福里真一 2023年1月7日「新年といえば樹木希林」

新年といえば樹木希林 

     ストーリー 福里真一
        出演 遠藤守哉

新年といえば、私にとっては樹木希林だ。

毎年、お正月に放送するための、
テレビコマーシャルに出演してもらっていたので、
たこあげとか、
はねつきとか、
こままわしとか、
カルタとりとか、
樹木希林さんには、お正月っぽいあらゆることを、
やってもらった。

正確には、お正月に放送するためのCMを撮影するのは、
年末なので、
その制作スタッフである私にとっては、
年末といえば樹木希林、
が正しいはずなのだが、
でもやっぱり、
新年といえば樹木希林だ。

ある日、撮影現場の端っこの方で、
目立たないように立っていた私にはじめて気づいて、
樹木さんは、
「あの、冬彦さんみたいな人は誰なの?」
とまわりに聞いたそうだ。

ちなみに冬彦さんというのは、
当時の人気ドラマで、
佐野史郎さんが演じていたマザコンキャラ。
メガネをかけてなよなよっとしている私の姿が、
冬彦さんと重なったらしい。

それ以来、しばらくは、
冬彦さん、冬彦さん、
と呼ばれていたが、
数年たつと、私の名前を認識したらしく、
福ちゃん、福ちゃん、
と呼ばれるようになった。

私がいつものように、
撮影現場の端っこで目立たないようにしていると、
福ちゃんはどこ?
あらまたそんな隅っこにいたの?
と探しにくる。
そしてなにかと、話しかけてくれる。

その仕事はけっこう長い年月つづいたので、
樹木さんと私は、
それなりに親しくなっていった。

あるとき、
樹木さんが言ってくれたことがある。

私が、福ちゃんに興味をもったのは、
ちゃんと見てる人だったからなの。

私はすぐには、よく意味がわからなかった。

役者にとっても、
何かをつくる人にとっても、
「見る」
ということが一番大事だと私は思う。

いろんな人の行動や、
いろんな人の表情を、
見て、観察して、覚えておく。

福ちゃんは、撮影現場のはしっこの方にいたけど、
いろんなことを、じっと見てたから、
興味をもったのよ、と。

私の、ひっこみ思案な性格を、
そんな風に肯定的に言ってくれた人は、
はじめてだったかもしれない。

2024年がはじまった。
やっぱり私にとって、新年といえば、樹木希林。

樹木さんが神様としてまつられている神社があったら、
間違いなく、初詣はそこに行きたい。(おわり)
.


出演者情報:遠藤守哉

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佐藤充 2023年12月24日「ほっとけない男」

ほっとけない男

  ストーリー 佐藤充
     出演 遠藤守哉

ある日、ラーメン屋で遅い昼食を食べていると、
懐かしい歌が流れてきた。
Janne Da Arc(ジャンヌダルク)だった。
Janne Da Arcとは日本のビジュアル系ロックバンドである。

ラーメンとジャンヌ。
中野でシェアハウスをしていた頃を思い出す。

シェアハウスには、いろんな人間が暮らしていた。

実家に霊の通る道があることから霊道と呼ばれる男。
歌舞伎町でホストをしているから歌舞伎町と呼ばれる男。
歌舞伎町が連れ込んだキャバ嬢と呼ばれる女。
歌舞伎町の彼女でリストカットをすることからリスカと呼ばれる女。
研究でいつもバングラデシュにいるからバングラと呼ばれる女。
北海道から就活で東京に来ていたはずが、
なぜかいつまでも帰らない就活生と呼ばれる男。
オーストラリアのファームでワーホリするはずが、
悪い大人に騙されてダムの建設をやらされていたダムと呼ばれる男。

そんなシェアハウスというより、
動物園と呼んだほうがよさそうな場所にくる前、
歌舞伎町は旭川の梅光軒というラーメン屋で働いていた。

あるとき、
このままラーメンを一生作り続ける人生はつまらない、
とラーメン屋をやめた。

そして広い世界を自分の目で見るために
ラーメン屋の厨房を飛び出し、
ママチャリにまたがり日本一周の旅に出て、
帰ってきてホストになったのが歌舞伎町だった。

歌舞伎町はJanne Da Arcが好きで、
よく部屋で曲を流していた。

みんなが寝静まりゆっくり読書をしていた深夜3時だった。
誰かが帰ってきた。そこには顔面真っ青な歌舞伎町がいた。

「どうした?仕事は?」と聞くと、
「いや、気絶したから早上がりしてきた」と答える。

歌舞伎町はお酒が飲めないうえに
体調が悪い状態でお酒を飲むと気絶する体質だった。

ホストとして致命的だった。
だからこそ、ほっとけない男だった。

シェアハウスの仲間たちで
月に1度の食事会をしているときだった。
歌舞伎町にもっと広い世界を見てほしいと
ひとりで初めての海外旅行に行ってみてはどうかと提案してみた。

「でも普通に行くんじゃつまらなくない?」と誰かが言うので、
関口宏のフレンドパークのようにルーレットで決めて
その場で航空券を買うことになった。

ルーレットには30カ国ほどの候補地の都市が書かれていた。
歌舞伎町の初海外は楽しい思い出になってほしい。
僕らも関口宏のフレンドパーク的に言えばタワシぐらい
バンコクやハワイやニューヨークなどを多く面積広めに、
パジェロぐらい小さめに大変そうな都市を入れて作った。

そしてルーレットを回す。

「パジェロ、パジェロ」と盛り上がる。
ルーレットがゆっくりとゆっくりと止まる。

止まった先はタワシのように広く大きく作ったところではなく、
パジェロのように狭く小さいところだった。

小さすぎて文字が認識できないので、
誰かが近づき書かれた国名を読む。

パキスタンだった。

さっきまでの「パジェロパジェロ」との盛り上がりが
嘘みたいに静かになる。

「本当に航空券取るよね?」と誰かが沈黙を破る。
調べてみるとパキスタンへの直通の便はなく、
インドのデリーへ行き、そこからパキスタンへ行くことになった。

歌舞伎町がパキスタンへ行っている3週間は、
ほっとけない男を、さらにほっとけない男にした。
全員がLINEに既読がつかないか、SNSに更新がないかを常に見ていた。

予定より1週間早く帰国した歌舞伎町にパキスタンの感想を聞いた。
何を聞いても「あの花」の感想しか返ってこなかった。
「あの花」とは「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」という
秩父を舞台にしたアニメのことである。

歌舞伎町はパキスタンが怖いので宿にこもり
ずっとアニメを見るという日本でもできることをしていたらしい。

ラーメン屋のBGMがJanne Da Arcで、
僕は久しぶりに歌舞伎町に会いたくなり
「今度飲もう」とLINEをした。

1ヶ月くらいして
「2年後だったら会える」と返信があった。

歌舞伎町は、どこで何をしているのだろう。
本当にほっとけない。
.


出演者情報:遠藤守哉

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川野康之 2023年11月12日「水平線と臆病者」

水平線と臆病者

    ストーリー 川野康之
       出演 遠藤守哉

海というのは不思議なものだ。
一人で海と向かい合うのは、甘美であるけれど、危険でもある。
あの穏やかな水平線の下には何か得体の知れないものがある。

初めて沖縄ロケに行った時、海のあまりの美しさにじっとしていられず、
一人でこっそり海に入って、ガンガゼというウニに刺された。
ガラスの破片でアキレス腱を切ったかと思うほど、激烈な痛みだった。
おそるおそる海を出て、売店で電話を借りてタクシーを呼び、
近くの医者に連れて行ってもらった。
かかとにウニの針が刺さっていた。
ウニの針には返しがあって抜くことはできない。
これから徐々に毒が回って熱が出ます。
なるべく涼しいところで安静にするように、と医者は言った。
そっと海岸に引き返し、現場に戻った。
誰にも話せない。
高揚した気持ちはしぼんでいた。
その日は一日中、日陰にいた。
熱で朦朧となりながら、輝く水平線を眺めていた。

水平線の下には何かがある。
竜宮城の伝説はほんとのことなんじゃないかと私は思う。
インド洋の島に行った時のことである。
誰もいないビーチの海に入って、
鮮やかな青や黄色の魚たちを追いかけていた。
数メートル先に中型犬ぐらいの大きさの亀がいた。
じっと停まって、流し目で私を見ていた。
私が近づくと、ゆっくりと逃げる。
数メートル先で停まって、また流し目で見ている。
追いかけると、ゆっくりと逃げる。
そのうち海の底がふいに深くなった。
水の色が変わり、冷たくなった。
亀は私を誘っていた。
「行こうぜ」
あぶない。
目をそらして水面に上がった。岸が思ったよりも遠くにあった。
必死で泳いだ。
やっとビーチにたどり着いて、砂の上に倒れ込んだ。
「臆病者め」
波音に混じって亀が笑っているような気がした。

何度目かの沖縄ロケで、とある離島に来ていた。
私は一人で砂浜に座って水平線を眺めていた。
沖合を一艘のヨットが走っている。
ヨットではなくウィンドサーフィンだった。
風を受けて、というより風そのもののように軽やかに水面を滑っていた。
あんな風に自由に海を駆け回れたらどんなにいいだろうと思った。
気がつくと、私の隣に女の人が座っていた。
「撮影?」
私の後ろを目で示して彼女は聞いた。
「うん。でもまだ準備中なんです」
「このへんは撮影多いよ」
「きれいですからね、このへんは」
彼女はどこから現れたのだろうか。
鮮やかなビキニの下によく日に焼けた肌。
髪が濡れ、引きしまった体を伝って水滴がしたたっている。
たった今海から出てきたようだ。
波打ち際の近くにボードとセールが置いてあった。
あれに乗ると自由になれるだろうか。
「行ってみる?」
「いややめときます」
彼女は笑った。そして立ち上がった。
家に帰るという。
「近くの島なの。ここよりもっときれいなところ」
彼女は慣れた動作でボードに乗り、セールを引き上げた。
風を受けて沖に向かって進む。
その姿がぐんぐん小さくなって、水平線のあたりで点になって消えた。
「Kさーん」
誰かが私を呼んでいた。
振り向くとロケコーディネーターのN君だった。
「さっきからずっと呼んでたんですけど」
「ごめんごめん、ウィンドサーフィンの美人と話し込んじゃってさ」
「え、ホントっスか?」
「ずっとここにいた。見たでしょ?」
「気がつかなかったなあ」
N君は不思議そうである。
「時々こっち見てたんですけど。全然気がつかなかったなあ」
私はふと気になって聞いてみた。
「あの水平線の向こうにさ、島とかある?」
N君はこの島の人である。
「あっちスか?」
水平線を見てちょっと考えていたが、
「台湾スかね。でも300km以上あるかなあ」
と言った。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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蛭田瑞穂 2023年10月8日「ミステリーブラックの雨」

「ミステリーブラックの雨」

ストーリー 蛭田瑞穂
出演 遠藤守哉

シャーロック・ホームズと友人の医師ジョン・ワトスンは
ベーカー街221Bの下宿を出て、
オックスフォードストリートに向かっていた。

目的は、新たに出版された科学論文を書店で手に入れることで、
その論文にはホームズが関心を寄せている、
毒物の識別手法についての記述が含まれていた。

ふたりの足元にはロンドン特有の石畳が広がり、
通りにはヴィクトリア朝時代の優雅な建築物が並んでいた。
平凡だが穏やかな、秋の午後だった。

しかし、平穏は長くは続かなかった。
空が不自然な速さで暗くなると、突如として黒い雨が降り出した。

「何だろう?この黒い雨は」
ワトスンが驚きと不安が入り混じった表情でつぶやいた。
ホームズは手のひらで雨粒を受けると、注意深くそれを観察した。
「ワトスン、これはインクだよ。この独特の色調と香りから察するに、
 モンブラン社の高級インク、ミステリーブラックといったところだろう」

大量のインクが街頭に打ちつけ、石畳は瞬く間に黒く染まった。
それはまるで闇夜を流れる川のようだった。

ホームズは深く考え込んでいる。
複雑な推論や仮説が頭の中で組み立てられているようだった。
「ホームズ、君は何か考えがあるようだね」
ワトスンは尋ねた。
「これが通常の理論で説明がつかない状況なのは確かだ。
 インクが降ってくるという現象は、僕らが何らかの枠組み、
 おそらく、物語の中で操られている可能性を示唆している」

「物語だって?」
ワトスンの声には明らかな疑念が滲んでいた。
「確かに、これはにわかに信じがたい事態だ。
 僕らが現実だと認識しているこの世界が、
 すべてつくりものということだからね。
 馬鹿げているようだが、それ以外にこのような
 奇怪な現象を説明する方法を僕は知らない」

先ほどまで商人や物乞いが声を上げていた通りは、
今や幽霊が出現してもおかしくないほどの不気味な静寂に包まれている。

「だったら我々はどうすればいい?」
ワトスンは上ずった声をあげた。
「なに、案ずることはないよ、ワトスン。
 僕の推察では、この現象は作者の創作上の苦悩か、
 執筆の焦りから生じたもの。
 だが、そんな状態が永遠に続くわけがない。
 コーヒーでも飲んでこの雨を遣り過ごすとしよう」

時計台の鐘が鳴った。

アーサー・コナン・ドイルは執筆の手を止め、万年筆を置いた。
手元のカップにコーヒーを注ぎ、熱い液体をゆっくりと口に運びながら考える。
物語の中でホームズとワトスンが事件に困惑する姿を思い浮かべ、
この先どう進めるべきかを模索した。

しばらく考えた後、新たなアイデアが浮かび、
ドイルの顔に小さな笑みがこぼれた。
物語が動き出そうとしている。
ドイルは再び、万年筆を手に取った。
.


出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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山中貴裕 2023年10月1日「取調室」

取調室

    ストーリー 山中貴裕
       出演  遠藤守哉

刑事さん、何度も言いますけど。
私はやってませんから。
さっきも言いましたけど、
昨日は近所のドトールコーヒーで
モンブラン食べながらコピーを書いてたんです。
はい。コピーライターだからコピーを書くのが仕事です。
もう一度、昨日の朝からの行動を説明しますね。
昨日は土曜日だったけど
締め切りが迫ってるコピーがあったんで
8時に起きてすぐにいつものドトールに行ったんです。
え?土曜なのに働くのかって?
「フリーランスは休日働いてなんぼだろ」って、
なにかの映画でリリー・フランキーが言ってましたけど、
そうなんです。
フリーの人間には土曜も日曜もないんです。
盆も正月もないんです。
頼まれた仕事を締め切りまでに確実に納品しないと
食っていけないですから。
もうこういう生活を10年以上やってますからね、
慣れましたよ。
で、結局、モンブラン食べてコーヒーを2杯おかわりして
2時間ぐらい粘ったけどいいコピーが書けなくて、
気分を変えようと思って店を替えたんですよ。
どこの店だって?
駅の反対側にあるドトールです。
いやいやいや!不自然じゃないですって!
いつもそうなんですって!
私は、ドトールじゃないと仕事できないんですって。
スタバとかコメダとかじゃなくて、
ドトールじゃないと落ち着かないんですよ。まじで。
そこでまたモンブランを頼んで、コピーを。
いやいやいや。ルーティンなんですよ、
ドトールのモンブランが。
甘いモンブランを食べながら苦いコーヒーを飲むと、
いいコピーが書けるんです。
いや、書けないことも多いけど。。。
あそこの店員さんに聞いてみてくださいよ。
ほぼ毎日通ってるから、
絶対、私の顔を覚えてるはずですよ。
いつもモンブラン頼んで、
テーブルにノートをひろげて
鉛筆にぎりしめながら
暗い顔で考え込んでる無精ひげの男なんて、
絶対、気持ち悪いと思うんですよ。
「あのおっさん、なんの仕事してるんだろう?」って、
きっとそう思われてるから。
昨日もお昼過ぎまで店に居たからきっと覚えてますよ。
これでアリバイ成立でしょ?
え?殺されたのも同じコピーライター?
いや、あいつはでっかい広告代理店の
コピーライターだから、
ほんとはコピーなんか書いてませんよ!
ぜんぶ、私らみたいな人間に外注して、
土日はのんびり家族とバーベキューでもしてますよ。
殺されて当然のヤツですよ。
って、いやいやいや!
今のは口が滑ったんです!
刑事さん、そんな怖い顔しないでくださいよ!
ほんとうに、私はただの
しがないフリーのコピーライターなんですから。
はい?被害者はクリエイティブディレクターという肩書きも持ってた?
はいはいはい。
代理店の連中は、
そういう何となくエラソーな肩書きを名乗るんですが、
さっきも言いましたけど、
あいつら実際はなんにも仕事してないですからね。
最近じゃ、
「デジタルなんちゃら」とか
「なんとかトランスフォーメーション」とか
横文字並べて誤魔化してますけど、
実態は何も無い
「空気」みたいなもんですから。
殺されたあいつも、
ほんと、昔から口だけは達者な
詐欺師みたいな人間でしたからね。
きっと騙した誰かに、刺されたんでしょ。
。。。え?
なんで、刺されたって、知ってるんだって?
。。。も、もう帰っていいですか?
今夜もコピーの締め切りがあるんです!
警察に捕まったって言えば、
クライアントも許してくれるかなぁ。。。
はぁ。。。モンブラン食べたい。。。
.


出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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牛人

 

牛人

 作:中島敦
 朗読:遠藤守哉

魯の叔孫豹《しゅくそんひょう》がまだ若かった頃、
乱を避けて一時|斉《せい》に奔《はし》ったことがある。
途《みち》に魯の北境|庚宗《こうそう》の地で一美婦を見た。
俄《にわ》かに懇《ねんご》ろとなり、一夜を共に過して、
さて翌朝別れて斉に入った。
斉に落着き大夫《たいふ》国氏《こくし》の娘を娶って二児を挙げるに及んで、
かつての路傍一夜の契《ちぎり》などはすっかり忘れ果ててしまった。

 或夜、夢を見た。四辺《あたり》の空気が重苦しく立罩《たちこ》め
不吉な予感が静かな部屋の中を領している。
突然、音も無く室の天井が下降し始める。
極めて徐々に、しかし極めて確実に、それは少しずつ降りてくる。
一刻ごとに部屋の空気が濃く淀《よど》み、呼吸が困難になってくる。
逃げようともがくのだが、身体は寝床の上に仰向いたままどうしても動けない。
見えるはずはないのに、
天井の上を真黒な天が盤石《ばんじゃく》の重さで押しつけているのが、
はっきり判る。
いよいよ天井が近づき、堪え難い重みが胸を圧した時、
ふと横を見ると、一人の男が立っている。
恐ろしく色の黒い傴僂で、眼が深く凹《くぼ》み、獣のように突出た口をしている。
全体が、真黒な牛に良く似た感じである。
牛! 余《われ》を助けよ、と思わず救を求めると、その黒い男が手を差伸べて、
上からのし掛かる無限の重みを支えてくれる。
それからもう一方の手で胸の上を軽く撫《な》でてくれると、
急に今までの圧迫感が失《なくな》ってしまった。
ああ、良かった、と思わず口に出したとき、目が醒《さ》めた。

 翌朝、従者下僕らを集めて一々|検《しら》べて見たが、
夢の中の牛男《うしおとこ》に似た者は誰もいない。
その後も斉の都に出入する人々について、それとなく気を付けて見るが、
それらしい人相の男には絶えて出会わない。

 数年後、再び故国に政変が起り、叔孫豹は家族を斉に残して急遽帰国した。
後、大夫として魯の朝《ちょう》に立つに及んで、初めて妻子を呼ぼうとしたが、
妻は既に斉の大夫某と通じていて、一向夫の許に来ようとはしない。
結局、二子|孟丙《もうへい》・仲壬《ちゅうじん》だけが父の所へ来た。

 或朝、一人の女が雉《きじ》を手土産に訪ねて来た。
始め叔孫の方ではすっかり見忘れていたが、話して行く中にすぐ判った。
十数年前斉へ逃れる道すがら庚宗の地で契った女である。
独りかと尋ねると、倅《せがれ》を連れて来ているという。
しかも、あの時の叔孫の子だというのだ。
とにかく、前に連れてこさせると、叔孫はアッと声に出した。
色の黒い・目の凹んだ・傴僂なのだ。
夢の中で己を助けた黒い牛男にそっくりである。
思わず口の中で「牛!」と言ってしまった。
するとその黒い少年が驚いた顔をして返辞をする。
叔孫は一層驚いて、少年の名を問えば、「牛と申します」と答えた。

 母子ともに即刻引取られ、少年は豎《じゅ》(小姓)の一人に加えられた。
それ故、長じて後もこの牛に似た男は豎牛《じゅぎゅう》と呼ばれるのである。
容貌に似合わず小才の利く男で、すこぶる役には立つが、
いつも陰鬱《いんうつ》な顔をして少年仲間の戯れにも加わらぬ。
主人以外の者には笑顔一つ見せない。
叔孫にはひどく可愛がられ、長じては叔孫家の家政一切の切廻しをするようになった。

 眼の凹んだ・口の突出た・黒い顔は、
ごく偶《たま》に笑うとひどく滑稽な愛嬌《あいきょう》に富んだものに見える。
こんな剽軽《ひょうきん》な顔付の男に悪企《わるだくみ》など出来そうもない
という印象を与える。目上の者に見せるのはこの顔だ。
仏頂面をして考え込む時の顔は、ちょっと人間離れのした怪奇な残忍さを呈する。
儕輩《さいはい》の誰彼が恐れるのはこの顔だ。
意識しないでも自然にこの二つの顔の使い分けが出来るらしい。

 叔孫豹の信任は無限であったが、後嗣《あとつぎ》に直そうとは思っていない。
秘事ないし執事としては無類と考えていたが、
魯の名家の当主とは、その人品からしてもちょっと考えにくいのである。
豎牛ももちろんそれは心得ている。
叔孫の息子たち、殊に斉から迎えられた孟丙・仲壬の二人に向かっては、
常に慇懃《いんぎん》を極めた態度をとっている。
彼らの方では、幾分の不気味さと多分の軽蔑とをこの男に感じているだけだ。
父の寵《ちょう》の厚いのに大して嫉妬《しっと》を覚えないのは、
人柄の相違というものに自信をもっているからであろう。

 魯の襄公《じょうこう》が死んで若い昭公の代となる頃から、
叔孫の健康が衰え始めた。
丘蕕《きゅうゆう》という所へ狩りに行った帰りに悪寒を覚えて寝付いてからは、
ようやく足腰が立たなくなって来る。
病中の身の廻りの世話から、病床よりの命令の伝達に至るまで、
一切は豎牛一人に任せられることになった。
豎牛の孟丙らに対する態度は、しかし、いよいよ遜《へりくだ》ってくる一方である。

 叔孫が寝付く以前に、長子の孟丙のために鐘を鋳させることに決め、
その時に言った。
お前はまだこの国の諸大夫と近附になっていないから、
この鐘が出来上ったら、その祝を兼ねて諸大夫を饗応するが宜《よ》かろうと。
明らかに孟丙を相続者と決めての話である。
叔孫が病に伏してから、ようやく鐘が出来上った。
孟丙は、かねて話のあった宴会の日取の都合を父に聞こうとして、
豎牛にその旨を通じてもらった。
特別の事情が無い限り、豎牛の外は誰一人病室に出入出来なかったのである。
豎牛は、孟丙の頼を受けて病室に入ったが、叔孫には何も取次がない。
すぐ外へ出て来て孟丙に向かい、
主君の言葉として出鱈目《でたらめ》な日にちを指定する。
指定された日に孟丙は賓客を招き盛んに饗応して、その座で始めて新しい鐘を打った。
病室でその音を聞いた叔孫が怪しんで、あれは何だと聞く。
孟丙の家で鐘の完成を祝う宴が催され多数の客が来ている旨を、豎牛が答える。
俺の許も得ないで勝手に相続人面《づら》をするとは何事だ、と病人が顔色を変える。
それに、客の中には斉にいる孟丙殿の母上の関係の方々も遥々見えているようです、と
豎牛が附加える。
不義を働いたかつての妻の話を持出すといつも叔孫の機嫌が見る見る悪くなることを、
良く承知しているのだ。
病人は怒って立上がろうとするが、豎牛に抱きとめられる。
身体に障ってはいけないというのである。
俺がこの病でてっきり死ぬものと決めて掛かって、
もう勝手な真似を始めたのだなと歯咬《はが》みをしながら、叔孫は豎牛に命ずる。
構わぬ。引捕らえて牢《ろう》に入れろ。抵抗するようなら打殺しても宜《よ》い。

 宴が終り、若い叔孫家の後嗣は快く諸賓客を送り出したが、
翌朝は既に屍体《したい》となって家の裏藪《うらやぶ》に棄てられていた。

 孟丙の弟仲壬は昭公の近侍《きんじ》某と親しくしていたが、
一日友を公宮に訪ねた時、たまたま公の目に留《とま》った。
二言《ふたこと》三言《みこと》、その下問に答えている中に、気に入られたと見え、
帰りには親しく玉環《ぎょっかん》を賜わった。
大人しい青年で、親にも告げずに身に佩《お》びては悪かろうと、
豎牛を通じて病父にその名誉の事情を告げ玉環を見せようとした。
牛は玉環を受取って内に入ったが、叔孫には示さない。
仲壬が来たということさえ話さぬ。再び外に出て来て言った。
父上には大変御喜びですぐにも身に着けるようにとのことでした、と。
仲壬はそこで始めてそれを身に佩びた。数日後、豎牛が叔孫に勧める。
既に孟丙が亡い以上、仲壬を後嗣に立てることは決まっている故、
今から主君昭公に御目通りさせては如何。叔孫がいう。
いや、まだそれと決めた訳ではないから、今からそんな必要はない。
しかし、と牛が言葉を返す。
父上の思召《おぼしめし》はどうあろうと、息子の方では勝手にそう決め込んで、
もはや直接君公に御目通りしていますよ。
そんな莫迦《ばか》な事があるはずは無いという叔孫に、
それでも近頃仲壬が君公から拝領したという玉環を佩びていることは確かですと
牛が請け合う。
早速仲壬が呼ばれる。果たして玉環を佩びている。公からの戴きものだという。
父は利かぬ身体を床の上に起こして怒った。
息子の弁解は何一つ聞かれず、すぐにその場を退いて謹慎せよという。
 その夜、仲壬はひそかに斉に奔《はし》った。

 病が次第に篤《あつ》くなり、
焦眉《しょうび》の問題として真剣に後嗣のことを考えねばならなくなった時、
叔孫豹はやはり仲壬を呼ぼうと思った。豎牛にそれを命ずる。
命を受けて出ては行ったが、もちろん斉にいる仲壬に使を出しはしない。
さっそく仲壬の許へ使を遣わしたが
非道なる父の所へは二度と戻らぬという返辞だったと復命する。
この頃になってようやく叔孫にも、この近臣に対する疑いが湧《わ》いて来た。
汝《なんじ》の言葉は真実か? と吃《きつ》として聞き返したのはそのためである。
どうして私が偽《いつわり》など申しましょう、と答える豎牛の唇の端が、
その時|嘲《あざけ》るように歪《ゆが》んだのを病人は見た。
こんな事はこの男が邸に来てから全く始めてであった。
カッとして病人は起上ろうとしたが、力が無い。すぐ打倒れる。
その姿を、上から、黒い牛のような顔が、
今度こそ明瞭な侮蔑《ぶべつ》を浮かべて、冷然と見下す。
儕輩や部下にしか見せなかったあの残忍な顔である。
家人や他の近臣を呼ぼうにも、
今までの習慣でこの男の手を経ないでは誰一人呼べないことになっている。
その夜病大夫は殺した孟丙のことを思って口惜し泣きに泣いた。

 次の日から残酷な所作が始まる。
病人が人に接するのを嫌うからとて、食事は膳部の者が次室まで運んで置き、
それを豎牛が病人の枕頭に持って来るのが慣わしであったのを、
今やこの侍者が病人に食を進めなくなったのである。
差出される食事はことごとく自分が喰ってしまい、からだけをまた出して置く。
膳部の者は叔孫が喰べたことと思っている。
病人が餓を訴えても、牛男は黙って冷笑するばかり。返辞さえもはやしなくなった。
誰に助を求めようにも、叔孫には絶えて手段が無いのである。

 たまたまこの家の宰《さい》たる杜洩《とせつ》が見舞に来た。
病人は杜洩に向って豎牛の仕打を訴えるが、
日頃の信任を承知している杜洩は冗談と考えててんで取合わない。
叔孫がなおも余り真剣に訴えると、
今度は熱病のため心神が錯乱したのではないかと、いぶかる風である。
豎牛もまた横から杜洩に目配《めくばせ》して、
頭の惑乱した病者にはつくづく困り果てたという表情を見せる。
しまいに、病人はいら立って涙を流しながら、痩せ衰えた手で傍の剣を指し、
杜洩に「これであの男を殺せ。殺せ、早く!」と叫ぶ。
叔孫は衰え切った身体を顫わせて号泣する。
杜洩は牛と目を見合せ、眉をしかめながら、そっと室を出る。
客が去ってから始めて、牛男の顔に会体の知れぬ笑が微《かす》かに浮かぶ。

どうしても自分が狂者としてしか扱われないことを知ると
 餓と疲れの中に泣きながら、いつか病人はうとうとして夢を見た。
いや、眠ったのではなく、幻覚を見ただけかも知れぬ。
重苦しく淀んだ・不吉な予感に充ちた部屋の空気の中に、
ただ一つ灯が音も無く燃えている。
輝きの無い・いやに白っぽい光である。
じっとそれを見ている中に、ひどく遠方に——十里も二十里も彼方にあるもののように感じられて来る。
寝ている真上の天井が、いつかの夢の時と同じように、徐々に下降を始める。
ゆっくりと、しかし確実に、上からの圧迫は加わる。逃れようにも足一つ動かせない。
傍を見ると黒い牛男が立っている。救を求めても、今度は手を伸べてくれない。
黙ってつッ立ったままにやりと笑う。
絶望的な哀願をもう一度繰返すと、急に、慍《おこ》ったような固い表情に変り、
眉一つ動かさず凝乎《じっ》と見下す。
今や胸の真上に蔽いかぶさって来る真黒な重みに、最後の悲鳴を挙げた途端に、
正気に返った。……

 いつか夜に入ったと見え、暗い部屋の隅に白っぽい灯が一つともっている。
今まで夢の中で見ていたのはやはりこの灯だったのかも知れない。
傍を見上げると、これまた夢の中とそっくり[#「そっくり」に傍点]な豎牛の顔が、
人間離れのした冷酷さを湛えて、静かに見下している。
その貌《かお》はもはや人間ではなく、真黒な原始の混沌《こんとん》に根を生やした
一個の物のように思われる。
叔孫は骨の髄まで凍る思いがした。己を殺そうとする一人の男に対する恐怖ではない。
むしろ、世界のきびしい悪意といったようなものへの、
遜《へりくだ》った懼《おそ》れに近い。
もはや先刻までの怒は運命的な畏怖《いふ》感に圧倒されてしまった。
今はこの男に刃向《はむか》おうとする気力も失せたのである。

 三日の後、魯の名大夫、叔孫豹は餓えて死んだ。

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