田中真輝 2024年12月1日「煙草と5万円」

煙草と五万円

      ストーリー 田中真輝
      出演 大川泰樹

煙草に火をつけ、深々と煙を吸い込む。
薄暗いバーの店内。年季の入ったカウンターの上には、
ぞんざいに置かれた旧札ばかりの五万円。
くらり、とめまいがして、カウンターに手をついた。
なにか、大事なことを忘れているような気がする。
大丈夫、少しずつ思い出しますから、と遠くで誰かの声がする。

そういえば、あの夜、わたしはかなり酔っていた。
仕事でのミスをうじうじと思い返しながら、
惰性のようにグラスを空け続け、煙草を吸い続けていた。

カウンターの隣の席に座っていた女性が、
際限のない煙を嫌がってか席を移っていった。
このご時世、いくら煙草が吸える店だとは言え
ヘビースモーカーの肩身は狭い。

こんなものはいつだってやめられるんだ。
きっかけさえあればね。
誰に聞こえるともなく、つい言い訳をしたわたしに、
ふと、誰かが話しかけた。

では、きっかけを差し上げましょうか。
例えば、お客さんが次にうちにくるまで
煙草を吸わないでいられたら、五万円差し上げる、
と言ったらどうです?

え、と顔を上げると、店のマスターと目が合った。
シニア、というよりも老人と言った方がしっくりくる、
そんな枯れた雰囲気の男だった。

唐突にごめんなさい。
いや、わたしも同じような経験がありましてね。
と笑いながら、マスターは続ける。

例えば、二週間。二週間後にうちに来ていただくとして
それまで吸わないでいられたら、五万円です。
どうです? いいきっかけになりませんか?

マスターはそう言うと、
引き出しから茶封筒を出してカウンターに置いた。

そんなことをして、マスターにどんないいことがあるんだい。
意外な申し出に、わたしは思わず問いかけた。

いやね、実はこの五万円、ちょっとしたいわくつきでしてね。
そう言ってマスターは自分の昔話を始める。

わたしも禁煙をめぐって先輩と約束したことがありましてね。
二週間、煙草を吸わないでいれたら五万円やろう、と、そうです、
いま、わたしがお客さんに言ってるのと同じ約束です。
煙草なんて、すぐやめられる、やめられないやつの気が知れない、
そんなことを言っていた手前、どうにも引っ込みがつかなくてね、
その話に乗ったわけです。
そして二週間後、先輩に会ったわたしは、
一切煙草を吸わなかったことを伝えて、
無事、五万円を手に入れました。

しかしほんとのところは違いました。わたしはその約束をした
次の日から煙草を吸っていたんですからね。
次の日も、また次の日も、どうせわかりゃしないんだからと
毎日、いつも通り煙草を吸いました。
そうです、とんでもない嘘つきです。
その先輩は、若いわたしを思って、禁煙できるようにと
分の悪い賭けをしてくれたのに、
わたしときたら、そんな思いやりを踏みにじって、
五万円をせしめたわけです。

煙草なんて、もう見たくもない、そう言ったわたしに
五万円を渡したときの先輩の顔。
あの顔が、頭にこびりついて離れないんですよねえ。

遠い目をしたマスターの横顔に、一瞬影がさす。
その影に、深い後悔と絶望のようなものを見た気がして
ふと目を伏せる。

そのときせしめた五万円が、これです。
しかし、どうにも後味悪くてね。結局こうして使わずじまいです。
まあ、ちょっとした罪滅ぼしってやつです。
これであなたが煙草を辞められたら、この五万円も浮かばれる
ってもんです。

そういってマスターが差し出した茶封筒を改めて良く見てみると、
確かにかなり古びている。
いまのマスターの年齢からすると、相当昔の話のようだが、
あながち嘘でもなさそうだ。

わかりました。じゃあ、乗りましょう。
ただし、わたしは本気で禁煙したいんだ。
もちろん嘘なんてつきませんよ。
正々堂々と、二週間きっちり禁煙して、五万円、頂きましょう。

酔いに任せてそう啖呵を切ると、わたしは手にした煙草の、
息の根を止めるように灰皿に押し付けた。

二週間後、わたしは同じバーの同じ席に座って
マスターからの五万円を受け取る。
もちろん、煙草はやめてはいない。
やめてはいないが、やめたことになっている。
どうせわかりゃしないんだから、と思っている。

禁煙、おめでとうございます。わたしも、たいへんうれしいです。
そういうマスターの笑顔がなんだか変に見えたのは、
きっとわたしの歪んだ気持ちのせいだろう。
因果応報ってやつさと、心の中でつぶやく。

マスターの目が、店の明かりを捉えて、ちらりと光る。
わたし、こう思うんです。
約束っていうのは、一種の呪いなんじゃないかなってね。
約束した人を、何かに縛り付ける力がある。
そういえば、煙草ってのは、昔、呪術に使われていたそうですね。
煙草と悪魔、なんて話もありましたっけ。

そういいながら、マスターが火のついた煙草を勧めてくる。
いやわたしはもう、煙草なんて見たくもないんだ、とつぶやく。
しかし言葉とは裏腹に、わたしはマスターが差し出す煙草を、手に取っている。
そして、ゆっくりと口に運ぶと、深々と吸い込む。

くらり、と世界が傾いて、そのまま横ざまに倒れたと思った瞬間、
わたしはバーにいた。カウンターの内側に。
片手に煙草、片手にぼろぼろの茶封筒をもって。

ゆっくりと煙が漂う中、わたしは五万円を古びた茶封筒に入れ直し、
カウンターの下にある引き出しにしまいこむ。
そして、ふと思う。そろそろ、店を開ける時間だ。
代り映えのしないここでの仕事に就いて、もうずいぶん経つ。
この店に立ち始めたのが、いつからだったのか、もう忘れてしまった。
何か大切なことを忘れている、
そんな気持ちも、吐き出した煙と一緒に薄れて消えた。

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出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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田中真輝 2024年4月28日「上申ステップ」

上申ステップ

   ストーリー 田中真輝
   出演 大川泰樹

長い会議が終わり、
経営層に上申するための、来年度の戦略方針案がまとまった。
口々に、やれやれ、じゃあまた、などと言いながらも、
やっと熱気がこもった会議室を出ていく参加者たち。
その顔には、濃い疲労の陰だけではなく、互いの利害を調整し、
なんとか着地できたという満足感と開放感が滲んで見える。

いい気なものだ、と山本は思う。
そう、戦略本部課長補佐、山本シゲル49歳の仕事はここから始まるのだ。
山本の仕事は、現場会議でまとめられた方針案が
スムーズに承認されるために必要なステップを踏むことにある。
もちろん、承認プロセスは、今はやりのDXによってワークフロー化され、
承認権限を持つ管理職、経営層が順に承認していけば、
自動的に完了されるようになっている。
だが、ことはそう簡単ではない。
デジタル化され、体温の抜け落ちたパソコン画面の奥には、
暑苦しい人間関係が蠢いており、
往々にしてワークフローはシステムエラーではなく、
その軋轢によってストップするからだ。

だから山本は今日も、承認権限をもつ者の間を軽快なステップで駆け巡る。
戦略本部長と戦略推進委員会事務局長は同期でたいへん仲が悪い。
その間を、素早いスピンターンを駆使して往復する。
いがみ合う両者の承認を無事取り付けたら、
次は業務推進本部長のもとへランニングマンステップで駆けつけると、
長い愚痴をリズミカルな相槌で切り抜ける。
その姿はまるで頭のアイソレーションのようだ。
ついに承認を取り付けた山本は、
素早いステップバックからのサイドウォークで
滑るように社長秘書のもとへはせ参じ、ご機嫌を伺いながら、
隙をみてブロンクスステップからのウインドミルで書類を手渡し、
見事、承認をゲット。
ここぞの大技で、影で糸を引く大物を攻略したら、
あとはキレのあるシャッフルステップで
社長のイエスマンたちを魅了するだけだ。
こうして山本は、承認権を持つ人々の中で鮮やかに踊り続ける。
行って来い、行ったり来たりは日常茶飯事、
大切なことは、とにかくステップを止めないこと。
あっちへこっちへと淀みなく立ち回ることこそ、わが職分と自覚している。

そうして踊り続けるうちに、承認を得るというプロセスは目的化され、
ステップは複雑化し、スキルは研ぎ澄まされていく。
そして、プロセスの結果として何がもたらされるのかという、
本来あったであろうゴールは連続するムーブの中に溶けていく。
オフィスフロアをダンスフロアに変えながら山本は今日も踊り続ける。
パフォーマンスが続くステージの幕も、
社としての最終承認も、まだ降りない。
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出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属

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田中真輝 2023年9月24日「モヤモヤキッチン」

「モヤモヤキッチン」 

ストーリー 田中真輝
   出演 平間美貴

心にモヤモヤがたまってくると、
わたしはモヤモヤキッチンにいく。

その店は、わたしのモヤモヤを素敵な料理にしてくれるのだ。
さて今日のメニューは何だろう。

前菜は、ピリッと皮肉を効かせた、
部長のひとことテリーヌ。

そう、部長はいつも一言多い。
今日の提案よかったよー。
いつも、この調子で頼むよ。

そうだ、その一言が、わたしをモヤモヤさせて
いたのだ。こっちは、いつも全力だっての。
むしゃむしゃむしゃ。

続いては、元カレのインスタスープ。
匂わせアングルが香り立つポタージュ仕立て。

別に未練なんてないけれど、
別れてまだ間もないのに、
もうそんな笑顔できるんだ。ふーん。
ごくごくごく。

メインディッシュは、
友達が結婚したって噂、又聞きソテー。
バラ色のソースとともに。

親友だと思ってたのに、なんで直接連絡
くれなかったんだろう。素直におめでとうって
言いたかったのに、なんだか気がそがれてしまう。
そんな風に思ってしまう自分ってどうなの。
むしゃむしゃむしゃ。
モヤモヤを料理にして、どんどん平らげる。
辛いも、苦いも、酸っぱいも、ぜんぶ人生の味付けにして。
ひとつひとつ丁寧に味わえば、
ひとつひとつモヤモヤが溶けていく。

デザートは、甘い甘い片思いに、
自分を憐れむしょっぱい涙をひとしずく。

そうだ、何も始めなければ、何も壊れない、
そんな甘さに浸ってちゃだめなんだ。
ぱくぱくぱく。

言葉にならないモヤモヤを料理にして
味わい尽くせば、モヤモヤのモヤがすっきり
晴れていく。

ぜんぶおいしくいただきました。
ごちそうさまでした。
店を出たわたしは、ちょっと大きな歩幅で歩いていく。
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出演者情報:平間美貴 03-5456-3388 ヘリンボーン所属

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田中真輝 2023年3月19日「桜会議」

「桜会議」 

ストーリー 田中真輝
   出演 遠藤守哉

新町スカイハイツ管理組合 第43回通常総会議事録より一部抜粋。

司会:
それでは本会最後の議案に移らせて頂きます。
議案は、敷地内自転車置き場横の桜の木についてになります。
現在、この桜の木について、住人から伐採してほしいとの要望が出ており、
本会議にてその決議を取らせて頂きたいと考えております。

301号室住人発言(以下301):
該当する樹木(桜)については、マンション住民だけではなく、
多くの地域住民から古くから愛されており、
一部住民からのクレームで伐採してしまうというのは、いかがなものかと思う。

205号室住人発言(以下205):
一部住人とはおっしゃるが、そうした小さな声を圧殺するのが、
このマンションの自治のいつもの在り方であり、
わたしとしては今の発言は全く容認することができない。

301:
別に圧殺しようとしているわけではない。
わたしは一個人としての思いを述べたまでである。
というか、伐採の要望を入れたのはあなたなのではないか。

205:
わたしではない。わたしではないが、要望については賛同する。
地面から張り出した根が自転車の通行の妨げになっているし、
落ち葉がベランダに大量に落ちるのにも辟易している。
何よりも毎春、花が咲くと多くの人が木の下に集まって
朝から晩まで大騒ぎするのが迷惑極まりない。
年をとると大声や騒音が一番堪える。
それでなくても最近は体調を崩しがちで毎日高い漢方を飲んでいる。

301:
花見はみんな楽しみにしている。やはり要望を入れたのはあなたではないのか。
そして漢方の話はいま関係ない。

204号室住人発言(以下204):
一言申し上げておきたいのだが、
205は前々から些細なことを取り上げて大きな問題にするので困る。
桜の件についてもそうだ。
以前は電気料金のメーターが自分のところだけ速く回っているという議案を提出され、
たいへん長引いて大変だった。
みんな忙しいところわざわざ集まっているのに、
どうでもいい議案で時間を取られるのはどうかと思う。

708号室住人発言(以下708):
ちょっとよろしいでしょうか。

205:
メーターの件は、目下弁護士に相談中である。そのうち目にものみせてくれる。

204:
あと、毎朝謎のお経を唱えるのもやめてほしい。あれこそ公共の迷惑である。

205:
この(不適切な表現なので割愛)

204:
なんだと(不適切な表現なので割愛)

301:
話を戻すが、桜の木はこのマンションの住人にとって心のよりどころになっている。
なにかと疎遠になりがちな昨今において、
みんなで集まって花見ができる機会があるのはとてもいいことだと思う。

参加者一同:拍手

708:
そのことで少し申し上げたいのだが。

205:
そんな優等生のような発言をしているが、わたしはこの人(301号室住人のこと)の
ほんとうの姿を知っている。

司会:
議案に関係のない発言は控えてください。

301:
そうだそうだ。

204:
それはわたしも聞きたい。

205:
この人(301号室住人のこと)が前にこのマンションの管理組合理事長を務めていたときの、大規模修繕工事のことだ。

301:
いま関係ない。

205:
あのとき工事を依頼した業者が実は、

301:
わーわーわー(など意味不明な発言)

司会:
最後の議案、桜の木について話を戻したい。

708:
その件についてなのだが。

204:
誰か何か言っている気がする。

301:
たぶんこの人が何か言おうとしている。

司会:
708、意見があるなら大きな声でお願いします。

708:
わたしは43年前にこのマンションが建設されたときからここに住んでいるが、
あの桜が植わっている場所は、このマンションの敷地内ではなく、
市の管理地になっている。よって、市の所有物だということができる。

参加者一同:静まり返る

司会:
続けてください。

708:
今までも何度かいまと同じような議論になったことがあるが、
結局は市の所有物だから伐採できないという結論に至っている。
今回も結論としてはそうなるのではないかと考える。

参加者一同:そういうことは早く言え。

司会:
以上をもって本日の管理組合定例会を終了とする。
7時間にわたる議論、誠にありがとうございました。やれやれ。



出演者情報:遠藤守哉

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田中真輝 2022年8月28日「表彰」

「表彰」

ストーリー 田中真輝
   出演 遠藤守哉

とある夏の日。
俺があまりの暑さに朝から何もせず
クーラーの効いた狭いワンルームでグダグダしていると、
玄関のチャイムが鳴った。

面倒くさいなど思いながらドアを開けると、
そこには、この暑さにも関わらず
かっちりとしたスーツに身を包んだ初老の男が立っていた。

「こんにちは、今田義彦さんですね?
わたくし、日本政府の方から、あなたを表彰するために伺った者です」

日本政府?の方?表彰?新手の押し売りだと思った俺は、
間に合ってますなどと言いながらドアを閉めようとする。

「ちょちょちょ、ちょっとまってください。
わたしは正式な政府の人間です。
賞状だけじゃないんです、ちゃんとした副賞もございますので!」

副賞、と聞いて少しひるんだ隙をついて、
その男は強引にドアの隙間に足を突っ込むと、
恐るべき柔らかさで身をくねらせながら玄関に侵入してきた。

「皆さん、最初は警戒されるんです。
でもなんてったって、日本政府からの表彰ですから。
副賞付きの。そんな名誉をご辞退されるなんて、ねえ?」

そういいながら、
男は手にしていた筒からおもむろに丸まった紙を引き出すと、
その場で読み上げ始める。

「表彰状、今田義彦殿。
あなたは日々、朝起きてから夜寝るまで、
余計な情熱を燃やすこともなく、与えられた仕事を淡々とこなし、
褒められもせず、けなされもせず、
でくのぼうと呼ばれることも特になく、
ひたすらにごくごくあたりさわりないのない生活を続けられていることを、
日本政府として、ここに賞します。はい、賞状と副賞をどうぞ」

賞状と、「現状維持」と書かれたキーホルダーを渡される。
このキーホルダーが副賞なのだろう。
あっけにとられている俺に、政府から来たという男は、
こぼれんばかりの笑顔で話し続ける。

「なぜわたしが、と皆さんおっしゃいます。
しかし意外とあなたのような方はいらっしゃらないんですよ。
ええ。SDGsという言葉をご存じですか?
持続可能な成長目標、というやつです、
ええ。昨今の資本主義社会は、経済成長を重視し過ぎた挙句、
環境と人類の存続を脅かすまでになってしまいました。
日本政府はこの問題を解決するために、
まったく成長もしない、かといって負担にもならない、
そういう毒にも薬にもならない稀有な存在を、
ゼロ・エミッション生活者と名付け、表彰するという政策を打ち出したのです。
はい、そうです、あなたはその厳しい条件に適合した、
貴重なゼロ・エミッション人材なのです!おめでとうございます」

そういうが早いか、自称政府の男は私の手をとって猛烈に上下に振り始めた。

「今田様には、これからもぜひ、何の野心も好奇心ももたず、
粛々と人生を生きていっていただきたい!
いやもちろん、言うほど簡単なことではないでしょう。
周りの人から、そんな無気力なことでどうするといわれることも
あるでしょう。
しかし、そんな甘言に心を動かされてはなりません!
あなたはありのままのあなたでいい!
そこに存在するだけでよいのです。
もともと特別なオンリーワンなのですから!」

涙ぐむ男を見て、俺も少し胸が熱くなる。そうか、俺はこのままでいいのだ、と。

満面の笑みで去っていく政府の男を見送って、後ろ手にドアを閉める。
クーラーが効いた、ひんやりとした部屋に戻ると、手にしたキーホルダーを
眺め、現状維持、とつぶやいてみる。

目の前にまっすぐな道が見える気がした。まっすぐ、どこまでも続く一本道。
ふと見上げた窓の外から、ヒグラシの鳴き声が聞こえる。
今日も、何もしなかった一日が暮れていく。



出演者情報:遠藤守哉

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田中真輝 2022年2月20日「冬がやってくる」

冬がやってくる

   ストーリー 田中真輝
      出演 地曳豪

ディミトリは窓の外をひらひらと舞い落ちる、
無数の白い切片を眺めている。幼い彼は思う。
今年初めての雪だ。もうそこまで冬がきている。

「冬がやってくる」
市場に出かけた父親が帰ってきて母親に告げた。
そんなこと見ればわかるのに、と思ってディミトリは
ちょっとおかしくなった。

ディミトリは雪が降るのを眺めるのが好きだ。
じっと見ているとだんだん目がおかしくなってきて、
なんだか気持ちがぼうっとしてくるから。

暖炉には赤々とまきが燃えていて、
その前に座る父親と母親がその陰を床に長く落としている。
二人とも、何をするでもなくぼうっと火を見つめている。
なんだかちょっと変、とディミトリは思う。
毎年、雪が降りだすずっと前から、大人たちは忙しく動き出す。
長くて厳しい冬を乗り切るための準備を始めるのだ。
暖かいわらくさを敷き詰めた小屋に家畜を追い込み、
しっかりと燻した肉や魚を天井から吊るす。
もちろん、家の周りには屋根まで届くほどたくさんのまきを積み上げる。
ディミトリは、舌が凍り付くほどの寒さは嫌いだったが、
たっぷり準備をして冬を迎える気持ちは好きだった。

そして雪に埋もれた家の中、ひっそりと息を潜めて日々を過ごす。
暖炉の前の父親の膝の上で、母親の胸の中で、
うつらうつらしている間に、いつの間にかまた春がやってくる。
それがディミトリにとっての冬だった。

でも、今年は何かがおかしい。
赤く燃える暖炉の前に座ってぼんやりしている父親と母親。
いつもは天井から木立のように吊るされる肉や魚が見当たらない。
窓の外、降りしきる雪の中でうずくまるいくつかの黒い影。
あれは、うちの家畜だろうか。

「冬がやってくる」
どうしてそんなあたりまえのことを父親は言ったのだろう。
そういえば、父親は市場に手ぶらででかけ、そして手ぶらで帰ってきた。

窓についた雪が少しもとけていないことにディミトリは気づく。
こんなに部屋は暖かいのに。空からひらひらと舞い落ちてくる
この白いものは、もしかすると雪じゃないのかもしれないとぼんやり思う。
見つめれば見つめるほど、目がおかしくなって、頭がぼうっとしてくる。
大丈夫。息を潜めて、静かに小さく丸くなっていれば、またきっと
春がやってくる、とディミトリは思う。



出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/profile.html

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