川野康之 2019年7月14日 「ビューティフルモーニング」

ビューティフル・モーニング                  

    ストーリー 川野康之
       出演 大川泰樹

喉が渇いていた。
はっと目が覚めた。
ずいぶん長い間眠っていたような気がする。
二日酔いである。
呼吸をするたびに鼻の奥でアルコールが匂う。
やっちまったな、と思う。
何をやっちまったのかはわからない。
しかし、何かをやっちまった日の翌朝は、起きた時に、
やっちまった感があるものである。
眠る時に抱えていた、やっちまったなあという半ばくよくよとした、
半ばふてくされた気持ちの余韻だけがあって、
何をやっちまったかは思い出せない。
これはそれだ。
いずれ徐々に思い出すのである。
思い出さなければよかったことを、思い出すのである。
今は束の間の平穏だ。
喉が渇いていた。

静かである。
だんだん頭が起きてくるにしたがって、
外界の静かさが、何か異様であるように感じられてくる。
子供たちや妻の声が聞こえない。
通常の朝ならば、朝食や洗面の音、テレビの音、話し声、
なんやかやと騒がしいはずだ。
何も聞こえてこない。
今日は週末なのか。
あるいはもうみんな出かけてしまった時間なのだろうか。

思い出した。
俺は、昨日、会社をやめたのである。
36年務めた会社を定年退職した。
職場の同僚に送別会を開いてもらった。
総務の宮沢佳恵が花束をくれた。

思い出した。
今度はやりかけの仕事のことだ。
ずいぶん前に受けたのに、手をつけないまま忘れてしまっていた。
完璧に頭から抜けていた。
まだ間に合うだろうか。
しかしそれは10年も前の仕事だった。

俺はふらつく体を持ち上げて、台所に向かった。
テーブルの上に、ぼろぼろになった花束が置いてあった。
記憶がよみがえる。
このテーブルを、俺はひっくり返したことがある。
食器や牛乳のコップが飛んで割れた。
子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえた。
記憶はそこから早回しのビデオのようになる。
昨日の送別会で俺は最後の挨拶をしていた。
突然、俺は喉の渇きを感じ、手の中の酒を飲み干した。
渇きは癒やされなかった。
部長の顔が歪んだ。
同僚たちが驚いた顔で俺を見ていた。
俺は花を振り上げた。
宮沢佳恵が泣いていた。
子供たちの泣き声が重なった。

俺は水道の蛇口からコップに水を注いだ。
俺は昨日、会社をやめた。
今日はもう会社に行くことはない。
コップからあふれ落ちていく水を、俺は見つめている。
そうだ。
思い出した。
妻と子供たちは5年前に家を出て行ったのだ。

手の中にはコップ一杯の水があった。
水だけがあった。
俺は、喉が渇いていた。

出演者情報:大川泰樹(フリー)

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