直川隆久 2020年9月20日「蛙と月」

蛙と月

         ストーリー 直川隆久
            出演 遠藤守哉

真夜中、深い穴の底の水面に白い光が忽然と現れ、
蛙はまぶしげに眼をほそめる。
取り囲む岩壁に前足をつき、一年前にしたのと同じように見上げる。
はるか頭上、もうひとつの光があった。
北回帰線上にあるこの地では、年に一度、満月が天頂で南中する。
その夜にだけは、垂直上方からの光が穴の底部にまで届くのだ。

記憶の限り、蛙は生まれてよりずっと、
この細長い穴の底、溜水のほとりに棲んでいる。
よどんだ水に潜れば虫の卵やら藻やら、食うものには事欠かない。

以前には、一匹の仲間がいた。
一年前、頭上にあの光があらわれた夜、仲間は、
ああ、ああ、と嘆息を重ねた末に、もう耐えきれぬ、と声を漏らした。
――見たか、あの光を。
――ああ。
――ああ?あれを見てなにも感じないのか。ここまで来いと誘うあの光を見て。
ここにあるのと同じだろう、なにが違う、と蛙は水面の光をさしていう。
仲間の蛙はかぶりを振り、おまえはわかっていない、と言った。
――これは、幻にすぎない。
――幻?
――おれは外にでる。導きの光に従って。
蛙には、相手の言葉の意味は皆目わからなかった。
ただ、そうか、とだけ言い、岩をよじのぼる仲間を見送った。
夜を徹して遂行された慎重な登攀のすえ、仲間は穴の淵にたどりついた。
いよいよ外へでようというとき、舞い降りた一羽の黒い鳥が、
仲間をかぎ爪で捕らえた。
鉤爪に握りつぶされた仲間の腸の内容物が降り落ち、
水面の丸い光が小刻みに揺れ、じきに元に戻った。
蛙は、1年前のその夜のことを思い出しながら、目の前の水をぺろりと舐めた。

日が過ぎた。
穴の底の空気の温度も、徐々に高まっていく。
蛙はある日水に潜り、おや、と思った。足がやけに頻繁に底の砂に触れる。
水が浅くなっているのだ。
そういえば、以前なら毎夕のように頭上から降り注いだ雨がここしばらくなく、
岩壁に生える苔も、徐々に生気を失っている。
今までなかったことだ。
空気が乾き、蛙は、ひりつく表皮を冷まそうと頻繁に水の中で過ごすようになったが、かつては縦横に泳ぎ回れるほどに豊かだった水が、
今は、蛙の鼻先あたりをようやく隠すほどの深さしかない。
じりじりと皮膚が乾いていく感触に意識をむけず、
ひたすら眼を瞑(つむ)り、時が過ぎゆくのを待った。

どれだけの日夜が繰り返されたろうか。
体が届く範囲の苔も虫の卵もとうに食いつくしていた。
食い物を求めるなら、動かねばならない。だが、動けば、消耗する。
動けぬまま、さらに、幾十という昼と夜が過ぎた。
雨への期待が裏切られた数を数えることにも、もはや蛙は倦み疲れてしまった。

ある夜、森の鳥たちの声を遠くに聞きながら、
蛙は、年に一度だけ現れるあの丸い光を思い出していた。
この穴の底には存在しえない完璧な輪郭をもった光。
どんな鳥も、虫も、あの光の向こう側を飛んだのを見たことがないほどの、
遠く、遠く、からの光。けして触れることのできない、
手をかざしても温度を感じない、冷たい光。

記憶の中のその光を、蛙は初めて「美しい」と思った。
それはただ遠いだけでなく、「美しい」ものだった。
その感慨は、蛙をある洞察に導いた。
鳥に食われた「仲間」にとって、あの光をめざすことは、
重力に逆らう方向へと身を動かすこと以上の意味があったのだ。
外にしかないものが、ある。
外にでれば、あの美しい光はひょっとすると、年に1度だけでなく、
もっと頻繁に下界を照らしているのかもしれない。
いや、ひょっとすると、あの光以上に美しいものが、
外にはあるのかもしれなかった。そのことに、蛙は初めて思い至った。

不意に、蛙は、今まで感じたことのない恐怖を覚えた。
自分はこの穴の底以外の場所を知らぬままに死ぬ。
この世界の何も。知らない。ままに。
その事実が、圧倒的な重みをもって蛙の意識にのしかかってきた。

蛙は、岩壁にとりつこうとした。
しかしもはや前足は萎え切っており、自分の体をもちあげることは叶わない。
蛙は、観念した。
そして、乾いた砂の上に、身を横たえた。

また幾日か過ぎた。
蛙の表皮はすっかり水分を失い、
身動きすればぱりぱりと音をたてて剥落しそうであった。
混濁した意識の中で、蛙は、音を聞いた。
ぶぶ、ぶぶ。という断続的な空気の振動が蛙の顔をなぜる。
蠅だ。蠅が、蛙の頭上をさきほどから旋回している。
蛙が死んだら、その肉に卵をうみつけてやろうと、
機会をうかがっているのだろう。

思えば、つまらぬ一生であった。
穴の底で、食い、排泄しただけの一生。
そこに思いが至らぬうちに死んでいれば、むしろよかったのかもしれない。
蛙は、自分を余計な洞察へと導いたあの光を、呪った。

だが、と蛙は思った。
たとえば、自分の肉を、他の命に与えれば。
今、頭上を物欲しげな顔で旋回する蠅に、自らを提供すれば、
蛙の命は、別の形で受け継がれていくともいえる。
蠅の命と同化して、蛙は、この穴の外へと飛び出、
世界を見ることができるのかもしれない。

それも、よい。

そう思い、蛙は、瞑目した。
ぐったりと体の力が抜けた。
その様子を隔たった空間から見ていた蠅が、蛙の体にむけて降下する。

と、そのとき、蛙の身がばねのように跳ね上がり、蠅をぱくりと口で捕らえた。
ぐび、と喉の筋肉が動き、蠅は、断末魔の羽音をたてる暇もなく
胃袋の中へひきずりこまれる。
蛙の内臓はそれ自体が一個の生き物のように、消化液を噴き出しながら
蠅の体をしめあげ、粉砕する。
溶かされた蠅が、蛙の肉体にゆっくりとしみこんでいく。

ああ、勝手に体が生きたがっている。
蛙はうずくまり、荒い息をしながら、自嘲の笑いを漏らす。
かすかな命が、蛙の中でともる。
だが、いつまでその火がもつものか、蛙には見当がつかなかった。
ただ、このまま時をすごせば、いずれ消える火であることは確かであった。
蛙は、頭上を見た。
頭上にあいた穴が、青い空を切り取っていた。

蛙は、意を決して、弱々しく前足を持ち上げる。
ひからびた水かきが、乾いた岩壁を掴もうと震え、さまよう。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

Tagged: , , ,   |  2 Comments ページトップへ