佐倉康彦 2019年11月17日「機種変更」

機種変更 

   ストーリー 佐倉康彦
       出演 石橋けい

スマホを、壊してしまった。
もう少し正確に言えば、
建設途中のタワマンの仮囲い、防護壁に投げつけた。
亜鉛メッキされた厚さ数ミリの鋼板とスマホの相性は、
もちろん悪いに決まってる。
秒速5メートルほどの速さで _
鉄の壁と出会ってしまった淡いピンクのそれは、
小さくバウンドしながら _
アスファルトの上で派手に踊って、沈黙した。

その場に打ち捨てたまま、
一刻も早くその場から離れたかった。
部屋に逃げ帰りたかった。
粟立った気持ちのまま歩きかけかけたそのとき、
私の傍らを若いカップルが行き過ぎた。
ふたりとも会話もせず押し黙ったまま
スマホのディスプレイをにらみながら歩いている。
そんなふたりを見て、
その場を立ち去ることを思いとどまる。
鉄の壁とアスファルトに蹂躙されたそれには、
私の個人情報はもちろん、
実家や友人たちの連絡先、
キャッシュレス決済のための
ウォレットも保存されていた。

それにもまして
誰にも決して見せることのできない
私の画像が、
あのひとが、
このスマホで撮った
私の画像が、
ぐつぐつと蠢き息を潜めている。
このまま捨て置き、
この場を離れることは、
ぜったいにできなかった。
辺りを窺い慌てて拾い上げる。

ディスプレイのガラスパネルは、
右上から見事に放射状にひび割れていた。
その亀裂の集合は、
子供ころから忌み嫌っていた
女郎蜘蛛の巣を連想させた。
蜘蛛の糸を、恐る恐る指でなぞってみる。
不意に蜘蛛の巣に鋭い光がさす。
殺したはずの蜘蛛がピクリと動いたようで
今度は本当に意図せず、
思わずスマホを手から落とした。

沈黙したはずのそれは息を吹き返した。

壁に投げつける直前まで
あのひとと繋がっていた、
あのひとの声が漏れていた
淡いピンクのそれには、
誰にも見せることのできない画像の他に
あのひととのものが
これでもかと保存されていた。

あのひとに誘われて
はじめて行った店の料理。
あのひとのクルマの助手席におさまる私。
あのひとと一緒に行った街の風景。
その街を背景に微笑むあのひと。
あのひとの腕に絡みついて、
媚びた笑みを顔に貼り付けた私。
あのひとからの花や
不相応で不釣り合いな贈り物の数々。
あのひととの場所、時間…。
あのひとと、
あのひとの、
あのひとが、
あのひとに、
あのひとから、
あのひと…

そんな思い出すべてを、
蜘蛛の巣が張られてしまった
このスマホから、
今夜、ひとつひとつ削除しながら
あのひとに、
浸ろうか。
狂おうか。

そんなこと、できるわけもないのに。

女郎蜘蛛が棲み着いてしまった、
このスマホは、もう使わない。
だから、
トイレに水没させよう。
溺死させてあげよう。
それから、
つぎのスマホを買いに行こう。
機種変更をしよう。

あのひとを変更しよう。

淡いピンクから
漆黒の、
闇も吸い込むような _
光沢のない黒いものに変えよう。

思い出なんて、データ。

だから、
デリートなんて、しない。
バックアップなんて、しない。
復元なんて、しない。できない。
ただ、すべてを遺棄するだけ。
それで、また、
新しい私が出来上がるはず。

あのひととの思い出だけじゃなく
これまですべての思い出も、
移行しない。
引き繋がない。
そう決めた。

思い出なんて、ただの、
ただのデータ。

出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース

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