佐藤充 2023年6月25日「水に流したい話」

水に流したい話

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

「もうあんたも大人になったから話すんだけど」
と前置きをして母は話しはじめた。

これは僕の実家の家業であるデリヘルを経営する母の話です。

旭川という小さな街ではじめて20年になります。

女手ひとつで僕と妹の2人を育ててくれました。

20年もやっているといろいろなことがあります。

窓ガラスを何者かに全部割られたときは
犯人を車で追いかけ回したり、

働く女性の子供たちを預かるから
実家が託児所みたいになったり、

実家の空いている部屋を貸してあげて、
ひとつ屋根の下でいっしょに生活したり、

当時僕の付き合っている彼女の名前を
働いている女性の源氏名に使ったりもしました。

最初はドライバーを雇う余裕もなく母が送迎をしていました。

僕がやっていたサッカーの送り迎えもデリヘルの車でした。

「そのときの話なんだけど
サッカーの試合を見にいかなくなったことあったでしょ」
と母は話しはじめました。

当時は忙しかったので試合を見にこれなかったのだと思っていました。

「あれ違うの」

「え、どういうこと?」

「気まずくて行けなくなったの」

「なにが」と聞くと言いにくそうに

「リップローズから出てくるのを見たんだよ」

リップローズとは地元のラブホテルの名前です。

「どういうこと?ちゃんと説明して」と問い詰めると

「Aくんのお父さんと、Sくんのお母さんが出てくるの見たの」

話を聞くといつものように女の子を迎えに
ホテルの前に車を停車していると
なかからサッカーのチームメイトのAくんのお父さんと
Sくんのお母さんが出てきて鉢合わせたというのです。

「もうあんたも大人だから話すんだけど」
と母はもう1度念を押して言いました。

次の日、僕は複雑な心境のまま成人式へ行きました。

壇上に立つ市長は「旭川は川の多い街です」と言いました。

この街であったこと全てを水に流してくれと思いながら聞いていました。

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一倉宏 2022年7月3日「もしも僕らが一年に一度しか会えなかったとしたら」

もしも僕らが一年に一度しか会えなかったとしたら

   ストーリー 一倉宏
      出演 地曳豪

テレワークの日々がつづいた
いっしょにいる時間が増えたよね 
劇的に

ケンカも増えたね 
エアコンの 使い方とか 
トイレの…… 汚し方とか
日々の生活って ほんとうにささいな
ディテールの帳尻で できている

君はネットフリックスで 
韓流ドラマを観る
僕はスポティファイで 
80年代シティポップスを聴く

そんな日々に

ロシアなる国が 
ウクライナなる国を陵辱し
虐殺とレイプが 
平然とニュースになった

この世界で

君と僕が ささいなことで
言いあらそう

戦争のニュースが つづく日々に
天の川の見えない 東京の空の下で
いつのまにか 
戦争の専門家なる人物たちが
連日連夜 登場するようになって 
誰も怪しまない

せめて リクエストを
ジョン・レノンの「イマジン」じゃ 
もの足りない

あの歌を歌ってくれ 「戦争の親玉」を
ノーベル文学賞の ボブ・ディランよ
アルフレッド・ノーベルも 
それを望んでいるはずだ

大砲をつくるやつら 
爆弾をつくるやつら
戦争でもうけるやつら 
それが戦争の親玉だ

いつのまにか 
戦争の親玉たちは
武器輸出を 防衛装備移転と
言い替えさせることに成功した

この国では いろんな言葉が
すり替えられてゆく
僕らは黙ったまま 
それを許してしまった 
いつのまにか

ウクライナのために 
自由と民主主義のために
もうすぐ 
タブーはなくなるかもしれない
防衛装備移転にも 
もしかしたら
非核三原則にも

そんな日々に
この世界で

君と僕は
天の川の見えない 東京の空の下で

一年に一度しか会えない 
あの二人の夜が
もうすぐ やってくる

それは悲しい 
哀れな話なのかと
僕は考えるようになった

一年に一度でもいい
もう 一生会えない 
永遠に会えない
夫婦がいて 親子がいて
恋人たちがいて 
きょうも 訴えている

そんな日々に
この世界で

君と僕は
天の川の見えない 東京の空の下で



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一倉宏 2021年6月6日「つゆどきのかんじ」

つゆどきのかんじ

   ストーリー 一倉宏
      出演 地曳豪

ねえ 書ける? 
ゆううつ の うつ って漢字

彼女は言った 
うめ に あめ と書く
この季節の空を 見上げながら

えーと 
ゆううつ の うつ は・・・

僕は ソファに ねころんだまま
空中に 指をうごかしてみる

まず 
まんなかに カンビールの 
缶 があって

その左に 木 を書いて
その右にも 木 を書いて 

おおきい ワ を書いて
それから なんだったけな

あれ なんていうんだっけ
バツに てんてんてんてん
こめじるし でいいの?
あの 米が 45度 傾いたやつ

それに コの ひっくりかえったやつ
カタカナの コ の

その下に カタカナの ヒ でしょ
あ ヒ の最後が はねてるやつ 

で その右に ちょんちょんちょん
カタカナの ノを 3つ重ねて 
できあがり 

すごい すごい!
彼女は おおよろこびだ

どうだい えへん
僕も まんざらではない

**

じゃあね
バラは?

バラは・・・
そうだな バも ラも
くさかんむり サ
くさかんむりの サの下に
 
十 というか
Tの字の 頭がちょっと出たやつの

左と右に ちいさく 人の字で 
その下に 一 で

その下に あれ 最終回の 回で
できあがり

それから
バラの ラは・・・
同じく くさかんむり で

ぎょうにんべん に
漢字の 山 を ちいさく書いて
ちいさい 一 に
あれ なんていうのか・・・

平凡の 凡の 点のないやつ
というか・・・

机 という字の 右のやつ?
円周率の パイの ひげのないやつ?

このあたりで 彼女は 笑いころげて
僕も なんだか おかしくなって

それでも 

湿度87パーセントの
うっとうしい 空に

憂鬱な薔薇 

という 漢字を書きあげた

うめ に あめ と書く
つゆどきの ある日のこと

***

というわけで 

では ここで 問題です

うっとうしい を 漢字で書きなさい



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大江智之 2020年7月12日「池の鴨」

「池の鴨」

   ストーリー 大江智之
      出演 地曵豪

『鴨をいじめたら退学だってさ』
もうこれを聞くのは何度めか分からないぐらいだ。
この変な学則の噂を話すときの先輩方はいつもどこか得意気だ。

今日も鴨は、空を忘れてのんびりと池の中を泳いでいる。
ときどき顔を水の中に突っ込んでみたり、
思い出したように羽を揺らしてみたり。
誰もこの鴨にちょっかいをだそうだなんて思わないだろう。

このキャンパスは、本キャンパスから60kmほど離れた山の中にあった。
電車の最寄り駅からバスに揺られてさらに25分、
それでようやく着くようなド田舎だ。
池の鴨は、ここができたとき田舎にぴったりの贈り物として
贈られてきたものだった。

鴨池は、キャンパスのちょうど南の端にあり、
まるでそこだけポッカリと空いた穴のようだった。
池の周りは芝生が茂り、
そのさらに外側をキャンパスを一周するバスの道路が囲む。
暖かい季節はこの芝生で過ごす学生もとても多い。

『鴨に触っても退学になる』
鴨に関する変な学則の噂はどんどんあらぬ方向にエスカレートしていった。
こんな根も葉もない話であっても、
小さなキャンパスでは、流感のように広がった。
いつしか学生の間では、鴨は不可侵な存在として扱われるようになっていた。

鴨は本来渡り鳥らしいという話を聞いた。
にわかには信じられなかった。
だってここの鴨は、飛んでる姿もろくに見せたことがない。
きっと空のことなど忘れてしまっているのだろう。

今日も鴨池の周りには長いバス列ができていた。
夕方を過ぎると帰る学生の列が鴨池の周りを囲むように伸びるのだ。
秋も終わりに近づいていたのか、周囲が薄暗くなるのはいつもより早かった。
これじゃあバスから見えなかったのも頷ける、
鴨の親子が道路を渡っていたなんて。

いま思えば、いくつも要因が重なっていた。
学生は鴨が池から出て、道路を渡っているなんて考えもしなかっただろうし、
鴨もまた、天敵がいないのだから、どこを歩いても大丈夫と思っていただろう。
とどめに、小さな鴨の親子が道路を横切るにはあたりは暗過ぎた。

「鴨が!」という声を聞いた。
ほかにどのくらいの学生が気づいただろうか。
そこにいた数十人の長い列は、ほぼ全員がスマホに夢中だった。
仮に気がついても、鳥なのだから、地上が危険なら空に逃げるくらいに思っただろう。
しかし、鴨はなぜか飛ばなかった。

鴨の代わりに、飛んだ人がいた。
その人は、列に並ぶほとんどの人間が気がつく前に、いち早く道路に飛び出した。
鴨親子を有無言わさずに引っ掴み、抱きかかえて、
反対の茂みに自分ごと飛び込んだ。

「グエッ」とも「グワッ」ともつかない声で、不満を訴える鴨。
人間に掴まれたことなんてただの一度もなかっただろう。
全く自分たちが命の危機に瀕していたことなど理解していない様子だった。

もう一人、ほぼ同時に飛んだ人がいた。
列を飛び出て、道路の真ん中に立ってバスの前で両手を広げて訴えた。
運転手に急ブレーキを踏ませたが、そのおかげで万が一の事態も免れた。
この光景を、為す術もなく見ていたのが、俺だった。

俺は二人のヒーローように、飛ぶことができなかった。
ただ事態に唖然とし、ひとり不甲斐ない思いを噛み締めた。
だからこの話をここに書き残すことにした。
飛べないから、地べたでただただ筆を動かす。

飛べるのに飛ばない鳥がいたり、飛べないのに飛べる人がいる。
今日も池の鴨は、俺の気持ちなど知らず、
空を忘れてのんびりと泳いでいるのだろう。



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田中真輝 2020年7月5日「箱空」

箱空(はこそら) 

   ストーリー 田中真輝
      出演 地曳豪

誕生日に彼女からもらった小さな箱には、
小さな空(そら)が入っていた。
休みの日、ふらりと入った店で売っていたらしい。
ありがとう、とは言ったものの、どう扱ったらいいものやら、
軽く途方に暮れた。

箱の中の小さな空は、その時間その場所の本当の空と繋がっているらしく、
窓の外で雨が降り出せば、箱の中でも灰色の雲が小さな雫をこぼし、
日が暮れれば、箱の中も夕焼けに染まった。
たまに仕事から帰って箱を開けてみると、
やはりそこには夜空が広がっており、
都会の空らしく、小さな星がひとつふたつ、瞬いていた。

ある日、戦争が始まって、
みんな地下のシェルターで避難生活を送ることになってからも、
僕の手の中には小さな空があった。彼女とは離れ離れに
なってしまったが、僕は朝な夕な箱をこっそり覗いては、
そこにささやかな慰めを求めた。

誰かが箱からこぼれる夕焼けの光に気づくまで、そんなに時間は
かからなくて、それがみんなの知るところとなるには、
それからさらにあっという間で、そして当然のごとく、
箱は僕の手元から奪われ、いさかいの中で宙を舞い、
そして幾人かによって踏み潰されることとなる。

そのとき箱から流れ出した空は、
希釈されながら浮き上がり、天井のあたりに薄くたまった。
誰かが「空だ」とつぶやいた。

薄められた、ぼんやりとした空ではあったけれど、それはやっぱり
その時間その場所の本当の空と繋がっていて、
雨を降らせ、星を宿し、夕焼けた。
そしていつしか僕らは、それを本物の空だと思い込むようになった。

誰かが、僕たちのいるこの箱を開けてくれたら、
空はここにとどまるのだろうか、それとも浮かび上がって、
本物の空と合流するのだろうか。
ここにとどまってくれたらいいのになと、僕はぼんやり思っている。



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直川隆久 2020年4月19日「ウイスキー」

ウィスキー

         ストーリー 直川隆久
          出演 地曳豪

原田に電話をかけて、家出しようと思うんだ、と言ったとき、
原田の返事は「ほんとか」でも「なんで」でもなく
「そうか、じゃテントがいるな」だった。
「もっていくよ。とりにこいよ。ブックオフの前」
「うん」
「自転車だろ?」
「うん」
ブックオフの前に行くと、原田が自転車にテントを積んで待っていた。
「ありがと」とぼくは言うと、原田からテントを受け取った。
テントを荷台にくくりつけているぼくに原田が「一緒に行こうか」と訊いた。
ぼくは、「うん」とだけ言って自転車をこぎだした。
原田も、にやにやしながら後からついてきた。
ぼくと原田は、いつもだいたいそんな感じだった。
途中のコンビニで弁当を買った。財布には3,000円とちょっと。
まあ、何日かはもつだろう。原田のもっている金も似たようなものだった。
どこへ行こうというあてはなかった。とりあえず、家から離れたかった。
別に、あの人にうらみがあったわけじゃない。
お互い距離をおいたほうがよいと思った。
あの人は、親父と一緒になりかっただけであって、
ぼくの母親になりたかったわけじゃないんだから。
お互い気を使いあいながら暮らす毎日にも、うんざりだった。

峠に向かう山道の途中で、陽が暮れ始めた。
急な上り坂で立ちこぎも無理になって、
原田とぼくは自転車に覆いかぶさるようにして押しながら歩いていく。
きつい。
「おおたっち、どうする」と原田が訊いてきた。
(ちなみに、ぼくの苗字は太田ではなく、大竹だ。)
「日が暮れないうちに、テント張ったほうがいいんじゃないの」
「テント?どこに?」
「ここ」
道がカーブになっていて、路肩の外側に小さく平坦な地面があった。
「間にガードレールあるから、寝てても轢かれんよ」と言って原田は笑った。
ぼくと原田は、そのスペースに、テントをひろげた。
寒くなったので、テントの中に引っ込む。腰をおろすと、
つたわってくる地面の冷たさにびっくりする。
「ほんとは、中に、マット敷くんだけどさ、もってくんのわすれた」
弁当を食べ終えたあとは、Switchをやったり、
クラスの気になる子の噂話とか、数学の先生の物まねとかで時間をつぶす。
 いつの間にか外は暗くなっていた。
さっきまで、頻繁に聞こえていたクルマの音も、ほとんど聞こえなくなった。

真っ暗なテントの中で、原田が懐中電灯をつけて、顔を下から照らす。
「こうやってさ。外にじいっと2人で立ってたらさ、
クルマ乗ってるやつ、めっちゃマジでビビるよな。ワーッ!だよな」
「やめとけバカ」
「なんで」
「事故おこしたらどうすんだ」
2人で寝転ぶ。寝袋なんてないから、雑魚寝だ。
体の下、地面と接しているところがどんどん冷たくなっていく。体を動かして、
ほかの部分が地面と接するようにする。しばらくはいいけれど、
じきにそこも冷たくなる。そんなことを繰り返してては、とても眠れそうになかった。
「寒いな、おおたっち」
「うん」
原田は起き上がって懐中電灯をつけ、リュックをごそごそと探ると、
なにかの酒の瓶をとりだした。
金色のラベルに、黒い文字でいろいろ書いてある。
ウィスキーだろう。それも、けっこう高いやつだ。
「のもう」
「え、なに、それ、原田のおとうさんの?」
「うん」
「やばくない?」
「全然」
コップもないので、そのまま飲むしかない。
原田は瓶に口をつけ、瓶のお尻を勢いよく持ち上げた。
原田の、最近大きくなってきたのどぼとけがぐり、と動いたととたん、
「げへー」と大きな声。
爆笑するぼくの横で、原田は目に涙をためながら、たっぷり1分はむせ返っていた。
「あー、きつい」
「そりゃそうだろ」
「あーでも、このへん、あっつい。あったかい」
胃のあたりをさすりながら原田が瓶をこっちへよこす。「おおたっちも」
「いいのかな」
「いいよ。ほら、雪山で、遭難するでしょ。そしたら、
セントバーナードがウィスキーもって助けに来てくれるじゃん」
「ブランデーじゃないの」
「そうだっけ」
ぼくも、瓶に口につけ、ぐっとあおった。
一気にのどに流しこまずに、口の中にいったん溜めようとしたけれど、
液体がびりびりと舌を焼く熱に、たまらず飲み込んでしまった。
 食道、胃、とウィスキーが通ったところが熱くなる。
交互に、ふたりでウイスキーを飲んで、
気が付いたら瓶の半分くらいがなくなってしまった。
テントの天井がぐるぐると回りだし、顔は猛烈に火照ってくる。
そういうめまいの感覚はわかったけれど、大人がよく言うような、
楽しくなったり、気楽になる感じはなかった。
ぼくらは寝転がり、ならんで、テントの天井を眺めていた。
「おおたっち、明日、か、かえんなよ」
「なんで?」
「い、家の人、心配するだろ」
「しないよ…ていうか、おまえこそ帰れよ」
「おれ…おれは、おおたっちが帰れば帰るよ」
「いいよ、つきあわなくて。そもそも、なんでひとの家出につきあうんだよ」
「なんでって…なんでかな…」原田は黙ってしまった。
 言ってから、後悔した。原田が一緒に行く、と言ったときに、
ぼくはすごくうれしかったんだから、そういう言い方はフェアじゃなかった。

「おれも、い、家から逃げたことあんだ」
「ふうん」
「でも、どこへも行けなかった。金ないし。すぐ…すぐ見つけられてつれもどされた」
「だせえな」
「だせえよな。でも、けっきょく、も、もどるしかないんだよな」
「…」
「…おれら、まだ力がないからさ。も、もうちょっと…腕も足も太くなんなきゃ…
ダメなんだ。じ…時間がいるんだ」
「時間って、いつまでさ」
ぼくは、原田の次の言葉を待って、じっと黙っていた。
でも次に聞こえてきたのは原田の寝息だった。

夜中、頭ががんがんして、吐きそうな気分になってきた。
やばい、と思ってテントの外に出る。側溝までかけていき、
しゃがみ込んだ瞬間、胃の中のものが全部逆流してきた。のどが猛烈に焼ける。
吐ききってしまうと、少し気分がましになった。と…
がさがさと、10メートルほど先で音がする。
がさ。がさ。
動悸が速くなる。
じっと音のするほうを見ていると、茂みから道路になにかが飛び出てきた。
犬にしては大きい。
…鹿だ。
角がある。雄だ。
 この山に鹿がいたなんて聞いたことがない。
 だけど…目の前にいるのは間違いなく鹿だ。それも、大きい。
角の先端はぼくの背丈をゆうに超える高さがあった。
 鹿は、悠然と道を横切ろうとしていたが、ぼくの気配にきづいたように、
ぴくりと頭をこちらに向けた。そのとき、
月の光を反射して暗闇に浮かび上がった二つの目――
異様に鋭い光が、まっすぐにぼくの体を射抜いた。
ぼくは、体を動かすことができなかった。
そのとき、鹿が、ぶふ、と息を鼻から出し、ぐっと、こちらに足を進めた。
ぼくはぎょっとして、すくみあがる。
原田!
そう叫ぼうと思っても、声がでない。
一歩。二歩。鹿がこちらに近づく。
だけど、鹿はそこで足をとめた。
取るに足らぬものにかかずらって、要らぬエネルギーを使うこともない、
と思ったのだろうか。ぷいと視線をそらし、鹿は、茂みの中に姿を消した。
そのあとで、どれくらいそこでじっとしていたかわからない。
自分の心臓の音で我に返った。
ぼくは、テントに戻ると、ただ黙って夜が明けるのを待った。

朝になって、テントから体をひきずりだす。
頭がどんよりして、気持ち悪い。
寝ぐせの頭を爆発させながら真っ青な顔をしている原田と、
のろのろとテントをたたんだ。
「おおたっち、どうする」と原田がきいてきた。
しばらく考えて、ぼくは答えた。
「この峠、上りきってから決める」
「ええ、のぼるの」
原田が、登坂を見上げて、泣きそうな顔をした。
「帰んないのか」
「うん。いちばん高いとこまで行って、眺めたいんだ。俺の街と、隣の町」
「…」
「それから決める」
どうせ、帰ることになるのかもしれない。それでも、
見慣れない風景を見てからにしたかった。
僕は、自転車を押し始めた。
原田は、おえ、と息を漏らし、「しょうがねえなあ」と言いながらぼくに続いた。



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