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中山佐知子 2011年11月27日

1873年の夏

             ストーリー 中山佐知子
                出演 毬谷友子

1873年の夏、私はドイツの商船ロベルトソン号に乗っていた。
船は中国の福建省からオーストラリアに向かっており
その航路はひと言でいうならば「風まかせ」だった。
船長のエドヴァルドは夜な夜な星を眺めては
金星の輝きに感動するロマンティストだったので
たぶん風のささやきに耳を傾けたのだろう。

しかし、「風まかせ」は要するに迷走だった。
船はたびたび進路を変えた挙げ句、ついに台風に遭遇してしまったのだ。
船長のエドはドン・キホーテもかくばかりと暴風雨に挑んだ挙げ句
波を頭からかぶり、甲板に叩きつけられた。
起き上がったエドの顔は前歯が3本折れて上あごを貫いていた。
赤い髭には白い小さなものがぶら下がっていたが
よく見るとそれも折れた歯だった。
乗組員のひとりは波にさらわれて嵐の海に消えたし
もうひとりは足の骨を折って動けなくなっていた。
幸いにして船長のエドも他の男どもも
この船で唯一の女性である私を労働力とは見なしておらず
嵐の甲板に出てロープを結べと命じられることはなかったが
それは女性に対する敬意というよりは
彼らが頻繁に口にする悪態や雑言を私に聞かれないためだった。

船の被害は甚大だった。
マストが折れ舵も失った船はただ波に翻弄されていた。
すでに膝のあたりまで水に浸かっていたし
沈没を恐れて救命ボートを下ろそうとした乗組員は
手をはさまれて怪我をし、
肝心のボートも横波を受けて壊れてしまった。
船長のエドをはじめとする男どもは罰当たりな悪態をつきまくった。

そうして船は2日間荒れた海を漂い
ついにはミヤーク島の珊瑚礁に乗り上げて座礁した。
しかし我々にはまだ神のご加護があった。
すぐ近くにイギリスの軍艦カーリュー号がいたのだ。
船長のエドは神に感謝の祈りを捧げながら救助を待ちに待った。
しかし、カーリュー号のボートは高波に阻まれ
我々の救助をあっさり断念してしまった。

我々は希望もなく取り残された。
船長のエドは神をも恐れぬ呪いの言葉を吐きつづけた。
他の男どもも船長に習った。
それをカーリュー号が聞いたら大砲をこちらに向けるに違いなかった。
大砲を食らって沈むにしろ波に砕かれるにしろ
海の藻屑となるときが迫ったいま
私は神の御前で証言するためにすべての罵詈雑言を記憶にとどめた。

そのとき、ミヤーク島の浜辺にぽっと炎の色が見えた。
島の原住民が我々のために火を焚いてくれたのだ。
その焚火はひと晩中明るく輝き、
助ける意志のあることを我々に告げた。
船長のエドは歯の欠けた口で再び感謝の祈りを捧げたが
それは間違っていると思った。
ジパングのはずれの小島で原住民の助けを待つときは
彼らの神に感謝すべきではないだろうか。

夜が明けると、高波を突いて小舟がやってきた。
小舟には黄色い顔の原住民が乗っており
彼らは親切にも我々8名を救助したばかりか
手荷物や非常食、積み荷の一部も運び出してくれた。

ミヤーク島の浜辺に着いたとき
消え残った焚き火のまわりに黄色い人々の笑顔があった。
その笑顔は確かに我々の無事を喜んでくれていた。
ここ数日、暴力のような嵐と暴力のような言葉のなかで暮らしてきた私は
焚き火と笑顔がたとえようもなく美しいものに見えた。

出演者情報:毬谷友子 03-3352-1616 J.CLIP所属 

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古居利康 2011年11月23日

丘の上の未来  

         ストーリー 古居利康
            出演 山田キヌヲ

その日の午後、市役所から届いた葉書は、
団地の抽選に当選したことを告げていた。
倍率4倍とか5倍とかで、どうせ当たるわけがない、
と、最初からあきらめ半分で申し込んだ抽選だった。

だけど当たったんだ。
へぇぇ、あんたよく当たったねぇ。
なんだかひとごとみたいにそう思った。

団地、だんち、ダンチ。なんてステキな響きだろう。
私鉄沿線の新しい駅。郊外の丘の上。
真っ白な鉄筋コンクリート、5階建て。
キッチンにはちいさな食堂がついていて、
ベランダだってある。

いつものように、明るいうちに息子と銭湯へ行く。
番台のおばさんに、団地のことをしゃべってしまう。
あっという間に広まるな。
おばさん、町内のスピーカーだから。
でもかまわない。ほんとのことなんだから。

清潔な一番湯はさいしょ少しちくちくするけど、
すぐにほんわりとからだを包み込む。
傾いた陽の光が、高い窓から斜めに射し込んでいる。
天気のいい日の夕方は、東の空に鈍く輝きはじめる
気の早い星が、窓の向こうに見えたりもする。
天国にいちばん近い場所って、もしかしてここ。
だけど、団地はお風呂付きなんだ。
引っ越したら、もう銭湯には来れなくなる。
ちょっと残念・・。

そんなふうに考えているじぶんは、
かなり矛盾していると思う。

 おとうさんとおかあさん、
 おひっこしするのよ。
 おへやがみっつもある、ひろぉーいおうち。
 ろくじょうひとまから、だっしゅつだ!

息子はお湯のなかでうつらうつらしている。
半開きの瞼の奥で、黒目がゆっくり裏返っていく。

今日はごちそうをつくろう。団地当選のお祝いだ。
そうそう、お赤飯も炊かなくちゃ。
夫の大好物でもあるし、お赤飯。

夜、風呂敷に包んだ分厚い書類の束を抱えて
会社から帰ってきた夫が、
卓袱台の上に並んだ料理に驚いた。
葉書を見せたら、短い叫び声をあげて
すでに寝ていた息子を抱えあげ、
いきなり頬ずりをした。
伸びかけの髭が痛かったのか、
息子がわーんと泣き出した。

翌日、お隣の奥さんにご挨拶にいく。
このひとは、いつも息子の面倒を見てくれる、
やさしいひと。じぶんのことのように喜んでくれた。
お別れするのは寂しいな。
というより、少し後ろめたい。
去年の夏、お隣のご主人は北の戦場で亡くなった。
さいごの戦いと呼ばれる、あの激戦のさなか、
ご主人は勇敢に戦って、二度と戻ることはなかった。
いまひとりでこの六畳一間のアパートに暮らす奥さん。
ほんとうに団地に入るべきなのは、
このひとの方ではないか。

その週の日曜日、3人で団地の建設予定地へ行った。
建物はもうほとんどできていた。
白いコンクリートの壁に、24という数字が見えた。
わたしたちの24号棟だ。
道はまだ砂利道だった。アスファルトを敷くのは、
最後の仕上げらしい。道の両側に側溝だけ掘ってあった。

何もない丘だった。草っ原にポンポンポンと、
四角い建物がとつぜんふってわいたように建っている。
真ん中に高い塔がある。給水塔なんだそうだ。
塔を取り囲むように公園ができていて、
こどもの遊具もたくさんある。
遊動円木。雲梯。鉄棒。ブランコ。シーソー。
みんな真新しくて色鮮やか。

24号棟の裏手から、草ぼうぼうの空き地がつづいていた。
少しくだりかけた丘の中腹あたりに、火が見えた。
煙がまっすぐきれいに空に立ちのぼっている。
さっきからけむいなと思っていたら、
あの焚き火のせいだったのか。

「あれは人間だな」
夫がぽつんとつぶやいた。
「え?」
「人間は火が好きだ」
 なにかを燃やすことに、情熱を燃やしてきた。
 クククッ」
「人間って、あの人間?
 手が2本しかない。目も2つしかない、
 しっぽも生えてない、」
「うん。脳味噌の容積が、
 われわれの10分の1もない、
 かわいそうな生きもの・・」

夫はそう言って、4本の手をぐるぐる回し、
体操のようなことをした。
息子が真似して、まだ短くてかわいらしい
4本の手をぐるぐる回している。
「たった2本の手で、彼らはよく戦ったよ。
 彼らは火をもっていたから。
 われわれの側の犠牲者も少なくなかった。
 だけどさいごは、その火でみずからを
 焼き尽くした」

犠牲者・・。
そのなかにお隣のご主人もいる。
奥さんはやっぱり団地に入ってはいけない。
あのごみごみした港町のかたすみの、
六畳一間のアパートで、平穏に暮らしてほしい。

「ねぇ。なぜあんなところに人間がいるの?」
「あそこは人間の保護区なんだ」
「団地のこんなすぐそばに?なんかこわいな」
「だいじょうぶ。彼らは人間のなかでも
 いちばん最初に降伏した種族だ。
 おとなしいし、友好的だ。それに・・」
「それに?」
「全員、去勢されている。
 いまいる人間が死んだら、それで、
 ジ・エンドだ」

団地に描いていた未来の夢が、
急速に色褪せていくような気がした。
陽が傾いて、西の空が赤くなっていた。
東の空で最初に輝きだす緑色の星に向かって、
息子のしっぽがもぞもぞ動いた。

わたしたちと同じ、緑色の顔をした、この子。
わたしたちと同じ、緑色の血が、流れてる。
黒光りするつぶらな3つの瞳に、
わたしは語りかける。
大きくなったら話してあげるね。
あの星のこと。この星のこと。
わたしたちの親たち。長く厳しい戦争。

丘の中腹の火はもう消えかかっているのか、
弱い煙が一本の線になって、
ゆっくり立ちのぼっている。

出演者情報:山田キヌヲ 03-5728-6966 株式会社ノックアウト所属

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藤本宗将 2011年11月20日

リセット

         ストーリー 藤本宗将
            出演 大川泰樹

気がつくと5人は後ろ手に縛り上げられ、
膝をついて座らされていた。
暗いために彼らの表情までは読み取れないが、
長く伸びた頭髪はひどく乱れており
激しく抵抗したことを示していた。
しかし今はみな声を発することもできず、
ただ恨めしそうに襲撃者たちを見上げている。
自分たちがなにをしたというのだ。
深くくぼんだ眼窩の奥で、眼がそう訴えていた。
森の中から眩しい光とともに
突如現れた異形の集団は
見たこともない銀色の服を身にまとい、
見たこともない武器を肩からさげていた。
どうやって捕えられたのか、まさに一瞬の出来事だった。
「悪く思わないでくれ。
君たちに罪はないが仕方ないんだ」
銀色の連中のうち、
リーダー格とおぼしき1人がそう話しかけた。
しかしあくまでもその口調は、
相手との会話を望んでいるようには思えない
きわめて一方的なものだった。
判決理由を言い渡す裁判官のように、男は淡々と続ける。
「それのせいさ」
男は傍らの焚火のほうに視線を向けた。
表情は冷ややかなままだが、
瞳に映ったオレンジ色の炎がぎらりと光った。
「君たちが火を手に入れたことで、
人類は文明を飛躍的に発達させた。
しかしそれは人類自身を狂わせもした。
われわれとしては、
破滅を回避する必要があったんだ。
そのために、この時代へと送り込まれたんだよ。
もういちど進化をやり直せば、
違う道を歩むことができるかもしれないからね」
いったいなんなのだ?こいつはなにを言っている?
5人に理解することはできなかったが、
動物的本能が身の危険を告げていた。
縛られたまま必死で叫んだものの、
それは言葉にならない。
やがて5発の銃声がひびきわたると、
森はふたたび深い闇と静寂に包まれた。
そのままにされた焚火の残り火が、
あたりを弱々しく照らしていた。
1929 年に北京市房山区
ぼうさんく
周口店
しゅうこうてん
で発掘された
約78 万年前の人類は、考古学者によって
「ホモ・エレクトス・ペキネンシス」と名付けられ、
その周辺からは、ほぼ完全な頭蓋骨5個と
彼らが火を利用していたことを示す跡が発見された。
しかしその化石骨のすべては、
第二次世界大戦の混乱の中で忽然と消えてしまう。
まるで、もとより存在しなかったかのように。

出演者情報:大川泰樹 http://yasuki.seesaa.net/  03-3478-3780 MMP

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西島知宏 2011年11月13日



「あの日小さく燃えていたもの」

           ストーリー 西島知宏
             出演 遠藤守哉岩本幸子

女:私は、何も燃やしていなかった。
男:彼女は今日は、何を燃やしているんだろう。

(回想)
女:あれは確か、冬だった。初めてできた彼との想い出の品を、
  私は燃やしていた。
男:彼女と初めて会ったのは、冬。実家の2階から夜中に
  公園で焚き火をする少女を見つけた。

SE パチパチパチ(焚き火の音)

女:私は女子高生だった。
男:彼女はセーラー服だった。

女:しばらくして学ランを着た同世代らしき男の子が声をかけて来た。
男:夜中に公園で焚き火をする同世代の少女、心配になって声をかけた。

女「何を燃やしてるんですか?」(少し若く感じる声で)
男:確かそう声をかけた気がする。

女:振り向いた私は、泣いていて声が出せなかった。
男:振り向いた彼女は、泣いていた。

女:私の泣き顔を見た彼はそれ以上何も言わず、手紙や、想い出の写真が燃え終わるのを最後まで見ていた。
男:かける言葉が見つからず、ただ、声をかけた手前すぐに立ち去るのもどうか、と最後まで眺めていた。
女:燃え終わると私は何も言わずその場を立ち去った。
男:燃え終わると彼女は何も言わずに去って行った。

女:つぎ彼と会ったのは大学生の時だったろうか。
男:5年ぶりに見かけた彼女は少し大人っぽい化粧をしていた。
女:私はバイト先で知り合った彼の二股を知り、誰にも会わない隣町のあの公園で彼との想い出の品を燃やしていた。
男:彼女はまた、泣きながら色々なものを燃やしていた。

女:また失恋か、彼はそう思っていたのだろうか。
男:失恋の度にモノを燃やす子なのか、僕はそう思っていた。
女:彼は5年前と全く同じように、私の想い出が燃え終わるのを見ていた。
男:燃え終わるとまた、彼女は黙ってその場を後にした。
女:公園を出るとき一度振り返って彼を見た。
男:遠くで彼女が振り返った気がした。気のせいかもしれないけど。

女:そのつぎ彼と会ったのは私が最初の結婚に失敗した時だった。
男:彼女は手紙や写真と一緒に、高そうな毛皮を燃やしていた。
女:金持ちの男と結婚するのが幸せ、そう勘違いしてた。
男:彼女はお金持ちと結婚し、離婚したのだろうか。そう思っていた。
女:泣き虫なのは大人になっても変わらなかったな。
男:泣き顔は10代のあの時と同じだったな。
女:少し老けた彼は、あの時と同じように何も話さず私の隣にいてくれた。
男:それが僕たちのルールの様に感じられた。

女:それから何度か同じような事があった。
男:彼女とは一度も言葉を交わさなかった。
女:彼と会うのはいつも私の恋が終わった時。
男:彼女が公園に現れるのはいつも恋に破れた時。たぶん
女:あの人は誰なんだろう。
男:あの子は誰なんだろう。

女:ある時から30年程、私は公園に行かなくなった。
男:いつからか彼女を公園で見かける事はなくなった。
女:2度目の結婚で、私はさらに遠い所へ引っ越した。
男:その後、僕は結婚し、相変わらず公園の脇の家で家族と暮らしていた。

女:65歳の誕生日の3日前、私は2番目の夫を病気で亡くした。
男:65回目の冬、僕は25年近く連れそった妻を亡くした。

女:ある日ふと、彼を想い出した。
男:一人になってから窓の外を眺める事が多くなった。
女:泣く時にだけ行った公園。
男:泣き顔しか知らない彼女。
女:私は久しぶりにあの公園に行ってみたくなった。
男:彼女は今頃何をしてるんだろう。

女:失恋する度に来ていた公園。まだ残っていた。
男:ある夜、僕は老眼鏡越しに懐かしいものを目にした。

SE パチパチパチ(焚き火の音)

女:何も燃やしてはいなかった。こうやってるとまた横に来て、
  そっと佇んでくれる気がした。
男:後ろ姿の彼女。あの頃のように泣いているんだろうか。
女:ただ、黙ってそばにいてくれた彼。私は火の暖みに紛れ、
  彼の優しさを見つけられなかったのかもしれない。
男:思い切ってあの日と同じ言葉をかけてみた。

男「何を、燃やしているんですか?」
女「!」
男:肩の動きでハッと驚きを表した彼女が振り向いた。
  初めて涙のない彼女だった。
女「え?」
男「お久しぶりですね」
女「・・はい。その節はどうも」
男「それ、何燃やしてるんですか?」
女「あ、これ。・・何も」
男「何も(笑)?」
女「はい」
男「・・・」
女「あ、いや。燃やしてます。・・恋心?」
男「ふふふ。何ですかそれ(笑)」
女「あ、いや・・」
男「あったかいですね」
女「え」
男「あったかいですね、これ」
(少し間があって)
女「はい、とっても(噛み締めるように)」

SE:パチパチパチ(焚き火の日の音が少し大きくなる)

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/
      岩本幸子 劇団イキウメ http://www.ikiume.jp/index.html

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直川隆久 2011年11月6日



寒気(さむけ)

          ストーリー 直川隆久
             出演 森一馬

月灯りの下、森の中を4時間ばかりも歩き詰めに歩いた頃だろうか。
行く手に焚火らしい光を見つけた私は、やれ嬉しや、と
危うく大声をあげるところだった。
「西の森に入るのは昼より前に。狼と夜を迎えたくなければ」
――宿屋の主人の忠告をきかずに、市場で古書を漁ったのが災いし、
目指す城下町へ抜ける前に陽が沈んでしまった。
冬間近い夜の空気に、私の体温は容赦なく奪われていた。

 私が声をかけると、火の傍に座っていた男は、びくりとし、
かなりの時間黙っていたが、しばらくするとうなずくような様子を見せた。
見ると男は頭から毛布――といっても、ぼろぎれをつなぎあわせたようなものだったが――をかぶり、体を小刻みに震わせている。
熱病にでも罹っているのか、と私はひるんだが、
火の温かさの魅力には抗いがたかった。
 私は努めて快活に、同じ旅行者を見つけた喜びを伝えたが、
男の表情は毛布のせいで読み取れない。
一言も口をきかず、ときおり手を炎にかざし、擦り合わせているのみだった。

 男の手の奇妙な質感に目がとまった。
 炎が投げる光の前で男の手が動くと、青白いその手が一瞬黒く染まったかのような
色になり、かと思うとそれが退いていくのだ。小刻みに震える動きとあいまって、
何やら男の手の肌の上を、黒い波が這っているようにも見える。
――…は、本当に堪える。
 男の声で私は、我に帰った。声にまじった、何かひゅうひゅうと
空気が漏れるような音のせいで男の声が聞き取りにくい。
 ――失礼。今、なんとおっしゃいましたか。
 男は、しばらく息を整えている様子だった。
そして、もう一度がくがくと体を震わせた。
――この辺の寒さは、堪える。

 男が言葉の通じる相手だったことへの安心と炎のあたたかさから、
私は急に饒舌になり、夜の道中で望外の焚火を見つけた喜びを語り、
この旅の目的――私が私財を投じて研究している錬金術に関する文献が、
めざす城下町にあるらしいこと――を語ってきかせた。
 すると不意に男が、ではお前は、呪いを使うのか。と私に問うた。
 私は、いや、そうではないと答えた。呪術と、連金術は別のものである。
錬金術は、物質の持つ性質を理解し操作することであり、
その術は精霊や土俗の神といったものによって媒介されるものではないのだ、
とも。
 では、呪いがあることは信じるか、とさらに男は問うた。
 私は、信じない、と答えた。
 
しばらくの沈黙ののち男は話柄を転じ、ぽつりぽつりと身の上話を語り始めた。
 農村で食い詰め、昨年の冬、宿場街に仕事を求めて出てきたが、ろくな金にはならず、寝床も満足に確保できなかったという。一枚の毛布さえ買う金がなく、
なるべく風の通らない場所を夜毎探して体を丸めていた、
と男は一言一言、ゆっくりと、苦いものを吐き出すように話した。
 私は、ポケットの中に隠し持っていた革袋の葡萄酒を男に勧めた。
だが、男はかぶりを振って断った。
ある晩男は、寒さがどうにも耐えられなくなり、毛布がほしさに、
宿屋の裏庭の納屋を借りて住む貧しい洗濯女の家に忍び込んだのだと語った。
寝床を漁っていたときに、女が帰ってきた。女が騒ぎ出したので、
口を封じるために首に手をかけた。というところまで語ると、
男は、いったん言葉を切った。断末魔で男をにらむ女の口が、異教の神の名前を唱えた、と。そして、歯をむいたその顔が、まるで犬のようだったと、
何やら可笑しそうな口調で言った。
 男は、話しすぎたせいか疲れ切った様子で、しばらく肩を上下させた。
ひゅうひゅうという音が一段と高くなった。
毛布の奥から、男が私の表情をうかがっているのが見えた。
無言の私に、再び男が問うた。呪いというものを信じるか、と。
 男は、不意に、頭の毛布をまくった。あらわになったその顔の肌は、
錐の先で穿ったほどのうつろでびっしりと覆われていた。
その数は、何千、いや何万だろうか。
光の向きの加減ではその穴がすべて漆黒の点となり、男の肌を覆うのだった。
そして、肉を穿った穴の奥まで光が届けば、その底に白い骨と血管が寒々と見えた。
私は、首筋が粟立つのを感じた。女が唱えたのは、神の名ではなかったのだろう。
それはおそらく――

おお、寒い。畜生。体の芯まで冷え切る――
そう言って男は再び毛布の中へ全身をひっこめ、力のない笑い声をあげたが、
その声は、空気の漏れるしゅうという音に飲み込まれた。
 

出演者情報:森一馬 03-5571-0038 大沢事務所

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中山佐知子 2011年10月30日



ネジキのある庭で

             ストーリー 中山佐知子
                出演 向井薫

ネジキのある庭で
ネジキを捨てて出て行った人のことを思う。

ネジキはねじれて育つ。
そのねじれこそがネジキの存在感だ。
ねじれた木だからネジキ
というその名前は
カタチをあらわすと同時に強さをもあらわしている。

ネジキの葉はありきたりで花も小さく
秋の紅葉が美しいという話もきいたことがない。
山に植えても材木にならず
薪にこなそうとしても斧の刃を拒むので
人の役に立つということがなかったし
むかし、ネジキの葉を食べた馬が中毒したことがあってからは
たいして人に好かれることもなかった。

それでもネジキの値打ちは秋の葉が全部落ちた後にあった。
ねじれた幹から伸びる枝の先が赤くなり
赤い枝にはさらに赤い新芽がついて
冬枯れた庭で鮮烈な印象を残すのだ。

その姿をながめるために
若いネジキを1本、わざわざ庭に植えたのではなかったか。
赤い芽から緑の葉の出る不思議を
面白がっていたのではなかったか。

朝に夕に眺めていたネジキから
ふと目をそらしてあの人は行ってしまったが
そういえばネジキの悪口はひと言もいわなかった。

飽きたわけでもなく、嫌いになったわけでもなく
書き損じた紙を捨てるようにただ捨てられる。
ネジキはそんな木だったのだろうか。

そんなはずはないと思う。
ネジキを捨てた人はネジキから逃げたのだ。
ネジキの強さから逃げたのだ。

ネジキのある庭でふっと笑いがこみあげる。
自分はいま
いやな笑いかたをした、と思った。

出演者情報:向井薫

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