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小野田隆雄 2006年10月13日



コーヒー色の思い出

         
ストーリー 小野田隆雄
出演 坂本美雨

まだ風は冷たいけれど、木に咲く花は、少し
ほころび始めていました。
今日、小さな結婚式が小さな街でありました。
昨日までの雨があがって、二階建ての市民会
館は、なんとなくオランダふうに見えるので
した。彼と彼女が、いま、笑いにつつまれて
結婚式場から出てきました。
「しあわせになれよ」
「ケンカしちゃだめよ」
友だちの声に、花嫁は顔をあからめ、花むこ
は元気に手を振り、ふたりは黒ぬりのハイヤ
ーに乗り込みました。これから駅へ、駅から
港へ、港から船に乗って南のしまへ。
眼を閉じて車にゆられながら、花嫁の心に幼
い日の思い出が、浮かんできました。

あの日も雨があがったあとの、花冷えのする
日でした。
「桜が散っているわ」
ちょうど両親が家を留守にして、彼女がひと
り病気の姉の枕元に座っているとき、姉がぽ
つりとそう言いました。
「でも、家には桜の木なんてないわ」
「なくても散っているの、見えるの」
天井を見つめながら、姉が言いました。
新しく張り替えられたばかりの、真白な障子
は閉めきられていました。障子戸の外は廊下、
廊下のガラス戸に春の風が当たって、誰かが
ノックするような音をたてていました。正午
に近い時刻でした。
「コーヒーを飲みたいな、もういちど。あの
ひとと」
姉はそう言うと眼を閉じました。涙がひとす
じ白い頬を伝わって、形の良い唇の所で止ま
りました。
「姉さん」
彼女は姉をのぞき込むようにして、呼んでみ
ました。返事はありませんでした。

花嫁が瞳をあけると、車は海沿いの道を走っ
ていました。海も青く、空も青く澄んでいま
した。
「姉さん、わたし幸福になるからね」
花嫁は、そっとつぶやいてみました。花むこ
は、彼は、花嫁の手を握ったまま、くったく
なく眠っていました。

出演者情報:坂本美雨http://www.miuskmt.com/

 *出演者の所属事務所の許諾が得られないために
  動画をお目にかけることができません。

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一倉宏 2006年10月6日



万葉の孤悲 

                     
ストーリー 一倉宏
出演 一倉宏

いまは もう
オープンカフェで待ち合わせするには
肌寒い季節だろう。

あなたと僕が待ち合わせをしたのは
5年前のちょうどいまごろ。 
神宮前のあの店で。

はじめてだから わかりやすいように
外側のなるべく奥のテーブルと約束して。

だから 20分も遅刻してしまった僕も
すぐにあなたを見つけることができたのだけれど。

いまでも憶えている。
そのとき カーディガンを肩にかけ
本を読んでいた あなたの横顔を。

こんな場面で
若い女性が開いている本は 先入観でいうなら
村上春樹やニューヨーカー短編集などがふさわしい。

けれど あなたがしおりを挿んだその本は
夏目漱石の『草枕』だった。

さらに 僕を驚かせたのは
遅れた失礼をわびると 
さらりと微笑んで あなたが こう答えたこと。

「いいんです。
 私、こういう時間が好きだから。」

男は誰だって 自惚れで肥大して 幻想を甘やかす。
だから あなたは無防備すぎたと いうつもりはない。
あなたが 好きだといったのは
相手が誰であれ 待ち時間に本を読むこと。
その ひとりの時間。

いまでも 青山通りから新宿方面に抜けるとき
あの店の前を通る。

あなたの名誉のためにいえば 
漢字の多い やや昔の小説を読むこと以外は
あなたは若い女性として 特に変わってはいなかった。

ふたりになれば
コーヒーにケーキをつけておかわりし
そして よく笑った。

なにが幻想で なにが幻想ではなかったのか 
ほんとうは いまでもよくわからない。

元気でやっていますか。
僕らは 僕らのあいだにあったなにかを
なかなか飛び越えられなかったね。

このあいだ 昔の日本語について調べていたら
万葉集では 「恋」を 「孤悲(こひ)」
孤独の「孤」に 悲しむの「悲」で 「孤悲(こひ)」
と書いていたことを はじめて知った。
ひとり 悲しむ の「孤悲」か。
恋とは結局 ひとりの時間のことなのか。

いまも カップを片手に ひとり静かに悲しんでいる。
それが 「孤悲」の時間なら 僕もまた 
この時間が どうしようもなく 好きかもしれない。

*出演者情報:一倉宏 http://www.1-kura.com/

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