川野康之 2017年5月7日

170507kawano

ボタン

     ストーリー 川野康之
       出演 石橋けい大川泰樹

(女)
目が覚めて、いつものようにボタンを押そうとして、
その手が少し止まった。
コンマ何秒かだけど、押すのが遅れた。

おはよう。カーテンあけるで。うほーまぶしい!

そう言って彼は快活にベッドから飛び起きたけど。
気がついたはずだ。わたしが少しの時間、
彼のボタンを押すのをためらったことを。
彼のセンサーはちょっとした変化も見逃さない。
今は台所でトーストを焼きながら、
わたしの心の中に起きた小さな変化について考えているだろう。

わたしの顔を覆っていたふとんがはがされた。
まぶしい。閉じていたまぶたを少しずつ開ける。
目の前10センチのところに彼の目があった。

いつまで寝てるねん。
ほら、起きて。
目玉焼きできたで。
ええ匂いしてるやろ。

彼と暮らし始めてから3か月になる。
毎朝彼はわたしに目玉焼きを作ってくれる。
だんだんわたし好みの味になってきた。
彼の芸人のような関西弁が気に入っていた。
朝食を食べ終わると、わたしはお化粧を始め、彼は新聞を広げる。
記事を読みながら、一つ一つにつっこみを入れてくれる。
わたしが笑うたび、その反応は彼のデータベースにインプットされていき、
一日ごとにおもしろさの精度が上がっていく。
マンションの玄関を出てふりかえると、彼が窓から見送っていた。
わたしと目が合うと、彼は指をひらひらさせて、笑う。
最高の笑顔だ。
わたしのつぼをちゃんと知っている。
なんだろう、この気持ちのよすぎる息苦しさは。

別の朝。
彼は眠っている。
ボタンを押さなければ起動することはないのだ、と
心の中で自分に言いきかせる。
わたしは指を伸ばして、彼のボタンを押した。

朝ごはんを食べているとき、
ときおり彼がじっとわたしを見つめているのに気がついていた。
わたしの一挙手一投足に注意を配っている。
いつものように新聞の記事を読み、いつものようにつっこみを入れるが、
その一方でわたしの反応を慎重にチェックして分析しているのがわかる。
彼はあいかわらず快活であるが、以前ほど魅力的ではない。

ある朝。
朝食を食べているとき、彼がわたしの名前を呼んだ。
「もしかしたらどっかぐあいがわるいんとちがう?」
わたしは笑って首を振り、目玉焼きをわざとおいしそうに咀嚼して飲みこんだ。
元気だってことをアピールしたつもりだ。
わたしを病院に送るつもりだろうか。
マンションを出て、角を曲がってから、わたしは逃げるように走った。
大通りに出てまわりに大勢の人がいるのを確認して携帯を取り出した。

(男)
ボタンを押そうとして、手が止まった。

今日の午後、ロイドアンド社のメンテナンスサービスから電話がかかってきた。
リンダに何か異常が起きた可能性があるという。
「どういうことですか?」
「アイデンティティ回路が混乱して逆転妄想を生んでいるようです」
彼の説明によるとこういうことだった。
複雑化した高性能ロボットにはたまにあることなのだが、
自分を人間だと思い込み、そばにいる人間をロボットだと思い込む。
症状が進むと、自分がロボットに監視され支配されているように感じて、
防衛しようとする。
過剰防衛で相手を傷つけることもあるという。
「危険です。すぐに回収に伺います」
そのとき、リンダが帰ってくるのが窓から見えた。

リンダは疲れていた。
帰るなり、テーブルにつっぷして居眠りを始めた。
やはり調子が悪いのだろうか。
ぼくはそっと彼女の髪に手を当て、首の後ろのボタンを探した。
メンテナンスサービスの男が言ったとおり、
起動ボタンの上数センチのところ、
ぼんのくぼのところに赤い小さなボタンがあった。
これがキルスイッチだ。このボタンを押すと、
すべての機能がシャットダウンされるという。
メモリーは初期化された後焼き切れて、神経回路は遮断される。
つまり・・・
「リンダという人格は死にます」
男の言葉を思い出した。
ボタンを押そうとしていたぼくの手が止まった。

なぜ止まったのだろう。
これは愛?まさか…

そのときとつぜんリンダが目を覚ました。
くるりとふりむいて、ぼくの首に手をまわして抱きしめ、キスをした。
ぼくはうっとりとした。
彼女の手がぼくの首の後ろをまさぐり、
赤いキルスイッチのボタンを探り当ててそれを押した。

出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース
       大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/

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