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関陽子 2023年8月20日「コントラスト」

コントラスト

ストーリー 関陽子
    出演 平間美貴

てっぺんから降り注ぐ太陽は
道に並ぶアパートの四角い形や木々の葉っぱを
くっきりと浮かび上がらせ、
わたしは自分の視力が急に上がったかのような錯覚を覚える。
日傘を差さないのはただ忘れただけだけれど、
この日差しが肌に当たってビタミンDを合成してくれるからね、と
良い方に解釈してみる。
いま、わたしは生きている。あの人も、まだ生きている。

そういう施設はたいてい、
最寄りのバス停から少し歩かなくてはいけない場所にあり、
今日もわたしは黙々と歩く。
そして今日も、施設の駐車場には鮮やかな黄色の車が停まっていて、
隣の玄関には、紫の朝顔が萎れている。

あの人は、いつもかん高い声で文句を言っていた。
食卓で、テレビから流れるニュースに一つ一つコメントを挟む。
母は生返事をしていて、
弟はただ黙っていて、
負の空気の中で、わたしは味噌汁をご飯にかけて
一刻も早く食事を終わらせようとしていた。

世の中にはいつも文句を言っていたけれど、
家族ヘは何一つ文句を言わなかったことに
わたしが思い至ったのは、ついこの間だ。

日曜の昼下がりの部屋には、テレビからのど自慢の歌が流れていて、
わたしはそのリズムに合わせて握った手に力を入れる。
かすかに握り返す力が伝わる。
でも、この部屋には日差しは入らない。
この人の体の中で、ビタミンDはもうつくられない。

また来るね、と声をかけて、部屋を出る。玄関を出る。
明日の朝、
またこの朝顔は鮮やかに咲くのだろうか。
あの人に少しだけ、その力を貸してほしい。
柄にもなく、そんなことを思ってみたりもする。

黄色と紫。コントラストの景色。
それはきっと、
いちばん新しく、いちばん最後の、父との思い出になるのだろう。
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出演者情報:平間美貴 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

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村山覚 2023年8月13日「朝顔の大あくび」

「朝顔の大あくび」

ストーリー:村山覚
   出演:平間美貴“・村山覚

あさだ: 一日の始まりって、いつだと思う?
かおる: 一般的には23時59分から0時0分になった瞬間です。
    あるいは、あなたが住む町に日がのぼった瞬間を
    一日の始まりとみなすこともできるでしょう。
あさだ: チャットなんとかみたいな答えだね。
かおる: それは褒め言葉でしょうか。
あさだ: 他にもある?一日の始まり。
かおる: では、あなたが「おはよう」と発声した瞬間を
     一日の始まりとするのはどうでしょう?
あさだ: 俺、一人暮らしなんだけど‥‥
かおる: いいじゃないですか。私は毎日、自分に言っていますよ。
おはよ〜、いただきま〜す、ごちそうさま〜、おやすみ〜。
あさだ: うーん、まぁ「おはよう」もいいんだけど、
    もうちょっと風流な始まりがいいな。
かおる: 風流?
     風流は優れた美的感覚や洗練された趣味を指し、
     雅や趣があること、です。
あさだ: そう、そういうの。
かおる; では、一日の始まりは
    「ベランダの朝顔が開いた瞬間」というのはどうでしょう?
    先日、入谷の朝顔まつりで買ってきたでしょう?
あさだ: そうそう、毎朝咲くのが楽しみで。
かおる: 朝顔って日没から約10時間後に開くらしいんです。
あさだ: え?朝の明るさとか気温で開くんじゃないんだ。
かおる: まぁ多少は関係あるんでしょうけど、
     一旦暗くなること、そして気温が下がることが
    開花の条件だそうです。
あさだ: そうなんだ。
かおる: 尾崎放哉の俳句に、こんなのがあります。
     「父子で住んで言葉少なく朝顔が咲いて」
父と子、何歳ぐらいだと思います?
あさだ: 朝顔ってさ、小学一年生が育てがちじゃん。
だから、30代後半のお父さんと6歳の娘。
かおる: 私は、70歳の父と40歳の息子を想像しました。
あさだ: えー?ぜんぜん違うね。
    でもたしかに、70歳と40歳だと言葉少なくもなるか。
かおる: 会話が少ない家庭に、毎朝可憐な朝顔が咲くって、
     とても風流ですよね。
あさだ: そうね。俺一人暮らしだからさー、
     毎朝、朝顔がさ、ラッパ?蓄音機?みたいな感じで開くと
     “起きろ〜” って言われてる気がするんだよ。
かおる: それはあなたの思い込みですね。
あさだ: え?
かおる: あれ、”起きろ〜” ではなく、朝顔の大あくびなんですよ。
あさだ: え?あくび?
かおる: 夏の夜に、暗いなかで10時間じーっと待っていて、
     ちょっとずつ気温が上がってきて、夜が明けそうな時間帯。
     そりゃあくびもしますよ。
あさだ: 私の一日は、朝顔の大あくびとともに始まる。
かおる: あいつは一度あくびをしたら、もう二度と口を開かない。
     そして翌朝、また別のやつがあくびをするのだ。
あさだ: うちのベランダはそんなに退屈か?
かおる: いえ、夏はそもそも退屈な季節なのです。
あさだ: 言葉はなくとも、一日の始まりに大あくび。
かおる: そして言葉を浴びるにつれ、朝顔はしぼむのです。
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出演者情報:平間美貴 03-5456-3388 ヘリンボーン所属


  

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佐藤充 2023年8月6日「8月6日のアサガオ」

8月7日のアサガオ

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

東京の暑さに耐えられず、北海道の実家に帰省した。

「ローソク出ーせー出ーせーよー 
 出ーさーないとー かっちゃくぞー
 おーまーけーにー噛み付くぞー」

窓の外から子どもたちの歌が聞こえてくる。
今日は8月7日か。

8月7日、北海道では「ローソクもらい」がある。

日が暮れ始めると子どもたちが
「ローソク出ーせー」と歌いながら近所の家々をまわる。
大人たちはやって来た子どもにお菓子を渡す。

アメリカのハロウィンと同じだ。

子どもたちが
「トリック・オア・トリート」と言ってお菓子をもらうか、
「ローソク出ーせー」と言うかの違い。

たまに本当にローソクを配る家があると
子どもたちの間で生涯ずっとローソクの家と呼ばれ続ける。

うまい棒などよく食べるお菓子を配る家は普通の家と呼ばれ、
カステラやワッフルなどを配ってくれる家はレアな家、
「ごめんね、お菓子買い忘れて」と100円をくれる家は100円の家と呼ばれる。

小学校5年の夏休み前に新しい学校に転校した。
これで3つ目となる小学校だった。

家庭環境のせいもあってか、転校はいつも突然だった。
3回目となるとまた次もすぐあるような気がして、考えるとまた憂鬱だった。
最初は転校に反対や抵抗をしてみたりしたが無駄だとわかった。
口でも勝てない。腕力も勝てない。子どもは何もできない。無力だった。

担任はサイトウという中年の女の先生で
国語の教科書に載っている与謝野晶子に似ていた。

新しいクラスには学校に来たり来なかったりする女の子がいた。
彼女はいじめられていた。

彼女が登校して来た日、
サイトウ先生が「彼女の嫌なところを1人1つ言っていこう」と言った。
転校してきたばかりの僕は免除された。

クラスメイトが1人ずつ順番に言う。
「走り方が変」
「汚い感じがする」
言葉のひとつひとつが彼女に向かって飛んでいく。

彼女は泣いている。

どこかのタイミングでサイトウ先生は
クラスメイトに注意するのかと思ったら違った。

泣きながら聞いている彼女に
「泣いてないでちゃんと聞きなさい」
と注意をする。

最後にサイトウ先生は彼女に「言われたところを直していこう」と言った。
この教室には、彼女の味方がいないように見えた。
思うことはあるのに黙って聞いているだけの自分もまた無力だった。

1学期が終わり夏休みに入る。
8月7日、僕は友人たちと「ローソク出ーせー」と歌いながら
お菓子をもらいにまわっていた。

すると友人の1人が彼女の家を教えてくれた。
嫌がる友人たちを無理やり連れて家の前まで行く。

これをきっかけに彼女が学校に来やすくなればいいと思った。
こういう空気を変えられるのは部外者の転校生だったりする。
と勝手に思っていた。

インターホンを押す。
そして、歌う。

「ローソク出ーせー出ーせーよー 
 出ーさーないとー かっちゃくぞー
 おーまーけーにー噛み付くぞー」

家からは、誰も出てこなかった。
つぼみを閉じたアサガオが玄関脇に植えられていた。

そして9年後、この話には後日談がある。

成人式の会場に彼女がいた。
「もしよかったら、今夜同窓会来てほしいです」
彼女が来たいどうかはわからなかったけど、
その夜にある同窓会に誘うことができた。

8月7日になると思い出す。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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牛人

 

牛人

 作:中島敦
 朗読:遠藤守哉

魯の叔孫豹《しゅくそんひょう》がまだ若かった頃、
乱を避けて一時|斉《せい》に奔《はし》ったことがある。
途《みち》に魯の北境|庚宗《こうそう》の地で一美婦を見た。
俄《にわ》かに懇《ねんご》ろとなり、一夜を共に過して、
さて翌朝別れて斉に入った。
斉に落着き大夫《たいふ》国氏《こくし》の娘を娶って二児を挙げるに及んで、
かつての路傍一夜の契《ちぎり》などはすっかり忘れ果ててしまった。

 或夜、夢を見た。四辺《あたり》の空気が重苦しく立罩《たちこ》め
不吉な予感が静かな部屋の中を領している。
突然、音も無く室の天井が下降し始める。
極めて徐々に、しかし極めて確実に、それは少しずつ降りてくる。
一刻ごとに部屋の空気が濃く淀《よど》み、呼吸が困難になってくる。
逃げようともがくのだが、身体は寝床の上に仰向いたままどうしても動けない。
見えるはずはないのに、
天井の上を真黒な天が盤石《ばんじゃく》の重さで押しつけているのが、
はっきり判る。
いよいよ天井が近づき、堪え難い重みが胸を圧した時、
ふと横を見ると、一人の男が立っている。
恐ろしく色の黒い傴僂で、眼が深く凹《くぼ》み、獣のように突出た口をしている。
全体が、真黒な牛に良く似た感じである。
牛! 余《われ》を助けよ、と思わず救を求めると、その黒い男が手を差伸べて、
上からのし掛かる無限の重みを支えてくれる。
それからもう一方の手で胸の上を軽く撫《な》でてくれると、
急に今までの圧迫感が失《なくな》ってしまった。
ああ、良かった、と思わず口に出したとき、目が醒《さ》めた。

 翌朝、従者下僕らを集めて一々|検《しら》べて見たが、
夢の中の牛男《うしおとこ》に似た者は誰もいない。
その後も斉の都に出入する人々について、それとなく気を付けて見るが、
それらしい人相の男には絶えて出会わない。

 数年後、再び故国に政変が起り、叔孫豹は家族を斉に残して急遽帰国した。
後、大夫として魯の朝《ちょう》に立つに及んで、初めて妻子を呼ぼうとしたが、
妻は既に斉の大夫某と通じていて、一向夫の許に来ようとはしない。
結局、二子|孟丙《もうへい》・仲壬《ちゅうじん》だけが父の所へ来た。

 或朝、一人の女が雉《きじ》を手土産に訪ねて来た。
始め叔孫の方ではすっかり見忘れていたが、話して行く中にすぐ判った。
十数年前斉へ逃れる道すがら庚宗の地で契った女である。
独りかと尋ねると、倅《せがれ》を連れて来ているという。
しかも、あの時の叔孫の子だというのだ。
とにかく、前に連れてこさせると、叔孫はアッと声に出した。
色の黒い・目の凹んだ・傴僂なのだ。
夢の中で己を助けた黒い牛男にそっくりである。
思わず口の中で「牛!」と言ってしまった。
するとその黒い少年が驚いた顔をして返辞をする。
叔孫は一層驚いて、少年の名を問えば、「牛と申します」と答えた。

 母子ともに即刻引取られ、少年は豎《じゅ》(小姓)の一人に加えられた。
それ故、長じて後もこの牛に似た男は豎牛《じゅぎゅう》と呼ばれるのである。
容貌に似合わず小才の利く男で、すこぶる役には立つが、
いつも陰鬱《いんうつ》な顔をして少年仲間の戯れにも加わらぬ。
主人以外の者には笑顔一つ見せない。
叔孫にはひどく可愛がられ、長じては叔孫家の家政一切の切廻しをするようになった。

 眼の凹んだ・口の突出た・黒い顔は、
ごく偶《たま》に笑うとひどく滑稽な愛嬌《あいきょう》に富んだものに見える。
こんな剽軽《ひょうきん》な顔付の男に悪企《わるだくみ》など出来そうもない
という印象を与える。目上の者に見せるのはこの顔だ。
仏頂面をして考え込む時の顔は、ちょっと人間離れのした怪奇な残忍さを呈する。
儕輩《さいはい》の誰彼が恐れるのはこの顔だ。
意識しないでも自然にこの二つの顔の使い分けが出来るらしい。

 叔孫豹の信任は無限であったが、後嗣《あとつぎ》に直そうとは思っていない。
秘事ないし執事としては無類と考えていたが、
魯の名家の当主とは、その人品からしてもちょっと考えにくいのである。
豎牛ももちろんそれは心得ている。
叔孫の息子たち、殊に斉から迎えられた孟丙・仲壬の二人に向かっては、
常に慇懃《いんぎん》を極めた態度をとっている。
彼らの方では、幾分の不気味さと多分の軽蔑とをこの男に感じているだけだ。
父の寵《ちょう》の厚いのに大して嫉妬《しっと》を覚えないのは、
人柄の相違というものに自信をもっているからであろう。

 魯の襄公《じょうこう》が死んで若い昭公の代となる頃から、
叔孫の健康が衰え始めた。
丘蕕《きゅうゆう》という所へ狩りに行った帰りに悪寒を覚えて寝付いてからは、
ようやく足腰が立たなくなって来る。
病中の身の廻りの世話から、病床よりの命令の伝達に至るまで、
一切は豎牛一人に任せられることになった。
豎牛の孟丙らに対する態度は、しかし、いよいよ遜《へりくだ》ってくる一方である。

 叔孫が寝付く以前に、長子の孟丙のために鐘を鋳させることに決め、
その時に言った。
お前はまだこの国の諸大夫と近附になっていないから、
この鐘が出来上ったら、その祝を兼ねて諸大夫を饗応するが宜《よ》かろうと。
明らかに孟丙を相続者と決めての話である。
叔孫が病に伏してから、ようやく鐘が出来上った。
孟丙は、かねて話のあった宴会の日取の都合を父に聞こうとして、
豎牛にその旨を通じてもらった。
特別の事情が無い限り、豎牛の外は誰一人病室に出入出来なかったのである。
豎牛は、孟丙の頼を受けて病室に入ったが、叔孫には何も取次がない。
すぐ外へ出て来て孟丙に向かい、
主君の言葉として出鱈目《でたらめ》な日にちを指定する。
指定された日に孟丙は賓客を招き盛んに饗応して、その座で始めて新しい鐘を打った。
病室でその音を聞いた叔孫が怪しんで、あれは何だと聞く。
孟丙の家で鐘の完成を祝う宴が催され多数の客が来ている旨を、豎牛が答える。
俺の許も得ないで勝手に相続人面《づら》をするとは何事だ、と病人が顔色を変える。
それに、客の中には斉にいる孟丙殿の母上の関係の方々も遥々見えているようです、と
豎牛が附加える。
不義を働いたかつての妻の話を持出すといつも叔孫の機嫌が見る見る悪くなることを、
良く承知しているのだ。
病人は怒って立上がろうとするが、豎牛に抱きとめられる。
身体に障ってはいけないというのである。
俺がこの病でてっきり死ぬものと決めて掛かって、
もう勝手な真似を始めたのだなと歯咬《はが》みをしながら、叔孫は豎牛に命ずる。
構わぬ。引捕らえて牢《ろう》に入れろ。抵抗するようなら打殺しても宜《よ》い。

 宴が終り、若い叔孫家の後嗣は快く諸賓客を送り出したが、
翌朝は既に屍体《したい》となって家の裏藪《うらやぶ》に棄てられていた。

 孟丙の弟仲壬は昭公の近侍《きんじ》某と親しくしていたが、
一日友を公宮に訪ねた時、たまたま公の目に留《とま》った。
二言《ふたこと》三言《みこと》、その下問に答えている中に、気に入られたと見え、
帰りには親しく玉環《ぎょっかん》を賜わった。
大人しい青年で、親にも告げずに身に佩《お》びては悪かろうと、
豎牛を通じて病父にその名誉の事情を告げ玉環を見せようとした。
牛は玉環を受取って内に入ったが、叔孫には示さない。
仲壬が来たということさえ話さぬ。再び外に出て来て言った。
父上には大変御喜びですぐにも身に着けるようにとのことでした、と。
仲壬はそこで始めてそれを身に佩びた。数日後、豎牛が叔孫に勧める。
既に孟丙が亡い以上、仲壬を後嗣に立てることは決まっている故、
今から主君昭公に御目通りさせては如何。叔孫がいう。
いや、まだそれと決めた訳ではないから、今からそんな必要はない。
しかし、と牛が言葉を返す。
父上の思召《おぼしめし》はどうあろうと、息子の方では勝手にそう決め込んで、
もはや直接君公に御目通りしていますよ。
そんな莫迦《ばか》な事があるはずは無いという叔孫に、
それでも近頃仲壬が君公から拝領したという玉環を佩びていることは確かですと
牛が請け合う。
早速仲壬が呼ばれる。果たして玉環を佩びている。公からの戴きものだという。
父は利かぬ身体を床の上に起こして怒った。
息子の弁解は何一つ聞かれず、すぐにその場を退いて謹慎せよという。
 その夜、仲壬はひそかに斉に奔《はし》った。

 病が次第に篤《あつ》くなり、
焦眉《しょうび》の問題として真剣に後嗣のことを考えねばならなくなった時、
叔孫豹はやはり仲壬を呼ぼうと思った。豎牛にそれを命ずる。
命を受けて出ては行ったが、もちろん斉にいる仲壬に使を出しはしない。
さっそく仲壬の許へ使を遣わしたが
非道なる父の所へは二度と戻らぬという返辞だったと復命する。
この頃になってようやく叔孫にも、この近臣に対する疑いが湧《わ》いて来た。
汝《なんじ》の言葉は真実か? と吃《きつ》として聞き返したのはそのためである。
どうして私が偽《いつわり》など申しましょう、と答える豎牛の唇の端が、
その時|嘲《あざけ》るように歪《ゆが》んだのを病人は見た。
こんな事はこの男が邸に来てから全く始めてであった。
カッとして病人は起上ろうとしたが、力が無い。すぐ打倒れる。
その姿を、上から、黒い牛のような顔が、
今度こそ明瞭な侮蔑《ぶべつ》を浮かべて、冷然と見下す。
儕輩や部下にしか見せなかったあの残忍な顔である。
家人や他の近臣を呼ぼうにも、
今までの習慣でこの男の手を経ないでは誰一人呼べないことになっている。
その夜病大夫は殺した孟丙のことを思って口惜し泣きに泣いた。

 次の日から残酷な所作が始まる。
病人が人に接するのを嫌うからとて、食事は膳部の者が次室まで運んで置き、
それを豎牛が病人の枕頭に持って来るのが慣わしであったのを、
今やこの侍者が病人に食を進めなくなったのである。
差出される食事はことごとく自分が喰ってしまい、からだけをまた出して置く。
膳部の者は叔孫が喰べたことと思っている。
病人が餓を訴えても、牛男は黙って冷笑するばかり。返辞さえもはやしなくなった。
誰に助を求めようにも、叔孫には絶えて手段が無いのである。

 たまたまこの家の宰《さい》たる杜洩《とせつ》が見舞に来た。
病人は杜洩に向って豎牛の仕打を訴えるが、
日頃の信任を承知している杜洩は冗談と考えててんで取合わない。
叔孫がなおも余り真剣に訴えると、
今度は熱病のため心神が錯乱したのではないかと、いぶかる風である。
豎牛もまた横から杜洩に目配《めくばせ》して、
頭の惑乱した病者にはつくづく困り果てたという表情を見せる。
しまいに、病人はいら立って涙を流しながら、痩せ衰えた手で傍の剣を指し、
杜洩に「これであの男を殺せ。殺せ、早く!」と叫ぶ。
叔孫は衰え切った身体を顫わせて号泣する。
杜洩は牛と目を見合せ、眉をしかめながら、そっと室を出る。
客が去ってから始めて、牛男の顔に会体の知れぬ笑が微《かす》かに浮かぶ。

どうしても自分が狂者としてしか扱われないことを知ると
 餓と疲れの中に泣きながら、いつか病人はうとうとして夢を見た。
いや、眠ったのではなく、幻覚を見ただけかも知れぬ。
重苦しく淀んだ・不吉な予感に充ちた部屋の空気の中に、
ただ一つ灯が音も無く燃えている。
輝きの無い・いやに白っぽい光である。
じっとそれを見ている中に、ひどく遠方に——十里も二十里も彼方にあるもののように感じられて来る。
寝ている真上の天井が、いつかの夢の時と同じように、徐々に下降を始める。
ゆっくりと、しかし確実に、上からの圧迫は加わる。逃れようにも足一つ動かせない。
傍を見ると黒い牛男が立っている。救を求めても、今度は手を伸べてくれない。
黙ってつッ立ったままにやりと笑う。
絶望的な哀願をもう一度繰返すと、急に、慍《おこ》ったような固い表情に変り、
眉一つ動かさず凝乎《じっ》と見下す。
今や胸の真上に蔽いかぶさって来る真黒な重みに、最後の悲鳴を挙げた途端に、
正気に返った。……

 いつか夜に入ったと見え、暗い部屋の隅に白っぽい灯が一つともっている。
今まで夢の中で見ていたのはやはりこの灯だったのかも知れない。
傍を見上げると、これまた夢の中とそっくり[#「そっくり」に傍点]な豎牛の顔が、
人間離れのした冷酷さを湛えて、静かに見下している。
その貌《かお》はもはや人間ではなく、真黒な原始の混沌《こんとん》に根を生やした
一個の物のように思われる。
叔孫は骨の髄まで凍る思いがした。己を殺そうとする一人の男に対する恐怖ではない。
むしろ、世界のきびしい悪意といったようなものへの、
遜《へりくだ》った懼《おそ》れに近い。
もはや先刻までの怒は運命的な畏怖《いふ》感に圧倒されてしまった。
今はこの男に刃向《はむか》おうとする気力も失せたのである。

 三日の後、魯の名大夫、叔孫豹は餓えて死んだ。

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佐藤充 2023年6月25日「水に流したい話」

水に流したい話

    ストーリー 佐藤充
       出演 地曳豪

「もうあんたも大人になったから話すんだけど」
と前置きをして母は話しはじめた。

これは僕の実家の家業であるデリヘルを経営する母の話です。

旭川という小さな街ではじめて20年になります。

女手ひとつで僕と妹の2人を育ててくれました。

20年もやっているといろいろなことがあります。

窓ガラスを何者かに全部割られたときは
犯人を車で追いかけ回したり、

働く女性の子供たちを預かるから
実家が託児所みたいになったり、

実家の空いている部屋を貸してあげて、
ひとつ屋根の下でいっしょに生活したり、

当時僕の付き合っている彼女の名前を
働いている女性の源氏名に使ったりもしました。

最初はドライバーを雇う余裕もなく母が送迎をしていました。

僕がやっていたサッカーの送り迎えもデリヘルの車でした。

「そのときの話なんだけど
サッカーの試合を見にいかなくなったことあったでしょ」
と母は話しはじめました。

当時は忙しかったので試合を見にこれなかったのだと思っていました。

「あれ違うの」

「え、どういうこと?」

「気まずくて行けなくなったの」

「なにが」と聞くと言いにくそうに

「リップローズから出てくるのを見たんだよ」

リップローズとは地元のラブホテルの名前です。

「どういうこと?ちゃんと説明して」と問い詰めると

「Aくんのお父さんと、Sくんのお母さんが出てくるの見たの」

話を聞くといつものように女の子を迎えに
ホテルの前に車を停車していると
なかからサッカーのチームメイトのAくんのお父さんと
Sくんのお母さんが出てきて鉢合わせたというのです。

「もうあんたも大人だから話すんだけど」
と母はもう1度念を押して言いました。

次の日、僕は複雑な心境のまま成人式へ行きました。

壇上に立つ市長は「旭川は川の多い街です」と言いました。

この街であったこと全てを水に流してくれと思いながら聞いていました。

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出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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名雪祐平 2023年6月18日「滝の奥」

滝の奥

ストーリー 名雪祐平
   出演 遠藤守哉

俺はくたくただ。重力よ、倍になったか? ダルい。
飛行機を3回乗り継ぎ28時間、車で熱帯雨林の奥へ3時間、
そこから初めて乗る馬に揺られ、ようやっと、たどり着いた。
チリ南部、パタゴニア地域にあるウィロウィロの滝が
いま目の前に聳り立つ。これが見たかった。

滝はあくまで白く、美しく、ウエディングドレスのようだ。
でもね、永遠に新郎が現れず、立ち尽くす新婦にも見えた。
腹の底からの女の本音か、水音はドドドドと唸る。

疲れ切って、じーっと滝を見つめちゃダメだった。
滝が俺なのか、俺が滝なのか、感覚がバカになってきた。
いつのまにか世界が逆再生してて、水は滝壺から上へ向かって
“堕ちる”。

半年前。璃子の結婚披露宴で、事は起こった。
璃子が男にモテていたのか、あまり知らない。
男っ気のある話を軽々しくするタイプではなかった。
俺たちはよく二人で飲みに行ったが、男と女ではなかった。
すごく信頼できる仕事仲間だった。

フレンチレストランでの披露宴は、
80人ほどの招待客がそれぞれの丸テーブルに陣取っていた。
宴の中ごろ、テーブルごとに記念写真を撮影するために、
新郎新婦がこっちに近づく。
まばゆく揺らぐAラインのウエディングドレス。
璃子が白い滝を着ているようだった。
立ち上がった俺の隣りに、璃子がぴったり寄り添った。
ドレスのふわふわに、俺の右手が埋まった。
その時。璃子の左手の指がからんできて、ぎゅっと強く握られた。
白い死角の中で、俺も握り返した。
だって、そうするしかないだろうよ。
そのまま璃子のやつ、新郎と腕を組みながら、
何事もないようにカメラに向かって笑っていた。

つぎのテーブルへ去る璃子。ほどける指と指。
あれはなんだったんだろ?
おたがい、あの日の出来事について確かめることはしていない。
ふれてはいけない予感があって。
記念写真もどんな感情で見ればいいかわからなかった。

ふと我にかえると、西陽になっていた。
ほんのちょっと橙色がかったウィロウィロの滝が、
ドドドドと唸っていた。

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出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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