勝浦雅彦 2019年4月14日「わからない顔」

「わからない顔」

   ストーリー 勝浦雅彦
      出演 遠藤守哉

娘の顔がわからなくなる。
男にその兆候が現れたのは、
小学校の授業参観でのことだった。

三日前、妻が「あなたが行ったら?」と
洗濯物を畳みながら男に言った。
そうだな、と生返事をした結果、
男はハナミズキが咲く校門の前に立っていた。
どうしたことか、
男は一度も授業参観というものに出席したことがなかった。

授業はもうはじまっているようだった。
廊下には男が妻に持たされたスリッパの音だけが響いていた。
教室に入ったと同時に、生徒たちが侵入者に向けて一斉に振り返った。
丸い無数の目が、男を凝視している。
男は混乱した。
いない?娘が。一瞬教室を間違えたのかと思った。
しかし、父兄が寄り添い立っている壁に掲出された
「遠足の思い出」
と題された三十枚ばかりのクレヨン画には、
2年4組としるされている。
やはりここだ、なのに娘の顔が見つけられない。

やがて子どもたちはまた教師の質問に答えるべく、
その小さな顔と艶やかな黒髪を旋回させた。
それっきり一度も振り向くことはなかった。
男は授業の流れに乗ることができず、吐き気すら覚えていた。
出し抜けに終了のチャイムが鳴った、ああ、解放されたと思った。
その瞬間、娘が男の元に駆け寄り、どん、とぶつかってきた。
じっと男を見上げる娘の顔をなでながら思った。
ほんとうに昨日までこんな顔だったか。

どうしてそうした事態が起きたのか、男はまるでわからなかった。
30歳になって購入した中古のマンションには、
部屋中の壁を覆い尽くすように、家族の写真が並べられていた。
写真展を毎日しているみたいだな、
男は新婚当初そう冗談交じりに話したが、妻は無反応だった。
だから男は遅く目覚めて、妻も娘もいない無人のリビングを
まるで世界中の誰もがいなくなったような気持ちに襲われながら
歩くときにすら、娘の表情はいつもそこにあったはずなのだ。

男は娘の顔を今まで以上に注意深く観察するようになった。
まだ七歳の娘の顔は、めまぐるしく変化していた。
ある日は妻を何分の一かに縮小したとしか思えないくらい
同じ顔をしていた。
と思えば、もうすでにこの世にいない男の祖母の顔で学校に出かけていく。
ある日は、誰にも似てないと結論づけたその顔は、
早逝した遠縁の伯父だった。
自分と妻の系類の間を自由に飛び回りながら
娘は毎日生まれ変わっているように思えた。
そして、娘から目を離した瞬間、男はその顔を構成している要素を
何ひとつ思い出せなくなるのだった。

男は時々夢を見た。
大きな竜巻が起き、町中を人々が逃げ惑っていた。
小高い丘に立つとおびただしい数の子供達が一直線に丘に向かってくる。
「パパは、私のパパだから、きっと私を探し出してくれるはず」
そんな娘の声が頭の中で響く。
だが、その子供達の誰もが同じ顔に見える。
名前も呼ぼうにも声が出ない。
寝床から飛び起きると、
開かなかった喉の奥が灼けるように乾いていた。

男は洗濯物を取り込もうとしている妻に話しかけた。
「ミドリの顔が、時々わからなくなるんだ」
きっと妻は「何をバカなことを言っているの」と
笑い飛ばすはずだった。
「ああ、あなたもそうなのね」
「あなたも?」
「私の父もそうだったみたいだから」
どういうことなのだろう、妻の話が普遍的なことなのだとしたら、
世の父親はどこかで娘の顔、
あるいは顔からなるイデアのようなものを
見失うということなのだろうか。
それはたとえば男の子、息子ならば起こり得ないことなのか。
男は、義父とすぐに話したかった。だが、叶いはしない。
彼は三年前に鬼籍に入っていた。
「私はたとえ大きな災害が起こって、
世界に何百万という子供が逃げまとっている中でも、
ミドリを見つけ出せる自信があるわ、母親だから」
男は仰天した。
「君は俺の夢をのぞいたのか?」
やはり妻はそれには答えなかった。

やがて男は、娘の顔を正確に把握することを諦めた。
目の前にあることをただ認めていくこと。
あるがままを受け入れることで父としての役割を全うしようとした、
そうでないと何かの拍子に細い糸が切れるように、
日常のすべてが崩れ落ちてしまいそうだった。

そうして毎日、違う顔になる娘を見守りながら、
十八年の月日が流れた。
男は初老を迎え、娘が結婚する日がやってきた。

三人で過ごす最後の夜だった。
定位置のように、妻はいつもと同じ場所で洗濯物を畳み、
娘はソファで膝を立てて座っていた。
どうしてかまるで、そこに男はいないかのように
二人は男の思い出話をしていた。

「お父さんのチュー、あれ嫌だったのよね」
「中学から高校まで、お父さんのことを無視しちゃったな」
「式で泣くのかしら。泣いたところを見たことないけれど」

男はそのやりとりをぼんやり眺めていた。
まるで自分だけが取り残されたまま、このリビングを中心に
気の遠くなるような時間が過ぎ去っていった気がした。

「私って、お父さん似だもんね」

男は驚いて娘を見た。
一瞬、今までぼやけ続けていた娘の輪郭がはっきりとした像を結び、
その顔をしっかりと捉えた。

そうか、お前はそんな顔だったんだな。

だがそれは生まれたばかりの、
まだ目すらあかない頃の面影を残しているようで、
やはり血を分けた自分の何かを引き継いでいるようには
思えないのだった。

どうしていいかわからず、リビングを視線がさまよった。
鈍色のガラスに映ったのは、
かつてみた自分の父親と同じ顔をした、老いた男だった。



出演者情報:遠藤守哉(フリー)

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勝浦雅彦 2018年8月5日

終の匂い

    ストーリー 勝浦雅彦
       出演 地曳豪

男と女は幼馴染だった。
同い歳で、物心ついたときから男は真っ直ぐな性分を持ち、
女は優しくいつも慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
周囲の二人に対する仲のいい理想的な男女、
という評価とは関係のないところで、
二人の間にはある種の緊張が常に存在していたが、
お互いにその感情の扱い方を誰聞くともなく心得ていたから、
とりたてて語るべきことは何一つ起きなかった。

二人は小学校の頃からいつも一緒だった。
その姿があまりに自然だったからか、
友人たちは、はやしたり、からかったりもしなかった。
やがて、年頃になれば、二人には男と女としての意識が芽生え、
自然な形で恋人同士になっていくはずだと誰もが思っていた。
そんな周囲の予想とは裏腹に、
二人は長い時をただ幼馴染であり続けた。

高校一年になったある日、二人は抱き合った。
夏の午後だった。涼しく、風が吹いていた。
いつものように、男の部屋で、二人は好きなロックバンドの話をしていた。
男はいつにも増して饒舌だった。
リードギターのスウェーデン人のアクトを再現しようと
椅子に立ち上がった瞬間、彼は姿勢を崩し、
静かに話を聞いていた女の右肩に寄りかかるように倒れ込んだ。
女は咄嗟にもう片方の手で男を抱え込んだ。
二人はそのまま無言で腕を絡めながら、絨毯の上に横ばいになった。
匂いがあった。嗅いだ記憶のない甘い香りだった。
男は女が香水をつけているのだと思ったが、そうではなかった。
二人は、いま世界の中で、
二人だけによってのみ起こる生体反応によって強い香りを放っていた。
男は体を起こすとお女の顔を覗きこんだ。
「今、こういうことをしてはいけない気がする」
男が言った。
「そうね、今は」
女は答えた。
二人は起き上がると、窓から差し込む夕日の影を中心線として向かい合った。
「今をここに閉じ込めておくんだ」
男は、小さな木箱を取り出した。
ずいぶん唐突な提案だったが、女はふうと息を吐くと、頷いた。
女が帰宅する頃には、二人はいつもの男と女に戻り、
冗談を言い合って笑い転げてさえいた。
男の家を出て歩き出す。
顔を上げると、日が落ち、夕雲がかすんでいた。

それから二人は高校を卒業するまで、一度も口をきかなかった。
周囲の誰もが二人の変節に戸惑いを覚えたが、
やがてすぐに話題にしなくなった。
きっとそれはよくあることなのだ。
高校を卒業すると、女は生まれ育った街を離れ、男は地元に残った。
やがて、それぞれが結婚をし、生活を持ったことは、
友人たちの口の端から自然に伝わってきたが、
どちらも詳細を問うことはなかった。

それから長い時が流れ、女は50歳になった。
ある日、封書が送られてきた。差出人の名はない。
中には一本のディンプルキーが入っていた。
手元に鍵が滑り落ちた瞬間、女は全てを悟った。
ほぼ同時に、傍で電話が鳴った。出たくない、と思った。
しかし、それを取らないわけにはいかなかった。
電話口で地元の友人がすまなさそうな口調で、女に訃報を伝えた。
男が死んだのだ。

葬儀には行かない、ただし、時間と場所を教えて欲しい。
そして香典を送りたいので、男の住所を教えて欲しい、
と女は友人に頼んだ。
友人は何か言いたそうだったが
「あなたたちは、ホントに羨ましいほどに、一緒だったのにね」と
ため息をつきながら了承してくれた。

二日後の夕方、女は家族に葬儀に出る、と言い残し、
喪服を着て家を出た。
喪服である必要はなかったが、
その格好がこれからやろうとしていることにふさわしいと思えたのだ。

女が向かった先は、男が死の直前まで暮らしていたマンションだった。
葬儀会場は自宅から二駅離れた大きなホールだったから、
ここに親族は誰もいないことはわかっていた。
玄関の前に立ち、ディンプルキーを取り出すと鍵は開いた。
が、もう一つ、取手に暗証番号式の電子キーがかかっている。
しまった。さすがに、これは無理かもしれない。
女は諦めかけたが、一縷の望みをかけて番号を押すと
鍵は無機質な音を響かせて開いた。
まさか、と思った。
男は、家族に一体この番号をどう説明していたのだろう。
その数字は女の誕生日の日付だった。

夕闇に沈む廊下を抜けて、リビングに入った。
棚の上には美術館のように写真が並べられている。
それは女の知らない、男の半生だった。
不思議と初めて見る気がしなかった。
それはいつか女が想像した、男ならばきっと選択し、
歩んでいったであろう生の連なりだった。
ただそこに、自分だけが欠けていた。
女は、男とずっと一緒にいなかったし、一緒にいたような気がしていた。

星のない夜だった。
かつて男と、数え切れないほど行き来した通学路の川辺に女は座りこんでいた。
女の手元には、男の部屋から持ち出した、
最後に言葉を交わした日に差し出された小さな木箱がある。
草のない地面にオイルを巻き、躊躇なく火をつけた。
木箱は湿った空気の中であざやかに崩れていく。
中身が少し見えた。二人が書いた文字が、よじれるように消えていった。

喪服の中年女が何かを燃やしている姿は、
幸いにして誰にも見られていないようだった。
灰の散り際、あの時嗅いだ甘い匂いがしたような気がした。
涼しい風が、塵も何もかも運び去っていった。
ようやく、女は女だけになったのだ。
終わったものに名前をつけようと思ったが、何も思いつかなった。
しばらくその場にぼんやりとしていた。
灰と埃をたたき、立ち上がってふと思った。
私の家族の食事をつくらねば。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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勝浦雅彦 2018年3月4日

さよならエメラルド

    ストーリー 勝浦雅彦
       出演 石橋けい

市場でのパートを終え、帰路を急いでいた。
冬の西陽を受け、停泊する漁船のレーダーマストの影が長くなる。
まるで自分に向かって突き立てられたようなその輪郭から逃れ、
加工所で働く仲間と別れ、舫い杭に沿って進むと、
ぼうぼうと防風林に向かって吹き付ける海風にとらわれた。
暫くの間歩みを止め、風に混じって頭に響いてくる誰かの声に耳を傾けた。
尤もそれは傍目から見れば、
消え入りそうな自身のか細い声で独白をしているに過ぎなかったのだが。

「真瀬恭子さんと付き合っていたのは高一の時です。
はい、正直、地味だし、好みのタイプじゃなかったんですけど、
強引に告白されたもので。
同じ演劇部で、僕は演出の真似事を。
演技ですか?彼女の?ああ、評判でしたよ、
学園祭の「オズの魔法使い」のドロシー役。
堂々としてたな。いえ、もう僕は演劇はとっくに。
あの、何かしたんですか?彼女」

「彼女の事はもちろん覚えています。
私は新任で、部活の顧問も初めての年でした。
面白い子がいるなって。
正直、器量がいいわけでも、演技が上手いわけでもないんです。
ただ、舞台の上では奇妙なくらい度胸がありました。
そして全く周囲の空気を読まない子でしたわね。
どんな脚本でも主役をやりたがるんです。
そうそう、私のお母さんは舞台女優だ、とよく言ってました。
でも彼女は確か父子家庭だったはずなのですが」

「恭子の話を聞かせてくれ、なんて言うから焦っちゃいましたよ。
あの子、何をしたのかと。はい、恭子とは親友だったと私は思ってます。
でも今は全然。番号も変わって音信不通で。
四年前ぐらいから急にパッタリと。
ほら、あの子いろいろあったから。
はい、写真?いや、知らないです。誰ですか、この人?」

「真瀬さんがうちの劇団に在籍していたのは二年くらいだったでしょうか。
なんせ綺麗でパッと目を引くでしょう。
うまく育ててうちの看板に、なんて最初はね。
でも、演技がいただけなかった。
なんというか、基本はできているんですけど、
役を演じながら、その役自体を拒絶しているのが伝わってくるんです。
結局、自分しか好きじゃない、認めていない。
だから全部同じ演技に見えてくる。
ある時、彼女を主役のオーディションで落としたんです。
その時から、主役に選ばれた同僚に執拗に嫌がらせを。
それを止めようとした私に今度は、乱暴された、なんて言い出しましてね。
仕方なく辞めてもらいました」

「恭子に関しては、本当になんと申し上げていいか。
私もどこにいるのかすら把握できておりませんで。
中学の時にあれの母親と離婚しましてね。
正確に言えば、男と逃げたのです。
もちろん本人もショックだったようですが、
私も思春期の娘と二人で不安な日々を生きてきたのです。
恭子は私似で、母親に全く似ていない。
それが随分不満のようでした。あれの母親は派手な顔立ちでしたから。
妻が舞台女優?いや、私からすれば遊びのようなものでしたよ。
ただ、恭子が演劇にのめり込んでいったのはその影響は否めないと思います。
ある時、ひどく真剣な表情で私に言ったのです。
名前が売れて、人目を集めるようになれば、
どこかで母親が見ていてくれるかな、と。
今でも後悔しているのです。あの時、戯言だと曖昧に頷いてしまったことを」

「恭子?ああ、カリンちゃんのことね。覚えてる。美人さんだったもの。
うちの店には三ヶ月もいなかったかな。うん、お金、困ってたみたい。
騙されたって言ってた。ある日何も言わずに出勤しなくなって。
そんな子多いんだけどね。
あの、失礼ですけど?ファン?一度彼女の舞台をみて?
へえ、あの子お芝居なんてやってたの。初耳。
でも、もう誰も覚えていなくても、たった一人でも
お客さんみたいな人がいたら、やってきた甲斐はあったのかもね」

古いモルタル造の自宅に着くと周囲をくまなく確認して白いマスクを外し、
ゆっくり引き戸を開けた。
この島に辿り着いて四年になるが、この習慣は変わらない。
日の落ちた廊下の窓に映った自分の顔を見つめる。
あんなに望んだ私の顔。
だが、海辺の日差しに晒され、シミが色濃くなっているのがわかる。
物音に気づいた三歳の娘が飛び出してくる。
まるで自分に似ていない。
俺に似たんだろう、すまないな、と笑う夫を、
この先好きになれる自信がいまだになかった。

夕食後、洗濯物を畳んでいると、テレビから聞き慣れた懐かしい旋律が流れた。
「オズの魔法使い」。ブロードウェィの劇団が来日するらしい。
可愛らしい女の子の歌が耳に入ってくる。
しばらくぼんやり眺めていたが、
壁の時計を見やり、慌ててスイッチを切ると、
夢と冒険の世界は呆気なく消えた。
娘の服を脱がし風呂に入れる。一緒に湯船につかった。
体が熱くなるよりも先に、頬にあたたかいものが流れた。
娘がじっと不思議そうに覗き込んでくる。
あなたはよくやった。ただ、そう言って欲しかった。
おどけたふりをして、湯に浮かんだ水鉄砲のおもちゃで自分の涙を撃った。



出演者情報:石橋けい 03-5827-0632 吉住モータース

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勝浦雅彦 2016年10月2日

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『ウルグアイの犬』

     ストーリー 勝浦雅彦
       出演 地曵豪

「断尾って知ってる?犬の尻尾を、小さいうちに切り落としてしまうの。」

「生憎うちは妹にアレルギーがあってペットは飼えなかったから。詳しくないんだ。
なぜそんなことを?」

「ヨーロッパで生まれた風習らしいんだけど、予防医学や衛生面でのメリットもあるらしいの。
でも、本当の理由は、人間が定めた理想的な犬の姿にただ近づけたい、
ってことみたい。そして子犬のうちに麻酔もかけずに取ってしまうんだって。
幼犬は痛覚が発達していないから麻酔など要らない、って。ひどい話よね」

取り留めない会話が続いていた。
この店に呼び出された真意をはかりかねていた僕に、
「母がいなくなったの」と彼女はだしぬけに切り出した。
「おばさんが?」
彼女は頷いた。僕たちは5歳の頃からの幼馴染みだった。
とは言っても、もう彼女の母親の印象はおぼろげで、
母娘二人はよく似ている、という記憶だけが残っていた。

先々週の金曜日のことだった。
彼女は二年間付き合った恋人と結婚しようと考えている、
と母親に伝えた。多くの場合、娘の結婚という事実を深刻かつ重大に受け止めるのは、父親だ。
だから、彼女は極めてフランクに、当然こちら側の味方として母親にその意思を伝えたつもりだった。
母親はいつもと変わらずに、あらそうなの、とか、忙しくなるわね、と応じていた。
父親は出張で不在だった。

翌朝、彼女が少し遅めに目を覚ますと、もう母親はいなかった。
極めて最小限のものが持ち出された形跡があった。
翌日に父親が帰宅しても、母親からは一切連絡がなかった。三日目には親戚に電話をかけ、
四日目には知りうる限りの友人に連絡を試みた。しかし、誰も母親とここ数か月連絡をとっていなかったし、
みな一様に「あの人のことだから心配ない」という口調で応じた。彼女は戸惑った。
専業主婦だった母が一人で出かけることはまれだったし、むろん無断外泊をした記憶などない。

父親の態度も不思議だった。最初は戸惑いを見せていたが、
解決には時間がかかるだろう、といった趣旨の発言をした後は本来の機械のように
規則的で几帳面な生活リズムの中へ戻って行った。
まるでコンピューターが母の不在、という不規則なプログラムを克服したように。

二杯目のコーヒーが運ばれてくると、彼女はその位置を修正し、テーブルの
中央に茶色い封筒を置いた。
「母がいなくなって思う以上に私は慌てていたのね、
自分の部屋の鏡台にこれがあることに気づくまでずいぶんかかった」
「これは?読んでいいの?」
「ええ。ただ、読めば私や、私の家族をこれまでと少し違った目で見る事になるかもしれない」

封筒を開けると、「誓約書」の文字があらわれた。

日付は28年前。男性のものらしき、硬く筆圧の高い文字が並んでいる。
目で追うと彼女の言ってる意味が少しづつわかってきた。
それは彼女の父親と母親の間で、結婚前に取り交わされた文字通りの誓約書だった。

ひとつ、夫は妻を愛し、妻は夫を愛すること
ひとつ、夫は生涯勤労し、妻は専業主婦として家庭を取り纏めること。
ひとつ、夫と妻は、お互いの尊敬において夜の営みを怠らないこと。
ひとつ、夫の年収と妻の就労予定がないことを考慮し、子はひとりに留めること・・・。

具体的な夜の営みの回数から、年に何回家族旅行をすべきか。
何年後に住宅を買い、どのタイプの車を買うべきか、
飼い犬の犬種にいたるまで具体的な条文が何十条もならんでいた。
読み進めながら、少し手に汗が滲んだ。
そこに書かれていることは、僕が知りうる限りの彼女の家の事情そのものだった。

「私の家族は、その28年前に定められた航路を寸分たがわず飛び続けていた」
「でも、君のお母さんはいなくなった」
「最後のページを見て」
最後の条文にはこう書かれていた。

ひとつ、この誓約書の内容は、子の家庭からの独立をもって終了する。

「なぜ、父と母がこんな契約を結んだのかはわからない。
そしてどうして、この事を私に明らかにしたのかも」

「心当たりはないの?おばさんがどこに行ったのか」

「ないわ。あの人は家族にとって理想的な母だった。
父のことを支え、私にも愛情を注ぎ、決して我を出すこともなかった。
家族にとって不可欠な人だった。
でも、母がこの先、どこへ行って、何を見ようとしているのか、
私にはひとつも思い浮かばなかった」

去り際、立ち上がった彼女の携帯に着信があった。
どうやら婚約者からのようだった。その頬にかすかな震えが見て取れた。
何か言葉をかけようと思ったが、
少し開いたドアの向こうからうねるような雨の音がやってきた。

「ひとつだけ聞いていい?女性を殴ったことはある?」
「ん、ないよ」
「そう。普通そうよね」
「もしかして、婚約者がそういう人だと?」
「その逆。そんなことしたら後悔して自殺しちゃいそうな人。
とりあえず彼にはできるだけ早く、機械みたいに生きてる父親と、
どこにいるのかわからない母親が私の家族の本当の姿だと知ってもらわないと」
「健闘を祈るよ」
「時々、思うわ。あなたと付き合わなくて、よかった、と。
死ぬほど好きになることはなくても、死ぬほど憎むこともないものね」

どう答えていいかわからず、
「君にもし何かあったとき、このクッションくらいの弾力で
受け止めることはできると思う」
座ったままソファを手で弾きながら、僕は言った。

振り返る彼女の唇がかすかに動いた、
たぶん「ありがとう」、と言ったのだろうけど、
もう確かめる術はなかった。

後日、彼女からメールが送られてきた。
母親から1通の絵葉書が届いたという。
メッセージは無く、
裏面にどこかの草原に落ちる巨大な夕日の写真が印刷されていたという。

「どうやらそこは、ウルグアイのパンパという草原のようです」

ウルグアイ?パンパ?

「・・・仮に母が意志をもってその場所に辿り着いたのだとしたら、
そこに至る道程は見当もつきません。
ただ、ウルグアイ、という言葉を目にして思い出したことが一つあります。
かつて二人でこんな話をしたのです。
『東京からいちばん遠い、地球の裏側は、どこなのか』、と。
そのとき母は炊事の手を止め、しばらくぼんやりと宙をみつめて考え込んでいました。私がからかうと、母は我に返り、ころころと笑ったのでした。

もし、地球の裏側で母があるべき自分の姿を見つけたのだとしたら、
私は母の帰還を望むべくもありません。
そうやって私も、家族も、ようやく自然な姿に戻っていくのだと考えています。
結婚式は3月に行いますが、幼馴染とはいえ異性の招待は控えようと思います。
ごめんなさいね、またいつか」

文章はそう終わっていた。

東京からいちばん遠い、地球の裏側。

僕は想像する。

ウルグアイの草原に、一人の女性が立っている。
娘によく似た、二重の濃いまつ毛が揺れている。
それはもしかしたら、
よく似た風土に属した草原を混同して想像しているのかもしれないが、
そんなことはどうでもいい。最果ての地、僕の中のパンパはここだ。

彼女は僕の遠い記憶にあるような、
ツイードやシルクの七分袖など着ない。
もうあんな品のいい恰好をする必要はない。
大胆にカットされた麻のワンピースを身にまとっている。

彼女は失ったものを取り戻している、
あるいは、本当は何も失っていなかったことに気づく。
彼女は歩き続ける。
吹き抜ける強い風に歩調を緩め、
バランスを崩しながら、その姿は茜差す夕日に消えていく。

誰もその人から、何かを奪うことなどできないのだ。

出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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勝浦雅彦 2016年5月1日

katuura1605

貝殻から

    ストーリー 勝浦雅彦
      出演 西尾まり

16歳になったある日、私は貝殻から出た。
そしてそれなりの決意をもって清廉潔白に生きていくことを決めたのだ。

きっかけは彼氏の、
いや彼氏と呼ぶにはややこしい感情が渦巻きすぎていた込山が、
文化祭の打ち上げを終えた帰り、
私を五反田のラブホテルに連れ込もうとしたことにある。

入り口の前で込山が私の腕をありったけの力で引っ張って連れ込もうとしたときに、
ああ、こいつの全力はこんなもんかと思い、
死んだ祖父に習った技で
(変わった人で厚木の自衛隊で護身術の講習をたまに受けていた)
腕をひねり返したら、「キャンキャン」という
犬の悲鳴とほぼ同音域の叫び声をあげて、ガードレールによろけて転げた。

それがあまりにゆっくりあざやかに見えたので、
あ、ほんとうにドラマみたいに必殺技ってスローモーションになるんだ、と
私は思った。

ちょっと上気しながら、黄色く煤けた公営住宅に小走りで帰り、
リビングでマルボロを吸っていた母に、
「アッタマきた!」
と私は叫んだのである。

思いつく限り込山の悪口を並べる私を、ニヤニヤ見つめながら母は
「その子と、あんた、悪くない組みあわせだと思うよ」
と、火の付いたタバコの灰皿に、ウーロン茶をかけながら言った。

「何でお似合い?」
「その人を語ってる表情で、まあわかるもんよ」
と、ぽんと私の肩に手を置き、

「あたしと口きかないキャンペーン、やめたんだ?」
と言った。私はしまったと思った。母と会話をするのは、3か月ぶりだった。

「寿司が来る時間だから、会いたくなきゃ部屋行ってな」

「寿司」とは出前のことではない、母の恋人のことである。
いつも寿司をお土産に持って家にくるので、そういうあだ名になった。
最初は銀座の有名な寿司屋の折り詰を持ってきたが、
次からだんだんランクが落ちて、半年たった今は回転ずしの
自分でぎゅうぎゅう詰める方式の箱を持ってくる。
来るのはきまって土曜日の夜と決まっていた。
名字はタカハシさんだった。名前はすぐ忘れた。もう50歳くらいに見えた。

ジャージに着替えると込山から、メールが来た。
団地のすぐそばの公園で待っている、という。
今出かけたら、寿司を避ける意思表示のようだが、構わず私はドアを開けた。

公園の奥まった小高い丘のベンチに、
込山はしおらしい顔で座っていた。よく見ると東欧種の鼻の広がった犬に似ている。
「さっきはごめん。やっぱり五反田ってのはムードが・・・」
「そういうことじゃない」
私は遮った。
「込山は潔くなかった」
「なんだよ、それ」
「世界には73億人がいて、日本には1億2千万人がいるわけ。
その中で知り合ったあたしたちが、
あの日五反田でそういうことをすることに、
あなたは何の必然性も用意してくれなかった」
「そんな難しいこと・・・」
「面倒でしょ?でも、あんたも面倒な女を好きになった面倒さを受け入れて、
イチからやり直しなさい」
気落ちした様子の込山に、少し優しい口調で私はささやいた。
「でも、おかげでちょっとよくなった事もある、ありがとう」
「え、それはどういう・・・」
「さ、今日は帰って。ごめん、ここ、暗さといい、人気のなさといい、
ムードばっちりの環境だけど、キスとかしないから。そういう気分じゃないから」

とぼとぼ帰っていく込山を見送ったあと、しばらくベンチに佇んでいた。
と、遠くに小さな赤い灯がみえた。徐々に近づいてくる。
それが、母が吸う煙草の火だと気づいたとき、
私は全身の緊張がとけていく感覚を味わった。

暗い海の向こうで、灯台の火を見つけた船乗りはきっとそれを希望と呼んだだろう。
希望は私の隣にやってきた。

「よく来たね、昔はここ。じいちゃんが生きてるときは」
「うん」
「彼氏は?」
私は、彼氏じゃないと言おうとしてもうどうでもよくなって、
「帰った」とだけ言った。
「隣いい?」
「いいよ」
母はベンチに座ると、あーっとため息を漏らした。
「座っちゃいけないベンチってあるんだよねえ。
こっちが空いててさあどうぞ、って言ったって、
あっちは別の誰かの隣に座ってたりさ」

私はなぜ母はここにいるんだろう、と思った。
そうか、寿司は来なかったか。
そして、あのぎゅうぎゅうな回転寿司の折詰も、きっともう来ない。

いったん手に持ったタバコに火をつけるのを留めて、
「クソッ」と母はつぶやいた。
それでも母はきれいだった。
多分、この人はいつか剥がれ落ちてしまう儚いものをまき散らしながらでないと
前に進めないのだ。

「あんたさ、大学行きたいっていってたっけ?」
「そんな話、したことまだないでしょ」
「口きかなかったからよ。
流れ作業みたいにあたしの娘が、ガッコンガッコンベルトを運ばれてくのは
気持ち悪いと思ってたけど、
好きにしなよ。別に水商売したってかまやしないんだからさ」
「その年で?いくつよ」
「この年だからよ。世間には同情したくてうずうずしてる人たちが
いっぱいいるからね。
本当はたいして差なんてないんだよ。分かり合えないのは、
もっと高いビルの展望台のようなところにいて、人が虫けらみたいに見えて、
はじめて無責任な判断をくだせるやつら。
勇気ある決断は、弱い人間にしかできないってことをわかろうともしない人たち。
でもあたしたちのためなら、喜んでそいつらに同情されるよ。そのほうが健全だもの」

母と私はいつしか、手を握り合っていた。
小さな頃から冷たいと記憶していたその手の甲は驚くほど熱かった。
怒っているのだ、きっと自分自身に。
そのエネルギーを必死に体全体で受け止めようとしている。
ふと、世界のありとあらゆる不自由さ、理不尽さ、不条理を、
包み込んで生きていくことが、
私の望む潔さなのではないか、と思った。
ベンチの周りをブラケットの灯が照らしていた。私たちは漂っていたが、
不安ではなかった。

16歳になったある日私は、貝殻から出た。
そしてそれなりの決意をもって清廉潔白に生きていくことを決めたのだ。母のように。

出演者情報:西尾まり 30-5423-5904 シスカンパニー

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勝浦雅彦 2015年10月4日

katsuura1510

幻の炎

      ストーリー 勝浦雅彦
         出演 石飛幸治

テーブルの上で小さな燭台の火が揺れている。
店には雄一たちの他に、客は誰もいなかった。
「ようやく連絡が取れたと思ったら、この店だもん。びっくりしちゃった」
咲枝は屈託なくえくぼを見せる。
自分の妻なのに、雄一はどんな顔で向き合えばいいのかわからなかった。

「ひとつ聞いていい?」
「ん?」
「なんでそんな派手な服を着て来たの?」
咲枝は赤に白いラインの入った鮮やかなワンピースを着ていた。
「え、だって可愛いから。好きでしょ、こういうの」
雄一は瞬時に苛立ちを覚え、思わず語気を強めた。
「あのなあ、嫌みかよ。旦那が荷物を持って出ていき、
もう三カ月も連絡がありません。
急に話があるから、と初めて出会った店に呼び出しました。
これでさ、何を話すと思ったの?」
咲枝は黙っている。
「どうしてそうなんだよ、そもそも勝手なのは俺なんだから、
怒ったり、問いつめたりしたって」
遮るように咲枝はつぶやいた。
「最後・・・」
「え?」
「最後かもって思って、着てきた」

咲枝と付き合いだして一年半で結婚を持ち出されたとき、雄一は即座に断った。
好き嫌いではなかった。不完全な状態のまま型に組み込まれ、
足下だけが固まっていくことが想像できなかった。
咲枝の「そのふわふわした感じ、二人ならはやく抜け出せるかもよ」
という一言が雄一を翻意させた。逃げ道を探してもいた。
そうして、二人は式も挙げず、周囲にも殆ど知らせることもなく、
紙とボールペンと判子だけで夫婦になった。

「・・・別れない」
「え?」
「私、別れないよ」
「やめろよ、そういうの。なんかさ、怖いよ。
これからどうする?定職についていない夫。
それを支える妻、そんなありがちな構図が美しいのはせいぜい20代までだろ。
第一、さっきこれで最後かもしれないって自分で言ったじゃないか」
「でも、別れられないもん」
この感じだ、と雄一は思った。目の前にいる、触れ合ってもいる、
だが、現実感が無くなっていく。いつしか雄一は目の前にいる咲枝を、
妻でも、女でもない得体のしれない生き物のように感じ始めていた。
二年をかけてお互い違う何かに変わってしまったのだ。

「終わ・・・」
雄一の口が、そうひらきかけたとき、何かが顔に投げつけられた。
呆気にとられる雄一を置いて、咲枝は店の外に弾けるように飛び出した。
カツンッ、カツンッ、カツンッ・・・
階段を降りる聞き慣れたせっかちな足音が遠ざかり、
手元には白い封筒が残された。ひらくと、離婚届が入っていた。
咲枝の文字は薄く角張っていた。こんな字だったかな、と思った。
いつしか燭台の炎は消えていた。
よく見ると、それは紙でつくられた炎がランプの灯で揺れていただけだった。

区役所に向かうバスの中で、雄一は封筒をひらいた。
雄一と咲枝の名前が並んでいる。「離婚」という文字がなければ、
仲良くそこに座っているようにも見える。
窓の外は、赤や黄色の大小の風船をもつ親子連れが目に付いた。
きっと何かのイベントがあるのだろう。
ふと、咲枝の旧姓欄の名前が松岡のままであることに
気づいた。しまった。たしかここは本来咲枝の旧姓である高田
が入るのではなかったか。
これが書き損じの場合、どうなるのだろう。まさかもう一度書いてもらう?
雄一はだんだん腹がたってきた。それは咲枝に対してというよりは、
休日のバスの中でこんなことを考えている自分に対してだった。

「松岡さん、松岡さーん」
老齢の係員が大きな声で雄一を呼び出した。
「松岡さん、大変申し上げにくいのですが」
「何か・・・」
「離婚届は無効になります」
目の前が真っ暗になった、またやり直しか。
「あ、それはその書き損じが・・・?」
「いえ、違います。松岡さんは、結婚されてないんです」
雄一は一瞬、その言葉の意味がわからなかった。
結婚・・・していない・・・?
「この二年前の日付に、婚姻届が出された記録はありませんでした。
ですので戸籍上、奥さんとはご夫婦ではありません。
結婚されていない以上、離婚もできないんです。
失礼ですが今まで、住民票や謄本をとられたことはなかったのでしょうか」
思い当る節はあった。すべて咲枝に任せていた。保険も、手続きも。
蒼白の雄一に、係員は付け加えた。
「三年たてば、事実婚という考えも出てくるのですが、それは民法上の・・・」
その言葉を言い終わる前に、雄一は窓口を離れていた。

陽が落ち、赤く染まった道を雄一は歩いていた。
ひんやりしたアパートの階段を登る。カン、カン、カン・・・。
見慣れたドアはそのままだったが、人の気配はなく、
取り外された表札の白い跡が目に痛かった。
咲枝とかわした会話が脳裏をよぎった。

「私、明日一人で出してくるよ。婚姻届」
「え、いいよ。二人で日を決めて出しに行こうよ」
「日っていつ?」
「え?」
「雄君みてるとね、その気はあるんだけど、足が動かないんだろうなって思う。
ほら、よく子どもがエスカレーターから降りる最後の一歩が出なくて
戸惑ってるときあるでしょ、あんな感じ」
「俺はガキかよ」
「男の人の方があるんじゃないかって。どうしても最後の一歩が出ないこと。
紙一枚のことなのにね。出してくるから家で待ってて。
帰ってきたら、お帰り、奥さん、って出迎えて」

別れられない、当たり前だ。一緒になってなかったんだから。
なぜ届けを出さなかった。どんな気持ちで毎日俺と過ごしてたんだ。
ただ、それを聞きたかった。
あったはずの二年間は幻のように消えた。咲枝も消えた。
あの夜、自分が吹き消したのだ。

玄関の前にしゃがみこんだ。動けなかった。
せめて、あのせっかちな階段の音が聞こえないかと、耳をすませてみたが、
夕闇の住宅街を切り裂く風だけが、雄一の肩先を通りすぎていった。

出演者情報:石飛幸治 http://www.studio-life.com スタジオライフ

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