古川裕也 2011 年4月24日


彼は彼女を。彼女は彼を。

         ストーリー 古川裕也
            出演 大川泰樹

彼女は、今、ジョナサン・スイフト精神病院にいる。
3歳の頃から集めている、飛行機雲のコレクションの展示会を
ジョナサン・スイフト市民ホールで催したいと、
ジョナサン・スイフト市役所に申しこんだためだ。
彼女によれば、飛行機雲が現れ、形が完成した瞬間にライフルで撃ち落とす。
地上に落ちてきた飛行機雲をその場で血抜きして冷凍保存。
これがいちばんきれいに雲をコレクションする方法だという。
そうして集めた飛行機雲は全部で868個。
いちばん古いのが、ハノイで採集された全長50メートルにもおよぶ
あかね色の飛行機雲。
いちばん新しいのが、ナパヴァレーで採集された渦巻き型の飛行機雲だ。

残念ながら、この話を信じた市役所職員はいなかった。
心神喪失かどうかの判断に絶対的基準はない。
ひとつの決定的行為によってではなく、
たいていの場合、絶対ではないが疑わしい行為の積み重ねによって判断される。
狂気のマイレージのようなものだ。
ジョナサン・スイフト市役所職員は職務に忠実なことに、
ジョナサン・スイフト精神病院に通報した。
彼女の場合、これが既に、3度目の入院で、
今回の主治医はミッシェル・フーコー先生だった。
先生は、必ずしも心神喪失とは言い切れないが少し入院して様子を見ましょう。
と言いながら、カルテにははっきり、心神喪失と書き込んだ。

彼は彼女を見舞いにやってきた。朝晩欠かさずに。
彼女の夫は、要するにハリソン・フォードのような顔で、
たいていの人に好意を抱かせる種類の人間だった。
その彼に、彼女はひどくつらくあたった。
“あのナブラチロワとかいう女とまだつきあってるのね”とか、
“わたしに無断でなぜポルシェ968を買ったのか”とか、
“歯医者の受付のチャスラフスカとできてるのを知らないとでも思ってるの”とか、
内容は他愛ないのだけれど、
それが、彼の髪の毛を引っ張りながら病院の庭を3周しながらとなると、
良し悪しは別として、確かに人目についた。
言うまでもないことだが、
彼には彼女に対する愛はまったく残っていなかった。
彼は今、全知全能を傾けて膨大な量の浮気をしていた。

去年の夏、彼女は空に向ってライフルを乱射していた。
彼女としては、飛行機雲を撃とうとしているつもりだが、
傍目にはどう見ても、飛行機を撃ち落とそうとしているようにしか見えなかった。
居合わせたジョナサン・スイフト市役所職員の通報により、
すぐジョナサン・スイフト病院に入院した。
それが彼女にとって最初の入院だった。
見舞いに来た夫には、“5年前に一度別れたジークリンデとかいう女と
またつきあいはじめたでしょ”と罵声を浴びせた。
そのときの主治医はロラン・バルト先生だった。
先生は、必ずしも心神喪失とは言い切れないが少し入院して様子を見ましょう。
と言いながら、カルテにははっきり、心神喪失と書き込んだ。

今年はじめ。ルキノ・ヴィスコンティ航空でミラノに行くとき、
彼女は、飛行機雲を素手で獲ろうとして
旅客機の窓をハンマーで叩き割っているところを取り押さえられ、
そのままジョナサン・スイフト病院に入院した。
見舞いにやってきた彼に、“あなたが今夢中なブリュンヒルデとかいう女は
そもそも男なのよ”と言い放ってから殴りつけた。
そのときの主治医は、フェリックス・ガタリ先生だった。
先生は、必ずしも心神喪失とは言い切れないが少し入院して様子を見ましょう。
と言いながら、カルテには、はっきり、心神喪失と書き込んだ。

この国の行き過ぎた福祉政策のおかげで、
ジョナサン・スイフト精神病院では極めて快適な暮らしを送ることができた。
3食とも明らかに彼女のふだんの食生活よりも豪華かつヘルシーだった。
そこには、無限の時間と完全な自由があった。
そもそも精神病院では、自分がなりたいと思う人間になることができる。
医者に向かって、ファッキンと言いたければ言えばいいし、
セクシーなインターンの前でいきなり裸になってもかまわない。
正常だとここにいられないわけだし。

彼女が、2週間ほどの入院と半年くらいのふつうの生活とを
繰り返していることは、
町中のひとは、もう、おおよそ知っていた。
そろそろだわ、と、彼女は思った。

やっぱり日曜がいい。それも午後2時くらい。
みんなが集まるジョナサン・スイフト広場。
彼女は彼と腕をくんで歩く。まるで、ほんとは仲がいいかのように。
知った顔がたくさんいる。
みんな彼女を見かけると少し不安そうな表情を浮かべた後、会釈を交わす。
今日は大丈夫そうだ、と思いながら。
そのとき、彼女は、“あ。飛行機雲”と叫び、銃を取り出す。
それを空には向けず、そのまま、彼の方へ向ける。
すぐ、撃つ。再び、撃つ。もう一回、撃つ。
まるで、広場にいるみんなに見せるかのように、
なんだか説明的なゆったりとした動きで。
誰が殺し、誰が殺されたか、みんな知っている。
けれど、誰も、その殺人者を捕まえることはできない。
罪に問うことはできない。

心神喪失は、数字だ。
彼女は、2週間ずつ過去3度精神病院に入っていたことがある。
心神喪失は、多数決だ。
ジョナサン・スイフト裁判所が精神鑑定を依頼するのは、
ミッシェル・フーコー医師。ロラン・バルト医師。
フェリックス・ガタリ医師の3人。

彼女は、微笑んだ。銃を持ったまま。
これから、1年くらい、大好きなジョナサン・スイフト病院で暮らせる。
たまった本を読もう。好きなだけ音楽を聴こう。
彼女には、無限の時間がある。何をしてもいい自由がある。
それは、愛する彼と引き換えに、手に入れたものなのだ。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/  03-3478-3780 MMP

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古川裕也 2010年2月20日ライブ



僕には君がわからなかった

               ストーリー 古川裕也
                  出演 大川泰樹

 春になると、君は僕の耳元で、突然ヴィトゲンシュタインと3回ささやいた。
何日かそれをくりかえすと、今度は、エイゼンシュテインと3回ささやいた。
その完璧にコントロールされた吐息の質と量に僕は君の思惑通り興奮した。
というか、僕が興奮するまで君はそれをやめなかった。
やがて僕の方がそれを期待するようにさえなった。
ルビンシュタインとささやかれたら興奮するだろうか。
ストラヴィンスキーだとどんな感じだろうかと。
今となっては無邪気な思い出だけれど、間違いなく言えるのは、
君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。

 春になると、僕たちはよくけんかをした。
細かいことはいちいち覚えていないけれど、
いちばん深刻なけんかの原因は、確か、八重洲ブックセンターの
5色あるしおりのうち、ふたりがいちばん好きなムラサキ色が一枚しかなくて、
それを取り合ったことだと記憶している。
今から考えてもお互い譲れない問題だったと思う。
とくにその本が長編小説である場合、
それは読後感に決定的な意味を持つ。
ジョイスを読んでるのにトルストイを読んでるような感じになることすらある。
それはよくない。
喧嘩の決着がつかないと、君は必ず街の時計台のいちばん上に登って
降りてこなかった。
春とはいっても、そこは寒い。
たぶん。君は、またたくまに風邪をひいた。
咳をしては、その振動で時計を3分遅らせ、洟をかんでは7分、
くしゃみをしては11分遅らせた。
これは、街のヒトみんなの迷惑のみならず、
僕たちが喧嘩をしていることを街中に知らせることも意味した。
今となっては無邪気な思い出だけれど、間違いなく言えるのは、
君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。

 春になると、僕たちはよく散歩に出かけた。
そうしてみると僕たちはそれなりに似合いのカップルだったと思う。
セーヌ河沿いも散歩したし、テムズ河沿いも、テベレ河沿いも、
ガンジス河沿いも、チグリスユーフラテス河沿いも、
黄河沿いも、多摩川沿いも。
君は気持ちのいい春の空気に触れると必ず僕の耳
に噛付いた。しかもちぎれるまでやめなかった。
ちぎった僕の耳をくわえる君の顔には残忍さなど微塵もなく、
むしろ愛情にあふれていて、僕はうれしかったけれど、
正直ちょっと痛かった。
もういちど耳が生えてくるまで2週間くらいかかったし。
今となっては無邪気な思い出だけれど、間違いなく言えるのは、
君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。

 春になると、とても悲しいことが起こる。
君の17歳の妹が死んだのだ。葬儀で妹のために自作の詩を読んだ君は
美しく気高かった。今回の神様の行いを咎める詩だった。
“神様、あなたはときどきまちがえる”というような題の。
美しい喪服姿の君は葬儀が終わると僕の手をぐいぐい引っ張って行った。
ある種興奮してる様子だったので、
僕のアタマの中には、エロスとタナトスとか
ジョルジュ・バタイユなどの単語が浮かんでいた。
立ち止まった瞬間、ヴィトゲンシュタインと耳元でささやかれると思っていたのだ。けれど、着いた先はなんの変哲もない中華料理屋。
僕がビールと餃子と焼きそばを食べてる間、君は、餃子8人前はじめ
店のメニュー全部平らげた。
“悲しいときがいちばんおなかがすくという真実を知ったわ”とか言いながら。
喪服をラー油だらけにして。
このできごとで、僕はますます君を好きになった。
今となっては無邪気な思い出だけれど、
間違いなく言えるのは、君が僕が出会った中で
飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。

 僕には君がわからなかった。
こうして墓の下にいるとますますそう思う。

そして最後の春、なぜ君は僕を殺したんだろう。
あの日、あの時刻、たまたま気温が殺人に最適の19.4度になったから。
君がほんとうは猫であることに僕が気付いたから。
セックスではなく死を前にした男の耳に、
ヴィトゲンシュタインとささやいてみたかったから。
この3つのどれかの理由にちがいないと僕は思う。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/  03-3478-3780 MMP

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古川裕也 2008年3月21日



僕には君がわからなかった

                 
ストーリー 古川裕也
出演  片岡孝太郎

春になると、君は僕の耳元で、突然ヴィトゲンシュタインと3回ささやいた。
何日かそれをくりかえすと、今度は、エイゼンシュテインと3回ささやいた。
その完璧にコントロールされた吐息の質と量に僕は君の思惑通り興奮した。と
いうか、僕が興奮するまで君はそれをやめなかった。やがて僕の方がそれを期
待するようにさえなった。ルビンシュタインとささやかれたら興奮するだろう
か。ストラヴィンスキーだとどんな感じだろうかと。今となっては無邪気な思
い出だけれど、間違いなく言えるのは、君が僕が出会った中で飛びぬけて不思
議な女の子だったということだ。

春になると、僕たちはよくけんかをした。細かいことはいちいち覚えていな
いけれど、いちばん深刻なけんかの原因は、確か、八重洲ブックセンターの5
色あるしおりのうち、ふたりがいちばん好きなムラサキ色が一枚しかなくて、
それを取り合ったことだと記憶している。今から考えてもお互い譲れない問題
だったと思う。とくにその本が長編小説である場合、それは読後感に決定的な
意味を持つ。ジョイスを読んでるのにトルストイを読んでるような感じになる
ことすらある。それはよくない。喧嘩の決着がつかないと、君は必ず街の時計
台のいちばん上に登って降りてこなかった。春とはいっても、そこは寒い。た
ぶん。君は、またたくまに風邪をひいた。咳をしては、その振動で時計を3分
遅らせ、洟をかんでは7分、くしゃみをしては11分遅らせた。これは、街のヒ
トみんなの迷惑のみならず、僕たちが喧嘩をしていることを街中に知らせるこ
とも意味した。今となっては無邪気な思い出だけれど、間違いなく言えるのは、
君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。

春になると、僕たちはよく散歩に出かけた。そうしてみると僕たちはそれな
りに似合いのカップルだったと思う。セーヌ河沿いも散歩したし、テムズ河沿
いも、テベレ河沿いも、ガンジス河沿いも、チグリスユーフラテス河沿いも、
黄河沿いも、多摩川沿いも。君は気持ちのいい春の空気に触れると必ず僕の耳
に噛付いた。しかもちぎれるまでやめなかった。ちぎった僕の耳をくわえる君
の顔には残忍さなど微塵もなく、むしろ愛情にあふれていて、僕はうれしかっ
たけれど、正直ちょっと痛かった。もういちど耳が生えてくるまで2週間くら
いかかったし。今となっては無邪気な思い出だけれど、間違いなく言えるのは、
君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。

 春になると、とても悲しいことが起こる。君の17歳の妹が死んだのだ。葬儀
で妹のために自作の詩を読んだ君は美しく気高かった。今回の神様の行いを咎
める詩だった。“神様、あなたはときどきまちがえる”というような題の。美し
い喪服姿の君は葬儀が終わると僕の手をぐいぐい引っ張って行った。ある種興
奮してる様子だったので、僕のアタマの中には、エロスとタナトスとかジョル
ジュ・バタイユなどの単語が浮かんでいた。立ち止まった瞬間、ヴィトゲンシ
ュタインと耳元でささやかれると思っていたのだ。けれど、着いた先はなんの
変哲もない中華料理屋。僕がビールと餃子と焼きそばを食べてる間、君は、餃
子8人前はじめ店のメニュー全部平らげた。“悲しいときがいちばんおなかがす
くという真実を知ったわ”とか言いながら。喪服をラー油だらけにして。この
できごとで、僕はますます君を好きになった。今となっては無邪気な思い出だ
けれど、間違いなく言えるのは、君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女
の子だったということだ。

僕には君がわからなかった。
こうして墓の下にいるとますますそう思う。

そして最後の春、なぜ君は僕を殺したんだろう。
あの日、あの時刻、たまたま気温が殺人に最適の19.4度になったから。
君がほんとうは猫であることに僕が気付いたから。
セックスではなく死を前にした男の耳に、
ヴィトゲンシュタインとささやいてみたかったから。
この3つのどれかの理由にちがいないと僕は思う。

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