多くいると聞いていた。
ひさしぶりに日本語を話したかったのだろうか。
しかしお父さんの日本語は、
残念なことにほとんど意味が通じなかった。
長い時間の中で風化してしまったのかもしれない。
娘さんが心配そうに私を見ていた。
私は、お父さんに何度もうなずきながら、
わかるふりをして最後まで聞いた。
娘さんはホッとしたように笑った。
お父さんもうれしそうに笑っていた。
二人に見送られて、同じ道をまた引き返した。
まだ外は暑かった。

古都である台南には、何百年も前に建てられた城や寺院が残っている。
その中には島の外から来た文明が建てたものもある。
為政者が変わるたびに何度も壊され、建て直され、形が変えられ、
そして今はお寺として生き残っている。
人々は外から来たあらゆるものを自分たちの暮らしに取り込んだ。
こうして独自の文化や食べものが生まれてきた。
この暑さの中で、人々は人間らしく生きることを貫いた。
この島の人々の芯にある強さを思う。

台南の旅をしたのは、今から25年ぐらい前のことである。
あれ以来、台南には行っていない。
もしもう一度行く機会があったら、やりたいことが二つある。
一つは「蝦仁肉圓(シャーレンバーワン)」をまた食べること。
そしてもう一つは、あの迷路のような三叉路に行って、
パラレルワールドがまだあるのか確かめてみたい。

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出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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川野康之 2025年10月5日「夕暮れ」

夕暮れ

ストーリー 川野康之
   出演 清水理沙

「案外時間ないんだよね」
最近のクンペイの口癖だ。
それはたとえば二人が食事をしている時、
映画が始まるまでまだ十分時間はあるのに、
クンペイは時計を見るとせわしなく立ち上がってレジに向かう。
「急がないと」
あわてて後を追いかけながら、わたしは少しさびしい気持ちになる。
「コーヒーぐらい飲みたかった」
「映画館に着いてから飲めばいいよ。その方がゆっくり飲める」
その考え方だ。間違ってはいないけど、正しすぎるところがいやだ。
最近クンペイは変わった。
高架下の暗がりに、一匹の子犬がいて、寒そうにふるえていた。
「この子、迷子かしら」
わたしが立ち止まると、
何やってんだ、という風に肩をすくめて、腕時計を見る。
「案外時間ないんだよね」
小さい声でぶつぶつつぶやいている。
その息が白い。
夕暮れ時になると、空気が急に冷えてくる。
今夜は0℃近くまで下がるだろうと天気予報では言っている。
まだ9月だというのに。

寒い夏が終わり、これからもっと寒い秋が始まる。
季節の名前なんてもう意味がないのかもしれない。
世界中で気温が下がっている。
地球寒冷化という言葉を耳にするようになったのは去年の夏だった。
それが事実であることをもう疑う人はいない。
世界中でホームレスや貧しい人が凍死している。
少数の大国が石油やLNGを独り占めしている。
日本のエネルギー不足は深刻だ。
夜9時には電気の使用が禁じられている。
街の灯りは消えた。
飲食店は夕暮れとともに店を閉める。
デパートは休業状態。
映画館や娯楽施設は多くが営業を自粛した。
銀座で1軒だけ、細々と上映を続けている映画館がある。
観客たちは飢えた子どものように映画が始まるのを待っている。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』。
クンペイが抽選でやっと手に入れたチケットだ。
陽気な音楽が始まると、人々はスクリーンに見入る。
最初はおずおずと、そのうち安心したように笑う。
映画を見ていると、以前と変わらない日常が外で続いているような気がする。
けれども、9時になる前に上映は打ち切られ、
観客たちは灯りの消えたエントランスから人目をはばかるように外に出る。
そして現実に戻されるのだ。

銀座の街は真っ暗で、まるでゴーストタウンのようだ。
人通りの少ないみゆき通りを歩いていると、向こうの方で赤い火が見えた。
誰かが焚き火をしているようだ。
店をたたんだ店主がテーブルや椅子などを持ち出し、
道ばたで燃やしているのだった。
火のまわりには、通りすがりの人が立ち止まって
手を差し伸べて暖を取っている。
クンペイもわたしも中に加わった。
おじさんたちが見知らぬ同士で言葉を交わしていた。
「ついこの間まで異常気象で暑い暑いって言ってたのにな」
「そうだった。暑くて溶けそうだった」
「それがなあ。同じ異常気象でもまさかこんなことになるなんて」
「地球が狂っちまったんだなあ」
火の中で椅子の脚がパチパチとはぜる。
「R国が北海道を狙って攻めてくるってね」
「少しでも暖かい南へってわけか。
石油と引き換えならちょっとくらいわけてやってもいいぜ」
「おい」
「いや冗談だよ」
それっきりおじさんたちは黙ってしまった。
外国の侵略の動きに抗議する声がSNSを騒がせている。
実力で阻止しようと呼びかけるグループもある。
クンペイがわたしに言った。
「案外時間ないんだよな」
わたしは時計を見た。
10時の終電を逃したら帰れなくなる。

わたしたちは焚き火を離れ、真っ暗な道を駅の方へ歩き始めた。
世界がこんなに心細いものだとは知らなかった。
地球はこのまま冷えて行って、
冷たい命のない星になってしまうのだろうか。
その上にいるわたしたちも死んでしまうのだろうか。
残された地球のわずかな温もりを奪い合いながら。
「世界は元にもどるの?」
その時、雪が降ってきた。
クンペイは黙って黒いビルの空を見ている。
わたしも空を見上げる。
「案外時間ないんだよね」
クンペイのその言葉には絶望の響きがあって、わたしはふるえた。
「根室沖は軍艦がいっぱいだってさ」
「世界は元にもどるの?」
もう一度聞いた。
「アカネ」
クンペイはわたしの名を呼んだ。
「明日はどうなるかわからない。
わかってるのはそれだけだ。
ぼくたちには、案外時間がない」
駅に近づくと、終電に乗り遅れないように駆け出す人の姿が見えた。
わたしたちも走った。
別れる時、クンペイが言った。
「明日ぼくは北海道に行く」

日本の歴史上最も寒い秋が過ぎ、冬が過ぎ、暦の上では春になった。
テレビのニュースは増え続ける凍死者の数を伝えている。
根室沖では流氷が消える気配はなく軍艦を閉じ込めている。
あれ以来クンペイは北海道から帰ってこない。
明日になったら、わたしも北海道に行こうと思う。
クンペイと会えるかもしれない。
わたしはまだ生きている。
時間はまだある。
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出演者情報:清水理沙 アクセント所属 https://aksent.co.jp/profile/shimizu_risa/

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川野康之 2025年4月27日「オフィス街の理髪店」

オフィス街の理髪店

    ストーリー 川野康之
       出演 大川泰樹

オフィス街の理髪店。
映像はモノクロ、
下記モノローグの通りに進行する。
語り手の男は中年から初老にかけた年頃。
バーバーチェアに座っている。

男 モノローグ:
「四月、
この街には新人が増える。
私が髪を切ってもらっていると
スーツ姿の若い男が駆け込んできて
隣の椅子に座った。
『坊主にしてください』
ずっと走ってきたのか、荒い息をしている。
鏡の中をにらんでいる。
『いいんですか?』
理容師はためらった。
『いいんです』
この男の身にいったい何があったのだろうか。
何か大失敗をやらかしたのか。
それとも得意先とケンカでもしたのか。
私はあれこれと想像してみた。
理容師は余計なことは聞かず
『わかりました』
とだけうなずくとはさみを手に取った。
それからはさみを元に戻し、
引き出しを開けて、奥からバリカンを取り出した。
男の目がそれを見てこわばった。
静かな店の中にバリカンのモーターの音が響く。
男は目をつむった。
理容師は黙って自分の仕事にとりかかった。
これ以上見ているわけにもいかず、私も目を閉じた。
男の登場で中断された考えごとの続きに戻ろうとしたが、
何を考えていたか忘れてしまった。
しかたがないから窓の外を眺める。
ガラスの向こうに見えるのはいつもの灰色の街である。
ビルを抜ける風が埃を巻き上げていた。
人々は急ぎ足で通り過ぎていく。
30年近く見慣れた風景である。
この街で私は長い時間を生きてきた。
そう、隣の男のような新人の頃からだ。
知らない人だらけの街で
何もわからず、ただ右往左往していた。
失敗ばかりして、何度もやめようと思った。
それでもやめなかったのは、この街の魔力だろうか。
30年、あっという間だった。
いつからだろう、
この街の景色から色がなくなったのは。
春も夏も秋も冬も、今では同じ色に見える。
愚かな若者め、と私は思った。
何があったのか知らないが、
やけになって馬鹿なことをするもんだ。

私の髪が仕上がるよりもはやく、隣の男の頭が完成した。
男は呆然として鏡を見つめている。
右に左に角度を変えて確かめている。
驚いたことに、それは坊主頭ではなかった。
何の変哲もないけれど、
短くカットされた頭は、男の顔によく似合った。
彼は思ったよりも若かった。
どこか幼さが残っている。
人生はまだ始まったばかりであった。
これから何でもできる、
ただの若者の顔があった。
うらやましいなと私は思った。
『できました』
理容師はそう言うと、
仕上げの魔法のように男の頭をさっとひとなでした。
若者は照れくさそうに笑い、自分もさっと頭をなでた。
そしてぺこんと頭を下げて店を飛びだして行った。

風が吹く街へ。
彼の人生へ。

理容師は何事もなかったように床を掃除し、椅子をきれいに整え、次の客を待った。
鏡の中で私と目があった。
その目がやさしく笑った。
窓の向こうに春風が舞っていた。

出演者情報:

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川野康之 2024年9月15日「アルプスのワイン」

アルプスのワイン       

    ストーリー 川野康之
       出演 大川泰樹

マッジョーレ湖から山に向かって2時間ほど走ると
あたりはアルプスらしい山岳風景になる。
急な斜面は短い草でおおわれ、
ところどころ荒々しい岩肌が剥き出しになっていた。
崖っぷちに張り出したテラスのような形の岩があった。
その上に立つと、くねくねと登ってきた道が一目で見渡せた。
はるか下の方で湖が光っている。
ここにカメラを据えた。
7月から8月にかけて、
まる一夏を費やしたCMの撮影がようやく終わろうとしていた。
これが最後のカットだった。
ミラノを拠点に北イタリアのあちこちを移動しながら、
一日も休まずロケハンと準備、撮影を続けてきた。
ヨーロッパの夏は日が長い。
早朝に出発して、夜遅くホテルに戻る。それから打合せ。
そんな日の連続だった。
毎日これでもかこれでもかと問題が起きた。
海外タレントとのコミュニケーションはすれ違いばかりで、胃が痛くなった。
イタリア料理はすぐに食べられなくなった。
隣の中華料理店に行って
ご飯にジャスミンティーをかけたお茶漬けを食べていた。
そのタレントが帰国し、スタッフだけが残って、あとは実景を撮るだけ。
精神的にも肉体的にも私はくたびれきっていたが、
この日で終わりだと思うと少しホッとしていた。
みんなの後ろに立ってぼんやりと撮影が進むのを見ていた。
できればもう美しいものしか見たくないという気持ちになっていた。
岩の上にいるカントクもカメラマンのクリタさんも
おそらく同じ気持ちだったと思う。

背後で人の気配を感じた。
振り向くと、石を積み上げただけの質素な小屋があって
中からモグラみたいなおっ母さんが顔を出していた。
日に焼けた顔をくしゃくしゃにして、おいでおいでと手を振っている。
小屋の中は涼しくて居心地が良さそうで、
テーブルの前にはマリオみたいな口ひげのお父っつぁんが座っていた。
お父っつぁんは一升瓶ぐらいの大きさの瓶を出してきて、コルクの栓を抜いた。
私のために分厚いガラスのコップを手渡し、濃い色の液体を注いでくれた。
口に入れると強いぶどうの味がした。
土の味、太陽が凝縮した甘さ、ミネラル、
アルプスの空気のような爽やかな酸味のワイン。
喉の渇きがさっと引いた。
ぶどうの滋味が胃の中にゆっくりとしみこんでいく。
ぶどうに救われた。
そう思った。
私の顔をお父っつぁんとおっ母さんが見ている。
「ベーネ!」
私が笑うと二人も笑った。
後でイタリアのスタッフから聞いた話によると、
ふだんは麓の村に住んでいるお父っつぁんたちだが
夏の数日だけ、この小屋で過ごすために家族でやってくる。
このワインはお父っつぁんが自分で育てたぶどうで作ったものだという。
山で飲むためにわざわざ重たいワインを運んで来たのだそうだ。
そんな貴重なワインとは知らず、私はおかわりしていた。
しばらくすると、カントクが
「ここにいたのか」
と言いながら入ってきた。
ワインの匂いをかぎつけたのだろう。
マリオのお父っつぁんはうれしそうにカントクにもワインを注いだ。
気がつくと私たちは大事な一升瓶をほぼ飲み尽くしてしまっていた。
そのうちに彼らの子どもたちが帰ってきた。
頬っぺたの赤い少女と男の子。
弟が大事そうにかかえていた空き缶の中には
二人が摘んできたエーデルワイスの花が入っていた。

別れる時、少女がエーデルワイスの花を私たち一人一人にくれた。
お父っつあんがワインの新しい一升瓶を持ってきて渡そうとする。
いやさすがにそれは、と固辞したのだが、持っていきなさいという。
ロケバスの中で私たちはワインを開けた。
バスはぶどうの香りを乗せて走った。
誰かが窓の外を指さした。
岩の上で子どもたちが手を振っていた。
つづら折りの道をカーブするたびに、右に左に岩は見え続け、
子どもたちが手を振っているのがいつまでも見えた。
私も手を振った。
やがて森の木立に隠れて岩が見えなくなった時、思った。
死ぬまでにもう一度ここに来ることはあるだろうか。
カントクが一升瓶を膝に抱いたまま言った。
「おれはいつかあの家族の映画を撮るよ、ここに帰ってきて」
あれから30年になる。
カントクは映画の約束を果たさないまま天国に行ってしまい、
今は神さまになってしまった。
私はこの地をまだ訪れていない。
死ぬまでに行けるだろうか。
いつか天国でカントクに会ったら、きっとこう言われるだろう。
「あのワイン持ってきたか」

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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川野康之 2024年4月6日「ダンスする狐の末路について」

ダンスするキツネの末路について

ストーリー 川野康之
   出演 村上弘明

キツネはこの頃夜中に目が覚める。
気がつくとブルーなことばかり考えてしまう。
もう昔のように高くジャンプできなくなった。
最近は狩りに出ても失敗ばかりだ。
ウサギの肉は何日も食べていない。
空腹のあまりニワトリ小屋を襲って、人間に追いかけられた。
鉄砲の弾が耳をかすって死ぬほど怖かった。
まだある。
俺は年をとった。
歯は痛いし、尻尾はぼろぼろだ。
毛皮のつやはなくなった。
それにひとりぼっちだ。
俺は何のために生きているのだろうか。
「考えるな」
とキツネは自分に言った。
体に巻いたしっぽにくるまって眼を閉じた。
早く夜が明けるといいと思った。

昔の俺は何も考えなかった。
森を歩き、獲物を探し、本能のままに狩りをした。
ウサギを見つけたら、そっと近づいてジャンプして、
真上から鋭い爪で掴まえた。
うまかったなあ、あのウサギの肉。
俺は他のどのキツネよりも高く跳躍することができた。
仕留めた後は興奮がおさまらず、月に向かって何度もジャンプした。
森の動物たちは俺を「ダンスするキツネ」と呼んで恐れた。
あの頃、俺は何も考えなかった。
ただ生きていた。

キツネは眠れなかった。
朝までずっと考えごとをしていた。
眼が真っ赤になっていた。
夜明け近くに巣を出た。
まだ薄暗い森の中をキツネは歩き始めた。
ウサギたちが噂した。
「あれがダンスするキツネ?」
「ずいぶんみすぼらしくなったね」
かまわずにキツネは歩き続けた。
森を出て、斜面を下った。
川に沿って歩いた。
そしてキツネは森に帰ってこなかった。
ウサギたちは噂した。
「あのキツネは生きていけないね」
「生きていけないね」

キツネは旅に出た。
森の外はよそよそしく、荒野は危険がいっぱいだった。
腹が減るとヘビやカエルを食べた。
食べられる木の実があることも知った。
いくつかの山を越え、いくつかの川を渡った。
キツネは死ぬなんて考えてなかった。
ただ生きていた。生きようとしていた。
今日のねぐらに決めた草原で、キツネは月を見上げた。
ジャンプはできないが、下を見ると地面に自分の影があった。
首を振ったら先っぽの欠けた耳が揺れた。
それがおもしろくてキツネは何度も体を揺らした。
見ていたウサギの子どもが「キツネがダンスしているよ」と言った。
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出演者情報:村上弘明  オスカープロモーション

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川野康之 2023年11月12日「水平線と臆病者」

水平線と臆病者

    ストーリー 川野康之
       出演 遠藤守哉

海というのは不思議なものだ。
一人で海と向かい合うのは、甘美であるけれど、危険でもある。
あの穏やかな水平線の下には何か得体の知れないものがある。

初めて沖縄ロケに行った時、海のあまりの美しさにじっとしていられず、
一人でこっそり海に入って、ガンガゼというウニに刺された。
ガラスの破片でアキレス腱を切ったかと思うほど、激烈な痛みだった。
おそるおそる海を出て、売店で電話を借りてタクシーを呼び、
近くの医者に連れて行ってもらった。
かかとにウニの針が刺さっていた。
ウニの針には返しがあって抜くことはできない。
これから徐々に毒が回って熱が出ます。
なるべく涼しいところで安静にするように、と医者は言った。
そっと海岸に引き返し、現場に戻った。
誰にも話せない。
高揚した気持ちはしぼんでいた。
その日は一日中、日陰にいた。
熱で朦朧となりながら、輝く水平線を眺めていた。

水平線の下には何かがある。
竜宮城の伝説はほんとのことなんじゃないかと私は思う。
インド洋の島に行った時のことである。
誰もいないビーチの海に入って、
鮮やかな青や黄色の魚たちを追いかけていた。
数メートル先に中型犬ぐらいの大きさの亀がいた。
じっと停まって、流し目で私を見ていた。
私が近づくと、ゆっくりと逃げる。
数メートル先で停まって、また流し目で見ている。
追いかけると、ゆっくりと逃げる。
そのうち海の底がふいに深くなった。
水の色が変わり、冷たくなった。
亀は私を誘っていた。
「行こうぜ」
あぶない。
目をそらして水面に上がった。岸が思ったよりも遠くにあった。
必死で泳いだ。
やっとビーチにたどり着いて、砂の上に倒れ込んだ。
「臆病者め」
波音に混じって亀が笑っているような気がした。

何度目かの沖縄ロケで、とある離島に来ていた。
私は一人で砂浜に座って水平線を眺めていた。
沖合を一艘のヨットが走っている。
ヨットではなくウィンドサーフィンだった。
風を受けて、というより風そのもののように軽やかに水面を滑っていた。
あんな風に自由に海を駆け回れたらどんなにいいだろうと思った。
気がつくと、私の隣に女の人が座っていた。
「撮影?」
私の後ろを目で示して彼女は聞いた。
「うん。でもまだ準備中なんです」
「このへんは撮影多いよ」
「きれいですからね、このへんは」
彼女はどこから現れたのだろうか。
鮮やかなビキニの下によく日に焼けた肌。
髪が濡れ、引きしまった体を伝って水滴がしたたっている。
たった今海から出てきたようだ。
波打ち際の近くにボードとセールが置いてあった。
あれに乗ると自由になれるだろうか。
「行ってみる?」
「いややめときます」
彼女は笑った。そして立ち上がった。
家に帰るという。
「近くの島なの。ここよりもっときれいなところ」
彼女は慣れた動作でボードに乗り、セールを引き上げた。
風を受けて沖に向かって進む。
その姿がぐんぐん小さくなって、水平線のあたりで点になって消えた。
「Kさーん」
誰かが私を呼んでいた。
振り向くとロケコーディネーターのN君だった。
「さっきからずっと呼んでたんですけど」
「ごめんごめん、ウィンドサーフィンの美人と話し込んじゃってさ」
「え、ホントっスか?」
「ずっとここにいた。見たでしょ?」
「気がつかなかったなあ」
N君は不思議そうである。
「時々こっち見てたんですけど。全然気がつかなかったなあ」
私はふと気になって聞いてみた。
「あの水平線の向こうにさ、島とかある?」
N君はこの島の人である。
「あっちスか?」
水平線を見てちょっと考えていたが、
「台湾スかね。でも300km以上あるかなあ」
と言った。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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