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直川隆久 2016年3月20日

naokawa

卯吉と春

      ストーリー 直川隆久
         出演 遠藤守哉

大工の卯吉が二十歳の度胸試しやというて、
辰兄さん、背中に鯉と桜吹雪を彫ってくんなはれと頼みにきた。
長くかかるぞと念おしてから幾十日かけて筋彫、
色入れ済ませ、ぼかしの終わった日から
三四日がところ床に臥せったままうんうんいうておったようやが、
五日目にはけろりとして、
兄さん、ちょいとでかけまひょいなと誘うてきた。
おなごに見したりまんね、とにたにた笑う。
この卯吉の情婦は川沿いの一膳飯屋の女将。
四十越えた年増で、名はお春という。
いや、卯吉っつぁん、立派にならはったやないの。
男にならはったやないの。と、
もろ肌脱いだ卯吉の背中をぺちゃぺちゃたたく。
桜は、春の花やからな、と卯吉が言えば、
いやんそれひょっとしてうちのことかいな嬉しい、と
お春が総身を舌のようにして卯吉の背中にしなだれかかる。
辰兄さんは日の本一の彫り師やで、と大きな声をだす卯吉に、
彫られる人の我慢なければ、彫り師の商売も上がったりやんか、
ほんまにえらい我慢しなはった、男の鑑、とお春も言うて卯吉、上機嫌。
青二才の扱いは芋の煮炊きより容易いものとみえ、
一月ばかりすると、のれんが新しうなって
「おはる」の名の入った提灯が軒に下がった。
実を申せばこの儂もお春に男にしてもろうた口で、
若気の至りで随分と執着もした。
とはいえその手の男は、界隈に片手できかぬ数。
このまま、若いながら腕の評判は確かな卯吉と所帯を持ってくれれば、
なんとやらこちらも負い目なくお春の店に行ける。
さて、どれだけの男が知っておるかは知らんが、
お春の体にも彫物がある。儂が彫った。
お春のところに通うていた頃に、
たっての望みというので内腿に彫ったのが「辰 命」という文字。
あの二文字を見ては、卯吉も心おだやかならじというもので、
お春の店に一人で行ったおり、
あの彫物は卯吉に見せんほうがよかろうと儂が言うと、
はて、なんのことですかいな。とお春はいう。
なんのことて、あの彫物のことよ、と儂がいうと、
へえ、どこにそんなものがありますかいな、五十銭、おおきに、と
こちらに背をむけて台所に引っ込みよったので、儂も店を追い出された形。
その晩お春が儂の家を訪ねてきた。
内腿のあの「辰」の字を黒い兎で隠してくれとの頼み。
花嫁衣装がわりの「卯」命という符牒、
よほど卯吉に入れあげておるのであろうと得心して、
あいわかったと請け合うた。
店を閉もうてからの真夜中に幾晩も通うてきて、
蝋燭の下、お春に墨を入れてゆく。
なんべんやっても痛いもんやなとお春は、額に汗を光らせておったが、
よう耐えた。
とうとう辰の字を黒兎で覆い隠した。
今日が最後という日、代はいらんぞ、祝いがわりやというたら、
へえ、そらまたおおきに、とだけいうてお春は出て行きよった。
端午の節供の少し後に卯吉とお春は祝言を挙げた。
お春の店の屋号は「うさぎ屋」に変わった。

出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/


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田中真輝 2016年3月13日

tanaka

「葉桜」

        ストーリー 田中真輝
           出演 清水理沙

あなたは、桜が好きな人でした。
それも満開の桜ではなくて、花もあらかた散ってしまって、
若葉が出始めたような中途半端な桜。

ほら花が咲いた、ほら散ったと、かしましい人々を見下ろしながら、
桜は淡々と、しかし力強く命のサイクルを進めていく。
そんな桜の命の営みが見えるような、若葉の頃が好きなんだと、
あなたは言いましたね。
そんなあなたがいなくなって、もう何度目の春でしょう。
数えることも、もうやめてしまいました。

あの狂乱の日々のしばらくあと、あなたが行ってしまう前に、
最後に二人で見上げた葉桜を、わたしは今、一人で見上げています。
あなたのことを想いながら。

あれが起きたのはもう大昔のこと。
日本語では「技術的特異点」というのだと、あなたはわたしに教えてくれました。
「シンギュラリティ」。それは有史以来の人間の日々の延長線上に、
突如としてやってきました。まるで桜が満開になるように。
その日、コンピューターの知性は、ついに私たちの限界を越え、
そして一気に抜き去りました。
そこからは一気呵成。気がつけば、それはもう私達には理解の及ばない、
謎めいた存在になっていました。
神という人もいました。悪魔と言う人もいました。
人々の熱狂と混乱を見下ろしながら、それはやがて人間に静かに告げました。
あなたたちに永遠の命をあげましょう。
あとは好きなように生きればいい。
かつてコンピューターだったものは、今や人間のすべての情報を電子化し、
電子の世界で生かすことができるようになったと語りました。
そこには病気も死も別れも苦しみもないのだと。
究極の自由がそこにあるのだと、はがねの口で語りました。
はじめ、人々は懐疑的でしたが、死を直前に迎えた人々が
そちらの世界に移住し、そこにある自由と解放を語るに至って、
多くの人々が雪崩を打って電子の世界へと旅立っていきました。
こちらの世界に残った人々は、変人とみなされるようになりました。

あの春の日、家族とともに旅立つことに決めたわたしに、
あなたは言いましたね、
永遠に生きるなんてまっぴらだ。
僕は命の営みを手放したくない、たとえそれが死の苦しみに
彩られているとしても、と。
あなたは頑なでした。

そしてわたしは今、この箱庭のような世界で永遠に生き続けています。
いつ、どこ、といった概念を失って、
人々は、生きることの意味も失ってしまったようにもみえます。
皮肉なものですね。どれだけ生きてもいいと言われて、
生きる意味を失ってしまうなんて。
最近では、長い長い眠りに旅立つ人が増えていると聞きました。
それはもはや死と何が違うのでしょう。
死から解放されたはずなのに、死を望む。人間はほんとうに
ままならない生き物ですね。

近頃ずっと、わたしは、あなたと別れた17歳の姿で、
ここで散り続ける桜を眺めています。もうどのくらいここに
いるのかもわからなくなりました。

あなた。今、あなたがいるところにも桜は咲きますか。
あなたが好きだった、中途半端な葉桜がありますか。
あなたのいる場所と、わたしがいる場所は、
似ているような気がします。
そう、すぐそばに、あなたを感じることがあるんですよ。
そんな瞬間が恋しくて、わたしはここで、散り続ける桜を
眺め続けています。いつまでも、いつまでも。

出演者情報:清水理沙 アクセント所属:http://aksent.co.jp/blog/


  

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小山佳奈 2016年3月6日

koyama

「桜の季節のとある話」

   ストーリー 小山佳奈
      出演 藤谷みき

王様は困惑していた。
王様には生き別れた双子の弟がいる。
皇太后、つまりは、自分の母親が、
死ぬ間際に王様を一人、部屋に招き入れ、
泣きながらそう告白した。
この国の古くからの言い伝えで、
双子はその家に災厄をもたらすもの、
特に王族でそれは禁忌に近く、
双子は生まれた瞬間に片方だけ野に放り出されるのが常だった。
母親はそれがどうしてもどうしても嫌で、
出産の狂乱状態の中で乳母たちに懇願し、
極秘で母親の郷里近くの村の老夫婦に引き取ってもらったという。
王様はその弟の行方を調べに調べさせ、
ようやくその居場所を突き止めた家来の報告をいま聞いている。
「我が弟はどこにいる」
「は。はるか遠く東の果ての小さな島国におられます」
「かわいそうに。して、その地で何をしておる」
「ユーチューバーになっています」
「え?今何って言ったの?」
「ユーチューバーです」
「チューバ?楽団員か?」
「いやユーチューブに動画をあげてPVでお金を稼ぐ人たちです」
「全然わかんないんだけど、それは素敵な仕事なの?」
「はい、若者を中心にとても人気があります。見てみますか?」
「うん」
王様は家来が開いたパソコンをじっと見ていた。
「っていうか、そもそもこの銀のまな板みたいなものは何?」
「これは説明しだすと長くなるので後で」
そこでは、桜の木の枝を頭につけた裸のおじさんが、
炭酸を一気飲みして鼻から吐いたり、
はちみつを全身に塗って蜂の巣に突進したりしていた。
「こんな拷問のようなことが金になるのか?」
「はい。少なくとも我が国の国家予算は軽く超えるほど稼いでいます」
「えー」
「しかもアカウント名がですね」
「え、何?」
「要は名前がですね、”キングスブラザー”っていうんです」
「どういうこと?」
「つまり、この弟さんは自分が王様の弟であるということを知ってるんです」
王様は困惑した。
王様の描いていたシナリオは、
異国の地で頼るべき身寄りもなく辛酸をなめているであろう弟を、
ある日突然迎えに行き「弟よ」とこの手に抱きしめ、
何も知らずに驚く弟を国に連れて帰り、
王族として盛大に迎え入れるというもので、
なんなら相応の婚姻も用意しようと思っていた。
「結婚はしているの?」
「えぇ、インスタグラマーと結婚しています」
「え?何?」
「一応ネット上でメッセージを送ってみたんですけど
 ”元気にしてるんで、構わないでください。
  それよりそっちもがんばってチョリス”って」
王様はもはや聞き返す気力もなかった。

出演者情報:藤谷みき http://ameblo.jp/knockonwood/

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中山佐知子 2016年2月28日

1602nakayama5

フキノトウを食べたい

     ストーリー 中山佐知子
        出演 大川泰樹

暦が春になると
川べりに積もった雪に小さな穴ができる。
その穴に手を入れてそっと雪を掻き分けると
フキノトウが見つかった。
芽を出したばかりの固い蕾のフキノトウ。
母はそれを台所に持っていき
茹でて刻んで味噌と突き混ぜて食膳にのぼせた。
そうだ、あのフキノトウを食べたい。

雪の穴が少し大きくなると、耳を近づけてみる。
囁くような水音が聞こえた。
ああ、雪が溶けている。
雪解けは雪の底から始まるのだ。
フキノトウの呼吸が雪を溶かすのだ。
それは景色であり、音楽であり、詩でもあった。
思えば、あのフキノトウをもう一度食べたい。

17歳で船に乗り、大陸に渡って長安の都に来た。
試験に受かって官僚になり、皇帝に仕えた。
長安の都には遥か西からも南からも人と文化が集まってくる。
そこは世界最大の国際都市だった。
まるで竜宮城にいるような数年が過ぎた。
詩人の李白くんと友だちになった。
それにしても、あのフキノトウを食べたい。

ある日、皇帝から帰国のお許しが出た。
しかし日本へ向かう船は嵐に遭って遭難し、
遥かベトナムまで流されてしまった。
詩人の李白くんは私が死んだと思って七言絶句の詩を詠んだ。
3年かかって再び長安の都に帰りついたとき、
皇帝は私の身を案じて
二度と日本に帰ろうとするなとお命じになった。
しかし、あのフキノトウを本当に食べたい。

長安の都に骨を埋めることになっても
あのフキノトウをもう一度食べたい。

皇帝の宴会料理はときとして100に及ぶ。
世界から集まってくる山海の珍味。
そしてエキゾチックなスパイスの数々。
この国の文化は壮大で豪華だ。
この国の人々は春の盛りを愛し、花ならば満開を愛し
満足の上に満足を重ねる。
それでも私はあのフキノトウを食べたい。

凍てつく寒さがほんの少し緩んだ頃に
雪をかき分けて探す、
あの親指の先ほどのちっぽけな春の芽生えを
もう一度手にしてみたい。

天の原、ふりさけ見れば 春日なる…
フキノトウを食べたい。

出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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直川隆久 2016年2月21日

1602naokawa

ふきのとう

    ストーリー 直川隆久
       出演 吉川純広遠藤守哉

大学生活最後の春休み。
K先輩が、大学5年間を過ごした世田谷代田の部屋を引き払い、
練馬のさる機械メーカーの独身寮へ引っ越すことになり、その手伝いに呼ばれた。
先輩のアパートに出向いて2階にあがると、目指す部屋の引き戸は半開きだった。
タバコのにおいがする。中を覗くと、先輩は壁に向かって座り込んでいた。
壁を雑巾で一心にこすっている。
「先輩」
「おお、来てくれたか」
「なにしてはるんですか」
「煙草のヤニ落としてんねや」
 見ると、たしかに、先輩がこすっている周囲だけ壁が白い。
「そんなこと、せなあかんのですか」
「いや、まあ、せんでもええねやけどな。
 ひょっとしたら、敷金の引かれ方が違うかもしれんから」というと
また先輩は、黙々と壁をこすりはじめた。
俺もしょうことなしに手伝うことにした。
えらいもので、こすった分だけ壁の元の色があらわになる。
ものすごい主張をともなう白い丸が、忽然と現れる。目立つ。
これはむしろ何もしないほうがよいのでは、とも思ったが、
顔を真っ赤にして壁をこすりつづける先輩を見ると、言う気も失せた。

作業は遅々としてすすまず、
30分かけても、清浄なスペースはせいぜい下敷き一枚分くらいしか広がらない。
「あかん。やめや。しんどい」
そうつぶやくと先輩は、雑巾を放り出してしまった。
そして煙草に火をつけると、ぼんやりとした顔で壁を見つめる。
「ええんですか」
「ええわ。どうせ敷金なんか返ってけえへんねやろ」
くわえっぱなしのマイルドセブンの先っぽから、ぼたりと灰が畳に落ちた。
この人はこういう具合に、雑に人生をやり過ごしてきたんだろうなと、あらためて思う。
ぼく以外にはゼミの人間は誰も手伝いにこんのですか、と言いかけてやめた。

先輩は、本当は出版社に就職したがっていた。
でも、坂口安吾がいくら好きで全集を借金してまで買ったとはいっても、
それだけで就職できるほど、出版業界は甘くない。
同時代のベストセラーを小馬鹿にしながら
さりとて文学についての該博な知識があるわけでもない先輩の底の浅さは、
おそらく就職活動先の社員にはお見通しだっただろうと思う。
ちなみに、全集を買う金は、いくばくかおれも貸し、結局返ってこなかった。

大家さんに借りた軽トラックを先輩が運転し、寮に乗り付ける。
3階建ての古い建物で、エレベーターはない。
すると先輩は「あ、ポケベルが」とだけ言って、出て行ってしまった。
公衆電話なら、寮内にもあったはずだが。
一人残されたおれは、荷台の段ボールを手でおろし、運ぶ。
都合20回も往復したあたりで、先輩が戻ってきた。
疲労の極みで最後の箱を運びこむと、
先輩は「いやお疲れさんお疲れさん。茶でも飲むか」と大きな声で言い
「寮生用の食堂があるんや」と続けた。
一階に降りると、なるほど50人ほど入れるホールがあった。
いまどきこれだけの設備をもっているなら立派な会社といえる。
しんと寒い。
空気の底に、干物やら、ハンバーグやら、卵焼きやら、味噌汁やら、
柴漬けやら、ナポリタンやら、いろんなおかずの残り香が折り重なって淀んでいた。
平日の昼間のこととてテーブルにも厨房にも誰もいなかったが、
先輩は勝手知ったるといわんばかりに、
備え付けの給湯器から茶をそそいでおれにさしだした。
「来月から、毎朝ここで朝飯を食うのか」と先輩はぼそりと言った。「信じられんな。今でも」
先輩が、くしゃみを一つした。
ホールの冷え切った壁や床に、短い残響が残った。
「そういうたら、お前は優文堂にうかったんやったな」と先輩がこちらをむかずに言った。
「はい。ま、あそこしか拾(ひろ)てくれませんでしたんで」
「ええやないか。おれもあの会社は、ええ本だしてると思う」
その出版社の就職面接で、おれと先輩は、顔を合わせていた。
おれは通り、先輩は落ちたのだ。
「やっぱり留年がひびいたんかな。おまえは現役やからな」
と先輩が不服そうな顔でつぶやいた。
いや、問題はそこやないでしょうね、とおれは思ったが
「どうでしょうね」とだけ言った。
味のない茶を飲み干すと、おれは、先輩に挨拶して寮を去った。
引き止めるかな、と思ったが、先輩は引き止めなかった。

4、5日後。
先輩から小さい段ボール箱が届いた。
開ける。と、「おれは植物だ」という濃厚な主張を伴った匂いが鼻に襲い掛かった。
生のふきのとう。数えると36個あった。その上に、メモ用紙が一枚。
「このあいだは礼も至らず失敬。実家より送ってきたふきのとう、おわけします」とある。
改めて箱を見ると、宛先が先輩の名になった伝票を剥がしもしていないのがわかった。
察しがついた。
実家から届いたふきのとうを一目見て、処置がめんどうだと思った先輩は、
そのまま伝票を剥がしもせずに後輩に送りつけて厄介払いすることにしたのだろう。
それでさらに感謝でもされればもうけものだ、と。
雑だ。
この人のこういうところはたぶん、一生治らないのだろうなと思った。

優文堂での面接の日、待合室にはおれのほうが先に着いていた。
開始時間ぎりぎりにやってきた先輩はおれをみつけると
「お」という口の形になって、目元を緩ませながらおれに近づいてき、
ひそひそと囁いた。
「優文堂の最近の一番のヒットってなんやったかいな。面接でその話題になるかもしれんやろ」
と訊いた。おれは
「『清貧の思想・実践マニュアル』やないですか」と答えた。
嘘だった。

ふきのとうの天ぷらというものは知っていたが、揚げ物なんてしたことがないし、
そんな大量の油も後の処置に困る。
とりあえず電子レンジで蒸してマヨネーズで食ってみたが、
アクがひどく、食うのに難渋した。よほど捨てようとも思ったが、
それはすまいと思った。それを食い切ることが最後の務めのように思えたのだ。
3日ほどかかって、なんとか全てのふきのとうを腹に入れた。
そして、手帳に控えていた先輩のアパートの電話番号に線を入れた。
 
それ以来、K先輩とは連絡をとっていない。

出演者情報:吉川純広 ホリプロ http://www.horipro.co.jp/
      遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/


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篠原誠 2016年2月14日

1602shinohara

最後の質問

     ストーリー 篠原誠
        出演 吉川純広

別に嫌いになったわけじゃない。
かといって時間を一緒に過ごせるほどの気持ちも今やない。
そんな理由で、僕は彼女と別れることにした。

僕の突然の別れ話を
彼女は、ずっと前から知っていたことのように受け止めた。
泣くこともなかったし、拒否することもなかった。
けれど、別れ際に彼女は、こうつぶやいた。

「一つだけ、最後の質問があるの」

最後の質問?

「フキノトウって食べたことある?」

そう彼女の声は発した。
フキノトウ。フキノトウって、ツクシとかの、フキノトウ?
僕は、彼女に聞き返した。

「そうよ。私、ツクシは食べたことあるんだけど、
 フキノトウは、食べたことなくて」

僕も食べたことはなかった。少し苦みがあるという話を
聞いたことはあったのだけど、
僕はフキノトウもツクシも食べたことがない。と答えた。

「私、ツクシは食べたことあるんだけどなぁ」

彼女は僕の答えに、落胆するでもなく、喜ぶでもなく、
ただただ無表情だった。

フキノトウと僕たちに何か関係があるのだろうか。
なんでそんな質問をするの?と僕が言うと、
彼女は「ダメだよ、さっきのが最後の質問なんだから」
と杓子定規に答えた。

「今度、フキノトウ食べてみようかな」

彼女がそういった時、少しだけ微笑んだように見えた。
それは、5年間つきあってきた中で見たこともない顔だった。
フキノトウ…。フキノトウ…。デクノボウ…。
関係ないか。
それとも、春ということか?
春がなんだというんだ。
僕たちが付き合い始めたのは夏だったし、彼女の誕生日は秋だ。
春なんて関係ない。
フキノトウ…。フキノトウ…。オメデトウ…。
関係ないな。ほんの数秒そんな風に考えていたら、
彼女はすくっと立ち上がった。

「じゅあね、フクシくん」

そういって彼女は人がたくさんいる駅の方へ
歩いていった。フクシくんが、ツクシくんに聞こえた気がした。
彼女は、人ごみに消えるまで、一度も僕の方を
振り返らなかった。彼女の背中に羽が生えているように見えた。

出演者情報:吉川純広 ホリプロ http://www.horipro.co.jp/

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