小野田隆雄 2014年1月12日

名月、赤城山
     
      ストーリー 小野田隆雄
         出演 水下きよし

20代の終り頃、古い街道を歩くことを趣味にしていた。
9月の終りに、赤城山の見える宿場町の小さな民宿に泊った。
二階の部屋だった。
妙に暑い日で、夜になっても、やけに蚊が多かった。

寝る前に冷や酒を注文して飲んでいた。
つまみはカラシ菜という、ほろ苦い葉で、
ゆでてカツオブシがかけてあった。
おぼろ月夜で、ガラス戸の外には赤城山の大きなシルエットが
青く見えた。

そのとき、民宿のおカミさんが階段を昇ってやって来た。
そして言った。
「カヤでもつろうかね」
そして白いカヤをつり始めた。
私は窓ぎわに茶ぶ台を寄せて飲んでいた。
カヤをつりながら、おカミさんが言った。
「このカヤは、バカな息子が使っていてね。
 いまは、池袋にいるんだけど、さっぱり帰ってこない。
 ヤクザなんだ。マツバ会に入ったとか、組を出たとか、
 そんな噂ばかりさ。ほら、カヤつったからカヤの中で飲みな。
 セガレも、そうやって飲んでたよ」

茶ぶ台をカヤの中に移して、また飲んでいると、
おカミさんが、もう一本トックリを持ってきてくれた。
そして言った。
「昔、国定忠治が赤城山でつかまって、藤丸かごに乗せられてさ、
 この街道を通ったのさ。
 そのとき、うちの祖先が忠治に、水を飲ませてやったんだけどね
 実は水じゃなくて酒だったんだ。
 そのせいかねえ、この頃、セガレの夢を見るのさ。
 セガレが藤丸かごに乗せられて、
 両手をしばられて家に帰ってくるんだよ。変な夢だねえ」

私はおカミさんに、一緒に飲みませんかと言ってみた。
おカミさんはアハハと笑って階段を降りていったが、
しばらくすると、トックリをもう一本と、
ヤマメを焼いたのを持って昇ってきた。

それから二人でカヤの中で、酒盛りをした。
「明りを消してさ、月明りで飲もうかね。いいもんだよ。
セガレもそうやっていた」
それで、電燈を消して、月明りで飲んだ。
ガラス戸の外に赤城山が、月の光のせいか、
ものすごく近く見えるようになった。
「ほら、いいもんだろう?」
とおカミさんが言った。
茶ぶ台をはさんで、差し向かい。
おカミさんは、かっぽう着から、
長袖の白いワンピースに着替えていた。
「さあ、飲んだ、飲んだ。おしゃくするよ」
おかみさんが言った。

そのとき、ガラス戸の外で、五位さぎという鳥が、
「ギエッ、ギエッ」と鳴いて飛んでいく声が聞えてきた。

出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/


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小野田隆雄 2013年1月6日

別れる言葉

          ストーリー 小野田隆雄
             出演 長野里美

ひとは別れるとき、
誰かに何かを言い残す。
黙って別れてしまって
もしも、自分がいなくなったことに
気づいてくれるひとがいなかったら
それは、とても寂しいことかもしれない。
けれど誰かが自分のことを、いつまでも
きちんと憶えていてくれたら
それは、とてもうれしいと思う。
次の文章は、もうはるかな昔、
私が美術大学の学生だった頃に、
後輩からもらった手紙である。

白いコスモスの花を
青い花瓶にいけて
もう、10日がたちました。
花びらは畳に落ちて
ひからびてしまいました。
コスモスを見つめて
どこにも出かけないで
黒いセーターを着て
日本茶ばかり飲んでいました。
フランス語の勉強は止めて
古いプレーヤーで、
シューベルトの「冬の旅」を、
ぼんやり聴き続けていました。
ある雨あがりの日、空を見て
南の町へ引っ越そうと思いました。
どこか、岬の見える南の町へ。
室戸(むろと)岬、足摺(あしずり)岬、都井(とい)岬、
佐多(さた)岬、枕崎(まくらざき)。
中学時代の学習日本地図を、
昨夜は、ずっと眺めていました。
旅立つ日、あなたに、
この手紙を出します。
短かった。けれど、とてもすてきだった日々。
でも、別れます。あなたは、まぶしすぎるんです。
すばらしい青春の思い出を、ありがとう。
大丈夫、大丈夫。私は働いて、
ときおり絵を書いて、生きていきます。
いつか、長い歳月のあとで、
お会いする日がくるかもしれません。
私のことを忘れないでください。
あなたが憶えていてくれると思うと、
そのことが強い支えになるのです。
いつも、わがままばかり言っていた私の、
これが最後のわがままです。
さようなら。

……2歳年下の彼女は、秋に咲く花のように
せつない感じの少女だった。けれど、
雨や風には折れないような、
しなやかな強さがあった。
私は、そんな彼女が好きだった。
ほかの友人たちは、それを恋と呼んでいた。
女性同士の恋であると。
けれど 私は友情だと思っていた。

思えば、彼女の手に触れたこともなかった。
ある秋の終りに、
彼女が突然に私の前から消えて、
そのまま、なんの音沙汰も無しに
数十年が過ぎてしまった。
私は結婚し、専業主婦となり、
すでに私の娘が、あの頃の
彼女の年齢になってしまった。
けれど、私は彼女を忘れていない。
そして彼女も、私のことを
憶えていると信じている。
思い出は、すべて現実から離れていく。
だから、人の心を支えてくれるのだと思う。

いつかある日、誰でもみんな
愛する人たちに別れのあいさつをする。
「もう、私のことは忘れておくれ、
ありがとう、楽しい人生だった。
さようなら」、と。

出演者情報:長野里美 株式会社 融合事務所所属:http://www.yougooffice.com/

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小野田隆雄さんの「職業、コピーライター」

端正でひそやかに面白い本です。
2012年11月7日、つまり明日発売です。
本屋で見つけたらお手に取ってみてください。

著者:小野田隆雄
単行本:245ページ
発行所:バジリコ株式会社
発売日:2012年11月7日

第1章 新米宣伝文案制作者
第2章 女性専科のコピーライター
第3章 リッチでもないのに
第4章 オノダ、独立する
第5章 ウイスキーと草の絵本
第6章 恋は、遠い日の花火ではない。

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小野田隆雄 2012年7月1日

ミモザ
      ストーリー 小野田隆雄       
         出演 水下きよし

タンブラーに、氷を2~3個入れる。
そこにウォッカを、適量注ぐ。
そしてオレンジジュースを、その上から満たす。
最後にゆっくり、マドラーでかきまわす。
こうして、スクリュードライバーと呼ばれる
カクテルが出来あがる。
さわやかで甘い口あたり。
けれど、飲み過ぎるとこわい。
アルコール度数は、高いカクテルである。
60年代のアメリカでは、
マダムキラーのカクテルと呼ばれた。
スクリュードライバーのベースはウォッカであるが、
ベースをジンに変えると
オレンジ・ブロッサムと呼ばれるカクテルになる。
また、ベースをシャンパンに変えると、
ミモザと呼ばれる、マイルドなカクテルになる。

30代の終り、まだ会社員であった頃、
ロスアンゼルス空港から、夕刻にJALに乗った。
撮影の帰りのひとり旅、エコノミークラスだった。
飛行機で長時間、移動する時は、
たいがいウイスキーの水割りを飲む。
そしてクラシックかジャズを聞きながら眠る。
メロディだけで言葉がなく、
音楽として抽象性の高いことが、
頭をぼんやりさせ、眠りに誘ってくれる。
ところが、あの日、ロスからの帰りの飛行機では
ひどく、くたびれていて、
やさしいアルコール飲料が欲しくなった。
その時、ミモザを思い出した。
その判断は間違っていなかったと思うのだが、
乗務員に飲みものをオーダーする時、
私はミスを犯した。
ウォッカのミニボトルと、オレンジジュースと、
氷の入ったグラスと、水を注文したのである。
この素材で作れるのは、スクリュードライバーである。
食事の後、私はミモザを作って飲んだつもりで、
スクリュードライバーを飲んだ。
おいしかった。
もちろん私は、自分のミスに気づいていない。
私は、早いピッチで、たっぷり二杯分を飲んだ。
早いテンポで睡魔が襲ってきた。
眠る前に、顔を洗おうと思った。
お手洗いが空いているのを確認して、席を立った。
ところが、飛行機の後方部にあるお手洗いに行ってみると、
すべて、ふさがっていた。
そして、淡いオレンジ色のブラウスを着た、
髪の毛が銀色の年老いた外国人の女性が、
お手洗いの通路に立っていた。
彼女が私に言った。
「ドアがあかない。入りたいのにドアがあかないの」
私は単語をつなぎ合わせるようにして、言った。
「いまは、ふさがっています。待ちましょう」
けれど老婦人は、ブラウスの両手を広げて、私に言う。
「入れないの。困ったわ。プリーズ、ヘルプミー」
そしてヘルプを繰り返す。ヘルプ、ヘルプ。
私は、なんだか足元がふらふらしてきた。
老婦人のブラウスの色が、
カクテルのミモザの色と、正確に言えば、
ミモザのつもりで飲んでいた
スクリュードライバーの色と、同じであることも、
ますます気分を混乱させた。
眼の前が、暗くなってきた。
そのうち飛行機が大きく揺れた。私は倒れた。
ほんとうは飛行機が揺れたのではなく、
私が貧血症状を起して、気を失ったのである。
気がつくと、
エコノミークラスの空いているシートを、
いくつか倒した上に寝かされていた。
額には、冷たいタオルが乗せられている。
女性の乗務員が、私の鼻の上に手をかざして、
「あっ、大丈夫。息をしている」と、言った。
その声を聞きながら、自分がミモザではなく
大量のスクリュードライバーを
飲んでしまったことに、やっと気づいた。

ふと、私は思った。
「あの老婦人は、無事にお手洗いに入れたのかな。
いや、まてよ、ほんとうに彼女は、
存在したのかな。もしかしたら、
昔、マダムキラーと呼ばれたカクテルに、
気まぐれに、復讐されたのかもしれないぞ。」
眼の前に、黄色いブラウスがひらひらして、
私は、また眼を閉じた。
            

出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/

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小野田隆雄 2012年1月8日

銀座の柳

          ストーリー 小野田隆雄
             出演 坂東工

花札という日本で生まれたカルタがある。
1月から12月までを、12種類の植物で表現し、
それぞれ4枚ずつ、合計48枚でひと組となっている。
1月が松、2月が梅、3月が桜、4月が藤。
5月かきつばた、6月ぼたん、7月萩(はぎ)、8月すすき。
9月は菊、10月はもみじ、11月は柳、
そして、おわりの12月は桐(きり)である。
ピンからキリまで、といって、
ものの最初をピンといい、おしまいをキリという。
だから12月は桐となった。
つまり江戸っ子のしゃれである。
花札は文化文政の頃に誕生した遊びである。

江戸の日本橋から始まる東海道の
京橋から新橋までの区間は、その昔から
銀座通りと呼ばれることも多かった。
現在の銀座2丁目あたりに
銀貨(ぎんか)を作る銀座という役所があったからである。
この通りは明治時代を迎えると、
西洋風の赤レンガ通りに変り、
文明開化のシンボルになった。
広い道路も出来た。道路には並木も植えられた。
植えられたのは、松と桜ともみじである。
やがてハイカラな銀座は評判を呼んで、
訪れる人もふえ、見物客を乗せる馬車もふえた。
すると、並木の木々が枯れ始めた。
松も桜も、そしてもみじも、美しい樹木だが、
人混みを嫌う。根元を踏まれるのも嫌う。
そこで銀座の人たちは、代りに柳を植え始めた。
汐留川、京橋川、三十間(さんじゅつけん)堀川(ぼりがわ)、そしてお濠(ほり)など、
もともと銀座は運河の多い街だった。
水に柳はつきものである。そして柳は強い木である。
時代が進むにつれて、銀座の柳は名物になった。

ところが大正時代が終る頃に、
お役人たちが不思議なことを言い出した。
銀座通りの柳を、イチョウに変えると言うのである。
銀座通りの商店のご主人たちは猛反対をした。
いまや日本中に知れわたった銀座の柳、
それを捨てるとは何故(なにゆえ)ですか。
お役人は、柳の落葉(おちば)がよくないと言った。
しかし、イチョウだって落葉樹(らくようじゅ)である。
おおもめにもめたが、役人のヤボには勝てず、
すべて柳は抜き取られ、イチョウが植えられた。
それが大正11年、1922年だった。
そして次の年、大正12年、関東大震災に襲われた。
植え変えたばかりのイチョウは全滅したのである。

「花札の遊びもしらない田舎者が、
よけいなことをするから、こんなことになった」
などと震災後の居酒屋で、焼酎(しょうちゅう)を飲みながら、
江戸っ子の生き残りたちが、いっていたそうである。
せめてイチョウのかわりに、
梅か桐(きり)でも、植えればよかったのかもしれない。

関東大震災のあと、昭和時代になると、
いつのまにか、銀座通りには柳が戻ってきた。
そしてそのまま、柳は全盛になっていった。
太平洋戦争で一時、焼野原になったが、
また、柳は復活した。
けれど、なぜだろう。お役人たちは、
東京オリンピックの前になると、
銀座通りから、柳と都電を取り払ってしまった。
「銀座の中央通りはね、国道だからね。
商店街の意見なんて、あなた、
お役人は聞きませんよ」
銀座7丁目のバーで、
そんな話を聞いたことがある。

21世紀のいま、銀座通りには、モミの木が植わっている。
いつか、このモミの木が大きくなったら、
クリスマスの飾りでもつくろうと、
花札(はなふだ)を知らないお役人が、考えているのだろうか。

出演者情報:坂東工 BIRD LABEL所属

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小野田隆雄 2011年8月14日



風の祭

             ストーリー 小野田隆雄
                出演 長野里美

立春の日から数えて二百十日めは
ちょうど九月の初めに当る。
この季節になると、南の海から日本列島に
雨をともなう強い風が襲ってくる。
昔は野分と呼ばれ、現代では台風と呼ばれる。
おりしも農村では、
田んぼの稲が花をつけ始める頃である。
その白い小さな花が強い風で散ってしまうと
稲は実らず、収穫できなくなる。
そんなことがないように、
「どうぞ、強い風がやってきませんように」
農民たちの切実な祈りをこめたお祭りが
二百十日の前後に、この国では行われてきた。
その祭を、風祭(かざまつり)と呼ぶ。

地方によっては、この祭りの日には
竹竿(たけざお)の先に草を刈る鎌をつけ
その刃を風上に向けて、高々と屋根の上に立てる。
「この鎌で悪しき風を切ってしまえ」
そのような、おまじないである。

小田原から箱根山に向かって
昔の東海道は続いていた。
現在の国道一号線である。
この道路にそって箱根登山鉄道が走っている。
その電車で小田原からふたつめの駅が
風祭という名前である。

そのあたりは小田原市の郊外で、人家も多い。
そこから南へちょっと行けば、相模湾の海、
北へすこし登れば、もう山である。
けれども、この細長くひらけた平野も
ずっと古い時代には、田畑が広がり農家が並び
海沿いは漁村だったのだろう。
そして二百十日が近づく頃には
海からの強い風が吹き、ちぎれ雲が空を飛び、
田んぼの稲は波のようにゆれ動き、
家々の屋根には、草刈り鎌が並び立てられ、
夏の終りの光に、ギラギラひかったのだろう。

箱根登山鉄道に乗り、この駅を通るたびに、
私は昔の風祭のようすを空想するのだった。
それは、ちいさな楽しみだった。
ところが、つい最近、ほんとうのことを言えば
この話を書くにあたって、
次のことを知った。

鎌倉時代、この地域の地頭であった一族が、
風祭氏といった。その名前が地名として残り、
駅名になったのであると。
この事実を知った時、私は思った。
きっとこの一族は、心をこめて
風の祭をおこなってきたのだろう、
そして、よい人たちであったのだろうと。

出演者情報:長野里美 03-3794-1784 株式会社融合事務所所属


動画制作:庄司輝秋

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